京遊会 第14回 例会報告    2011.11.18

 18日は雨の予報にも拘らず、参加の皆さんの晴れ男の気概もよろしく雨雲も恐れをなしてどこへやら、薄日も射すなか小谷城跡へ登り、浅井軍と信長軍の激しい攻防戦の城跡をめぐり、素晴らしい琵琶湖の展望を楽しむことができました。



「白忠さん」でのバスのチケット購入でハプニングがあったが、
9時20分発のバス乗車には、ギリギリに間に合いまずは一安心!


10時発の小谷城跡行きのマイクロバスに乗車

約5分で、小谷城跡の番所跡に到着


本日の語り部さんは、長浜観光ボランティア最長老の御歳83歳だとか、
軽々と各遺跡を案内していただきました。

国史跡 小谷城に登る



小谷城跡
 小谷城が築かれた小谷山は、標高495mの急峻な山です。前面には虎御前山・山脇山・丁野山、西に高時川、背後には伊吹山系が控える自然の要害に囲まれた屈指の山城です。

 城下には北陸と東海地方を結ぶ北国脇往還、そこから南には、東山道に通じる小谷道が分かれていました。 小谷城跡は、小谷山に深く切り込んだ
清水谷(きよみずだに)とその両側の尾根、及び小谷山々頂大嶽(おおづく)にあり、その構造は、本丸を中心とする主郭と居館のあった清水谷、それらを守るように配置された出丸・金吾丸・大嶽城・月所丸・焼尾丸・福寿丸・山崎丸の独立した砦からなります

 天正元年(1573)9月1日、織田信長によって攻め落とされるまで、小谷城は北近江を統治した浅井氏三代の拠城として機能します。初代亮政(すけまさ)が頭角を現し始めた大永3年(1523)頃から数えて、約50年の歴を刻んできたのです。
浅井家を巡る人びと元亀争乱

 元亀元年(1570)に織田信長が浅井の同盟である越前の朝倉氏を攻めたことによって事態は大きく変化します。
この一報を聞くや否や長政は義兄信長から離反し、織田・徳川連合軍を朝倉軍とともに姉川で迎え撃ちます。浅井・朝倉軍は姉川では敗れ退陣したものの、その後「志賀の陣」で優勢となり一進一退の攻防を繰り返しました。
 一度は和睦を結びましたが、天正元年(1573)大嶽を攻め落とされ、ここを守っていた朝倉軍は退却し朝倉義景は越前国大野で自刃します。信長は小谷城へ総攻撃をかけ、同年8月29日久政自刃(享年49)、9月1日長政も小谷城内赤尾屋敷で自刃しました。(享年29)こうして小谷城落城、浅井三代は潰えました。
 落城後、秀吉が小谷城主となるが、約2年半在城しただけで今浜(現在の長浜)に築城することになり小谷城の石塁、城郭、町家、寺院などを移設した。 ここに小谷城は廃城となり その歴史を終えた。
浅井 三姉妹系図
浅井三姉妹

長政とお市の子のうち、三人の娘たちは、戦国から江戸と続く動乱の時代の中で、歴史に大きく名を刻むこととなります。姉妹の名前は、茶々・初・江です。浅井と織田の血統を受け継いだ彼女らは、それぞれ豊臣、京極、徳川へと嫁ぎ、波乱の運命をたどっています。


三女 江
天正元年(1573)、小谷城落城の年に生まれました。
動乱の中父母を亡くし、後見人となった秀吉の計らいで、天正12年(1582)に佐治一成(かずなり)と、文禄元年(1592)に羽柴小吉秀勝と結婚しています。一成とは秀吉の命で離縁させられ、秀勝とは死別しています。
文禄4年(1595)、6歳年下の徳川秀忠と3度目の結婚をし、二代将軍となった夫との間に二男五女をもうけました。このうち長男の家光は三代将軍に、五女の和子(まさこ)は後水尾天皇のもとへ輿入れし興子(おきこ)(後の明正(めいしょう)天皇)を生み、将軍家・天皇家に浅井家の血筋を残しました。江戸城で54歳の生涯を閉じた江は、その死後当代の女性としては最高位の従一位を贈られ、東京芝の増上寺に眠ります。




