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よもやま瓦版 (2004年) |
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平田語録100号 今日の一言 |
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瓦版 2008年 12月号 バックナンバー | ||
280 | 12/31 | =瓦版:よもやま便り最終号= |
279 | 12/30 | =私が選んだ「ふるさと交野ベストV」= |
278 | 12/29 | =墨江から住吉に= |
277 | 12/26 | =重閣とは(薬師寺の両塔)= |
276 | 12/24 | =日本は、30万基?の古墳列島= |
275 | 12/22 | =三界万霊= |
274 | 12/20 | =瓦版:よもやま便り・・・発行から1年= |
273 | 12/19 | =副葬品= |
272 | 12/16 | =唐古・鍵遺跡= |
271 | 12/15 | =武甕槌神(たけみかづちのかみ)が従える 「天鳥船神(あめのとりふねのかみ)」とは?= |
270 | 12/12 | =「石」という単位がある= |
269 | 12/10 | =地名:傍 示(ほうじ)= |
268 | 12/9 | =地名: 磐 船(いわふね)= |
267 | 12/6 | =大坂夏の陣= |
266 | 12/3 | =大坂冬の陣= |
265 | 12/2 | =謎の人物・ニギハヤヒノ命に隠された秘密とは?= |
264 | 12/1 | =桜田門外の変・・・井伊掃部(いい鴨)と首を締め= |
2008.12.31 発行(280) =瓦版:よもやま便り最終号= =編集後記= 昨年12月20日創刊号からNo280号まで続けてまいりましたが本日をもって一応終了させていただきます。1年間、愛読して頂きました皆様、ありがとうごうざいました。又、村田氏のご協力があったこそ続けることが出来ました。この場をかりてお礼申し上げます。 それでは良いお年をお迎え下さい。=瓦版:よもやま便り最終号= 2008.12.30 発行(279) =私が選んだ「ふるさと交野ベストV」= =編集後記= もう一度、私が選んだ「ふるさと交野ベストV」を掲載いたしました。 山が出来、山と山の間の谷に水が流れ、川となる。川筋に沿って道が出来、道に人の往来がある。 人の歩いた跡に文化が残る。交野って、素晴らしい文化の宝庫、これからも歩み続けよう。 =了= 2008.12.29 発行(278) =墨江から住吉に= 大阪の住吉大社は、商売繁昌の神として多くの人に信仰されているが全国的にみれば住吉信仰は大して盛んではない。 しかし、古代には住吉の神は航海安全の神として朝廷から重んじられていた。 おかげでそれらにちなむ「住吉」の地名が各地にみられる。「住吉」という社名は、古代の難波の港の周辺をさす地名「墨江(すみのえ)」にもとづくものだ。 「墨江」は「墨の江」で、海から奥まったところにある大きな川の入口をさす地名だ。大阪湾からアシの茂る湿地帯を通って淀川の河口に近づいたあたりに、昔の難波の港があった。「墨江」「墨之江」「住江」「住之江」といった地名があちこちにあるが、それらの大部分は河口にもうけられた港をあらわすものである。佐賀県に住ノ江という港町がある。そこは、六角川が有明海に注ぐところに位置している。大阪には住之江区と住吉区がある。住吉大社は住吉区にあるが、住吉区の西どなりにあたる住之江区も古代に「墨江」とよばれた範囲にある。住吉の神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が筑紫の海で身を清めたときに生まれたとつたえられる。 そのとき、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神があらわれた。かれらは、海の神であった。伝説によると、神功皇后の三韓遠征のとき、住吉の神が皇后をたすけて軍勢を無事に朝鮮半島に渡らせたことになっている。 遠征の帰りに、皇后は住吉の神の荒魂(あらたま)を長門でまつらせた。 それが、いまの下関市の住吉神社である。さらに、一行が大阪湾にさしかかると「わが和魂(にぎみたま)を墨江にまつれ」という神託があった。 