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ジャンボタクシーで京を廻る!
京都守護職会津藩陣所から壬生・島原へ

 翌日は、9時前にジャンボタクシーで出発。初めて乗ったジャンボタクシーは補助席を使うと9人乗れる。芦谷さんと山田さんが所用のため、夫々地下鉄と阪急の最寄り駅まで送り、残り7人で最初の訪問先・京都の人たちに黒谷さんで親しまれている「金戒光明寺」へ。
 此処は古くは、法然上人による浄土宗発祥の地とされる所だそうで、幕末には、京都守護職会津藩陣所となっていて、近藤勇が藩主松平容保から「新選組」の名をもらった所でもある。広い境内、大きな山門(三門)や本堂が整然と建っている。大河ドラマ「新選組」のタイトル画面で隊士達が駆け上がる石段は此処ではないかとの声。そう言えば広い石段、上に見える山門、きっと此処に違いない。

京都守護職会津藩陣所・金戒光明寺  新選組発祥の地
近藤勇が藩主松平容保から「新選組」の名をもらった所でもある
広い境内、大きな山門(三門)や本堂が整然と建っている。石段も広い。
NHKドラマ「新選組」のタイトル画面で隊士達が駆け上がる石段は此処ではないかとの声

 再びジャンボタクシーに乗り、途中態々回り道して、学生時代によく通ったという居酒屋「たこきん」・・・別嬪の看板娘がいた・・・を車窓から見て往時を偲びながら一路南に壬生寺界隈へ。




 平日だというのに観光客が多いのに驚き。壬生寺では近藤勇像と隊士達の墓石にお参り。100円玉を入れると、今は亡き三橋美智也の「あヽ新選組」の歌が流れる。確か昭和40年頃のテレビドラマ「新選組血風録」の主題歌であったと思うが、ちょっとやり過ぎでは。境内を通り壬生能の舞台を見、次いで八木邸(入場料1,000円---お抹茶が出る)に入ろうとしたが行列で30分の時間待ち。ではその間にと前川邸光縁寺(山南敬介他の墓石)を訪問、再び八木邸前まで帰ってきたが、又々団体客で前よりも更に沢山並んでいたので此処は中止。ジャンボタクシーで島原の「角屋」へ。この頃より雨がかなり降り出した。

光縁寺(右が山南敬介の墓石) 八木邸の名物屯所餅
近藤勇の銅像 今は亡き三橋美智也の
「あヽ新選組」の歌が流れる

 島原の「角屋」、現存する江戸時代の揚屋(あげや)建築として重文に指定されている。贅を尽くした立派な建物。特に内部造作が素晴らしい。庭も立派なもの。「揚屋造り」という言葉を初めて聞いた。宴会専用の建物という意味か。「揚屋」、「置屋」、「遊郭」の違い。「太夫」と「花魁」についてガイドのおばさんが丁寧に説明してくれた。

 揚屋は、日中から美女(太夫等)を相手に、酒と詩歌管弦でくつろいで遊ぶ所。夕方に食事をして、7時か〜8時頃には引き上げる。太夫は置屋にいて、お呼びが掛かれば揚屋へ派遣される。太夫は芸妓・舞妓の最高位で芸能詩文で高度な教養を身につけていた。

角屋文化美術館
江戸時代の揚屋建築を見学
西郷隆盛が行水に使ったという「たらい」
角屋取り壊しを救ったという代物
芹沢鴨が酔わされた部屋の襖絵 名勝の庭・臥龍の松
角屋の中庭、側面の柱には新選組の刀傷が残る
 
 千本通(旧朱雀大路)を経由して京都御所へ。蛤御門の内側を少し散策。門柱や扉に丸い凹みが見える。幕末禁門の変での鉄砲玉による傷跡である。更に奥に御所(内裏)の塀が見える。昔、丸太町から同志社大学へ行くのに、あの塀に沿って歩いたことがある。随分長い距離だった
 ジャンボタクシーで寺町通りを、蘆山寺(紫式部の居所)を右手に見ながら寒梅館へ。あの赤レンガの学舎群が車窓から見えてきた。実に懐かしい。昭和34年3月、村田さんの下宿に泊めてもらい同志社大学を受験した。もう45年も前のことである。

雨にくすぶる御所御苑内、「禁門の変」最大の激戦地蛤御門前から写す
中央に見える椋木の大木付近で長州軍の猛将・来島又兵衛が討ち死にした

 昼食は寒梅館7階の洒落たレストラン。寒梅館は今出川キャンパスの西向かいに最近新築された綺麗な建物でLaw SchoolとBusyness Schoolが併設されている。勿論同志社大学舎群の一つである。レストラン待合室にあった日経新聞に今年の司法官試験合格者数が発表されていたが、その中に同志社大学から30名の合格で、ベストテン10位にランクされていた。トップは東大と早大が並び、関西では京大、阪大、神大に次いで第4位。Law school(法科大学院)発足の年、いいスタート。

 本降りだった雨も食事中に小降りになり、いよいよ最終コースの今出川キャンパスへ。昔と殆んど変わっていないのではないか。45年前にタイムスリップしたような錯覚を覚える。

  同志社大学今出川キャンパスのホームページへどうぞ!

