宮城県東松島市へ、ボランティアに行きました!

6/15 中田勝康さんから投稿頂きました

宮城県東松島市へ、ボランティアに行きました。
――大塚正震さんの「東北復興にご支援を!」に応えて――
 龍野高校10回生で、兵庫県相生市に住んでいる中田勝康です。
 私は去る6月3日(金)から6日(月)までの4日間、宮城県仙台市の東にある東松島市へ、ボランティアに行ってきました。
 震災直後に『龍野高校10回生だより』を通じて、仙台市に住む10回生の大塚正宸さんから「東北復興にご支援を!」との悲痛な呼びかけを受けました。私も阪神淡路大震災の体験から、兵庫県佐用町の水害救援活動など、出来る限リボランティアをしてきましたが、さすがに東北地方は遠くて切歯扼腕(せっし やくわん)していたところ、5月に兵庫県西播磨地方の社会福祉協議会の連合会が、東松島市ヘボランティア・バスを派遣する計画があることを知り、迷わずに参加を申し出て許可されました。

 ボランティア・バスには職員を含めて41名が乗り、6月3日(金)の午後2時に相生市を出発して、舞鶴〜敦賀から北陸自動車道を福井〜新潟と走り、新潟からは東に転じて磐越自動車道を通って、会津若松を経て郡山に。更に郡山からは東北自動車道を北上して、翌4日(土)の朝8時に目的地・東松島市に着きました。
 この間バスに揺られること実に18時間。車中では熟睡できる筈もなく、さすがに疲れましたが、夜明けとともに車窓から飛び込んできた厳しい被災地の風景に絶句して、眠気も一気に吹き飛んでいきました。

 被災地では「ボランティアセンター」の指示によつて、各ボランティア・グループが作業場に散開していきます。私達は現地で2日間、作業に当たりましたが、初日は41名全員がまとまって行動して、住宅街の道路両脇の側溝にびっしりと溜まったヘドロを撤去し、運搬し、石灰を散布して消毒をしました。
 2日目は41名が数か所に分散して、海水をかぶった広い畑の土を数センチはぎ取って搬出したり、公園のヘドロや流れ着いたゴミを捨てたり、住民の皆さんからの要請に応じて、家の中に入って整理整頓を手伝ったり、庭の鉢植えの復旧を手伝ったり、とにかくいろんなことを、出来る範囲で精一杯がんばりました。

 震災の惨状と復旧の様子は、連日テレビで報道されておりますので、これとの重複は避けて、私が現地で直接、体感したことを少しお話しします。
 現地では絶望的になるくらい、人手が足りません。そしてやるべきことが余りにも多過ぎて、いつたい何から手をつけたら良いのか、見当がつかない状態です。
 私達が訪れた場所は家屋の全壊を免れたために、避難していた住民の皆さんが徐々に帰ってき始めた住宅街でした。それだけに皆さんはご自分の家屋の修理や家の中の整理で手一杯で、とても周辺の住環境の整備には手が回りません。塀は倒れたまま、流れ着いたゴミや自動車も放置されたままで、見ているだけで切なくなります。東北地方がもう少し近ければ、71歳の私でも、もっともっとお手伝いができるのにと、心から思いました。(ちなみに再度、ボランティアの募集があれば、ぜひ私も参加させてほしいと、主催者に申し入れました)。

 被災地に行って胸を打たれたことがあります。それは誤解を恐れずに言えば、被災地の皆さんは人恋しいのです。人との温かい会話に飢えておられるのです。
 この2日間、私は作業の合間の小休止のときや、作業場の移動の際に、激励をさせていただくつもりで「兵庫県の姫路から来ました!」と話しかけると、被災地の皆さん方は全員が、心から、そして丁重に、笑顔でお礼を述べてくださいました。
 そしてひと息ついたら、今度は皆さん方がボランティアの私達に、震災発生時の生死を賭けた緊迫した状況を、熱く語ってくださるのです。それも一人や二人ではなく、沢山の方々が熱く話しかけてこられたのです。