そのために住吉大社ができたという。これは後世つくられた伝説にすぎないが、6世紀以降の朝廷が住吉大社を航海安全の神として重んじていたことは間違いない。奈良時代の遣唐使の発遣のとき、必ず住吉大社に奉幣祈願がなされていた。住吉大社の神官は、「津」つまり難波の港をまもることを意味する津守(つもり)の姓を与えられていた。朝廷は、その外港である難波の土地の神として住吉大社をあつく祀った。 神戸市に住吉の地名がある。そこは、住吉川の川口にあたり、そこに本住吉神社(もとすみよし)がある。神功皇后が帰国したとき、大阪の住吉大社ができるより前にそこではじめて住吉の神を祀ったと伝えられている。 福岡市にも住吉の地名がある。そこは、住吉神社の門前町だ。熊本県宇土市や宮崎市にも住吉があり、そこに住吉神社がみられる。 =編集後記= 古代磐船神社舟形をした石神、すなわちニギハヤヒノミコトが渡海に使った船の象徴という意味は、平安時代では当時やはり遣唐使の渡海の困難から、海上の安全を祈る神、当時流行の住吉神と同じではないかとなって、本来の祭神ニギハヤヒノミコトがこの神におきかえられてしまった。 住吉社は四神であるが、そのはじめの三神底筒男命・中筒男命・表筒男命は、 かってイザナギノミコトが黄泉国へいって、汚れた身体を海で洗ったとき、その海の底、なかほど、および表面で洗ったときのそれぞれ海中で生まれた神々であり、四神中で最後の息長帯姫命(おきながたらしひめ)はすなわち神功皇后であって、見事に海を渡って三韓を討って帰った安全渡海の経験者、以上いずれも海に関する神々である。 =了= 2008.12.26 発行(277) =重閣とは(薬師寺の両塔)= 屋根が二つで一重。裳階(もこし)の屋根があり本当の屋根があって一重です。 薬師寺の塔について、「この塔は六階に見えますが三階です。 誤解(五階)のないように」と高田住職のお話。 薬師寺では二重重閣が金堂で、三重重閣が塔なのです。 薬師寺の建ったのが白鳳時代、七世紀の後半で、その前の時代は飛鳥時代です。この代に法隆寺が建ちましたが、二寺を比べますと、法隆寺は、北魏六朝の中国の影響を強く受けている伽藍です。 薬師寺になると、玄奘三蔵が古い中国の仏教では身動きがとれぬ、正しい仏教をもって人々を導かなければとはるばるインドへの旅をされ、その旅行記である「大唐西域記」の影響を受けてできてくるのが、白鳳(薬師寺が建立された時代)、天平の文化なのです。 =編集後記= 市内にも大寺の跡が残っています。 郡津に白鳳時代の長宝寺跡、神宮寺には天平時代の開元寺跡が残っています。 出土瓦や礎石などから当時のものと推定されていますが、今後の調査により 遺構確認が出来れば・・・。 =了= 2008.12.24 発行(276) =日本は、30万基?の古墳列島= わが国で確認された古墳は、今のところざっと30万基とされる。 正確に数え直せばもっと多いかもしれない。しかも、住宅用地の確保や高速道路を建設するため、開発の波が丘陵部、山間部へと押し寄せていくにつれて、新発見も日々、どんどん増えている。 また、闇から闇へ葬られているものも加えれば、図り知れない。日本列島のいたる所に古墳があるといっても過言ではない。 土を高く盛り上げ、石積みで築く古墳は、中国や朝鮮半島など、世界各地にある。しかし、それはきわめて少ない。古墳は、死者の存在を明示すると同時に武器、貴金属類の副葬品のありかも伝えている。 森墳群第1号古墳、前方後円墳、全長106b 盗掘を防ぐには、エジプトや中国の大半の墓がそうであるように、後世、それが墓とわからないように、むしろ地下室式につくって、あばかれるのを防ぐのが普通だ。 わが国でも古墳時代を過ぎると、天皇やよほどの有力者でもこんなに盛り土した荘大な墓はつくらなくなった。原因は、仏教による薄葬思想のためという。もしも古墳時代のように高塚の築造が続けられていたら、日本列島は古墳で埋もれる状態だったに違いない。要するに、古墳時代の日本人は、国際的にみても異常なほど高塚墓が好きだったとしか考えられない。 考古学者は「日本の特殊性」というが、その中身は答えられない。それほど不思議な時代だった。 年代で異なる古墳の特徴 3世紀中ごろ〜4世紀ごろの古墳は円墳、方墳、前方後方墳、前方後円墳などで、丘陵や台地を利用して近畿、瀬戸内海沿岸を中心に分布した。 副葬品として銅鏡や玉が出土することから、埋葬された人物は宗教的性格を有していたと思われる。 