第9回 京  遊  会 
2006年11月8日〜9日 

猿沢池・興福寺・ならまち散策

岩下利明さんから京遊会レポートを頂きました

 今回の京遊会は、三木・冨田両君のお世話で、同窓の長谷川崇明さんのガイドで奈良を散策することになりました。
 参加者は、11人。芦谷、岩下、菊谷、寺田、冨田、三木、村田、山田、名ガイド役の長谷川崇明、(以上 龍野高校10回生)上田、田中(以上 龍野高校11回生)(敬称略)  なお、写真の名前もすべて敬称略します。

第一日 猿沢荘

 「秋の陽は釣瓶落とし」将にその通り、まだ5時前というのに猿沢池の畔に立つともう夕暮れでした。案内図を頼りに猿沢池を通り過ぎた所で山田さんに出会い、二人揃って今日の宿「猿沢荘」に入りました。
 今回は、京遊会の10名フルメンバーに今回特別参加の長谷川さんが加わり総勢11名と賑やかになりました。長谷川さんは、奈良市近郷に住み、ボランティアの奈良観光ガイド暦5年というベテランガイドで、明日は興福寺とその周辺を案内してもらうことになっています。又、長谷川さんとは、高校卒業以来、実に44年半振りに会えるというこれもまた大きな楽しみです。 
猿沢荘で賑やかに宴会!
猿沢荘ホームページを参照下さい!

[長寿の酒、大安寺の笹酒で乾杯]大安寺の笹酒
 18:00より2F広間にて宴会開始。総勢11名、先ずは、長谷川さん差し入れの、「長寿の酒」と評判の大安寺の笹酒で乾杯。さっそく、長谷川さんの観光ガイドの始まりです。
 このお酒は、第50代桓武天皇(737〜806)の前帝、第49代光仁天皇(709〜781)が、竹筒に注いで温めた酒を飲むことで健康と長寿を保ったという故事にあやかり、大安寺では毎年1月23日に「光仁会(こうにんえ)癌封じ笹酒祭り」と題して、参拝客に笹酒(竹筒で燗をした酒)を振舞っています。このお酒が、癌封じ=長寿の酒として大変評判になっています。
 光仁天皇は享年73歳、当時としては随分長寿です。やっぱり笹酒の効能ではないでしょうか。
 酒の由来から始まった長谷川さんの奈良観光ガイド。明日の予習をしながら、飲むほどに酔うほどに益々流暢な長谷川節に一同すっかり飲み込まれてしまいました。元々雄弁家ではありましたが、高校卒業以来45年振りに会った彼の流暢な話し振りは、更に豊富な知識と薀蓄(ウンチク)に裏付けられ、聞く者を引きつける不思議な魅力を持っていました。意地悪な質問にも即座に明快な回答があり、一同感心したり納得したり。集まった11名の中で一番輝いていたのではないでしょうか。明日の興福寺とその周辺散策が益々楽しみになってきました。

 二日間に亘る長谷川さんのガイドを思い出すままに綴りました。聞き違い、聞き忘れが多々あると思いますが、既に「ボケ」否「認知症」ゾーンに住む年齢であることをご理解頂きご勘弁下さい。

酒の由来から始まった 長谷川さんの奈良観光ガイドの始まり、始まり!

〔龍野高校同窓会で全国唯一の県支部「奈良県支部」がある〕
 龍野高校同窓会の組織は、龍野高校内に本部を置き、後は東京に関東支部があるだけと思っていましたが、意外な事に奈良県支部があるんです。関東支部以外唯一の地方支部です。毎年、この「猿沢荘」で支部総会を開いていて毎回20名前後の方が集まるそうです。正暦寺の清酒発祥の地の石碑その縁で今夜の宿となりました。以前は、名古屋にも支部があったそうですが、かなり前になくなっており、今や貴重な存在です。他府県にも波及するよう、是非、末永く続けて頂きたいものです。

〔清酒の元祖は奈良の正暦寺(しょうりゃくじ)〕
 今、当たり前のこととして飲んでいる「清酒」は、奈良の正暦寺というお寺で生まれました。近くを流れる菩提仙川の水を使ったら透明な酒が出来上がりました。これが清酒の始まりです。時は、14世紀南北朝の動乱期(1336〜1392)といいますから、600数十年前のことです。その酒は、「菩提泉(ぼだいせん)」「南都諸白(なんともろはく)」という銘で現在に引き継がれています。
 正暦寺:992年(正暦2)第66代一条天皇(980〜1011)の発願により創建され、「菩提もとつくり」という製法で、わが国で初めて清酒を開発したお寺として知られています。 ― JR版奈良観光ガイドブックより


                       正暦寺の本堂と紅葉


〔三島由紀夫が割腹自殺の直前に訪れた圓勝寺〕
 後水尾天皇(1596〜1680)は将軍秀忠の娘を中宮和子として迎えましたが、江戸幕府には反抗的であった。その皇女を徳川将軍に嫁がせるのが嫌で、修学院離宮へ尼さんに出してしまいました。後になって天皇自身が出家し法王となって修学院離宮へ行くことになり、尼になった皇女を、奈良の山村(やまむら)という所に圓勝寺を建立して住まわせました。一般人が訪れることのない由緒ある門跡寺です。どういう縁があったのか、三島由紀夫が割腹する前に訪れていたということで有名になりました。

