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よもやま瓦版
(2004年)
今日の話はなんでっか?
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平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  瓦版:よもやま便り
      交野市私市4-39-2   平田 政信
☆ 世の中に山とあるような話や、あんなこと、そんなこと、日常のあたりまえのことでも、歳とともに忘れがち、忘れたことを思い出すのが煩わしい、思い出せない今日この頃、チョット書きとめておくことにしました。なにかの参考になればとはじめましたのでよかったら一服にでも……。 
                  
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瓦版 2008年 8月号 バックナンバー
202 8/30 =シンポジューム「交野の戦跡を語る」(8.29レジメより)=
201 8/29 =シンポジューム「交野の戦跡を語る」(本日のレジメより)=
200 8/28 =天野川(畑山)砂防堰堤=
199 8/27 =平和の誓い新た=
198 8/26 =2008北京五輪閉幕=
197 8/25 =仏像の姿(その4)= 十一面観音
196 8/23 =仏像の姿(その3)= 観音菩薩
号外 8/22 =北京オリンピック特集(その7)=
195 8/22 =仏像の姿(その2)= 釈迦如来
194 8/21 =仏像の姿= 釈迦如来
193 8/20 =二宮尊徳(1787−1856)=
号外 8/19 =北京オリンピック特集(その6)=
192 8/19 =条里制(じょうりせい)=
号外 8/18 =北京オリンピック特集(その5)=
191 8/18 =土地制度の移り変わり=
号外 8/15 =北京オリンピック特集(その4)=
号外 8/14 =北京オリンピック特集(その3)=
190 8/14 =今日の一言集より= 今日という平凡な日を過ごさなければ
明日という素晴らしい日には進めない。
号外 8/13 =北京オリンピック特集(その2)=
189 8/13 =お盆のマメ知識=
号外 8/12 =北京オリンピック特集=
188 8/12 =箸墓古墳と卑弥呼・倭迹迹日百襲姫命 その1=
187 8/11 =北京五輪開幕=
186 8/9 =お盆のルーツと意義=
185 8/8 =倭迹迹日百襲姫命 その6=
184 8/7 =倭迹迹日百襲姫命 その5=
183 8/6 =倭迹迹日百襲姫命 その4=
182 8/5 =倭迹迹日百襲姫命 その3=
181 8/4 =倭迹迹日百襲姫命 その2=
180 8/2 =今日の一言集より=
目標が大きければ大きいほど  小さく分解して行動する
179 8/1 =倭迹迹日百襲姫命=


2008.8.30 発行(202)

=シンポジューム「交野の戦跡を語る」(8.29レジメより)=
C 香里製造所         
大阪陸軍造兵廠第5枚方製造所  
 私市地下疎開工場 (第1号〜3号隧道)
   星田駅〜第5枚方製造所 (陸軍専用鉄道跡)・・・1948年米軍空撮に軌道あり 
                陸軍用地碑・・・現在2本確認                             
   

私市地下疎開工場 (3号隧道)
大阪陸軍造兵廠第5枚方製造所 大阪府北河内郡交野町大字馬場堂。
面積652u 長さ138b 洞窟5ヵ所 机木ニヨル簡単ナルモノ。
立木終戦時ニ撤去シ現在殆ど崩壊シアリ。
3号隧道は奥行45.30b  総延長73.50b  床面積約147u
地下工場計画・・・瞬発信管 計画概要・・・導火薬
摘要・・・隧道計画面積2.610b  完成面積652b  計画長サ545b  
完成長サ138b    進捗度 20%
       

       
D 「銃後の記録」より朗読   倉治で終戦他     

E  中村中尉鎮魂        当時の模様           
2005.3.6第二京阪国道工事現場から機関砲1門と砲弾3発が出てきた。
周辺の地下3b余りからは飛行機のエンジンやプロペラも相次ぎ出土した。

60年前、付近上空での戦闘で
墜落した旧日本軍の戦闘機「飛燕
(ひえん)」の残骸。
搭乗していたのは
23歳の青年兵士だった。
・正後過ぎ、星田駅の北において 
 空中戦で撃墜され、落下傘で降
 下中、米機の翼によってその紐
 が切断された・・とあるがそれ  
 は不可能なことであるとの話が  
あった。

・星田で米軍機撃墜とのラジオ放
 送を聞き飛んで見に行きましが
 しょんぼりとして帰ってきて
 「日本機やった」と言った父の
 顔が思い出されます。

・中村中尉の平和を願う、二度と
 戦争はおこしてならないとう
 執念が今回の「飛燕」を出土
 させたのではないか。










  

  

=編集後記=
 パネラー 中角甫・奥野穣・大門利男氏と朗読アイからは井上富貴子さん、歴史民俗資料室解説員の村田義朗・高尾秀司両氏にもお世話になりました。はじめての戦争企画(パネルディスカッション)参加して頂きました、市民の方々も最後まで熱心に聞いていただきました。戦争の悲惨さと平和の尊さを少しでも感じていただければ幸いです。  =了=



2008.8.29 発行(201)

 =シンポジューム「交野の戦跡を語る」(本日のレジメより)=
@ 「銃後の記録」より朗読            
 発刊の経緯「前書」より
  
  

      
戦中、戦後の衣食住  


 日中戦争の長期化とともに、国民生活の窮乏ぶりは深刻なものになっていった。1940年以降、砂糖、マッチ、木炭、米穀などが切符制、配給制となり、翌12月の太平洋戦争開戦後は、塩や味噌、醤油、衣類などあらゆる生活物資に点数切符による総合配給制が実施された。さらに、1942年の金属回収令によって家屋から金属類が姿を消し、木や竹、陶器などを用いた代用品がさかんに出回るようになった。
文:図解「日本史」より



A 「銃後の記録」より朗読  
(寺地区6名による聞き取りから)
・禁野の火薬庫が爆発した時は、私たちは小学校の4年生でした。
・爆発した弾薬の一部が飛んで来ました。

・中宮の方から病院の患者さんがたくさん逃げてこられた。途中で、泥田に転んで頭がドロドロに汚れた人もおられた。
・寺も逃げなければアカンということで、おひつや食べる物を持って山に逃げました。
・当時は牛が大事だということで、みんな牛を牛小屋から外に出しておられた。
   
 

B「銃後の記録」より朗読    興和拓殖訓練道場(日輪兵舎)  
               (大阪市立東亜拓殖訓練道場、満蒙家屋)
 
  

日輪舎10棟、炊事場・浴室・宿直室等建築セラれ日輪舎は蒙古家屋の建物であります。
此の興亜拓殖訓練道場は大陸行移住の訓練、青壮年男女の精神及勤労訓練が行はれて居ました。道場長は陸軍少将、土田閣下であります。       
                  (昭和16年8月10日発行の交野便りより)

=編集後記=
 「銃後の記録」=私の戦争時代の想いで=(交野市文化財事業団:平成15年3月発行)にそって本日、『交野の戦跡を語る』シンポジュームを行います。
その資料の一部を「瓦版」に掲載しました。シンポを通じて、地域における戦争中の様々なこと、当時の人々の生活模様を心に留めること、後世に伝えること、戦争の悲惨さと平和の尊さを今一度感じることが出来ればと思います。
 本日のシンポのコーディネーターをつとめる私は戦後生まれ、不安はかくせません。文化財事業団・歴史民俗資料展示室の解説ボランティア・パネリストをお引き受けいただいた4名の方々と共に意義ある時間を市民の皆様と過ごしたと思います。残り資料とシンポ模様は明日に続く。  =了=      


2008.8.28 発行(200)