小谷山・小谷城跡と周辺城下町の模型

小谷城跡 歴史道を歩く

小谷城跡への登り口は伊部口(大手道)と清水谷口(搦手口)がある。
自然の地形により次第に高く階段状に城郭が配置されているのが良く解ります。
下の方から順に、出丸、金吾丸、番所、御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、黒金門、
大広間、本丸(鐘ヶ丸)、赤尾屋敷、中丸、京極丸、小丸と続き 山王丸(395m)が詰の丸となっている。
このほか大嶽城(標高495m)はじめ 西へ向かう尾根にも多くの城砦跡が残っている。


出丸跡

主郭尾根の最先端にある曲輪である。
独立した砦となっており本丸跡を守るためのものである。
上下二段の曲輪と土塁からなる。

真柄峠

大永5年(1525)六角高頼が浅井亮政を討つべく小谷城を攻めた時、越前より朝倉氏の軍奉行朝倉教景が来援した。

その朝倉教景に従ってきた武将真柄備中守が守った所で、その名をとって真柄峠と呼ぶようになったと伝えられている
金吾丸跡

大永5年(1525)六角高頼が小谷城を攻めた時、朝倉金吾教景が援軍に来てここに陣を布いたといわれ、教景の名乗りを取って金吾丸と名付けたと伝わる。四段の曲輪と土塁からなる。

番所跡

金吾丸跡の裏にある。小谷城の主要道である登山道と清水谷中程からくる虎ヶ谷道の終点に位置し、小谷城主郭の入り口にあたる重要な曲輪である。
 ここから本格的な城郭となる。いくつかの曲輪で構成され、各所に石垣が見られ、東側には幅1.3mの土塁が築かれている。史跡小谷城跡環境整備事業で高さ2 cmの銅製五輪塔が出土した。なお、林道もここが終点となつている。
虎御前山展望所

眼前の虎御前山に信長が陣を張った
御茶屋跡

番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端に位置する。曲輪は一段であるが、比較的広く、曲輪の真ん中を前後に分ける低い土塁が見られる。
 「御茶屋」という風雅な名前には似つかない軍事施設である。
御馬屋跡

御馬屋跡は三方を高い土塁で囲まれた曲輪である。
本丸跡の前面にあり本丸を守るための曲輪である。
ここから、清水谷側の斜面に本丸跡後方まで幅約2 mの帯曲輪がある。この帯曲輪にはいくつかの竪堀も見
られる。
馬洗池跡

馬洗池跡は御馬屋跡の背後にある、南北9 m、東西6.6mの石積みの池で、中央東寄りに石垣の仕切がある。
首居石

黒金門跡の手前にある。
天文2年(1533) 1月京極氏の有力被官であった今井秀信を神照寺で殺害し、首をここにさらしたと伝えられる。
赤尾屋敷

浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝えられている。
天正元年9月1日最後の攻撃のため黒金御門から打って出た長政は信長の兵に攻められ、鐘ケ丸に帰る事ができずやむなく、重臣赤尾美作守の屋敷に入り自刃した。
享年29歳であった。石碑が建てられていた。
桜馬場跡

御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪で、細長く左右二段からなる。西側の曲輪は建物の礎石が確認されている。
桜馬場跡  城内随一の大パノラマがひろがる!
大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」のロケ地の中心地。