〔阿倍仲麻呂望郷の歌はどこから見た月を思ってのものか?その場所がわかった〕
 阿倍仲麻呂:(701〜770)奈良時代の学者。716年遣唐留学生となり翌年入唐。玄宗皇帝に仕え、733年帰国の際、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と歌ったが、不運にも乗船が遭難し安南まで流れ着き、再び唐に戻って一生を終えた。 ― 百科事典より
 この余りにも有名な望郷の歌は、一体何処から見た月を思い出して詠んだのであろうかと検証され、此処から見た月に相違ないといわれる場所が見つかったそうです。暇な人がいるもんだなぁーと思う一方、実にロマンに溢れた話ではないですか。私もそこへ行って、山影から出たばかりの大きな月を見ながらこの歌をじっくりと鑑賞してみたい、そんな衝動を覚えました。

〔最澄と空海―空海は水銀鉱脈探しの名人で金持ちだった〕
 最澄(767〜822)は、勅許を得て(官費により)唐へ留学し、数多くの仏典を持ち帰りました。一方、空海(774〜835)は自費で遣唐留学生として唐に渡り、豊富な資金で最澄に数倍する仏典書籍を持ち帰ったといわれています。最澄は、何度も空海の所へ仏典を借りに行ったそうです。
 当時の「朱(赤色)」は水銀からつくる「丹」か、土からつくるベンガラが使われていて、特に水銀からつくる「丹」は高級品として貴重視されていました。空海はその水銀の出所を数多く知っていて、豊富な財力があり、それを持って唐に渡ったので最澄を遥かに上回る大量の書籍仏典を持ち帰ることが出来たと言われています。
 空海は、弘法大師として各地の山野を行脚し、讃岐では万農池を修築したと伝えられ、各地に霊泉や霊水伝説があり、山や鉱脈にもかなり詳しかったのであろうと一人で納得しました。

〔藤ノ木古墳は出羽(山形県)と繋がっていた?〕
 盗掘を免れ、ほぼ完全な形で発掘されて有名になった「藤ノ木古墳」では二つの棺に納められた白骨遺体が沢山の副葬品と共に発見され、話題になりました。その遺骨が誰のものかは未だ解明されていません。そこに使われていた「朱」を分析した結果、紅花から採れた「朱」と判明しました。当時、大和周辺では、大陸からのものも含め「朱」の材料は、水銀から作る「丹(に)」か土から採るベンガラしかなく、紅花は、出羽の羽黒山にしか産していませんでした。では何故出羽にしかない筈の紅花の「朱」が藤ノ木古墳にだけあるのか。蘇我馬子に殺害された第32代崇峻(すしゅん)天皇(?〜592)が出羽に縁があったと言われており、そうすれば藤ノ木古墳に葬られている遺体の一つは崇峻天皇ではないかという説が唱えられたり、「朱」にまつわる話が果てしなく広がっていきます。
 家臣が天皇を暗殺するという日本歴史上極めて特異な事件でした。崇峻天皇は、馬子の妹の子=甥に当り、極めて悲惨な事件でもありました。

〔七堂伽藍とは…、五重塔はお墓、金堂は仏壇…〕
 七堂伽藍とは、仏教寺院の基本形態で、塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・僧坊・食堂の完備したものを言います(宗派や時代の変遷により名称や配置に変遷があるが奈良時代初期のものが基本形)。塔(五重塔や三重塔等)は今にいうお墓、金堂は仏壇に当たります。講堂は仏法学習の教室、僧坊は学僧の宿舎です。

〔「お坊さん〕と「坊主」どっちが偉い?〕
 ところで、元来は修行僧のことを「坊」と言い、その中のリーダー(今で言えば、生徒会長か、委員長)を「坊主」と言いました。何時の間にか修行僧である筈の「坊」に「お」と「さん」をくっつけて「お坊さん」と敬称し、逆にその中で一番偉かった筈の「坊主」のことを「くそ坊主!」とか「坊主!」とか蔑称するようになっています。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか?
  これは面白い。初めて聞きました。これだから、長谷川さんのガイドは楽しいんです。

 〔今回の話題は「お寺」〕
 宴会場だけではとても話が終わりません。部屋に帰って深夜まで飲んで語って。皆さんとても元気です。 一昨年の京都では「健康と病気予防」、昨年の名古屋では「お墓」と「JR打線事故の解説」で賑わい、さて今回は?と楽しみにしていましたら、長谷川さんのお陰で奈良観光は「日本古代史の逸話とお寺」が話題の中心になりました。さて、来年は…?と思う間もなく深い眠りに沈んでいました。

〔45年前の写真〕
 村田さんから45年前の写真が提供されて、一騒ぎとなりました。写っているメンバー8名…上田(11回)・菊谷・寺田・冨田・三木・村田・山田・井伊(現岩下)…の風貌や服装、周りの風景などから、昭和37年の正月、京都に遊学していてその春卒業する (一部例外あるも) 仲間が、学生時代最後の正月を惜しんで村田さんの家(現、たつの市新宮町新宮)にて一夜を明かし(お家の方には、特にお母さんには大変お世話をお掛けしました)、その翌日近くを流れる栗栖川対岸の新田山に遊んだ時の写真でした。かっては紅顔の美青年、今は厚顔の……。いや、「変わっとらん」と言う人もあり、失礼しました。そのメンバー8名が今夜のこの席に全員揃っているという、思えばこれも不思議な縁です。 − 生まれる〜 前から〜 結ばれていた〜 古い歌を思い出しました。 

(左より)菊谷、上田、寺田、山田、村田、冨田

(左より) 井伊(現岩下)、村田、寺田、山田、上田、冨田

(左から)井伊(現岩下)、菊谷、寺田、上田、冨田、山田
早速、参加者からメールを頂戴しましたので紹介します


山田忠男さん

幹事さん、京遊会参加の皆さん
すっかりお世話になりました。2年ぶりの楽しいひとときを過ごせました。
長谷川さんのベテランの味で、奈良の良さがよく分かりました。今度は、家内を連れて案内して頂こうかな(笑い)。
企画、実行して頂いた幹事さんには特に感謝です。

皆さんと別れて、橿原に泊。翌日も天候に恵まれ、自転車で明日香を見て回りました。彼方此方を訪ねながら、歴史の登場人物を思い、大いなるロマンを感じました。
  こちらをご覧下さい!