 =天野川(畑山)砂防堰堤=
明治32年(1899)築造されている。
大阪府下では、明治11年(1878)から明治20年(1887)まで、淀川左岸支流の天野川、穂谷川の水源地にて、直轄砂防事業として山腹工が施工されていた。
この砂防事業を大阪府が引き継ぎ山腹工を主体とした工事を行ったようであるが工事記録は明治32年(1899)以降しか存在せず、流域では系統的な砂防事業が展開されていた可能性がある。

 

明治中期、全国に先駆け近代砂防の範となった淀川水系砂防事業の一翼を担った本堰堤の技術レベルは、当時の技術水準をよく示すものであると言える。本堰堤上流右岸側には大正13年(1924)地域の灌漑用水として「加賀田用水」の取水口が設けられた。その際に流路を操作した形跡が見受けられ、天野川の主流部は堰堤上流で一度右岸に衝突し、用水の取水に対して十分な水位を提供したのち、刎ね返った水が堰堤左岸側を主流として流れている。
本堰堤は砂防堰堤として防災機能を果たしかつ灌漑用水の取水にも寄与しており、地域に根ざした近代化遺産として貴重な構造物と言える。
=編集後記=
 平成15年1月30日国登録有形文化財指定を受けたもの。   =了=



2008.8.27 発行(199)

=平和の誓い新た=
63回目の終戦記念日を迎えた15日、政府主催の「全国戦没者追悼式」が、天皇、皇后両陛下をお迎えして、東京・千代田区の日本武道館で行なわれました。第二次世界大戦で命を落とした約310万人(軍人・軍属約230万人と一般市民約80万人)の冥福を祈り、平和への誓いを新たにした。
  

首相として初の出席となる福田首相は「多くの国々、とりわけアジアの諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」と述べ「深い反省」と「哀悼の意」を表明した。
参列者の1人、94歳「大切な人奪われ、残された女性はやっとの思いで生きてきた。この悲惨な体験を風化させたくない」あの戦争が終わってから63年。全国戦没者追悼式には、戦没者の父母の姿はなかった。妻も初めて100人を割り、「生きていてほしかった」と、涙を流す顔には深いシワが刻まれていた。一方、参列者が3147人に上った子の中には、空襲で行方不明になったままの母を思い続けてきた娘の姿もあった。

わがまち交野でも多くの戦争犠牲者の冥福と世界の平和を願い「第10回平和祈念の集い」が8月15日、いきいきランド平和モニュメント周辺で開催されました。
また、ロビーでは写真パネル展示、市民公募による写真展も同時開催されました。
そして、市内寺院では原爆投下された時刻に「平和の鐘」がつかれた。
(8/6(広島)午前8時15分  8/9(長崎)午前11時2分)

 
        
=編集後記=
空襲や疎開などの体験や思いを聞き語り、戦争の悲惨さと平和の尊さを感じたい。
                                   =了=



2008.8.26 発行(198)

 =2008北京五輪閉幕=

  

  
【社説】
次世代にバトンをどうつなぐ
 4年後までに、どのように世代交代を進めるか。日本のスポーツ界に大きな宿題が残った。北京五輪が幕を閉じた。感動を与えてくれた各国選手の健闘をたたえたい。
多くの記録が生まれたが、中でも陸上男子百bと二百bで驚異的な世界新記録を樹立したウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)、競泳で8冠を達成したマイケル・フェルプス選手(米国)は、五輪史に大きな足跡を残した。
陸上の短距離では、ボルト選手に代表されるジャマイカ勢の活躍がめざましかった。
女子百bでは表彰台を独占した。国内の練習施設が整備された結果、優れた身体能力を持つ選手たちが、その才能を開花させたといえるだろう。
国別の金メダル数では、51個の中国が、米国を引き離してトップとなった。
日本の金メダルは9個、メダル総数は25個で、目標に届かなかった。
しかし、金メダル16個と突出して好成績だった前回のアテネ大会を除けば、近年の五輪では悪くない成績といえる。
ソフトボールや柔道、レスリング、サッカーなどで、女子選手の健闘が光った。
9個の金メダルのうち、アテネ大会に続く連覇が7個を占めた。この4年間、世界のトップレベルの力を維持してきた選手たちの努力は見事である。だが一方で、ベテランを追い越す若手が台頭してこなかったともいえる。
各競技とも、次世代の選手の強化が急務である。
陸上男子四百bリレー銅メダルに拍手を送った人も多いことだろう。流れるようなバトンパスが、トラック種目で80年ぶりのメダルをもたらした。若い選手たちの大きな励みとなるに違いない。
女子マラソンの野口みずき選手に続き、男子でも大崎悟史選手が出場を回避した。直前のコンディションの管理のあり方に問題はなかったのか、検証が必要だ。
期待された野球は4位に終わった。韓国、キューバ、米国に一度も勝てなかった現実を直視し、来年3月の第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に向け対策を練らねばならない。
肥大化した五輪は、国際オリンピック委員会(1OC)のロゲ会長からスリム化の道を歩むと言われている。東京は2016年の五輪開催に名乗りを上げている。
将来の範となる五輪像を東京が提示できるか。それが招致実現のカギを握る。
=編集後記=
 今大会には、史上最多となる204の国・地域から約1万6000人の選手・役員が参加、28競技302種目で繰り広げられ、24日、17日間にわたる祭典が閉幕した。
          よみうり新聞 2008.8.25日(朝刊)より          =了=



2008.8.25 発行(197)

 =仏像の姿(その4)=
十一面観音
あらゆる方向に顔を向け、衆生の苦しみを救う観音
 

 数ある仏像の中で多くの人に親しまれているのが、インド生まれの十一面観音像。
なぜこんなにも顔が多いのか。それは衆生の悩みを聞くために、全方位に目を光らせているからだ。左手に水瓶をもち、右手は施無畏印(せむいいん)にするのが基本的な姿。
 水瓶に蓮華を挿し、右手に数珠を掛ける姿もある。何んといっても一番目に付くのは、頭上の11面。これも変則があり、頭上の10面と仏像本体の顔を合わせて11面とする姿もある。高笑いした暴悪大笑相(ぼうあくだいしょうそう)は裏面にあるので、通常見られない場合が多い。本来仏像に性はないのだが、十一面観音は女性的な雰囲気をたたえた像が多い。中にはあどけない少女のような顔もあり、親しみを覚える人が多いだろう。
 日本の11面はほとんどが円形に配置されているが、インドや中国には11面を上下に積む例がかなりある。顔が3段4段と重なり、ちょっと異様な姿である。それがなぜ日本に定着しなかったのかは、わかっていない。



   =編集後記=
    写真は法華寺の本尊:十一面観音像。
   天竺渡来の名工問答師が光明皇后の姿を写したという伝説を持つ、まことに官能的な美しさをそなえた像で平安初期九世紀前半の作、鋭い刀で、整った翻波式衣文(ほんぱしきえもん)を表している。    =了=

 

2008.8.23 発行(196)

 =仏像の姿(その3)=
観音菩薩
悟りを求め修行しながら、衆生の救済に専念する。
 菩薩の中で最も知られているのは観音菩薩だろう。
観音菩薩は耳が優れている。人々が苦しみから逃れようとして発する「南無観世音菩薩」の声を直ちに聞き取り、苦を取り除きに来るという。
観音菩薩の教えは「法華経」の「普門品(ふもんぼん)」にある。それによれば、観音菩薩は人々の現実的な問題に応じ、その姿を自在に変えて対応する。
観音菩薩が変化して六観音が誕生し、本来の観音を聖(しよう)観音と呼んだ。ではなぜ六観音なのか。

 