5世紀ごろになると、墳丘の長さが486bにも及ぶ大仙陵古墳(伝・仁徳天皇陵)のように、巨大な古墳が大阪平野南部の河内を中心に出現する。 埋葬される人物も、地方豪族など、軍事的指導者に変わっていく。 6〜7世紀後半になると、有力農民が群集墳など小規模な古墳をつくり始め、その数は飛躍的に増加した。 大化のクーデターの翌646年、葬儀の簡略化、墓の規模縮小を求める大化の薄葬令が出され、古墳時代は終わりを告げた。 =編集後記= 当市では、前期古墳(森古墳群)から中期古墳(交野車塚古墳群他)、後期古墳(寺古墳群他)を見ることができる。 特に、森古墳群の中で雷塚古墳(第1号墳)は、標高160mの高地で100b を越える前方後円墳は近隣地では見ることができない。 =了= 2008.12.22 発行(275) =三界万霊= あらゆるものに命があるということ。 その命と自分の命とが根本においてつながっているという。 鉢叩き空也和讃のうたい出しには 「諸法実相と聞くときは、峯のあらしも、法(のり)の声、万法一如と観ずれば浜のおけらも佛なり」とある。 これが万霊精神というもので、サンガイバンレイと読むのかバンリョウと読むのか知らないが、私はサンガイバンレイと読む方に、一層の命あるものの愛(いとし)しさを感じられるような気がします。 =編集後記= かいがけの道にはさまざまな仏様・神様が鎮座されておられます。 =了= 2008.12.20 発行(274) =瓦版:よもやま便り・・・発行から1年= 昨年の12月20日、第1号から本日で第274号を迎えることが出来ました。日、祝日を除く毎日を目標(時々、臨時休刊)にやってまいりました。 「継続は力」と申しましょうか?自分のメモ程度ではじめ、特に目新しいこともなく、ただ続けてまいりました。人の迷惑も顧みず今日も・・・。 2008年読者(読売新聞)選んだ10大ニュース @ 中国製ギョーザで中毒 中国産食品のトラブル相次ぐ A 福田首相が突然の退陣表明 後継は麻生首相 B ノーベル物理学賞に南部小林 益川氏、化学賞には下村氏 C 北京五輪で日本は「金」9個 競泳・北島選手ら連覇 D 東京・秋葉原で無差別7人殺害 E 後期高齢者医療制度スタート 保険料の年金天引きなどに批判 F 元厚生次官宅襲撃事件で3人死傷 出頭の無職男を逮捕 G 東京株、バブル後最安値を記録 H 岩手・宮城で震度6強、13人死亡 I 洞爺湖サミット、温室効果ガス排出量半減の長期目標 =過去3年のトップ3 = 2005年 @JR福知山線で脱線、107人死亡A愛知万博開催B紀宮さま、ご結婚 2006年 @紀子さまが男子ご出産Aトリノ五輪、フィギュア荒川静香選手が「金」 BWBC、王ジャパンが初代王者 2007年 @安部首相が突然の退陣、後継に福田首相A「不二家」が洋菓子販売休止 老舗「赤福」など偽装相次ぐB「年金記録漏れ」5000万件判明 =編集後記= 「揺らぐ信頼消えぬ不安」今年もいろいろありました。2009年こそ明るいニュース が満載されることを祈る。No1号でも07十大ニュースをとりあげておりました。 瓦版「よもやまはなし」も、そろそろ模様替えの時期と今年一杯で終了したいと思います。 2008.12.19 発行(273) =副葬品= 王族、貴族、豪族など、古代の有力者の埋葬時に遺体とともに納められた品物。遺体と一緒に棺内に入れられたものと、棺外に置かれたものとがある。 副葬の習慣は全世界に共通して見られ、エジプトのツタンカーメン王墓の黄金のマスクなどは特に有名。日本では古墳時代(4−7世紀)に最も盛んに行われた。品物の内容は、土器、石製品、農具、漁具、玉類、甲冑(かっちゅう)、刀、剣、馬具など多種多彩。前期古墳では銅鏡、鉄刀・剣、玉類の「三種の神器」が多く、中期を境に実戦向きの武具や金銅製の装身具、馬具などが急増する。これらの品々は古墳の築造年代や被葬者特定の指標となるばかりでなく、当時の社会の実態を解明する重要なてがかりとなる。 特に、数万点が出土した藤ノ木古墳に見られる通り、数少ない未盗掘墳の副葬品の発見ほど考古学研究の上で貴重なものはない。 馬形飾りがつく広帯二つ山形式(日本独特)の冠で、藤ノ木の冠と帯の形式や正面につけられた金具が似ている。 =編集後記= 昭和60年夏、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室奥から精巧な馬具が出土した。