○万葉の歌人を訪ぬる菊日和
○飛鳥(とぶとり)も明日香に向かふ柿の里
 
      山田夢沙洛

帰ってきたら、句会だの管理組合理事会、評議員会それに大学の講義と目白押し。すぐにお礼を申し上げるべきところ、遅くなりました。
今週末には再度、関西、京都・大阪へ行くことになっています。

冨田邦良さん

京遊会のみなさんへ

 晩秋なのにぽかぽか陽気な中の奈良散策無事終えることができました。
皆さんお忙しい中での全員参加ごくろうさんでした。とくに東京組みの芦屋さん、山田さんお疲れ様でした。 今回は長谷川さんのガイドで普段素通りしてた興福寺の謎解きの丁寧なガイト゛、元興寺の旧境内の「ならまち」散策、夜はライトアップされた五重塔を見上げる宿で秋穫御膳をいただき、大安寺がん封じのお酒(長谷川さん提供)で乾杯飲み放題のひとときでした。
 最後に、会計報告をさせて頂きますと残金51円でしたので「おさいせん」で祈願しておきました。
いよいよ朝夕の冷え込みも一段ときびしくなつてまいります、健康管理一番で御身たいせつにすごしましょう。  

三木俊作さん


先日の京遊会では近年にない充実したひと時を過ごすことができました。
長谷川君の名ガイドで「奈良散策」ができた事、本当によい京遊会でした。
写真を送付しますが、部屋の中の写真、集合写真は出来がよくありませんので悪しからず!!
来年の再会を楽しみにしています。

寺田 尚明さん


先日はお疲れさまでした。昨年春の万博京遊会以来1年半ぶりの再会でしたが、皆さん元気で全く変わりが無いのにまず安心しました。
この年、何よりも「健康第一」が何よりの宝、この状態をずっと続けたいものです。
 今回は長谷川君の名(迷)案内で、小学校以来?久々の奈良の街を愉しむことが出来ました。
宴会&翌日の奈良町見学も話しに夢中で余り、写真は撮ってはおりませんが、何枚か有りましたの添付します。
 役立つショットがありましたら貴兄のHPで紹介して下さい。


第二日 猿沢池→興福寺→ならまちへ
猿沢池
 翌朝は、さあ!いよいよ長谷川さんの観光ガイドです。先ずは「猿沢池」へ。
〔ベストポジション〕
静かな水面に雲や建物が映り落ち着いた雰囲気が漂っています。此処がベストポジションというところに案内してもらいました。後方に一段高い興福寺境内があり、その奥に聳える高さ50.1m、日本第2位の高さを誇る五重塔の威容を望み、それが静かな水面に映っている。なるほどこれなら「絵」にもなれば「写真」にもなる絶好のポジションです。此処で記念写真。

(後列)岩下、三木、菊谷、上田、山田、芦谷
  (前列)寺田、田中、村田、寺田
〔悲恋の采女 衣掛け柳と背向神社〕
奈良の都華々しき頃、時の帝に仕えていた官女「采女」が帝との間が疎遠になったのを悲しみ、着ていた衣を池畔の柳に掛け池に身を投げました。何代目になるのか、今も柳の木が立っています。
それを知った帝は采女を不憫に思い、池畔に向かって神社を建立されました。然し、祀られた采女の魂は、毎日悲しい思い出の池を見ているのは耐えられないと一夜にして池に背中を向けてしまいました。それから「背向け神社」と呼ばれるようになりました。本当の名前は「采女神社」と言いますが、今も池を背にして建っています。

〔猿沢池の七不思議〕
  猿沢池にまつわる古い言い伝えがあり、次のような立て札が立っていました。

猿沢の七不思議 昔から不思議な言い伝えがあります
 澄まず濁らず 出ず入らず 蛙はわかず 藻は生えず 魚が七部に水三分


 地下から湧き出で、地下へ滲みこんでいくということのようです。それでは、今も、入水路も排水路もないのでしょうか?その時は、余り深く意識していませんでしたので確認はしておりませんが、ちょっと気になります。何方か興味のある方は、一周してみてください。蛙は、もう冬眠時期に入っていたのか気付きませんでした。或いは、外来種の魚の被害にあったのかもしれません。藻は、これも余り意識していなかったので何とも言えませんが、綺麗な水面でしたので無かったのではないでしょうか。魚は外来種の為に激減したと長谷川さんからの説明でした。

悲恋の采女 衣掛け柳

興福寺へ
興福寺境内へと通じる52段の石段 「興福寺」:669年(天智天皇2年)、藤原鎌足の遺志をついでその婦人が山城の国山階(やましな)村に山階寺を建立したのが始まり。673年(天武天皇1)に大和の国飛鳥村厩坂(うまやさか)に法光寺別名厩坂寺として移転、更に710年平城京造営と共に鎌足の子不比等によって現在地に移建、興福寺と改称。藤原氏の氏寺として大いに栄えた。南都七大寺の一つ。僧兵としても有名で延暦寺の山法師に対し奈良法師と呼ばれた。 − 百科事典より