浅井家臣団の慰霊碑

      小谷城跡石碑
黒金御門跡

両脇に巨石の群れを構えた御門跡はいかめしさに圧倒されそうである。
秀吉の破城による跡が往昔を物語る。
大広間跡

別名「千畳敷」と呼ばれ、長さ約85m。幅約35mで前面に現在は崩れているが高さ約4 m (桜馬場跡) の石垣が積まれており、東寄りに黒金門跡がある。
 大広間跡の東側には、高さ約1,5 mの石垣が築かれている。大広間跡は、建物跡が検出されているほか、北東隅に長さ3.3m、横2.7 m、深さ0.9mの石組みの井戸跡とこれに接続する石組みの溝跡が、北西隅には蔵跡が確認されている。大広間跡北に本丸跡がある。
本丸跡
江戸時代中期の小谷城跡古絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。南北約40m、東西約25mの広さを持ち上下二段からなる。
 大広間跡側に石垣が築かれている。本丸跡の西・東側の裾に土塁が築かれている。
大堀切跡

本丸跡の北にある大規模な堀跡。番所跡から本丸跡までとその上を区切るためのものである。

中丸跡

大堀切跡の北にある曲輪で三段からなる。それぞれの曲輪に横矢を設けている。石垣が見られる。


京極丸跡
京極氏の屋敷があったところと言われている。しかし、京極氏は、亮政の頃は神照寺におり、久政、長政の頃は坂田郡河内城にいた。
 大広間に次ぐ広大な曲輪である。前面に馬出のように曲輪を配置している。

 東側に高さ3 mの上塁を設け、その下に四段の曲輪を配置する。清水谷側斜面にも広い曲輪を設けている。
小丸跡

浅井久政が天正元年1573)8月27日に鶴松太夫の介錯により自刃した曲輪である。左右二段の曲輪からなる。

山王丸跡

 小谷城の詰めの丸である。山王権現が祀られていた。山王権現は、現在小谷神社と名称が変わり小谷寺の一角で祀られている。
 山王丸跡は四段からなり、比較的大きな石を用いた高さ約5 mの石垣が築かれ桝型の虎口が考えられ規模は本丸を上回る。前面に馬出を設ける。


綺麗に紅葉したモミジを背景に


お江のふるさと館
浅井・江のドラマ館
長浜黒壁・歴史ドラマ50作館
茂美志屋で最後の反省会
長浜名産のお買い物も終わり
名残惜しいかな?! 長浜駅よ! 16:00発でそれぞれ、帰途につきました!
お疲れさまでした!
長浜の名産品
名産品「浜ちりめん」

  絹織物の歴史は古く昔から絹生地が織られていた。江戸時代になり、中村林助、乾庄九郎によって、「浜ちりめん」が創り出された。現在でも高級絹織物として和服の生地に用いられています
濱仏壇

江戸時代中期に日本三大山車まつりの一つである、長浜曳山祭の曳山を型どり、仏壇の様式として藤岡和泉が創案した濱仏壇。一切の接着剤・釘等を使用しない構架組立方式で、彫刻は欅もしくは桧の丸彫で白木のまま使用するのが特徴です。
ビロード

江戸時代中期に西陣から伝来したビロードは、銅又はステンレスの針金を織り込んで輪奈をつくり、その先を小さなメスのような小刀で切って毛羽を立てたものと、針金を引き抜いたままのもの(輪奈天)とがあり、柔和な手ざわりと深みのある色調をもつのが特徴。
鼻緒

江戸時代中期に西陣からビロードが伝わるとそれを使った鼻緒の生産が始められました。縫製したビロードを裏返し、パイル面が表にくるようになっており、全国生産の大半を占めています。
親玉饅頭

百五十余年前の江戸天保年間に製造をはじめた銘酒の香りゆかしい美味無類の酒元饅頭。
長浜特産浜ちりめんの好景気には、京阪の得意先へ土産物としてよく持参されたそうです。
のっぺいうどん

湯葉や大きな椎茸などの具に、アンカケの汁をかけていただくうどん。生姜の風味が生きた、のっぺりとした汁が特徴。
地元では『うどん』をつけないで『のっぺい』と呼ばれる。
本当に愉しい旅でした!皆さん、有難う!
また、来年、元気に会いましょう!

最後までご覧頂き有難う御座いました!

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