そして63年秋、石棺が開かれると朝鮮半島とのつながりを裏付ける冠、履、鏡、大刀などの豪華な副葬品がみつかり、「藤ノ木フィーバー」が巻き起こった。 =了= 2008.12.16 発行(272) =唐古・鍵遺跡= わが国最大級の弥生時代の環濠集落、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡から中国風の豪壮な楼閣建築を線刻した弥生時代中期(1世紀前半)の絵画土器片が出土した。この時代の日本にも中国の影響を受けた宮殿建築があったことを示すものとみられ、大陸との交流や文化を見直す画期的な発見となった。 楼閣は壺の破片2個に描かれており、弥生時代中期後半(1世紀)の濠の底から見つかった大量の土器片に含まれていた。 復元されると楼閣の高さは約18aとなり、二層または三層建てとみられる。 屋根には斜線が刻まれ、板ぶきを意味しているらしい。棟の両端には渦巻きの曲線が描かれ、鵄尾(しび)のような屋根飾りとみられる。 軒にも渦巻き状の飾りがついている。二層目の屋根の棟の上に鳥が三羽とまっており、奈良県河合町・佐味田宝塚古墳(4世紀末)出土の家屋文鏡に表された屋根のモチーフと似ている。 古代には、魂は鳥に乗って天に運ばれるという信仰があり、楼閣は祭祀をつかさどる首長の宮殿と推測される。 絵画土器とは 弥生前期末(前2世紀)の福岡県・吉武高木遺跡のシカの絵が最古の例。中期ごろから近畿でも盛んに作られ、テーマはシカ・亀・舟・建物などが多い。 いずれも素朴なタッチながら写実的で、身近な動植物などを写したと見られ、豊作や狩猟の獲物が多いことを祈る神事、部族の祭祀に用いられたというのが定説。銅鐸の絵画と並んで弥生時代の生活や文化を探るうえで重要な資料とされる。 =編集後記= 12/3交野古文化同好会特別企画の歴史散歩(バスツアー)「甦るニギハヤヒノミコト」と題して鳥見白庭台の長髄彦本拠地・ニギハヤヒノミコトの墓・奈良県立民俗博物館・矢田坐久志玉比古神社・稗田環濠集落、最終地の唐古・鍵遺跡、絵画土器を復元した楼閣を見て、唐古・鍵考古学ミュージアムでは弥生の土器絵画展示、説明に聞き入った。 =了= 2008.12.15 発行(271) =武甕槌神(たけみかづちのかみ)が従える 「天鳥船神(あめのとりふねのかみ)」とは?= 国譲りの神話に出てくる天鳥船神は、船を神格化したものである。 その船は海を行き来するとともに、地上と高天原との間を往来するとされた。 天鳥船神は、伊弉諾尊と伊弉冉尊が国生みの後で生んだ神々の中の一柱である。 別名を鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)という。古代の日本では、クスノキがもっとも良い丸木船の素材とされていたため、その名が起こったのだ。 この部分では天鳥船神は航海の神とされている。 ところが、「日本書紀」第五段第二の一の書では、伊弉諾尊、伊弉冉尊が鳥磐橡樟船(とりのいわくすふね)を生んで、その船に蛭子を乗せて流したことになっている。また、高皇産霊尊が大国主命に、お前が海に行き来するために「高橋、浮橋、天鳥船」を作る約束をする場面もある。こういった箇所では、天鳥船(石楠船)は船そのものだ。鹿島神宮の近くに、岩船明神がある。それは自然にできた船型の巨石を御神体とするものだ。国譲り神話に出てくる天鳥船神は、鹿島神宮と深い関わりを持っている。そして、国生み神話の天鳥船神はもとは蛭子を流す船だった。 両者は、元来別のものなのだ。ところが、日本神話を整えるときに、そのような船の神はすべてまとめて天鳥船神とされた。ところで、『常陸国風土記』に鹿島(香島)の神がもとは船の神、水上交通の神であったことをうかがわせる次のような記事がある。倭武(やまとたける)天皇の時に、香島の神が中臣巨狭山命(おおさやまのみこと)の夢の中に現れて、いますぐに、私の船に奉仕せよと命じた。そして、明け方にもう一度お告げがあった。「お前の船を海においたぞ」と言う。巨狭山命が見ると船は岡の上にあった。さらにお告げがあり、「船は岡の上においたぞ」と言う。ところが船は海に浮かんでいた。こうしたことが続いたので、巨狭山命は大きな船を三隻作って神宮に納めたという。もとは、利根川や霞ヶ浦の水上交通を押さえた豪族が鹿島の神を祭っていた。 それゆえ、鹿島の神は船を守る神としての性格をつよくもっていた。