〔六道とは? 地獄、餓鬼、畜生、…〕
              

 猿沢池から一段高い興福寺境内への登り口の手前に六辻があります。此処は、仏教で言う「六道(ろくどう)(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人(にん)・天(てん))」を意味していて、その中で極楽へ通じる一番よい道が興福寺へ登る石段へと繋がっています。いろいろと差し障りがあるとか言って、どの道が六道のどれに該当するかは公表されておりません。
 又、その石段は52段あり、仏道を極める修行の52の段階を意味しているといわれています。

仏道を極める修行の52の段階 六道の辻

〔興福寺 国宝特別公開二〇〇六〕
 興福寺では、「興福寺 国宝特別公開二〇〇六」として10月8日〜11月13日まで国宝の特別公開が開催されていました。
  「日本を代表する大寺のひとつで、世界文化遺産に登録されている奈良・興福寺は、二〇一〇年に創建千三百年を迎えます。戦乱や火災など、創建より幾度となく被害を受けながら、そのたびに力強く復興してきましたが、江戸期の大火で焼失した中金堂は仮堂のまま今日に至っています。…後略。 ― 案内パンフより

〔五重塔(国宝)、三重塔(国宝)、弥勒さんは菩薩か如来か?〕 
 猿沢池から威容を見せていた五重塔、50.1m日本第2位の高さを誇る高塔です。長谷川さんから沢山の説明を聞きましたその中から一つ。
 塔は、今に置き換えればお墓に当り、金堂は仏壇です。この五重塔の1階には東に薬師如来、南に釈迦如来、西には阿弥陀如来、北にはお釈迦さんが亡くなって56億7000万年後にこの世に現れて衆生を救うという弥勒菩薩が安置されています。
 
 帰宅後、興福寺で貰ったパンフレット「興福寺境内案内図」の解説を読んでいて「弥勒如来」という文字が眼に入りました。「えっ、弥勒さんは菩薩じゃないの? 中宮寺の弥勒菩薩像は余りにも有名だし」との疑問が湧いてきました。
境内には、五重塔と三重塔(共に国宝)があり、上記パンフレットには下記のように説明されています。
  五重塔:―前略―。初層内陣には薬師三尊像(東)、釈迦三尊像(南)、
        阿弥陀三尊像(西)、弥勒三尊像(北)を安置。
  三重塔:―前略―。初内陣には薬師如来(東)、釈迦如来(南)、阿弥陀如来(西)、
        弥勒如来(北)を千体ずつ極彩色で描く板絵がある。―後略。 
                        ― パンフ興福寺案内図より
 確かに「弥勒如来」との記載です。まさか印刷ミスでもあるまいが?と思い、念の為、興福寺に電話で聞いてみました。「五重塔も三重塔も弥勒如来です!」とのそっけない返事。ほんなら、弥勒さんには如来さんも菩薩さんもあるんかいな? どうも腑に落ちないので百科辞典を開いてみました。
 弥勒菩薩(みろくぼさつ):釈迦の滅後56億7000万年に娑婆世界に現れて、釈迦の教化にもれた一切の衆生を済度する未来仏。―後略。
長谷川さんの説明通りです。辞典には、如来という文字は全く見当たりませんでした。
興福寺の対応は、その態度も含めどうも納得できません。興味のある方は、一度調べてみてください。

    


 長谷川さんのガイドに戻ります。
 塔の頂上には9個の金属製の輪が縦に飾られ、更にその上に水煙という雷除けが付けられています。9個の輪は、インドでは外葬なのでお釈迦さんの遺体が野外に置かれました、その遺体に9人の弟子が入れ替わり立ち替わり傘を差し掛けたという故事に倣って9個の輪が置かれています。高い塔なので落雷で焼けることが多く、これを避ける為に「水煙」というものが雷除けのお呪(まじな)いとして取り付けられています。本当に雷除けになったのかは甚だ疑問で、むしろ雷寄せになったのではないでしょうか。
 まだまだ沢山のことをガイドしてもらったのですが、とても覚えきれませんでした。特に、国宝の認定基準については厳しい条件があり、国宝級と言われながら認定されない物件が多々あるようです。幾つもの事例を聞かされましたが、どうもややこしくて覚えきれませんでした。長谷川さん、どうも済みません。

〔浴衣、風呂敷はお寺の蒸し風呂が起源〕
 五重塔の裏(東)に大湯屋(大浴場)があります。当時の風呂は蒸し風呂で今にいうサウナでした。「サウナ」はわが国にも昔からあったんです。浴室で着るから「浴衣」。浴室を出て体を洗い、汚れた浴衣や着替えた衣服を、浴室で体の下に敷いていた布に包んで帰ったので「風呂敷」というんだそうです。「せめて、これ位は覚えて帰って欲しい」と長谷川さんから言われました。

〔「柿食えば…」の名句は奈良興福寺で詠まれた〕
  正岡子規の有名な句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は、法隆寺で詠んだものではなく、興福寺へ来た時に詠んだものと此処では言われています。彼は、奈良興福寺へは確かに来ていますが、晩年の病気療養中のことで交通事情も悪くとても斑鳩の法隆寺まで行けるような状況ではありませんでした。又、「秋風や囲いもなしに興福寺」とも詠んでいて、興福寺へ来た時に詠んだとの根拠にもなっています。但し、法隆寺側では、句碑もあり、「法隆寺で詠んだ」と言っています。