人間は悟りを開かない限り地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を輪廻(りんね)する宿命にある。六観音は、人間がこの六道のどこにいても救済してくれるのだ。
六道と観音の関係は、地獄=千手、餓鬼=聖、畜生=馬頭、修羅=十一面、人=不空羂索(ふくうけんじゃく)、または准胝(じゆんてい)、天=如意輪。
しかし「普門品」は、6変化では足らず、観音が33にまで変身すると教えて人々を安心させた。33観音の変化観音は古代インドの土着の神々を取り込み、さらに中国の神と一体となり、人間にとって力強い心の支えとなった。
=編集後記=
 観音菩薩は釈迦が出家する前の姿を手本にしているため、インドの貴族のように天衣を身にまとい、宝飾品をつけることが多い。         =了=



2008.8.22 号外

=北京オリンピック特集(その7)=




=編集後記=
 ソフトボールは2012年のロンドン五輪では正式種目から除外されることが決まっており、日本は最後の五輪で過去3大会の覇者である米国を破り、有終の美を飾った。                =了=


2008.8.22 発行(195)

 =仏像の姿(その2)=
薬師如来
 仏像はなぜ種類が多いのか。仏教では悟りを開くために厳しい修行をする。
しかしそれは誰にでもできることではない。インドでは紀元前1世紀頃、かたくなに釈迦の戒律を守り個人の悟りを重視する集団と、修業をしながらも多くの人々の救いを目指す集団に分かれた。前者を小さな乗り物にたとえ小乗仏教(現在は上座部仏教という)、後者を大乗仏教と呼んだ。我が国に伝わったのは大乗仏教である。
上座部仏教は、スリランカや東南アジアに受け継がれている。
人の悩みは千差万別である。大乗仏教では、如来は仏陀ひとりだけではないと考えた。
それぞれ得意分野をもった如来がいるはずだ。病気で悩む人は薬師如来が助けてくれる。
死後、あの世で救われたい人には、阿弥陀如来が手を差し伸べてくれる、等々。
薬師如来の外形は、釈迦如来とあまり変わらないが、左手に薬壺をもっていれば、それが見極めの決めてとなる。また、光背に七体の化仏を表したり、七体の薬師像を一組として造立することがあり、これを七仏薬師と呼び、息災・安産などを祈る七仏薬師法の本尊とされた。
薬師如来は修業中、悟りを得て如来になったら実行しようと、12の誓いを立てた。
そのひとつが、女性を男性に生まれ変わらせること、だった。当時、女性は救われないとされていたからだ。

写真は中尊の薬師如来は丈六仏。
立ったときの高さが1.6丈(4.8b)。
坐像はそのほぼ半分の高さ。右手は施無畏印。天平期以降では左手に薬壺をもつのが一般的。足の組み方は結跏趺坐。足裏に仏陀を象徴する輪宝が彫られている。
左脇侍(向かって右)が日光菩薩、右脇侍が月光菩薩が従い眷属として十二神将が加わることが多い。
=編集後記=
 薬師瑠璃光如来、大医王仏ともいい、その浄土は東方瑠璃光世界という。=了=



2008.8.21 発行(194)

 =仏像の姿=
 人間が抱えるさまざまな悩みをどう救うか、それを形で表したのが仏像です。
日本に仏像が伝わったのは6世紀半ば。以来、多種多様な像が造られた。

 
            マトゥラー仏
  インドで生まれた初期の仏像。
頭に渦巻状の肉髻(につけい)をつけ、薄い衣をまとった如来の姿。
1世紀後半頃。

如来
 悟りを開いた釈迦の姿を表現。釈迦如来が最初に造られた。
他に病気を治す薬師如来、西方極楽浄土に住む阿弥陀如来などがある。
大日如来は密教の最高で絶対的な仏。奈良の大仏もその仲間。

 

=編集後記=
 悟りを開いた釈迦を超人化し、最初に造立された仏像が如来。
釈迦如来像では誕生から涅槃(ねはん・死)に至る場面が表現される。
       =了=


2008.8.20 発行(193)

 =二宮尊徳(1787−1856)=
幕末の農村復興運動の指導者。
天明7年(1787)7月23日、相模国足柄上郡栢山村(現:神奈川県小田原市栢山)に利右衛門・よし夫妻の長男として生まれた。
通称金次郎、尊徳(たかのり)と訓むのが正しいが、一般的には「そんとく」と称されている。
尊徳の生家は、祖父銀右衛門の代の分家で、銀右衛門には子供がなかったので、本家の次男利右衛門を養子にした。
銀右衛門は働き者で、その死に際しては田畑二町三段六畝余を利右衛門に譲ったが、利右衛門はからだ弱く、百姓に不似合いな読書を好んだ。
寛政12年(1800)、尊徳14歳のとき利右衛門は病死したが、所有の田畑は七段六畝に減少していた。二年後に母が死んで、尊徳は伯父二宮万兵衛家に、二人の弟は母の生家に預けられた。伯父の家に預けられた尊徳は、万兵衛家での農作業に励むとともに、氾濫による荒地に菜種をうえたり、夜なべ仕事をしたり、読書や算術を学んだりした。

おそらく母の死後にも若干の田畑が残されていてそれは小作に出され、その収入もあわせて、20歳のとき、尊徳は生家を再興した。その後の尊徳は毎年のように田畑を買い求め、それをまた小作に出して、26歳のときには小作米38俵余を得る小地主となった。
尊徳の致富の方法は、人並みはずれた体力に支えられたきびしい労働にもよるが、土地は小作に出し、お金が溜まれば貸金とし、貢租のかからない荒地を耕し、みずからは雇人となって給金を稼ぐなど、領主権力の収奪を巧妙に避けたものであった。

尊徳は、文化9年(1812)、26歳のとき、小田原藩の家老服部十郎兵衛家の若党となり、文化14年、31歳で、堀之内村中島弥之右衛門の娘と結婚、翌々文政2年(1819)に離婚した。
同3年、34歳で飯泉村岡田峯右衛門の娘なみと再婚した。
その間、文政元年には奉公先の服部家の財政立直しを引受、きびしい倹約の励行と藩からの借用金の運用によってこれに成功した。そのほか、服部家に奉公中の尊徳は、小田原藩士のための金融制度にあたる五常講をつくったり、枡の統一を建議したりした。
そして、服部家再興の手腕が認められて、文政四年には小田原藩主の分家旗本宇津家の領地下野国桜町領の調査を命ぜられ、翌年にはその復興を任された。
ついで文政六年には家産を処分して、尊徳一家は桜町領に移住した。桜町領は、下野国芳賀郡横田村・物井村(栃木県芳賀郡二宮町)、東沼村(同真岡・もおか)三村で「報徳記」によれば、元禄期には高四千石、民家四百四十戸、貢租三千百俵であったものが、文政期には「衰廃極(きわま)り」、戸数百四十戸余、貢租八百俵に減少していた。
この数値については、地方(じかた)文書による最近の研究からもほぼ同様の結果が得られており、この三村は北関東の荒廃した村の典型だったことがわかる。
こうした衰廃した村を復興するのが報徳仕法で、桜町領の復興=桜町仕法がそのモデルケースとなった。
桜町仕法の内容は多岐にわたるが、まず尊徳は、対象地を厳密に調査して、石高四千石は実現不可能で二千石の土地として復興するがよいとし、尊徳が仕法を引うける十年間は宇津家の収納は千五俵とすることを定めた。
これは報徳仕法にいう「分度」の設定にあたり、実際上は領主収奪を制限することを意味していた。ついで尊徳は、早朝から夜遅くまで領内を巡回して農民に勤倹の生活を教え、出精者を村民の入札で選んで表彰したりした。
また、〆粕・干鰯(ほしか)などの肥料の導入、種穀の貸付、用排水や農道の整備、荒地の復興、分家と入百姓による戸口増加などを実施した。尊徳の施策は、村民や小田原藩から派遣された役人との対立を生むことも少なくなかったが、天保4年(1833)と7年の饑饉を稗をうえてのりこえ、天保8年には桜町領の仕法を終えた。
桜町仕法の成功は尊徳の名声を高め、北関東各地で尊徳は仕法を依頼されるようになった。
また、勤倹力行によってみずからの運命をきり拓くという尊徳二宮金次郎のイメージは、修身教育を通じて国民教化の重要な手段とされ、全国の小学校の校庭に薪を背負って本を読む少年金次郎像が建立された。
                                            参考:国史大辞典より