ところが、鹿島神宮が中臣氏と結びついて武神になっていく。これが、日本神話で武甕槌神が天鳥船を従えて地上に降りる話になったのだ。こうして、鹿島の神の船の神としての性格が薄れていく。そういった段階で、鹿島神宮の主祭神が武甕槌神になり、鹿島の神の役割の一部を、別の社に移す型で岩船明神が設けられ、それが天鳥船になった。 「日本神話と神々の謎」より =編集後記= 時に長髄彦、乃ち行人を遺して、天皇に言して曰さく「むかし天神の子有しまして、天磐船に乗りて、天より降り止でませり。」 (『日本書紀』) (イザナギとイザナミが)次に生める神の名は、鳥之石楠船神(とりのいわくすぶね)、またの名は天鳥船(あめのとりふね)という。 (『古事記』) =了= 2008.12.12 発行(270) =「石」という単位がある= 今では使っていないが、江戸時代は最もありふれた単位である。 大名の格を表す加賀100万石、伊達62万石という数字、あるいは旗本5千石、3千石という数字、今では1石が10斗であり100升であり1000合であることを、知る人も少なくなった。もっとも1升ビン(1.8リットル)は今もよくつかわれているから、その百倍が一石であるというと、何となく見当がつくかもしれない。また、お米を炊く時の単位が一合であることも理解を助ける。では、その「合」という単位はどうして決めたのだろうか。 ここで人間が一日に食べる米の量を考えてみる。1日2食として1回1合、これだと1日2合になる。少な過ぎる気もするのでもう1合増やして、1日3合としようか、すると1年は360日だから、3合×360日で1080合となる。これは約1石(千合)である。これは偶然の一致だろうか。一石というのは一人の人間が1年(360日)に食べる米の量を基準にして定めた単位なのです。もちろん働き盛りの若者はもっと食べるだろうが、あくまで子供や老人も含めた平均値ということです。そして、これが人間中心の単位ということでもある。そして平均値ということで言えば、1反(面積の単位)の水田でとれる米の収穫量も1石である。というより逆に、1石の米がとれるだけの水田の広さを1反と定めたのだ、と考えた方がわかりやすい。だから通常は1反=300坪(1坪は3.3u)だが、東北では1反が300坪以上だったところもあるという。 なお、1反=300坪になったのは、豊臣秀吉による太閤検地以後のことで、それ以前は1反=360坪だった。 つまり1年は360日だから、1坪というのは人間1人の1日分の米が取れるだけの広さ、ということなのです。 2008.12.10 発行(269) =地名:傍 示(ほうじ)= 傍示とは、榜(ふだ)を立てて国境を示した。特に街道筋においては、この傾向が強い。傍示は河内国と大和国の境になっている。 ここ傍示は交野から高山を経て富雄川を下り、三碓(みつがらす)で左折して奈良に通じる「かいがけ道」である。 古代交野は天野川流域の条里制が施行されたごとく、豊かな地であり、かつ渡来人の活躍の場でもあった。寺、森辺りに古墳や遺跡が散在する。 当然この道は頻繁に利用されたことであろう。また、東大寺建立の際、大仏の銅の鋳型がうまく出来ないため、この仕事に熟達していた九州の宇佐八幡宮にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、宇佐から大和に行くことになった。 一行は途中二班に分かれ、一班は枚方市の百済寺に、他の一班は交野市の獅子窟寺に宿泊した。そして、この「かいがけ道」を通り奈良の都に到着し、そして無事、大仏建立を助けたと言われている。 平安時代以降は熊野参りの人がこの道を利用している。傍示にはある八葉蓮華寺は熊野参りの道しるべとなる。また、八王子社の一つである。 昭和58年4月1日、市史編纂のため市内各寺院の仏像の調査中、氷室山八葉蓮華寺から国宝級の快慶作の阿弥陀如来立像(高さ82.4cmの半等身像で、来迎印を結び、わすがに左足を踏み出して衆生に向かって来迎する有様を表わしている)が発見された。鎌倉時代初期、建久年間から建仁年間(1192〜1203頃まで)に作られた作品で、快慶の造像活動の中でも自分の様式を確立するための模索していた時期と言われている。 このように、この道を往来する人々が多かったことから、国境に標柱を立て、旅人に示したのであった。現在の傍示に住んでおられる人の姓が、ほとんどが「伊丹氏」である。この伊丹氏、傍示に住みつくようになったのは天正元年(1573)のことである。