塔の頂上には9個の金属製の輪が縦に飾られ、更にその上に水煙という雷除けが付けられています


長谷川さんの名調子のガイドに
感心したり、驚いたり、説明に納得!
[お願い事は一つだけ 一言観音堂]

 南円堂の手前にある「一言(ひとこと)観音堂には、一つだけのお願いをすると必ず聞いてくださるという一言観音さんが安置されています。家内安全は家族が複数なので駄目。無病息災も病気と災害の二つで駄目。とにかく一つだけです。メンバーの皆さん、夫々にお参りされていましたが、さて何をお願いされたんでしょう? 私も一つだけお願いしました。何を? それは言えません。

南円堂

〔北円堂 国宝〕
 721年(養老5)元明・元正天皇により藤原不比等の一周忌に創建されました。「天皇により創建された」=如何に藤原氏の威勢が強大なものであったかを物語っています。

〔額塚 興福寺には山号がない〕
 通常お寺には「○○山○○寺」と称して、所謂山号というものが必ずあります。興福寺にも創建当初には「月輪山(がつりんざん)興福寺」と称し、立派な扁額が掲げてありました。創建初期の境内には湧水があちこちにあり大変困ったそうです。ある時、旅の僧が通り掛り、「山号が禍の元になっています。これを取り除きなさい」との教示があり、それに従い扁額を降ろして地中に埋めたら湧き水がなくなったという言い伝えがあります。その扁額を埋めたという塚があり、そこを額塚(がくづか)」といっています。こんもりとしたかなり大きな土盛の傍に「額塚」との標識が立っていました。



〔古代の寺院は国家安泰を祈願〕
 今回散策した興福寺にはそのお寺の墓地がありません。塔がお墓と言いましたが、これはお釈迦さんの骨を祀るもので、その寺の僧侶や信者の遺骨を祀るものではありません。
当時のお寺は、死者を弔う所ではなく、国家安泰=現世利益を祈願し、又仏法を極め、悟りを開く為の修行の場でした。東大寺を中心に据え、全国に国分寺を配置したのも、国を挙げて国家の鎮護と繁栄を祈願する為でした。
 死後の極楽往生を願うようになったのは鎌倉・室町期以降のことです。「今日は自治会長さんや副会長さん等自治会の役員さんが多いですが、此処では夫々の地元自治会の繁栄を祈願して下さい。それが奈良の仏教です」と何度も諭されました。お心遣い有難うございます。お言葉に従い、私も地元自治会の繁栄をお祈りしました。
三重塔

三重塔


ならまち散策

 興福寺から、再び猿沢池の畔を通って「ならまち」へ向かいました。猿沢池の南側一帯が「ならまち」と言われる地域で、往時を肌で感じとれる絶好の散策エリアでした。

 「ならまち」:江戸時代の末期から明治時代にかけての町屋の面影を今に伝えるならまちは、落ち着いた風情を漂わせ、訪れた人に懐かしさを感じさせてくれます。行政地名としての奈良町という場所はありませんが、元興寺(がんごうじ)の旧境内を中心とした一帯を「ならまち」と読んでいます

 このあたりは奈良時代の平城京の区画のうち東部に突き出た外京と呼ばれていた場所で、神社・仏閣の多いことも特徴の一つです。迷路のような小路を歩くと歴史の横顔に出会える、そんなまちです。 ―  「奈良町散策マップ」より
 地区内には数多くの町があり、その中に、「不審ヶ辻子町」とか「芝筒抜町」といった興味をそそる町名があります。散策マップには「不審ヶ辻子の鬼」として説明がありましたので紹介します。

 「不審ヶ辻子の鬼」:昔、ならまちの長者の家に忍び込んだ賊が捕らえられ、鬼隠山から谷底に落として殺されたそうです。その後、賊の霊が鬼となり毎夜元興寺に現れだし人々を悩ませました。そこで、元興寺の小僧が退治しようと、鬼を待ち伏せし激しく格闘したが、なかなか勝負がつかず、そのうち夜が明けだしたことに慌てた鬼が逃げ出し、小僧も後を追ったが、見失ってしまいました。それ以後、このあたりを不審ヶ辻子と呼ぶようになったといわれています。 ― 「奈良町散策マップ」より
もう一つ「芝が筒抜け」とはなんでしょうか?想像するだけでも楽しくなってきます。

  〔元興寺は東大寺に次ぐ大寺だった。
     1400年余り前に日本で始めて焼かれた瓦が今も健在〕


 元興寺(極楽坊)には入らず、その前で長谷川さんのガイドを受けましたが、とても覚えきれませんでしたので、パンフレット「元興寺―極楽坊」に記載の元興寺の歴史からその要旨を紹介します。



       (左から) 山田、三木、岩下、寺田、冨田、上田、菊谷、長谷川

 元興寺の歴史:587年(用明天皇2年)崇佛派の蘇我馬子が排佛派の物部守屋を打ち破りようやく仏教がわが国に根を下ろしたその翌年、蘇我馬子は、崇峻天皇の即位を期に飛鳥の地にわが国最初の正式の仏寺建立に着手しました。この寺が元興寺の前身である法興寺で、地名から飛鳥寺とも呼ばれました。
 百済国王は、この日本最初の仏寺建立を助けるために、仏舎利を献じ、僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工を派遣して来ました。その時の瓦博士の造った日本最初の瓦は、その後このお寺が奈良のこの地に移った際も運び移されて、現在の本堂=極楽堂(国宝)・禅室(国宝)の屋根に数千枚が使用されています。この飛鳥寺は三論・法相両学派がわが国に最初煮に伝えられてわが国仏教の源流となっただけでなく曽我氏を通じての大陸文化輸入の中心舞台となり、更に政治・外交の場ともなって、いわゆる飛鳥時代の文化は、まさに飛鳥寺を中心に展開したといっても過言ではありません。