 これは考えてみれば無理のないことで、震災発生時の状況は地元の皆さんは周知のことで、今では多分、お互いに話題になることも少ないでしょう。しかしながらあの体験は、黙って胸に止め置くには酷に過ぎる状況だったに違いありません。
 ある男性は「津波が家の周囲のブロック塀よりも高く押し寄せてきて、私は翌朝まで、ここの(と指さして)ブロック塀に必死につかまっていました。その私のすぐ横を、船が流れていき、自動車が流れていき、家まで流れていきました」と、身ぶり手ぶりで語って下さいました。
 また別の男性は自分の携帯電話を広げて、「この写真の、この船が私の家にぶつかってきて、そのため私の家は1階と2階がバラバラに分解されました」と、苦しい記憶を語って下さいました。

 私は先日、相生市の社会福祉協議会が主催した「傾聴ボランティア講座」を受講しました。これは独居老人のお宅や高齢者施設を訪問して、そこのお年寄りの方の話し相手になるための講座でした。その講座では例えば「優しい眼差しで、ニッコリ笑って、軽くうなずいてetc…」と、傾聴に関する技術を詳細に勉強したのですが、被災地の皆様のお話を聴く際には、そんな枝葉末節の技術はどこかに吹き飛んで、ただひたすら皆さんのお顔を凝視し、そして私も涙を堪えて必死に聴いていました。
 「真実を語る、これに優る雄弁はない」という誰かの言葉を、私は恥ずかしながら、71歳になって、ここ東北の被災地で、身をもって実感をしました。

 被災地には全国各地から沢山のボランティアが来ていました。
東京の若者20人のグループ(男性12名、女性8名)のリーダーから話を聞きました。彼等は金曜日の仕事を終えた後、3台のマイカーに分乗して被災地に駆けつけ、土曜と日曜の2日間、ボランティアをしたあと、また夜通し交替で車を運転して月曜の朝、東京に帰り、そのまま職場に行くとか。これは仙台の少し手前のサービスエリアで聞いたので、私は手持ちの食料を少量「ほんの気持ちですが」と言って渡したら、それこそ気持ちが通じたようで、笑顔で快く受取ってくれました。

 別の東京の5人の大学生グループは、民家の整理の手伝いをしていました。彼等は「車を持っていないのでレンタカーを借りて、それにテントを積んで駆けつけて、ここ(東松島市)でテント生活をしながら、3日間ボランティアをして、またレンタカーで帰ります」と笑顔で語っていました。そしてすぐ横では整理をしてもらっている家のご主人が感謝の眼差しで、笑顔で大学生と私達を見つめていました。

 サービスエリアで会った、大阪府交野市の若い5人のグループは「障害者施設で『たこ焼き』を焼いて、それを入居者の皆さんに無料で食べてもらってきました」とのこと。「大阪と兵庫は、ここ東北から眺めれば、お互い近所みたいだねえ!」と盛り上がりました。
 その他、東北福祉大学の100名の学生さんや、連合(労働組合)の皆さんなど、沢山のボランティアの姿を身近に拝見して、日本の将来もまだまだ大丈夫だ!と、心強く感じた次第です。

 帰路は往路の逆をひたすら走り続けて6日(月)の朝、無事に相生市に着きました。現地での2日間の奉仕作業と、バス車中泊での睡眠不足とで、下車した時にはさすがに声がかすれて出なくなり、「我れ老いたり!」を実感しましたが、仙台市に住む龍野高校10回生、大塚正宸さんの「東北復興にご支援を!」の呼びかけには、微力ながらも応えることが出来たことに自己満足をして、愛妻の出迎えの車で帰宅しました。
 大塚正宸さんとはメールが行き違って残念でしたが、私が再度、宮城県にボランティアに行ったときには、旧交を暖めることができると、今から楽しみにしております。
 宮城県の現地で支給された、青いユニホームの背中には「がんばろう東北」と書いてあります。龍野高校10回生の級友の皆さん!、私達も東北地方の人々にあやかって、お互い元気でがんばりましょう!
背後のはるか彼方から、民家を押し流して津波が!


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