この年、かって摂津国伊丹の城主であった伊丹兵庫親興が室町幕府の最後の将軍足利義昭に加勢して織田信長と戦を起こした。しかし、戦況は思わしくなく、宇治の槇島が落とされたために親興は退去し、高槻の芥川城に逃げた。しかし、この城も織田方の荒木村重に落とされ、しかも、城主伊丹親興は討死してしまった。残った伊丹一族は淀川を渡って交野へ逃げた。しかし、織田方の追手の厳しさから逃れるため、交野の山中に入り、寺の背後の竜王山の後ろに移り住むことになった。 芥川城陥落の功により荒木村重は伊丹の城主になっている。 また大阪冬の陣の時、伊丹因幡守という人が大阪方の武将として出陣している。 天正年間に伊丹氏が生活を始め、その後もこの小さい谷を切り開いて、人口を増やすことなく、現在まで永々と生活をしてきているのである。 2008.12.9 発行(268) =地名: 磐 船(いわふね)= 日本書紀の神武天皇即位前の文章の中に……時に長髓彦乃ち行人を遣して、天皇に言して曰さく「嘗、天神の子有しまして、天磐船に乗りて、天より降り止でませり。號けて櫛玉饒速日命と曰す…… 旧事記の天孫本紀に……天祖以天璽瑞宝十種授饒速日尊 則此尊稟天神御祖詔 乗天磐船而天降座於河内国河上哮峰 則遷座於大倭国鳥見白庭台……とある。 このような神話の舞台が磐船である。 旧事紀に出てくる河内国河上哮峰(たけるがみね)は磐船神社から磐船街道を少し下った西側の独立の丘、かっての石切場のあった標高180mの峰だと言い伝えられ、天磐船(あまのいわふね)は現在の磐船神社の御神体になっている、川をふさぐように片方を空に向かって突き上げた形をした船形の巨石を天磐船であるとされている。 また、この岩には「加藤肥後守」の5文字とその紋所が彫り込まれている。 これは豊臣秀吉が大阪城を築城する際、諸大名に命じて石垣を造らせた。 加藤肥後守清正もその一人で、磐船神社の巨石に目をつけ、城の石垣にちょうど良いとして持ち出そうとした。石工に命じて岩を割ろうとしたが、どうしたことか岩から血が流れ出したため、皆が恐ろしがってしまい、この大岩はとうとう持ち出されず、そのまま放置されたという。巨石信仰の一つが磐船神社であり、また、天の磐船伝承の磐船の地名は天の磐船が天降った場所として付けられた地名である。 =編集後記 = 「諸州めぐり」(元緑2年:1689)に「岩船の下を天の川流水通る、奇境なり 何れの地にも多けれど、かくの如く大石多く一所に集れる所もいまだ見ず」 2008.12.6 発行(267) =大坂夏の陣= 大坂城に真田丸という出丸を作って徳川方を大混乱させたけれど、なんと豊臣方の実質的なリーダー淀殿は和睦を結んでしまう。実はこのとき家康は大砲を用意した。それで大坂城の淀殿たちがいる所を徹底的に攻撃した。こんなもので戦いの勝敗が決まるものではなかったのだけれど、恐れてしまった淀殿は何が何でも和議だと言い張り、不利な条件で徳川方の言い分を聞いてしまった。 このときの条件として総堀を埋め立てること、という条件があった。 総掘というのは大坂城の一番外側の堀のことだ。実は家康は城攻めが苦手だったんだ。特に大坂城の堀は天下一。冬の陣でもこの堀に邪魔をされ、豊臣家を滅ぼすことができなかったから、なんとしてもこの堀を埋めて大坂方をまるはだかにしてやろうというわけだ。大坂では一番外側の堀を埋められてもまだ平気だと考えた。しかも、堀は大坂方が埋めることになっていたから、わざとのんびり工事をすれば埋めずにすむとさえ考えていた。 ところがこういうことは家康のほうが一枚も二枚も上手。まず総堀について、これは外側の堀という意味ではなく、「総」つまり全部の「堀」という意味だと言い張った。堀を外側だけではなく全部埋め立ててしまえというのだ。 しかも「それは話が違う」などと大坂方が抵抗しているうちに、人を派遣してさっさと自分たちの手で堀を埋めてしまった。もはやこれで大坂城は丸裸となった。家康は再度大坂に領地替えを命ずる。そして浪人を囲っているのは、徳川に逆らうつもりではないかと難癖をつける。 こうして二度目の戦い、大坂夏の陣が始まった。 ここでも幸村をはじめとする浪人たちは必死で戦ったけれど、堀がない状態ではもはや籠城もできない。人数の少ない大坂方にはもはや野戦で勝つ見込はなかった。このとき、幸村は秀頼の出馬を願ったという。 