              極楽坊(右)と禅室(左)の屋根瓦
   色が変わってみえる瓦は、718年に創建当時の飛鳥寺から運ばれた我が国最古の瓦

 710年(和銅3)、都が平城京に移された8年後にこの寺も奈良に移転し、名を元興寺と改められました。当時の伽藍を偲ぶものとしては、東大塔跡(史跡指定)・西小塔院跡(史跡指定)・極楽堂(国宝)・禅室(国宝)・しか遺っていません。今一つ収蔵庫に安置する五重小塔(国宝)は当時の西小塔の本尊、西塔そのものとされ、今に遺る奈良時代最盛期の唯一の五重塔として有名です。

 749年(天平勝宝1)に諸寺の持つ墾田の地限(領地面積)の地限が定められ、諸大寺の格付け行われました。東大寺4,000町歩、元興寺は2,000町歩、大安寺・薬師寺・興福寺が1,000町歩、法隆寺と四天王寺が500町歩と格付けされました。752年の東大寺大仏開眼法要には元興寺が主要な役を務めるなど平安中期までは南都七大寺の中心的役割を果しました。
 お盆で知られる「盂蘭盆会」、釈尊の降誕を祝う「潅仏会」、組織的慈善事業の始まりとも思われる「文殊会」「仏名会」などはこの寺から起こりました。

 以後時代の変遷と共に衰退、特に室町時代の土一揆により建物の大半を焼失などがあり、さしも広大であった境内はいつの間にか一般の住居や神社仏閣が建つなどして、現在は一部にその面影を遺すのみとなりました。又、この寺は1998年、ユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」のひとつとして登録されました。 − パンフ「元興寺―極楽坊」より

 今の「ならまち」は、かっての元興寺の広大な境内を中心に広がっています。 
長谷川さんに、東大塔遺跡まで案内してもらいました。随分広い敷地で、柱の礎石などの遺構が綺麗に整備されていました。安政6年に焼失し、一時再建が計画されましたが、周囲に民家や寺院が密集している為施工不可能という結果になりました。
 「元興寺」というのは全く知りませんでした。今回の旅行の大きな収穫です。

東大塔遺跡まで案内してもらいました。随分広い敷地で、
柱の礎石などの遺構が綺麗に整備されていました

 〔十輪院…故河島英五の墓がある〕
 元興寺の旧境内にあり、元正天皇(715〜724)勅願で元興寺の一子院として建立。又、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚介(なかい)が開基とも伝えられています。―十輪院パンフより
 どういう関係か知りませんが、此処の境内の墓地に河島英五の墓があります。
墓碑に「こころから心へ」と刻んであり、彼の生き様が伺えます。
ふりかえると  いくつもの幸せ   ふりかえると  いくつもの哀しみ
 いそがしさを  いいわけにして   あなたとゆっくり話すこともなかったが
  あなたがいてくれたから  がんばってこれたんだ
    あなたを支えにして あなたにほれられたくて     英五 (1952〜2001.4.16)

  〔お地蔵さんが本尊で左右の脇にお釈迦さんと弥勒さん…
       十輪院の石仏龕(せきぶつがん)〕
十輪院本堂(国宝)
 間口268cm、奥行245cm、高さ242cmの花崗岩製。寺伝では、弘仁年間(810〜823)に弘法大師石造地蔵菩薩を造立された、とあり、龕中央の奥に本尊地蔵菩薩、左右に釈迦如来と弥勒菩薩を浮き彫りにし、更に、仁王、聖観音、不動明王、四天王、五輪塔等が中央の地蔵菩薩の周りに巡らされ極楽往生を願う地蔵世界を具現していますー中略―この石仏龕は、当時の南都仏教の教義を基盤に民間信仰の影響を受けて製作されたもので、非常に珍しい構成を示している。大陸的な印象を受ける技法で彫刻されていることにも注目される。 −十輪院パンフより抜粋―
 「ご本尊はお釈迦さん、或いは大日如来か阿弥陀さん」という固定観念が出来上がっている私にとって、お地蔵さんが本尊でお釈迦さんが脇仏というのはとても考えられないことで、全く意外なものを見てしまいました。カルチャーショック!
 「如来」は真理を悟った人。「菩薩」は、真理を悟るべく修行中で、その修行を邪魔するものを撃退して修行者を守るのが仁王さんや四天王と長谷川さんのガイドでした。


〔魚養(なかい〕塚は吉備真備の息子の墓〕
 吉備真備(695〜775)は716年遣唐留学生となり735年帰国、752年遣唐副使となり翌年帰国と2度も渡唐し、最後は右大臣になった人物ですが、唐に残してきた息子が父を慕い日本へ渡ろうとして船が難破してしまった。それを不憫に思った海の魚が背中に乗せて大阪湾まで運んでくれた。その息子の名前が魚養(なかい〕といいます。その人の塚が魚養塚としてこの十輪院にあります。
この伝説の真偽は別として「魚養」という人物は実在したようで、前述の通り「十輪院は、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚介が開基した」とも伝えられています。

 また、長谷川さんの解説によれば、話を面白くする為にいろんな説話や伝説が意図的に作られることがあり、これもその一つだそうです。然し、魚の背に乗って東シナ海を横断するとはなんと壮大な話ではないですか。その魚は、鯨だったのか、鮫だったのか。まさか人食い鮫では…。


