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「今日の話はなんでっか?」を連載中です。
平田さん
平田政信さん(執筆者)

  *月・水・金曜日に発行いたします。

世の中に山とあるような話・知ってるつもりでも人に聞かれたら説明できないようなことありまへんか。
お話しさせてもらいまっさ。

 本日をもちまして「今日の話は何んでっか」NO100号をもって終えたいとおもいます。最後に私の「自慢ばなし」で、ありがとうございました。

2003.6.11(No100)

      ウルトラマラソン挑戦記

 35歳の頃、当時の職場の上司に走ってみんかと勧められ(半ば強制的)、第1回奈良大仏マラソン5キロの部に参加。体力低下と体型変化を無視できなくなっていた年齢でもあった。走ってみるのも悪くないとは思っても、まさかウルトラマラソンを走るとは!
:ウルトラマラソンとは
:ちなみに、広義では42.195キロを越えるロードレースはすべてウルトラマラソンですが、国際陸連では100キロレースを「標準型ウルトラマラソン」と認めています。
:いつごろからウルトラマラソンに挑戦したのか
:1990年に北海道サロマ湖100キロマラソン大会に出場。以来連続挑戦中。
いままでの戦歴は
サロマ1990−1995年まで6年連続完走と2000年の完走とで7回です。秋田と沖縄宮古とで9回完走で今回が通算10回目の挑戦となります。
:サロマ以外でのウルトラは
A:1996年に秋田内陸リゾートカップ100キロにチャレンジ「みちのく秋田」で完走!山越えの苦しいコースであった。それと2001年に沖縄宮古島100キロワイドマラソンに参加、どうにか完走しました。
:ということは、100キロマラソンでは通算9回完走しているんですね。
:そうです。何とか10回完走して区切りをつけたいが、中々たやすいものではない。今年も走ります。6/29日(日)午前5時湧別町をスタートし佐呂間〜常呂町へと、コースは毎年同じなので頭に入っています。
:走るきっかけは
:関西電信電話100年の年だったと思います。社内で100年にちなんだ文集募集がありました。その時たまたま月刊誌「ランナーズ」を見ていたら「長く、苦しい100キロ しかし、ゴールに感動が待っている」エゾスカッシュが咲き乱れるワッカの原生花園。左手にサロマ湖を臨み、右手にはオホーツクの海が広がるコース。この記事に誘われて、そうだ、100年と100キロだ!と参加を決めた。
何かテーマを決めているんですか
「1キロ1歳 人生100歳 100キロ先に何がある」その時、私は42歳であった。フルマラソン42.195キロ(語呂が、死に行く子)は何度か完走していた。これからは未知の距離、人生も未経験である。どのように走り、どのように生きていくかをためしてみたかった。
:100キロを完走するにはどんな練習を
:100キロってとてつもない距離でんなぁ。だいたい、普通のマラソンを完走する場合は練習で半分の距離をこなしておけばレースでは走れるといわれています。10キロのレースなら練習で5キロ・フルなら20キロとか。100キロなら50キロとは言いがたい。また練習で50キロなんて走れない。走ったとしても100キロを完走できる保証など何一つない。
:大会当日はどうのようでしたか
:歌いながら、寝ながら、泣きながら走りましたよ
:どういうことですか
:まず、歌いながら・・・都はるみ「夫婦坂」この坂を越えたら しあわせが待っている・・・越えても越えても、暑くて、苦しい道のりでした。寝ながら・・・午前2時起床ですからね。60キロ地点では午前11時頃、腹は減るは、眠たいは、寝ながら(意識もうろう)走るほんまでっせ!それで眠気覚ましにサロメチールを額に塗ったら、今度は汗とともに目の中に入り今度は泣けて、泣けて(笑)
:一番苦しかったところは
:コース中、最も景色の美しい場所だと言われているワッカの原生花園に入ったあたりから、80キロ地点です。足は鉛が入っているかのように硬く、重たく感じた。座ることも、立つことも、立ち止まることもできない状態です。一度立ち止まると今度は走ることが出来ないかもわからない。
:これで完走できると思ったのは
:ワッカを出て残り3キロ地点だった。出発前に双子の娘からのメッセージをお守りに、「お父さんがんばったでぃ」と最後に気合を入れたとき思わず熱いものが頬を伝った。足が折れても、はってでもゴールするぞ!
100キロ先には何があった
確かにあった「100キロ先に感動のゴールテープ」が、の時に自分の世界が広がった。11時間24分54秒は平田政信の世界の新記録であった。
今年も、挑戦します。ウルトラ通算10回達成のため。
本日をもちまして「今日の話は何んでっか」NO100号をもって終えたいとおもいます。最後に私の「自慢ばなし」で、ありがとうございました。


2003.6.6(No99)

     聖徳太子の政治改革

 推古11年(603)、聖徳太子によって冠位十二階制度が定められた。
:冠位十二階制度とは
:これは、政治に関わる豪族たちを、十二の冠位にわけ、その身分を示すために、冠位に対応する色を冠の縁につけるとしたものです。
:聖徳太子の政策として、もう一つ有名なものが
:推古十二年(604)に出された「十七条憲法」である。
:「十七条憲法」と現在の憲法との違いは
朝廷に勤める役人にむけての心得のようなものです。これを読むと、そのような掟を出さなければならなかった太子の苦悩が伝わってくる。
:それは何故
:「十七条憲法」のなかで、何度も「和」が強調されているからである。それが「一にいわく、和を以って貴しとし、杵らうことなきをむねとせよ」聖徳太子は、人間の生活に「和」がもっとも必要であると考えて、最初に「和をもって貴しとせよ」と記した。
さらに、人々が和をもたらすために、怒りをなくし、嫉妬せず、私欲をすてて、みんなのことを考え、話し合いで物事をきめるべきであると、第十、第十四、第十五、第十七の教えを説いた。
:なかでも「十にいわく、こころのいかりをたち、おもてのいかりをすてて、人の違うことを怒らざれ」人間どうし、許し合うべきだと説いた一文があるが今こそ、必要ではないのか
:そうです「人は、それぞれの心に、それぞれの我執をもっている。そこで、彼の心が正しければ、我の心は正しくないことになり、我が正しければ、彼が正しくないことになる。しかし、我は必ずしも聖人ではないし、彼も必ずしも愚者ではない。いずれも同じ人間なのである」ということです。
平成不況の昨今、暗いニュースばかり、ならば家族・地域・職場などで「和」もって貴しの精神で心豊かな日々を送ろうじゃありませんか?
 