秀頼さえ出馬すれば、さすがに秀吉の恩を受けた大名たちは手を出すことはできないだろうという考えだが、淀殿の反対などでもたもたしているうちにそれすら出来ない状況となり淀殿と秀頼は自害することになる。 このとき秀頼の妻だった千姫(秀頼の娘)が命乞いをしたけれど、それも叶わなかった。こうして豊臣家はわずか二代で終わりを告げ、徳川家の完全な天下が始まる。 大坂冬の陣・大坂夏の陣「読むだけですっきりわかる日本史」より =編集後記= 徳川家康が泊まった。 元和元年(1615)5月5日、徳川家康は大坂城攻めのため、午前9時に京都二条城を出て、東高野街道を進み、洞が峠を越えて河内に入り、午後3時大坂から北東16キロにある星田に着き、里正(りせい・村の長)平井三郎右衛門宅に入った。5月5日の夜は、作戦会議が家康の宿舎で行われ、2代将軍秀忠、本多正信、藤堂高虎、土井利勝、安藤重信などの人々が平井家に参集した。 6日の早朝、岡山(四条畷市)に陣取っていた先発隊の秀忠から、馬を飛ばして急使がやってきた。その内容は「大坂勢が遠く城を出て、八尾、久宝寺へ向かった。こちらも合戦を始めようとしているから、直ちにご出発下さい。」ということであった。それを聞いて家康は「そうか。それでは、こちらの勝ち戦さだ」と大変なご機嫌で、河内中部へと出発して行った。(家康は野戦が得意) この時、最低茶碗と箸だけあれば食事ができるので、それ以外のものを、置き土産として平井氏に与えた。 写真は星田平井正悦家に代々伝わる徳川家康所用の品々。 交野市史(交野町史復刻編)口絵写真より =了= 2008.12.3 発行(266) =大坂冬の陣= 自分の生きているうちに目の上のたんこぶである豊臣家をつぶすことは家康にとってどうしてもやっておかねばならない最後の使命だった。 もはや徳川家に逆らう大名はほとんどいなかったが、それでも大坂を中心に豊臣家を慕う人たちは多かったし、秀頼も立派に成人していたから、早めに手を打たねばならなかった。家康はまず豊臣家の莫大な資産を減らさせるために、秀吉の霊を弔うための寺を建てることを勧める。 この勧めに応じて豊臣家ではいくつかの寺を再建したり支援したりしたのだけれど、これが仇になった。豊臣家が再建した方広寺というお寺に納められるはずだった鐘に刻まれた文章に、家康はいちゃもんをつける。 この鐘には国家安康(こっかあんこう)・君臣豊楽(くんしんほうらく)と刻まれていた。これはそのままの意味は「国家に戦争や疫病がなく平和なときが続きますように」「君主(天皇など)も臣民(民衆)も豊かに楽しく生活できる世の中が続きますように」という意味なんだけれど、家康はそうではないと言い張った。「国家安康」は家康の「家」の字と「康」の字を切り離したもので、家康に呪いをかけたものだと。そして「君臣豊楽」の方は、豊臣家を君主として栄えようという願いが込められていると。そしてこれを口実に大坂を明け渡し、大和郡山を領地にするように命ずる。もちろん石高も大幅に減らす。 このときに家康の命令に従えばもしかしたらまだ豊臣家は一小大名として生き残れたかもしれない。ともあれ、豊臣家はこれを拒否した。そこで幕府の命令に従わない豊臣家を討つべしとの命令が下される。 各地の諸大名は残らず動員され、大坂城を取り囲む。これが世にいう大坂冬の陣だ。このとき大坂に味方する大名はすでにいなかった。 が、関ヶ原で負けて没落していた元大名や、不遇をかこっていた浪人たちが大坂に終結した。 本来ならばそれでも戦になるような戦力ではなかったけれど、大坂の浪人たちは頑張った。特にあの関ヶ原で秀忠にいっぱい食わせた真田昌幸の次男(長男は徳川方に味方している)真田幸村は歴史に残る大活躍をした。彼の言うとおりに戦いをしていたら、もしかしたら大坂方が勝っていたかもしれない。 =編集後記= それほど彼は戦の天才だったが、彼の身分は一浪人、思うようには戦が出来ず 豊臣方の実質的なリーダー淀殿は和睦を結んでしまう。 =了= 2008.12.2 発行(265) =謎の人物・ニギハヤヒノ命に隠された秘密とは?= この饒速日命については、その名前を知る人は少ない。 というのも、饒速日命は「天上から天降りした神の一人」であるにもかかわらず、天上の世界を描いた高天原の神話にはいっさい姿をあらわさないからである。とすれば、饒速日命は高天原から降りてきたとされる皇室の先祖とは別の神であったのだろう。 しかも、単に先住の神であるばかりか、天からやってきたといわねばならないだけの背景をもっていた神だったということだった。