〔魚養(なかい〕塚は吉備真備の息子の墓〕

ならまち資料館
 〔「蚊帳」の看板があちこちに〕
 此処「ならまち」は、かっては「蚊帳」生産の中心地であったそうで、古い建物の屋根や軒に「蚊帳」と書いた古びた木の看板があちこちに残っている一角がありました。今でこそ蚊帳は全く使いませんが、いや、「蚊帳」という言葉そのものが頭から消え去っていましたが、子供の頃までは蚊帳無しでは夏を過ごすことは出来ませんでした。蚊帳は夏の必需品であり、夏の風物でもありました。田んぼに農薬を撒布するようになってから蚊帳を使わなくなりました。「DDT」とか「BHC」とか。
長谷川さんの話では、今は僅かに暖簾等に使われる程度の細々とした需要しかないようで、殆どが閉店・廃業しているようです。建物も随分老朽化して、往時を偲ぶというよりは、むしろ見るのが辛いと言った廃屋のようなのもありました。時代の流れとはいえ、環境の急激な変化に大変だったろうなと偲ばれます。

〔直径170cm、重さ200kg、時価1億円の大皿〕
ならまち資料館:入館無料。ならまちに古くから伝わる様々な生活民具や古書、仏像、漆器などを展示している。「身代わり猿」のお守りが迎えてくれる。 − ならまち散策マップより
 
 ならまち資料館に入って一番目立ったのが直径170cmと150cmの大皿。大きい方が綺麗な青で色付けされた有田焼で重さが200kg、時価1億円との表示。小さい方、と言っても直径150cm、見事な赤で描かれた伊万里焼で時価8千万円の木札が立っていました。蔵にはこのような大皿が数十枚収められているそうです。他にも、懐かしい物、珍しいものが色々展示されています。館内の売店で「葛飴(くずあめ)」1袋400円を買いました。帰宅して食べてみると、滑らかな感触、抑制された甘み、これはなかなかの逸品です。
 後日、聞きたいことがありこの「ならまち資料館」に電話しました、丁度ご当主の南さんがおられていろいろと興味あるお話を聞かせて頂きました。80余歳と言っておられましたが、なかなか元気そうな方でした。その要旨を紹介します。

 この「ならまち」には55町22,000人が住んでいる。「ならまち」は元々「蚊帳作りの町」で、往時には70軒の蚊帳屋があり夫々に30人〜50人が働いていた。昔は、蚊帳はこのならまち地区だけでしか作る事が出来ない独占品だった。此処で作った蚊帳を全国に売り歩いたもので、近江商人が大きく係わっていた。布団で有名な「西川商店」も元は「蚊帳」商人である。

 大皿は、数十枚が蔵に保存されているが大きさと重さで蔵から出すのが極めて難しい。たまたま以前から出してあったものがあり、先代の時にそれを日本橋の三越本店で『モナリザ』と共に展示されたことがある(そういえば、随分前のことですが「モナリザ」が日本に来ると言って話題になったことがありました)。その時にこの大皿がオークションにかけられ、8,500万円の値が付き、「売らないか」と東京から電話がかかってきたが、先代が「1億円でないと売らない」と言った為に、今此処に残っている。こんなに大きな皿は、焼くと割れてしまうことが多く(焼くとその体積が2割程縮小する為、大きくなればなるほど、ひび割れしやすくなる)、40〜50枚焼いて1枚位しか残らないそうだ。又、大きくて重い壊れ物なので、簡単には動かせない。此処に陳列するにも、信楽から専門職人に来てもらった。この近辺で大きな焼き物を扱うのは信楽しかない。
 我が家は、「南商店」といって「蚊帳」の老舗の一つであった。元禄時代の大福帳も残っている。時代がすっかり変わってしまい、300年続いたこの店も私の代で閉じることになってしまった。
 「龍野」には、以前「町並み保存をどうやるか」ということで市から招かれて行ったことがある。赤とんぼ荘という見晴らしのいい所に二泊した。古い町並みの残った静かで綺麗な町で、醤油、揖保川、童謡「赤とんぼ」の町として印象に残っている。特に赤とんぼ荘からの眺望が良かった。
   <南さんの話の要旨>
 電話の中で、先日龍野から行ったことを言いましたら、龍野の印象まで話して頂きました。
南さん、ありがとうございました。どうぞ元気でお過ごし下さい。

 〔奈良町庚申 三戸虫(さんしのむし)と身代わり猿〕

 人の体には、「三戸虫(さんしのむし)というのが住み着いていて60日毎に廻ってくる庚申の日の夜になると、眠っている間にその三戸虫が体から抜け出て閻魔さんの所へ行きその人の悪口を言います。するとその人の命が一日縮んでしまう。60日に1日なので累計すると馬鹿にならない。そこで徹夜で起きている代わりに猿に寝ずの番をしてもらおうと猿のお守りを軒にぶら下げるようになったそうです。ならまちでは軒々に身代わり猿のお守りが吊ってありましたし、あちこちのお店で売られていました。