 丁度「徳富蘇峰と熊本バンド」という展示会がハリス理化学館で催されていた。「熊本バンド」とは、明治7年に熊本洋学校が閉鎖され、そこの生徒30数人が大挙して、創立間もない同志社へ転入学。何れも俊才揃いで、以後の同志社の発展に大きな貢献をした。その中にジャーナリストの徳富蘇峰がいた。この30数人のことを「熊本バンド」と呼んでいる。

 最後に、懐かしい学生食堂を覗いてみようということになった。食堂入り口で通りがかりの学生に誰かが「素うどん何ぼや?」と聞いたら、「110円」との回答。何故か皆夫々に納得の様子。

これで予定コースは全部終了。地下鉄で京都駅まで。此処で、来年5月、名古屋での再会を約し解散。
 幹事で案内役の村田さん。有難うございました。参加された皆さん。楽しいコミュニケーション有難うございました。そして来年幹事の菊谷さん。宜しくお願いします。次回を楽しみにしています。
            
学校法人 同志社今出川キャンパス
同志社の歴史と伝統を現代に伝え続ける学舎たち
同志社大学西門に
立っている薩摩藩邸跡の碑
この屋敷で坂本龍馬立会いのもと、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎による薩長同盟が成立した
ハリス理化学館(重要文化財)科学教育をめざした新島襄の情熱に応えたJ.N.ハリスの厚意により、ハリス理化学校(工学部の前身)の校舎として建築された。1890(明治23)年の竣工で、イギリス積みの煉瓦建築
彰栄館(重要文化財) アメリカン・ゴシック調の瓦葺きの煉瓦造り。1884(明治17)年の竣工で、京都市内に現存する煉瓦建築の中では最古のもの。アメリカン・ボードの寄付を受けて、同志社教員の宣教師D.C.グリーンが設計した チャペル(礼拝堂)(重要文化財)D.C.グリーンが設計し、1886(明治19)年に竣工したアメリカン・ゴシック調の鉄板葺き煉瓦造り。アメリカン・ボードの寄付によって建築された。日本におけるプロテスタント派の煉瓦造りの礼拝堂としては現存する最古のもの。同志社の歴史とキリスト教精神を象徴する建物である

今回新たに湧いてきた疑問?

 村田さんから夕食時に説明を受けた平安京復元模型の話。



資料から見ると朱雀大路(現在の千本通)、の突き当たりが平安宮=大内裏でその中に内裏(天皇の住まい=御所)がある。ところが、今の京都御所はかなり東に位置している。もらった資料「24.平安京の位置 推定復元図(C)」参照。何時頃、何故移ったのか。又、別の資料「京都の歴史年表---京都市歴史資料館発行」には、「延暦13年(794年)平安京へ遷都。宮殿・宮舎のほか東寺・西寺が建立され都としての体裁を整えていった」の後には宮殿に関する事項は何も記載されていない。だとすれば、移転はなかったということか。
 天皇親政から、幕府政治への移行で行政機能の喪失により宮殿・宮舎が遊休不用化していったであろうことは理解できる。又、保元・平治の乱で御所が炎上したことがあったような、なかったような。然し、御所が移転したということは明確には記憶にないし、教わったこともない。御所は過去のどこかで移転したのか。それとも、元々今の場所だったのか、今回新たに湧いてきた疑問です。

ご尤もな疑問にお答えします! 

 私もつい最近まで、今の御所は平安京の時代から東に変ったということは聞いていましたが、一体どこにあったのかは詳しく知りませんでした。ちょっと、学術文献的で申し訳ありませんが、解説書などから引用します。(村田)
  
 延暦13年(794)桓武天皇により平安京が長岡京から遷都以来、京都盆地は急速に開発が進み都が造られていった。その後、平安宮の中心となる朝堂院の正殿・大極殿は3回の焼失と再建が繰り返されたことがわかっており、安元3(1177)焼失後は再建されなかった。
 また、平安宮南面中央の正門である「朱雀門」も承元2(1208)火災に遭っており、段々と寂れて行ったことがうかがえる。
 現在の御所は、南北朝時代の光厳天皇が元弘元年(1331)年に里内裏(さとだいり)だった土御門東洞院殿を皇居と定めて、その後、織田信長が改修を施し、豊臣秀吉が内裏を創建、徳川家康による造営の時には、紫宸殿を仁和寺に、清涼殿は南禅寺に移されるなどありましたが、内裏の整備、拡充は進められた。その後幾度も消失を繰り返し、今の建物の多くが、嘉永7(1854)年に炎上した後、再建されたものであり、総奉行・松平定信によって安政2(1855)年、古制にのっとって再現されたものである。

 ※内裏焼亡の際などには、天皇は市街地(=京)にある有力貴族の邸に移り住みます。これを『里内裏〔さとだいり〕と言います。
11世紀半ば以降は、火災などとは関りなく、天皇は「里内裏」に常住していることが多くなります。
ちなみに現在の「京都御所」は、14世紀前半の北朝の光厳天皇の「里内裏」が継続したものです。

  平安京誕生から平安宮大極殿跡など詳しくお知りになりたい方は
        平安京探偵団ホームページを参照下さい。

最後までご覧頂き有難う御座いました。
これで、貴方も京都通?となられました!

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