すなわち饒速日命の降臨神話は、天皇の祖先とは別系統のもう一つの天孫降臨神話だった、と考えざるを得ない。この饒速日命について詳しく述べてあるのが「旧事本紀(くじほんぎ)」という本である。略して「旧事紀(くじき)」ともいうが、これは物部氏の氏族伝承が母体になって成立した本ということになっている。 それによれば、饒速日命は32の神と25の物部一族を引き連れて天磐船にのって大空をかけめぐり、「河内の国のタケルガノ峰」に天降ったとなっている。 タケルガノ峰は、河内の生駒山の一角とされているが、この周辺にはいまでも饒速日命を祀る神社が数多く点在している。そして、この饒速日命は古代豪族の雄、物部氏の祖神になっているのである。 ほかの氏族に例を見ない、物部氏の特殊な降臨神話の伝承は、古代において物部氏が重要な位置にあったことを示しているといえる。 こうした神話や地名伝承から、古代史研究家の中には、物部氏がかなり遠い昔に九州から東進して大和・河内地方に入り、大きな勢力をもっていたのではないかと考えられているのである。そして、最近の新設では、この饒速日命を祀っていた人々こそ銅鐸の製作者であり、それは銅鐸の心地と重なっていることが報告されている。いまだ定説とまでいえないが、物部氏は神武以前に東征し、弥生時代に畿内の権力を握り「物部王国」といったものを作り、その祭器とされたものが銅鐸ではなかったのか、という説も出ている。 =編集後記= 天皇の祖先とは別系統の天孫降臨神話が隠されている。 タケルガ峰に天降った地(交野市)、物部氏は神武以前に東征し、弥生時代に権力を握り「物部王国」を築いたとなれば祭器として銅鐸が使用されたものであれば、この地から銅鐸が発見されても不思議ではない。 いつか、銅鐸出土というニュースがあるかも知れませんね・・・?。 =了= 2008.12.1 発行(264) =桜田門外の変・・・井伊掃部(いい鴨)と首を締め= 1860年(万延元年)3月3日、江戸幕府大老井伊直弼が江戸城内郭門のひとつ桜田門外で、水戸を中心として薩摩を加えた18名の浪士により暗殺された事件。 安政の大獄で最も大きな打撃をうけたのは、水戸藩であった。藩主父子が永蟄居などの処分をうけたのをはじめ、家老の安島帯刀(あじまたてわき)ら4人が切腹、死罪などの極刑に処せられている。しかも井伊大老は、その後もさらに水戸藩に圧迫を加えていた。さきに同藩に下っていた密勅を朝廷に返上するように迫ったのである。これに対し、水戸藩士の過激派の一部が井伊大老を襲撃、暗殺する挙にでた。 決行したのはすでに脱藩していた関鉄之介、金子孫二郎ら18人で、この中には唯一の他藩出身者として薩摩の脱藩浪士・有村治座衛門も加わっていた。 その日は早朝から雪が降り続き、春にはめずらしい大雪となっていた。 午前9時ごろ桜田門外に大老の駕籠がさしかかったとき、1人の浪士が直訴とみせかけて行列に斬りかかったのを合図だった。行列は総勢50人を越えていたが、雪のため供侍はみな雨合羽をつけ、刀には柄袋をかけていたので、思うように防戦できず、死者8人、重傷者は10数人にのぼった。浪士側は自刃をいれて死者5人、4人が自首し、5人が逃走した。この事件を聞いた公卿岩倉具視は「大老が自分の首すら守れないのは幕権失墜の証拠」と言った。「井伊掃部(いい鴨)と雪の寒さに首をしめ」とは、当時の川柳である。 =編集後記= 萬延元年(1860)、私部住吉神社の大鳥居(写真)が再建された。 「交野郷土史かるた」にも詠まれています。 私部口山「鳥居谷」から切り出された石、つくね飯(にぎり飯)を腹一杯食べ 音頭をとりながら200〜 300人で運んだと記録されています。 北川の川底を修羅に乗せて曳いた。一同が力を入れると ア〜エンヤラサ、ソラドッコイショ、ソラノッテキタの声で采配が動き、この唄の1〜3番がうたわれた。また鳥居の組立には、4番がうたわれた。 大阪八軒屋の石工三平が加工した。 「石曳き唄」 あ〜や〜よいやな 竹に雀はいよ〜 あ〜しなよくいな とまる あのよいやせ そこせ とめて とまらん よいしょ いろのみち ここはどこじゃと 尋ねて見たら ここはひら田の川の中 つくねめし三角 石四角 アヨイヤサッ ドッコイショ さてもどなたも 石挽きなさる 麦の芽おろしや いつでもいける アヨイヤサッ ドッコイショ 頭にきんかん 乗ったか乗らんか よいやさ 淀の殿さんにしんで お茶づけよいやさ =了= |