第16回 京遊会報告
吉野・飛鳥めぐりの旅
 6世紀から平城京遷都の和銅3(710)年まで、わが国の政治・文化の中心舞台となった飛鳥。ここ飛鳥を拠点に勢力をのばした蘇我氏により、日本初の女帝・推古天皇が誕生し、豊浦宮をはじめ次々に宮が造営された。また、推古天皇の摂政聖徳太子もこの地に生まれ仏教文化を開花させた。太子の没後、蘇我氏はその一族を滅ぼし、専横をつのらせる。ついに大化元(645)年、中大兄皇子と藤原鎌足は飛鳥板蓋宮でクーデターを起こし、蘇我氏を滅ぼした。
 やがて飛鳥時代は終わりを告げ、古代史を物語る貴重な遺跡は、長い歳月、この土の下に埋もれることになったのである。それだけに、大和三山(畝傍山、耳成山、天香久山)が見渡せる飛鳥を歩いていると、石舞台古墳や高松塚古墳などの遺跡、亀石や酒船石のような謎の巨大石が、悠久の時を超えて、古代の壮大なロマンを語りかけてくる。 飛鳥駅を起点に、飛鳥を歩こう。想像カを駆使して、美しい田畑や野の下に眠る、古代人の息づかいを感じてみよう。
吉野駅を9:06出発、10時に飛鳥駅へ到着
 行程 : 飛鳥駅 → 高松塚古墳 → 国営飛鳥歴史公園館 → 鬼の俎・雪隠 →
川原寺跡 → 橘寺 → 伝飛鳥板蓋宮跡 → 蘇我入鹿首塚 → 飛鳥寺 → 
昼食 → 石舞台古墳 →  欽明天皇陵・吉備姫王墓(猿石) → 飛鳥駅
 
 
 
 
 飛鳥の都を、高松塚に描かれたような色とりどりの華やかな、王朝衣服に身を包んだ貴族たちがゆっくりと歩む。北には飛鳥寺の大伽藍が建ち並び、南には川原寺、橘寺。遠くから石を彫る槌の音がカーンカーンと響く。その向こうに見える甘樫丘。頂には、蘇我蝦夷、入鹿の豪壮な邸も見える。耳成山、天香久山も見える・・・・。
 そんな幻想に包まれて飛鳥を歩けば、1300年の時を超え、古代ロマンを肌で感じる。 
 






 「飛鳥めぐり」はサイクリングで楽々!!
 飛鳥駅 → 高松塚古墳 → 国営飛鳥歴史公園館 → 鬼の俎・雪隠 →
川原寺跡 → 橘寺 → 伝飛鳥板蓋宮跡 → 蘇我入鹿首塚 → 飛鳥寺 → 
昼食 → 石舞台古墳 →  欽明天皇陵・吉備姫王墓(猿石) → 飛鳥駅
 
 
龍野高校へ自転車通学した頃を思い出しました!
高松塚古墳
 詳しくは、飛鳥歴史公園のホームページを参照ください。
 
7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳です。
当初は、盗掘を逃れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期のものと推定されていましたが、2005年の発掘調査によって、藤原京期(694年〜710年)の間と確定されました。


被葬者は特定されておらず、
1.天武天皇の皇子説、
2.臣下説、
3.朝鮮半島系王族説
の3つが主な説です。

1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目され、その壁画は教科書等でもお馴染みです。
 
 
国営飛鳥歴史公園館
 国営飛鳥歴史公園4地区の施設や催し物の案内をはじめ、飛鳥地方の史跡や歴史を立体模型や映像を用いて紹介しています。
 誰にでも分かりやすい「飛鳥歴史アニメ」、タッチパネルコンピュータで見る「飛鳥百景」など、飛鳥探訪の出発点となる施設です。
 

飛鳥地方の立体模型
鬼の俎・雪隠
おにのまないた・せっちん
 猿石から田んぼのあぜ道をいくとすぐに鬼の雪隠(せっちん)呼ばれる石に到着します。元々は古墳の石室の蓋の部分で、封土がなくなり石がむき出しの状態との事、下の写真が鬼のまな板と呼ばれ石室の底板にあたりちょうど鬼の雪隠をひっくり返してで蓋をするように石室があったようです。小高い丘の下と上にあります。
 
 この雪隠とはトイレのことで、昔この近くに住む鬼が、霧を降らせて旅人を迷わせ迷った所を捕らえこのまな板の上で料理し、お腹がいっぱいになった所で、 雪隠で用をたしたという伝説があるようです。このあたりは霧ヶ峯と呼ばれ霧がよく発生したころから、こういう風説が人々の間で語られたのでしょう。
 