=編集後記=
 二宮尊徳翁百八文字の人生訓を頂いて、金次郎像は通っていた小学校の校庭に立ててあったが、どんな人であったのか・・・今一度調べてみた。
その中より「今年の衣食は昨年の産業に在り」・・・・。         =了=


2008.8.19 号外

=北京オリンピック特集(その6)=
 


=編集後記=
 吉田・伊調両選手、アテネ五輪に続く2連覇を達成!おめでとう。  =了=



2008.8.19 発行(192)

=条里制(じょうりせい)=
古代における一町(六十間=約107b)方格の地割で行われた農地開拓とそれに伴う土地制度を含めていう。
広大なものであって、その北限を秋田市郊外とする日本全体にみられ、ことに西日本では平地全体にわたっている。条里とは班田収授に関連し、六町方格に地割した土地の一ノ坪から六ノ坪へ進む方向を、それが次の段に及ぶ方向をと数えたため起こった名称である。起点から順次数字を冠し何条何里と呼ぶ。
また、その六町方格の一区画を里といい一町方格をという。坪は順次一ノ坪から三十六ノ坪で数えるが、この数え方に千鳥式坪並(連続式)と平行式坪波(どの段も同じ方向に並ぶ)とがある。

 

条里制とその分布
・里の一辺は約642b。
・一里を36等分にしたものが一坪で、一辺が約107b。
・千鳥式と平行式の分け方がある。
・坪をさらに10分し、その分け方に長地形と半折形とがある。
=編集後記=
律令国家の領域は、国・郡・郷戸50戸をもって一里とした里(さと・り)の3段階の行政地域に分けられていたとみられる。                =了=



2008.8.18 号外

=北京オリンピック特集(その5)=

 

柔道男子100`超級決勝で金メダルを獲得し雄たけびをあげる石井慧選手
異端児「お家芸」救う・「勝つ柔道」貫いた。最重量級21歳「有終」

=編集後記=
日本柔道メダル 金4 銀1 銅2 獲得      =了=
      


2008.8.18 発行(191)

=土地制度の移り変わり=
 国から分け与えられた土地を耕し、国に税を払う制度が崩れ始め、開墾した土地を私有化した荘園が発達する。
●公地公民の制度が崩れ始める
氏姓制度(しせいせいど)のもとでは土地も人民も豪族が私有していた。
大化の改新以降、律令制度が整うにつれ、公地公民制の原則が徹底されていった。
土地も人民もすべて国家が所有し、豪族は、役人として国から給与を与えられた。
6歳以上の農民は男女とも口分田(くぶんでん)とよばれる田を与えられて耕し、税を払った。しかし、班田収授(はんでんしゅうじゅ)前提となる戸籍作りの遅れや土地の不足から30年もたたないうちに制度はほころびてくる。

   

  
天野川沿岸条里田の周辺には、現在の交野市となるべき郡門・私部・私市・機物(倉治)・畠山(寺)・むくね(森)・乾田(星田)がある。交野郡衛は郡門のくらやまにあり、そこに郡司の建てた長宝寺が白鳳時代からの姿を見せている。
遠くの山々は石清水八幡宮寺領荘園三宅山で、その鎮守は星田新宮山八幡宮。東の山麓には機物の宮があって畠山・機物・畠田の機物村がならび、その村には天平時代からの徳泉寺・開元寺・津田寺が建てられていた。         交野市史「復刻編」より

税の重い負担に耐えかねて逃げる農民が増えて、口分田の荒廃が大きな問題となった。
そこで、722年、口分田を増やすために、長屋王(ながやおう)が百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)を打ち出して大規模な開墾を奨励したが効果は薄く、翌723年三世一身(さんぜいいっしん)の法が出される。
これは新しく開墾した土地は3世代、手直しして使えるようにした土地は本人1代に限り私有を許可するという法律で、期限が区切られていたのが特徴である。
しかし、20年もしないうちに、期限が迫った土地を、どうせ取り上げられるのだからと放棄する例が目立ち始めたため、橘 諸兄(たちばなのもろえ)が743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を定めた。
読んで字のごとく、開墾した土地はすべて私有財産としてよいという法律で、朝廷は自ら公地公民の原則を崩したことになる。
期限がなくなった代わりに、身分による面積制限が加わっている。しかし、開墾を行うだけの資力を持つのは、天皇に任じられた上級官人である大貴族か社寺くらいであり、彼らは私有地である荘園をどんどん増やしていき、やがて税を納めない特権まで手に入れていくのである。
=編集後記=
当市では、天野川条里田1・4・5条通りを今も見ることができる。また、条里区画であろう地名なども残っている。                     =了=


2008.8.15 号外

=北京オリンピック特集(その4)=




 =編集後記=
 北島康介(25)「まあ、記録が出なくて(自らの世界記録に0秒13差)ちょっと悔しいけれど、優勝できたことはうれしく思う。一番高いところに立てたが、自分一人ではここまで来られなかった。お世話になった人に感謝したい」2大会連続で2種目の頂点に
5歳で水泳を始めた康介少年は、20年の時を経て、世界の大将になった。
                よみうり新聞2008.8.14(夕)掲載より
                                  =了=



2008.8.14 号外

=北京オリンピック特集(その3)=

 
=編集後記=
上野選手・・・「柔道人生 最高の区切り」 太田・・・「サムライ 壁を破った」
                              =了= 

2008.8.14 発行(190)

 =今日の一言集より=
 
今日という平凡な日を過ごさなければ
明日という素晴らしい日には進めない。

「積み重ねが大事なんですね。」
ひっかかりのない人の話が眠くなることがあるように、だらだらと書かれた本の先が読みたくならないように、ありきたりに思える1日は、その先への好奇心も薄くなります。
けれど、その先に、真新しい1日が待っているのは間違いのないことなので、そういうことを忘れて、今日という1日を無駄に過ごし、積み重ねてしまえば、次の日も「平凡」にしてしまう可能性があるように思います。   
本当のところ、平凡に思える1日が、平凡なまま終わってしまうのは、生きている私たちの方が気づかなかっただけかも…
気づかないのであれば、素晴らしい1日が来ても、気づかない可能性だってある。
せいぜい気づくのは、イヤなことがあった日とか、事件なことがあった日くらい。
それじゃあ、受け身の人生になってしまう。
もったいないことですね。

=編集後記=
 大江昭太郎さんの歌集より「顧みれば人はいつも、何かに追われるように後ろを振り返りながら生きている。山坂があり、雨に濡れる。」           =了=


2008.8.13 号外

 =北京オリンピック特集(その2)=

 

 
=編集後記=
こだわり柔道貫く、体操男子「銀」主将・冨田「悔いなし」、野口「苦渋の断念」 =了


2008.8.13 発行(189)