庚申堂にて詳しく説明を聞く


〔ならまちの語り部、名物おばあさんは留守だった。〕

 途中、「御門米飴」という米で作った水飴の老舗で「砂糖傳 増尾商店」に立ち寄りました。この店には、90幾つの達者なお婆さんがおられ、来客に「ならまちの」の古い貴重なお話を聞かせて下さるということで有名な「名物婆さん」がおられます。「ならまちの語り部」とも言うべき存在です。又、既に亡くなられていますが、東大寺長老であった故清水公照師とも親しく、このお店の包装紙や名物「米飴」の容器(壷)には、故清水公照師の書による「御門米飴」という文字が銘記されています。
 ここの米飴は高品質の食物繊維が豊富で身体にもいい評判が高いそうです。容器の壷は赤(茶色)と黒の2種類で、その側面に故清水公照師の書「御門米飴」が書き込まれています。なかなか綺麗な壷で、「空になった後も花瓶や調味料入れ、小物入れなどに重宝されています」とお店のおかみさんが教えてくれました。350gm入り、1,050円で、メンバー全員買っていました。私も二つ。一つは胃潰瘍が持病の友達へのお土産に。“ぎょうせんあめ”と言えば思い出しませんか。よく伸びるので割箸か棒に撒きつけて舐めるようにして食べた懐かしい水飴を。



 

その他に〔ならまち格子の家〕:ならまちの伝統的な町家を再現、〔志賀直哉旧居〕:小説「暗夜行路」は此処で完結した、〔元興寺南大門跡〕等々を巡って、やっと昼飯となりました。

 
                      〔ならまち格子の家〕


〔昼食は「あしびの郷」〕
 あちこち歩き廻ってようやく昼食の「あしびの郷」に着きました。東から入って、南北両脇が建物で中央の庭にもテーブル席のあるゆったりとした雰囲気の店です。西は一段低くなっていて、こちらが高台となり眺望もなかなかのものです。長谷川さんの提案で、「少し遅くなるが、観光を先に済ませてから昼にしよう」ということになりましたが、これが大正解。お陰で、ゆっくりと昼食メニュー「あしび御前」を味わうことができました。

(左から) 三木、上田、菊谷、長谷川、冨田、山田、岩下、村田

 長谷川さんは、なら観光ボランティアの会「朱雀」というNPO法人に所属し、その主要メンバーとして、また家庭裁判所調停委員、地元自治会副会長を務めるなど幅広く活躍されていて元気そのもの、「今、第二の青春を謳歌している」と言えるんではないでしょうか。来年度から奈良観光ガイドにも検定制度が導入されることになり、今その準備中だそうです。勿論、試験する側として。

 長谷川さんの観光ガイドもここで終わりです。昨夜から今日にかけての二日間、教科書や観光ガイドにもない数々のエピソードを交えての愉快なガイド、本当に有難うございました。幹事さんご苦労さんでした。メンバーの皆さん、楽しいひと時を有難うございました。又、来年を楽しみにしています。
「先達はあらまほしきものなれ」という「徒然草」の一節を思い浮かべながらこのレポートを終わります。

 長谷川さんからのメッセージです
「同窓会の皆さん、是非奈良へ来てください。前もってご連絡いただければ、私が案内します」とのことです。奈良へ行かれる節は、是非長谷川さんに一声掛けてください。きっと思い出に残る楽しい奈良観光ができるでしょう。
 〔連絡先〕
    なら観光ボランティアの会 「朱雀」  長 谷 川 崇 明
    〒630-8215 奈良市東向中町8番地(近鉄奈良駅ビル4F)
       Tel 0742―27−9889  E-mail: suzaku97@m3.kcn.ne.jp
       http://www.e-suzaku.net/

追伸

〔「もちいど通り」の由来は?〕
 昼食を終え解散しての帰途、奈良駅へ向かう途中「もちいど通り」という変わった名前の商店街がありました。「もちいど」とは何ぞや?とまたまた好奇心の虫が疼き、一緒に駅に向かって歩いていた長谷川さんに聞きました。
 900年代といえば平安時代、空海の弟子で理源(りげん)大師が大峰山に住む大蛇を退治しに出かけた時、その先達(案内人)を務めた男が、好きな餅を沢山搗いて持って行きました。携行食品のない当時のこと、この餅をご飯代わりにして力を養い、飢えを凌ぎ、無事大蛇退治をやり遂げることができました。餅が大いに役立ったことを大変喜んだ理源大師は、この先達のことを感謝の意を込めて「餅飯殿(もちいどの)」と敬称しました。この「もちいどの」が訛って「もちいど」となり、その先達の住んでいた場所の地名になりました。
成る程、よく解りました。これでスッキリした気分で電車に乗れます。最後の最後までガイドして頂き有難うございました。

 尚、帰宅後「ならまち散策マップ」を見ていましたら、ここの町名が「餅飯殿町」と漢字で記載されていました。ところが、その直ぐ側に「もちいどの通り」との記載もあります。然し、これは間違いでしょう。現に、商店街のアーケードには「もちいど通り」と大書した看板が揚がっていましたよ。念のため発行人(財)ならまち振興財団に聞いて見ましたら、余り認識がなかったようで、「そうですか、来年の改訂時にはよく調べます。有難うございました」との返事でした。「物好きな奴がいるもんだ」と思われたかも知れませんが、その丁寧な応対にはこちらが恐縮しました。

あとがき
 村田さん 遅くなって、誠に済みません。旅行の後、少し行事が続いたのと、その後も合間々々に、書いては直し書いては直しをやっているうちに年末になってしまいました。お蔭様で、現地で貰ったパンフレットはよく読ませてもらいました。又、「ならまち資料館」のご当主、南さん(80余才)と電話でお話できたことは思わぬ収穫でした。そして、なんと言っても、今回の京遊会の一番の盛り上がりは、長谷川さんの名ガイドでした。又、機会を作って、東大寺か明日香の石舞台辺りを巡って、古代史のロマンを是非探訪したいと思っています。その時は、長谷川さん、宜しくお願いします。  (平成18年12月30日)

最後までご覧頂き有難うございました!