 
 鬼の雪隠から望む風景

天武・持統天皇陵

川原寺跡
 1957〜59年に行われた発掘調査によって南大門、中門、塔、西金堂、中金堂、講堂、回廊などが検出された。伽藍配置の特色として、中金堂の前庭に塔と西金堂を対置することが挙げられ、このような配置形式をとる寺院として他に近江南滋賀廃寺や筑紫観世音寺などの例が考えられている。

 川原寺創建の事情は明らかでないが、創建以前の遺構によって埋め立てられた池に埋没していた遺物から7世紀前半を遡り得ないことが指摘されている。また、創建以前の遺構が発見されたことから、これらを川原宮と推定する考えがある。
 橘寺
 聖徳太子誕生の地に太子自身が創建とされる橘寺(たちばなてら)です。この橘とは日本書紀によると田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を求め、海を渡り十年後にある種を持ち帰りました。しかし、その時はすでに天皇は亡くなっていたそうです。しかたなく、その種をこの地にまくと芽が出たのが橘(みかんの原種)であったことから、以来この地を橘と呼ぶようになったそうです。そしてここに橘の宮という欽明天皇の別宮が建てられ、太子はここで生まれ子供頃を過ごしていました。
伝飛鳥板蓋宮跡 
 1959年からの発掘調査により、多くの掘立柱建物、掘立柱塀、石組溝、石敷遺構などが検出された。その遺構の変遷は、大きく三時期に分類され、それぞれ、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮であったことから、支配体制の変革や王権の存在形態、その歴史的変遷を考えるうえで重要である。

 また、飛鳥板蓋宮は、中大兄皇子・中臣鎌足が大化改新を断行し、蘇我入鹿を倒したといわれる場所でもある。現在は地表上に当時の遺構を復元、整備されている。
蘇我入鹿首塚 → 飛鳥寺 

飛鳥寺の遠景

蘇我入鹿首塚
甘樫丘 
 頂上からは飛鳥一円が眺望できる標高145mの小高い丘である。この丘の中腹と麓に、蘇我蝦夷・入鹿親子の邸があったと言われているが、大化改新によって入鹿が中大兄皇子に倒された直後、蝦夷はその邸に火をかけて自害したといわれている。『多武峯縁起絵巻』などにも炎上する蘇我邸が描かれているが、甘樫丘の東麓にあたる場所(甘樫丘東麓遺跡)が発掘された結果、焼けた建築部材・土器などが出土した。
 この位置が大化の改新の際中大兄皇子が陣取ったとされる飛鳥寺と対峙することや、土器の年代観が、この時期に一致することなどから、調査地の上方に蘇我邸が存在していたであろうことが想定されている。


麓では発掘調査が行われたいた
飛鳥寺
 飛鳥の代表的なお寺の一つに飛鳥寺があります。ここは596年蘇我馬子が発願して創建された日本最古のお寺です。寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺、で現在は安居院と呼ばれています。奈良市にある元興寺は平城遷都と共にこのお寺が移されたものです。このお寺はひっそりと建っていますが、近年の発掘調査では、東西200m、南北300m、金堂と回廊がめぐらされた大寺院であったようです。現在の建物は江戸時代に再建した講堂(元金堂)のみを残します。


 講堂の中には、本尊飛鳥大仏が祀られています。606年に推古天皇が中国渡来した鞍作止利仏師に造らせたそうで、東大寺の大仏よりも150年年上で、顔を比べると東大寺大仏よりもきつい感じがします。又、飛鳥大仏の特徴として手の指と指の間には水鳥の足のようにひだがついていて繋がっています。これは、何人たりとももらさず救い上げるという仏の教え表しているそうです。この飛鳥大仏は2度の金堂消失と一時期雨ざらしにされていたことによりかなり破損し、頭と指しかなかったのですが発掘により、様々な部分を見つけ修理していきました。つぎはぎが見えるのはその為です。


飛鳥大仏

聖徳太子像

阿弥陀如来像
次の「石舞台古墳」に向かって出発!
一列に並んだ自転車の老年?グループの雄姿


悠久の地・飛鳥の長閑な田園風景の中をゆったりとサイクリング!
「あすか野土産店」で昼食
古代米を主食に美味しくいただきました。
特別史跡 石舞台
 祝戸地区からすぐの所に、石舞台地区があり、そこに有名な石舞台古墳があります。もともとは、土のある方形墳であったそうですが、封土は失われてしまい、巨大な天井石が露出した形となってしまいした。7世紀初めに作られたそうですが、被葬者は不明だということです。

 ただ、この地が蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の墓であるという説が有力です。この石の総重量は約2300t、「石舞台」の名前の由来については、昔狐が女性に化けて石の上で踊って見せた話や、この地にやって来た旅芸人が舞台がなかったので仕方なくこの大石を舞台に演じたという話があります。
 
 石舞台古墳はどうして造られたか?