 =お盆のマメ知識=

その1:お盆の由来
 お盆の語源は、「盂蘭盆(うらぼん)」に由来すると言われる。「盂蘭盆」とは梵語(古代インドの文章語であるサンスクリット)「ウランバナ」の音写。
「倒懸」と訳され、あの世で逆さ吊りの苦しみにあっている死者を救うために供養をするのが盂蘭盆会、つまりお盆という訳だ。しかし由来には諸説があり、供え物を乗せる「盆(ぼに)」から来たとも言われている。時期もいろいろで、旧暦により7/15に行う地方や月遅れの8月に行う地方、7/1に行う地方など様々。地域ごとに特色ある行事が行われている。

その2:盆棚にお供えを
 盆棚とは精霊盆棚、魂棚、先祖棚などと呼ばれている、盆の期間にしつらえる棚のこと。盆棚には季節の野菜やホオヅキ、ダンゴもちを供える地方が多く、帰ってきている先祖の霊たちに、家でゆっくりと落ち着いて食べて欲しいという気持ちを表している。
ナスやキュウリに4本の足をつけ、牛や馬に見たてて飾るお迎え牛、お迎え馬は、先祖の霊が墓地から帰ってくる際、それに乗ってくると言われている。盆入りのときは牛馬の顔を内側に向け、盆の最後の日には外に向ける地方もあり。

その3:花はなぜ仏さまに背を向けて供える
 仏前に供える基本的なものは花の他に水、焼香、ご飯、灯明など。仏教ではこれを六種供養といって、六波羅蜜を表す。花は忍辱(にんにく)、水は布施(ふせ)、焼香は精進…。仏教では「華は慈悲を生じ瞋(いか)りを消滅する故に忍辱を表す」(「真俗仏事編」)とある。花は仏の大きな慈悲を表す、そのシンボルのようなものだから、花の正面を仏のほうに向けずに、こちら側に向けて供えるという訳。盆の花には山や野の花を用いるが、それは墓地に咲く花から生まれた風習で、先祖の霊を我が家に招きやすくするためだとか。

その4:精霊流しや大文字焼き
 盆のお供えを川や海に流して、先祖の霊や無縁仏を送るのが精霊流しの行事。
関西で多く見られる灯籠流しもこの精霊流しの変化したものだ。お供えを川や海に流すことは、水によって良く育った野菜を、水の神に感謝を込めてお供えする“水の神祭り”がお盆の行事に重なった為だとも言われる。なお、盂蘭盆会は仏教の行事としてインドから中国を経て伝わったが、このように供え物を水に流す風習はインドにも中国にもないとか。また京都を代表とする大文字焼きも、同じく先祖の霊を送る行事。送り火の文字が“大”の字になったのは、弘法大師が邪鬼霊退散のために、如意ヶ嶽で75本の火を大の字にたいて祈?したのがはじまりとされている。

その5:お盆の歴史
 お盆の語源、盂蘭盆は逆さ吊りを意味する梵語「ウランバナ」の音訳であることは前途の通りだが、ここでは「盂蘭盆経」にあるお盆の起源について紹介しよう。釈迦の十大弟子の1人、目蓮は神通力に優れた人だった。
  自分を大切に育ててくれた母親の死後、目蓮は得意の神通力を使って、極楽での母親の様子をうかがってみたところ、なんと極楽ではなく、地獄の餓鬼道で逆さ吊りにされ、苦しんでいる母親の姿を目撃してしまう。思い悩む目蓮に釈迦は言った。「安吾(雨季)の明ける7/15に僧侶たちに百味の飲食(おんじき)を供えて供養しなさい」と。釈迦の教示通りに目蓮が供養を営むと母親が餓鬼道から救われたことから、それ以来、毎年7/15に盂蘭盆会を行うようになった。また、喜んだ目蓮が我を忘れて踊り回ったことから盆踊りが始まったとも言われている。

 
      水連(私市:松宝寺の池)

=編集後記=
 今年はここ数年のうちでも特に「暑い夏」。お盆の時期に親兄弟やご家族、親類で集まる予定をお持ちの方も多いのではないでしょうか。ご先祖様の仏壇に手を合わせ、花を向けるという習慣の意義を見直すよい機会ではないでしょうか。      =了=


2008.8.12 発行 号外

 =北京オリンピック特集=


 
 
 

2008.8.12 発行(188)

 =箸墓古墳と卑弥呼・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)その1=
 古墳には前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳などいろんな形と形式がある。
その中でも前方後円墳は巨大なものが多く、その地の王の墓である可能性が強い。
となると箸墓古墳は、大和地方で四番目、全国で十一番目に大きな規模をもっているから、まず大王クラスの墳墓とみて間違いあるまい。
わが国における古墳時代築造年代は、もっとも早いもので四世紀前半とされているけど、また新たな発掘によって訂正されることがあるかもしれない。

  

ところで、崇神天皇陵古墳といわれている陵墓が、三輪山の麓からまっすぐ奈良県の北部へ向かって山裾に伸びている山の辺の道のかたわらにあって、宮内庁の派遣した人や柵によって守られている。
JR桜井線の柳本駅の東側にある柳本古墳群の一つで、崇神天皇陵、景行天皇陵(310b)と巨大古墳が二つ隣り合っている。
周囲に水濠をめぐらせた堂々たる前方後円墳で、天皇陵であるため宮内庁の役人が日夜番をしていてよく整備され、参拝者姿も見かけられる。
この柳本古墳群の北隣りにある大和古墳群(天理市)を併せると、この山の辺の古道の沿道は、日本でも有数の古墳地帯、それも、もっとも古い年代のものということになる。
ところで、崇神天皇陵古墳は全長240bだが、箸墓古墳は272bもある。
しかも周辺部を削られていて、もうすこし大きかったともいわれている。となると、崇神天皇陵より大きい箸墓の存在をどう解釈すればよいのか。
もっとも崇神天皇陵といわれている古墳が、果たして崇神天皇を葬ったものなのかどうかとなると・・・?崇神陵・景行陵と二つ並んでいるが、この二つが実は入れ替っていて、全長の大なる方こそ本当の崇神天皇陵だという人がいる。
二つの古墳は、どちらも柄鏡式の古いタイプに属していて、四世紀前半に築造されたものと推定されている。
そこで問題になるのは、箸墓の築造年代であるが、これもやはり四世紀前半のもという意見が強い。そうなると、とても247年に死亡した卑弥呼とはいえないことになる。
しかし、ここに一つ発見があって、俄然、箸墓説が脚光を浴びることになった。
それは、箸墓古墳の墳丘の上から特殊器台の埴輪が発見されたためである。この特殊器台の埴輪というのは、古墳の墳丘に立てならべる埴輪の源泉といってよいような土器で、これは古墳がつくられるようになる以前から埋葬地に立てならべられていたので、三世紀の中頃にはもう使われていたかもしれないのだ。
となると、卑弥呼の死亡時期に大分近づいてくる。
=編集後記=
 特殊器台の埴輪が発見によって、箸墓古墳が今まで以上に注目され、その築造年代も
 なり古いものだろうと推定されるようになった。         =了=



2008.8.11 発行(187)

 =北京五輪開幕=
「ひとつの世界 ひとつの夢」をスローガンに掲げた第29回夏季五輪北京大会が8日開幕した。午後8時から、メーン会場の国家体育場で開会式が行われ、24日までの17日間にわたるスポーツの祭典が繰り広げられる。
夏季五輪としては、東京、ソウルに続き、アジアで3都市目の開催で、史上最多となる204の国・地域が参加し、28競技302種目で熱戦が繰り広げられる。


 
 
      
オリンピックは、古代ギリシャのオリンピアで、4年に1度開かれていたスポーツの祭典が始まりと言われています。
4世紀ごろになくなってしまいましたが、19世紀末、フランスのピエルール・ド・クーベルタン男爵が「スポーツを通して互いを理解し、平和な世界を作ろう」と復活を呼びかけ、1896年にギリシャのアテネで第1回大会が開かれました。
日本は1912年のストックホルム大会から参加しています。


          
 がんばれニッポン!            =了=


2008.8.9 発行(186)

 =お盆のルーツと意義=
 ご先祖様に感謝の気持ちをささげる大きな行事に、春秋のお彼岸とお盆があります。
しかしお彼岸のルーツは日本古来の新嘗祭。五穀豊作を願うお祭りが春分、秋分の日という太陽が真西に沈む日に行われていたことから、いつしか西に極楽浄土があるという阿弥陀信仰と結びついて今のかたちになったといわれています。

お盆は仏教行事で、正式には盂蘭盆会といい、梵語で「ウランバナ」が語源です。ウランバナは逆さづりからの苦しみをいい、亡くなった祖先を地獄の苦しみから救う供養の法会です。お釈迦様の十大弟子のひとりに神通力第一の目蓮尊者がいた。
彼は亡き母が気になり、得意の神通力によって死後の世界をのぞき見ます。
すると餓鬼道に落ちて水も飲めず物も食べられない母の姿が浮かびあがるのです。
苦しむ母をなんとか助けようと目蓮尊者はここでも神通力を使って食べ物や飲み物を母へ送ります。ところが母親が口にしようとすると、これらのものは無残にも燃え上がってしまうのです。
お釈迦様に相談すると「お前ひとりの力では無理だ。今、大勢の僧が夏安吾(げあんご)の修行を行っている。7月15日に終わる。この日に僧たちにたくさんご馳走をお供えし、父母の成仏の回向をたのみ、その力にすがればお前の母も救われる」と答えてくださり、言われた通りにしたところ目蓮者尊の母は救われたのです。

7月15日は旧暦なので、現在では8月15日をお盆としているところが多いようです。
精霊棚を作り、野菜や果物を中心にお供えしますが土地によっては特別なものもあります。
13日の迎え団子とともにキュウリを馬に見立てるのは早くお越しいただけるように、16日の送り団子とともにナスを牛に見立てるのはゆっくりお帰りいただくようにとの願いが込められています。
ところが「余り長く滞在されても大変だから、送りは馬」と解釈する土地もあります。

=編集後記=
右の写真は盂蘭盆会万燈供養の風景。 
親やご先祖を大切にする、敬うことは人間にとって最も大切なことだと思います。しかし、現代ではこんな根本的なことが忘れられようとしています。命見つめるよい機会に。  =了=



2008.8.8 発行(185)

=倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)その6=
 箸墓の箸は、墳墓を築いたり陶器を焼いたりしていた土師氏の土師が箸となったもので、元は土師墓だという考古学者の発言も飛び出してきた。
これでは倭迹迹日百襲姫という、神なのか人間なのかもよく分からない伝説の巫女王も正体が怪しくなってきて、土師氏という職能団体の首長の墓という、きわめて現実的な話になってしまうので倭迹迹日百襲姫こそ邪馬台国の女王卑弥呼であるという勇ましい論を紹介します。
日本書記は神功皇后こそ卑弥呼なりとしていて、神功皇后の条に、魏志にあらわれている外交関係の記事を挿入している。しかしそうではなく、倭迹迹日百襲姫こそよりふさわしいというので、卑弥呼、すなわち倭迹迹日百襲姫命という論文を発表した、熱烈な支持者が現われた。それが考古学者の笠井新也で、大正十三年に倭迹迹日百襲姫説を公表している。彼は、卑弥呼の時代を西歴258年頃とするなら、それはちょうど崇神天皇の時代にあたっていると前提して、卑弥呼とよく似た所伝をもつ倭迹迹日百襲姫こそ巫女王卑弥呼であると断定する。
卑弥呼は、姫命を写したもので、鬼道に事え、年すでに長大なるも夫婿(ふせい)なしという倭人伝の卑弥呼像が、崇神帝の祖父の妹である倭迹迹日百襲姫に、そっくりそのまま適合するといっている。
また男弟が卑弥呼を扶けて国を治めていたというその男弟こそ、崇神天皇その人であるというのである。笠井説によると、その一致点は次のとおりです。
@ 卑弥呼と姫命の類似
A 鬼道に事えた卑弥呼と神に仕えていた倭姫とはどちらも巫女王であったこと。
B 年長大にして夫婿なしという一致点のあること。





男弟あり、治国を助けるという卑弥呼と政治的天皇を姫が助けている点、祭政一致という意味で、卑弥呼の場合と立場が逆転しているが、外国人の眼に映った姫の姿が、男弟の助けを借りて政治を行っているようにみえたはずである。
しかし卑弥呼と姫命の相似は、他の皇女にも共通するので、それだけでは倭迹迹日百襲姫
を特定したことにはならない。
次に鬼道に仕えた卑弥呼と大物主神の妻となり、巫女的予言をしている倭迹迹日百襲姫とは、たしかに一致する性格をもっている。
次に年長大という点は、倭迹迹日百襲姫も崇神天皇の祖父の妹であるから一致しているが、夫婿なしという点で、倭迹迹日百襲姫は大物主神の妻となったと日本書記に記されているので、相手が神で、全体がたとえ神話的であるとはいえ、日本書記を根拠とする以上、倭迹迹日百襲姫に夫婿なしとはいえないことになる。
さらに、邪馬台国の女王というものの、卑弥呼は実際に政治を行っていた訳でなく、一室にこもったきりで人前に出たことがなく、そのお告げはみな男弟に伝えられ、この男弟が実際政治を行っていたのだから、結論すると、やはり巫女である。
その点、崇神天皇が実際の政治を執行して、倭迹迹日百襲姫が神話や予言を伝えていたことから察すると、卑弥呼と倭迹迹日百襲姫はよく似た事をしていたことになる。
しかし、だからといって卑弥呼と倭迹迹日百襲姫が同一人物とはきめ難い。
何故なら卑弥呼は中国の史書によって実在を認められているが、倭迹迹日百襲姫は実在がはっきり認められておらず、また邪馬台国の所在が大和であると確証つけられていないからからである。笠井新也は、昭和17年7月の「考古学雑誌」に「卑弥呼の冢墓と箸墓」という一文を寄せている。
それによると「卑弥呼と倭迹迹日百襲姫が同一人であるとの推定を一層強化せしめるものは、その墳墓に関する両者記事の合致である」としている。
魏志倭人の条によると、卑弥呼が死んだ後、
作大冢(おおいなるちょうをつくる)
経百余歩(けいひゃくよほ)
徇葬者奴婢百余人(そうにじゅんずるものぬひ   ひゃくよにん)
と記されていて、直径百余歩もある大きな塚をつくって葬ったばかりか、その時、奴隷や女中百余人が殉葬されたことを伝えている。
一方、倭迹迹日百襲姫の方も、昼は人がつくり夜は神がつくったという一大墳墓が営まれている。
=編集後記=
 魏志にいう一歩が現在の何メートルに当たるのかという点については、いろいろ議論が分かれるけれど、卑弥呼の大塚と倭迹迹日百襲姫の大墳墓が、どちらも大塚であったという点は一致するが・・・しかし、何といっても問題は、箸墓古墳であるこれが卑弥呼の墓となるためには、まず、何よりもその築造年代の推定が必要となってくる。         =了=



2008.8.7 発行(184)