 石室 石材の大きさ、石室の規模ともに巨石古墳を代表するもので、玄室の規模は長さが 7.8メートル、幅3.4メートル、高さ4.8メートル、最大の石材は77トンと推定されている。総量、2300トンの巨岩。 蘇我馬子の墓と言われている。
 石材30数個の花崗岩は冬野川上流から運び、長い斜面を「修羅」や轆轤を使って下から上へ引き上げ、積み上げたと考えられている。また、1段積むごとに中にも土を入れ、積み上がった段階で、中の土を運び出したと考えられている。
 もとは土に覆われた上円下方墳だったらしいが、現在のように石がむき出した状態になった理由は謎。
 

長谷川さんとボランティア活動に励まれているご友人に詳しく解説いただきました。
 
 
 
「飛鳥」と「明日香」 
 「飛鳥」と「明日香」  この二つの表現法は、本来どちらが正しいのか、あるいはより古いのか。現在の明日香村という地名は、現代的感覚で新しく造られた名前のように理解されている向きが多い。

 しかし、アスカの表記について、古事記、日本書紀、万葉集等から拾ってみると、明日香、飛鳥、安宿、阿須賀、阿須可、安須可等色々の文字が用いられており、地名或いは川の名前としては、「明日香」及び「飛鳥」は最も頻繁に用いられている。
 古事記、日本書紀では、主として飛鳥が用いられ、万葉集では、明日香と出てくる場合が多く、飛鳥は、アスカという場合とトブトリとして明日香の枕詞になっている場合とがある。
 したがって、何れが正しく、古いとは言えず、飛鳥、明日香、安宿などいくつか別々の表現が用いられていたと考えられる。
 
 
都塚古墳
石舞台古墳より南東300mに位置する古墳です。
 石を階段状に積み上げた、国内では類例のない大型方墳とわかった奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳(6世紀後半ごろ)で16日、現地説明会があった。“奈良のピラミッド”を一目見ようと、約4100人の古代史ファンらが列を作った。午前10時の開始は約45分前倒しされた。

国内で初、奈良に大型ピラミッド方墳 蘇我稲目の墓?
 村教委と関西大の調査で、川原石を計5段以上(高さ4・5メートル以上)、階段状に積み上げた墳丘とみられることや、東西約41メートル、南北約42メートルの方墳であることがわかった。中国東北部から朝鮮半島北部を支配した高句麗(こうくり)の古墳と類似した特異な形態や規模の大きさなどから、大きな権勢を誇った大豪族・蘇我(そが)氏の礎を築いた稲目(いなめ、?〜570)の墓との説が出ている。
   (朝日新聞 2014年8月17日 参照)
欽明天皇陵・吉備姫王墓(猿石)
 奇妙な石の一つである猿石は、孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の聖母にあたる吉備姫王のお墓の前に並べられています。元々はすぐ横にある欽明天皇陵の南側の池田から堀り出されたものなのだそうです。「千と千尋の神隠し」に似たようなのが登場しますが、きっとこれをなぞらえたものなんでしょう。

 この猿石は左から、女、山王権化、法師、男を表しており、このうちのうち三体には、裏にも顔があるようです。中には入れないので直接見ることができませんが、飛鳥資料館には、複製が置いてあるのでそちらを見て下さい。さらに南東5kmにある高取城跡にはもう一体の猿石があるようなのですが、それは元禄年間にここから発掘されたものが運ばれたようです。誰が何の為に作ったのか全くなぞで、歴史ミステリーとなっています

 ※ 最近の見解として、宮殿エリアと王墓エリアを仕分ける、結界石ではないかとも言われています。
 NHK TV 歴史ヒストリア
 謎の巨石文明「二つの顔を持つ猿石」を参照
「結界の目印」説

※ 最近の見解として、宮殿エリアと王墓エリアを区切る、
結界石ではないかとも言われています。
 
 
 
 
 
 
 欽明天皇陵
 
 飛鳥駅まで自転車で帰り、飛鳥駅から乗車、
橿原神宮前駅で来年の再会を約して夫々帰途につきました。
 第17回京遊会は、来年11月に会合を持ちます。
皆さん、また元気にお会いしましょう!
   最後までご覧いただきありがとうございました!

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