 =倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)その5=
 山城国風土記逸文に残されていて、こちらは鴨族の族長の姫玉依比売(魂のよりつく姫、巫女)が、川で遊んでいると、川上から丹塗りの矢が流れてきたので持って帰って部屋に置いておくと、美青年になったという。
そこで夜を共に過ごしているうちに子供が生まれ、その男の子が祖父から、汝の父は誰ぞと問われた時、わが父は天にありといって昇天していったと伝えられている。
これが別雷神(わけいかづちのかみ)、つまり上賀茂神社の祭神で、母と祖父が下賀茂神社の主神として祀られている。
一方、丹塗の矢は京都の乙訓郡の雷神であったといわれて、赤い矢は、雷のシンボルである。矢といい蛇といい、どちらも女陰に会いたがるところからみると、どうも男性のシンボルのように思える。
それしてもこの三輪山の大物主神は、美しい少女とみると、すぐに行きたくなる神らしく、蛇になったり矢に化けたりとまことに忙しい。
このような伝説のタイプを、三輪・賀茂伝説ともいっている。
対立する二国があって、一方が征服されたなら、征服者は負けた方の族長の娘を妃の一人として迎えて婚姻するのが普通だった。そうすることによって二つの種族が一つに溶け合い、やがて祭りごとを一つにするようになる。

    
     原文 京都大学附属図書館所蔵 平松文庫    
      『釈日本紀』 頭八咫烏・続きの頁より   

二つの種族の争いは、それぞれの種族を守る神と神との戦いでもあって、負けた神は消滅する。それは神力が弱くて、その種族を守り切れなかったから消え去るのだといってもよい。ところが三輪山伝説のうち、倭迹迹日百襲姫の場合で考えると、征服者崇神天皇の巫女であった倭迹迹日百襲姫が、被征服者の国魂をおのが寝所へ迎えている。
これはどうも特殊なケースで、倭大国魂というのはよほど強烈な神力をもっていたらしい。
そこで霊力を鎮めるため、あるいはその神霊力の根源をたしかめようとして、巫女王である倭迹迹日百襲姫が、大物主神をおのが寝所に迎え入れたのかもしれない。
神はいつも笠の内側や岩戸の暗がりや雲居に姿を陰して人目にはみえないものである。ところが倭迹迹日百襲姫はその真の姿を見せてほしいと願い、神もその求めを、無理もないといって受け容れた。これはよほど二人の間で愛情が昂っていたものと思われる。
大物主神は、この愛の深さ激しさゆえに自分の姿を見たいと欲するのだと思って、蛇身の正体をあらわした。
すると倭迹迹日百襲姫は、不謹慎にも驚きの声を上げた。そのため大物主は彼女の心に邪悪な企みがあったことを見抜いたものらしい。
もし本当に愛情一途であったなら、たとえ相手が蛇でも、決して驚きはしなかったろう。
そこで大物主神は、よくも恥をかかせたなといって、三輪山へ帰っていってしまった。
姫は、おのれの不純さに気づいたのだろう、激しく噴き上げてくる後悔の念におろおろしながらその場に坐ったところ、箸に女陰を突き破られて、死んでしまった。
この箸で女陰を突いて死んだということは、なんとも異様で、とてもふつうの箸とは思えない。そこで梯であるとか橋であるとかという説もあるが、やはりこれは箸であろう。
ただし神事に使う斎串(いみぐし)ということも考えられる。ところで鋭く尖ったもので女陰を刺すという例が、日本書記と古事記のどちらにも出ている。
それは天照大神とその弟神須佐之男命のくだりで、高天原(神の国)の忌服屋(いみはたや)に坐って天照大神が神の衣を織っていると、須佐之男がいきなり屋根をこわして、生きている馬の皮を逆剥ぎしたものを投げ込んだため、古事記では服織女(はたおりめ)がびっくりして、織機の緯糸(よこいと)を通すのに使う舟型をした梭(ひ)で女陰を衝いて死んだといっている。
一方、日本書記は、天照大神自身が、梭をもって身を傷ましめたといって、そのため天の岩戸に隠れてしまうのだから、身隠ったと、死亡したことを想像させる記述をしている。
このように大御神その人ですら、梭で女陰を衝いて死んでいるのである。
別冊「歴史と旅」(昭和53年10月発行) 箸墓の幻想 邦光史郎著より

=編集後記=
 箸墓の墓は、墳墓を築いたり陶器を焼いたりしていた土師氏の土師が箸となったもので、元は土師墓だという考古学者の発言も飛び出しているが。     =了=



2008.8.6 発行(183)

 =倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)その4=
 この説話について、もう少し考えてみたい。
その一つは人と蛇との結婚である。大物主神とは、鬼神(もの)のことであり、この場合は蛇体をもっていた。
こうした蛇婚神話によって異様な力をもつ子供が生まれ、その子が成人して王となり長となって行く。つまり神の力を与えられた人の王ということで、只の人ではないという超能力を象徴している。
たとえば九州大分地方の緒方氏(元は大神氏)がそうで、源平時代に勢力をもっていたこの緒方氏の始祖は、蛇婚神話によって生まれたもので、からだに鱗の痕があったとも伝えられている。豊後の国のある人の娘の許へ、夜な夜な通ってくる男がいるので、そっとその者の狩衣に糸をつけておくと、翌朝、男はいずこへともなく帰っていった。
そこで例の糸を頼りにつけて行くと、なんと岩屋の中につづいていたではないか。そして世にも恐ろしい大蛇が姿を現した。「汝、わが姿をみた上は早く帰れ。汝が孕(はら)める男子は、九州一の豪の者となり緒方の家の始祖となった。
こうした伝承は各地に残されている。その原型がこの三輪山の蛇婚神話である。
ところが、古事記はもう一つの伝承神話を伝えている。それは九州から神武天皇が大和へ遠征してきた頃のことで、天皇の部下である大久米命が、征服者となって王位についた天皇の后を探そうというので、近隣を物色してようやくこれはという処女をみつけ出した。
その処女は、よく調べると神の子であった。なぜ神の子かというと、それは一つの物語があった。彼女の母は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)といって、これまた、なかなかの美人だったが、ある時、川屋(厠、川にかけ出しをつけた便所)に入っていると、上流から丹塗りの矢が流れてきて女陰を突いた。


むろん只の矢がそんな悪戯をしそうなはずもなく、この赤い矢こそ三輪の大物主神の化身で、かの神は、川屋に入った彼女のあで姿に感心して、矢に化けると女陰を突いたものだった。彼女はびっくりして立ち上がると、その矢を持って帰って部屋に置いておいた。
すると美々しい青年となって、こんどは人間として彼女に婚いを求めてきた。
こうして一緒に夜を明かすようになって間もなく彼女が懐妊して生まれた子こそ、大久米命のみつけ出してきた美少女だった。
その名を富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)といったが、これはあまりにも露骨な名前で、そのまま解釈していくと、女陰がフイゴのようになった伊須須岐比売というので、やはり憚(はば)かったのだろう、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)に改名して、神武天皇の多くの妃の一人となった。
別冊「歴史と旅」(昭和53年10月発行) 箸墓の幻想 邦光史郎著より


=編集後記=
 これも神婚談の一つであるが、これとそっくり同じ伝承が、が山城国風土記逸文に残されている。次号に続く。                        =了=



2008.8.5 発行(182)

 =倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)その3=
『日本書紀』には、その後の倭迹迹日百襲姫に関して次のような伝説が残る。
倭迹迹日百襲姫は大物主の妻となったが、ところがこの神いつも昼間は姿を現したことがなく、夜になるとやってくる。そこで姫は夫に向かって、しみじみと訴えた。
「あなたはいつも夜いらしゃるので、昼の光でお顔をとくと拝見したことがございません。どうか一度で結構ですから、朝までいらっしゃって、私に、そのうるわしいお姿をみせてくださいませんか・・・・・」すると大物主神は、よしよしとうなずいた。
「無理もない。たしかにそのとおりだ。では、お前の櫛を入れておく櫛笥の箱に入っていることにしよう。ただし私の姿を見て驚いてはいけないよ」
「いいえ、びっくりなどするものですか。大切な方ですもの・・・・・」しかし姫は内心怪しんだ。あんな小さな櫛箱に入っているなんて、この人はきっとからかっているのだわ。そう思ったけれど、念のため翌朝、櫛箱をあらためてみることにした。
こんな小さな箱の中にどうしてあの人が入れるものですか、そう思いつつ蓋をとるなり、姫はアッ!と叫んだ。
なんと箱の中には、きれいな色をした蛇が入っていたではないか。その長さといい太さといい、ちょうど下着につける紐そっくりだが、あまりのことに姫は叫び声を上げてしまった。すると、蛇は恥じて、たちまち人の形をあらわした。
いつもの美青年の姿となった大物主神はその妻百襲姫にいった。
「汝は、忍耐心もなく叫んで、私に恥をかかせた。その報いを覚悟しておれよ」神がいったんそう口にした以上、前言を覆すことはできないものである。大物主神は、雲を踏んで大空へ帰ってしまった。

    

なんということをしてしまったのだろう。姫はがっかりしてその場に坐り込もうとした。
すると箸が女陰(ホト)に突き刺さって、とうとう彼女は死んでしまった。
そこで亡骸を大市(桜井市の北)の地に葬った。時の人は、この墓を箸墓と呼ぶようになった。この墓を築く時、昼は人が作り、夜は神が手伝った。二上山の北にある大坂山の石を運んできて葺いた。そのため、山から墓までずらりと人が並んで、手渡しにして石を運んだと伝えられている。

大坂に 継ぎ登れる 石群(いしむら)を
手逓伝(たごし)に越さば   越しかてむかも

大坂山を上から下まで埋めた石を手渡しで果たして運び切れるだろうかというこの歌は、当時の民衆の、なんでも人力でやってのけた自信の程と労働の辛さを物語っている。
  別冊「歴史と旅」(昭和53年10月発行) 箸墓の幻想 邦光史郎著より
=編集後記=
 この説話について、次号でも紹介したい。               =了=



2008.8.4 発行(181)

 =倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)その2=
崇神天皇の七年、疫病が蔓延し国内には死人や流民があふれていた。
この時、神懸かりとなって占いをした人物が孝霊天皇の娘で、崇神天皇の姉にあたる倭迹迹日百襲姫命である。
この神懸かりについてであるが、これとよく似た伝説を残しているのが、日本史上最大謎ともいわれる邪馬台国の卑弥呼である。
大和朝廷を主体として歴史が語られる「日本書紀」では、邪馬台国や女王・卑弥呼につては明確には記されていないものの、その記述は中国の史書に求められる。
まず、当時の日本の様子を「漢書(かんじょ)地理志は、紀元前後の日本は、小国が分立していたと語る。
そして邪馬台国についての記述が現れるのが、『三国志』の「魏志」東夷伝倭人条、通称『魏志倭人伝』である。
この史書は、邪馬台国の卑弥呼は、鬼道を用いて国を治め栄えたと語る。卑弥呼のいる宮は厳重に守られ、出入りが認められていた男子は一人だけという。
この倭の女王は、景初二年(238)に中国皇帝に貢物と親書を携えた使者を遣わす。
これに魏王も返書と金印などを返した。
後に、隣国との戦乱の仲介要請があったが、その間に卑弥呼が亡くなり大きな墳墓が造られた。卑弥呼の後は男の王が立ったが、すぐに再び女王が立てられたという。
卑弥呼は、巫女的な存在として神を祀り、弟がそれを補佐する。
 
   

『日本書紀』中に登場する人物で、この特徴と年代に当てはまるのが倭迹迹日百襲姫命である。三輪の大物主に巫女として仕えており、崇神天皇が弟にあたるのだ。

=編集後記=
 次号につづく     =了=



2008.8.2 発行(180)

 =今日の一言集より=
目標が大きければ大きいほど
           小さく分解して行動する


 目標を持つことによって、人は充実した日々を確実に生きていくことができる。
だから、まず、しっかりとした目標を立てることだ。
目標は、日記をつけるとか家計簿をつけることでもいい。
ウォーキングや水泳やマラソンに挑戦することでもいいだろう。
資格試験に合格することを目的としてもいい。
ボランティアやカルチャー教室……
というように、それぞれのおかれた立場や状況によって、目標を設定すればいい。
そうすれば、ただ漫然と生きていくよりも活力がわいてくる。
目標を設定することは、人生の夢を実現するための手段なのだと考えると、具体的にどんな目標を立てたらいいのかがわかる。
ただし、その目標が大きかったり、遠いところに設定されればされるほど、いっぺんにそこに到達することは困難になる。
そんなときには、短期の目標、中期の目標、長期の目標というように、目標を分解して、着実に前進していこう。

=編集後記=
 新しい月、8月に入りました。暑さ対策を忘れず、明るく・楽しく・元気よく過ごしましょう。                     =了=



2008.8.1 発行(179)

 =倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)=
 神との結婚に破れた「伝説の巫女」卑弥呼と同一説は成立するのか?
「古墳時代」は、いつ始まったのか。最近の考古学者の間では、その時期は従来の説の
「四世紀初め」から大きくさかのぼり、「三世紀なかば」とされつつある。
A君=ちょうど、その頃は邪馬台国の女王・卑弥呼が没した頃ですね。
Q君=そこで、注目を浴びているのは。
A君=奈良県桜井市にある箸墓古墳である。
Q君=奈良盆地ですね。
A君=ええ、全長275b。奈良盆地では最古級にして最大級の前方後円墳です。
Q君=そこを卑弥呼の眠る墓ではないか、ということですか。
A君=現在、宮内庁により、この箸墓古墳の被葬者とされているのが「倭迹迹日百襲
   姫命」である。

  
             箸墓古墳(昭和52年頃)
Q君=いつごろ陵墓にしていされたのですか。
A君=明治になってから、宮内庁が神聖なる天皇の陵墓を早く定めて、宮内庁の所轄とし
   て警備する必要があると言いだしたためで、学界の承認を得た、考古学的決定しは
   いえなかった。 
Q君=陵墓であって、天皇陵ではないですね。
A君=近畿地方にある巨大古墳のほとんどは、天皇陵、あるいは皇后陵などに、指定され
   ているので、本来なら箸墓もなんとか天皇陵にされるところだった。 
Q君=なぜされなかったのか。
A君=あまりにも神話的エピソードによってこの墓の歴史が飾られているからで、箸墓の
   由来を読むと、これを天皇や皇后の陵には定めにくくなってくる。だから、奈良県下で4番目に大きいこの古墳が天皇陵に指定されるに済んだのである。
   しかし、天皇家の祖先の墓のひとつに違いないので、陵墓にはなっている。
Q君=この墓の被葬者について
A君=日本書記第5巻、崇神天皇(第10代)紀に、この箸墓の被葬者は倭迹迹日百襲姫命であると記されている。
右の写真は倭迹迹日百襲姫命を主神とする唯一の神社、香川県の水主神社に鎮座する百襲姫の木像。平安時代の作で、高さ約40p。
Q君=姫の実績は、古事記には出てこないが。
A君=日本書記によると孝霊天皇の皇女という      
ことになっている。
Q君=倭は大和と同じ意味だが、迹迹日というのは学者によって意見が分かれるが。
A君=鳥飛(とと)び、つまり魂の飛昇するさまを鳥にたとえたものというのが有力で、百襲は百十(ももそ)だろうという。しかし襲は衣かも知れず、百の衣裳と解した方が女神にふさわしいかもしれない。


=編集後記=
 「箸墓」の名も、この百襲姫の伝説から生まれている。次号で紹介したい。  =了=


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