*「今日の一言」(NO100号)そして「今日の話は何んでっか」も、次回で100号となります。何でも100にこだわる男として次は?今月末に北海道・サロマ湖で開催される100キロウルトラマラソンに出場します。
現在9回完走しております。これの100回完走は無理(笑)として10回を目指しております。ここ2〜3年苦戦しております。何とか達成したい心境です。
新しい企画「よもやま瓦版」をお届けしたいと思います。
感想・応援メッセージなど送っていただければ幸いです。でないと100号まで到達できませんので、意思の弱い男より(笑)


2003.6.4(No98)
          
     考古学を視つめる

:改めて、考古学とは?
遺跡を対象にして過去の人々の行動や観念、それは「歴史」ということになるのだが、を明らかにする学問。
:遺跡とは
A:地に残された労働の痕跡であり、遺構と遺物、それらの有機的な関係で構成される。
:現代に生きる私たちにどんな意味があるのでしょうか
:過去が問題になるのは現代社会がその累積であるから。現代の延長に未来もある。過去のない現代は考えられない。今を知りたい知の探求として<結果としての現代の原因を過去に探る>のが歴史学=考古学だ。考古資料は主に文字以前の時代の歴史を再構成するが、発掘調査などでしか情報が取り出せない。文字のように自らの故事来歴を語らず、いつごろ、何に使われたかなどをまず解明しないと歴史学の史料にならない。そうした考古資料を使って歴史を復元しようとすれば、今わかっているものから類推する必要があり、このプロセスが大きなウエートを占める。
:調査の現状と問題点は
:発掘には大学や研究所が行うものと、破壊されるから「記録保存」のために自治体などが実施するものがある。件数、面積、人員、予算などで後者が圧倒的に多い。出土した遺物は全国で約500万箱ある。本来、発掘調査は研究課題に基づいて仮説を立て、証明するためのものだが、記録保存のための発掘はそうでない。多くの研究者が掘りり出された膨大な資料の意義付けに振りまわされている。研究の個別化・細分化は著しく進んだが「人間とは何か」といった問いが後退して、時代や社会の全貌が見えにくくなっている。
:それを新聞などで取り上げて報道する意味は
掘り出された遺跡は「等身大の歴史」の証人だ。ただし、学術報道ではないから「最古・最大・最初・邪馬台国」というようなニュース価値の高いものが優先される。必ずしも考古学研究の現状を反映していないのに、読者はそれらを歴史的事実のようにみなしがちだ。メディアは報道内容が送り手を離れ、国民の歴史意識の形成に大きな影響力を持っていることを強く認識すべきだ。個別研究が広く盛んに行われることと歴史をニュース報道で獲得する構造からは体系的に歴史を考える方向性は出てこない。混迷、閉そくの時代にどういう歴史像、歴史意識を持った方が望ましい社会になるのか、豊かな生活を送れるのか。そういう問題のたて方をしてもよいのではないか。
:その方向付けを模索するにも、考古資料の年代特定をしなければならない。
古代では土器の型式、技術の変遷から作った物差しを用いる。これは相対編年なので実年代を考えるには他の方法が必要になる。放射性炭素年代測定法などもあるが、誤差が大きい。最近有力なのは出土木材の年輪で一年単位に突き止める年輪年代法紀年資料も年代の決め手の一つで、奈良時代は木簡の年号でわかるが、平安・鎌倉・室町時代は少なく特定は難しい。
:将来にむけての考古学のあり方
:遺跡には限りがあり、発掘は減るかもしれない。膨大な資料の管理も含め、行政の役割を見なおすことも必要になろう。財団や民間研究団体が発掘し、行政は保存やチェックをするのも方法だ。考古学は資料の特性から人間の営みを忘れてしまいがちだが、それでは視野狭さくに陥る。増えた資料を従来の理論に当てはめるだけでなく体系的な歴史、通史を考えるべきだ。報道側も古代ロマンだけではなく、埋蔵文化財行政や国民の歴史意識など、多元的な取り組みをしてほしい。プロがプロらしい力を発揮することが、よりよい社会につながる。
 
ロマンより歴史の体系化を!
                    (2003.01.31読売新聞から)

2003.6.2(No97)

         江戸に学ぶ

:江戸時代は身分社会で、庶民は暮らしにくかったというイメージがありますが
:古川柳に、「道ならぬ恋に明店弐軒出来(あきだなにけんでき)と読まれています。
:どういう意味合いですか
:当時、不倫や身分違いの恋は駆け落ちか心中しか道はなく、確かに決められた身分の枠を超えると、重い罰が待っていました。でも、長屋は一種の共同体で、大家が警察や消防、民政を担い、店子の責任をすべて負っていました。その「民政」の範囲内で、羽目を外さなければ、思いのほか自由に暮らせました。
:では実際、庶民はどのような暮らしをしていたのでしょう
「江戸っ子は宵越しの金は持たぬ」などと言われ、庶民には税金もなく、その日必要な金が稼げればよかった。また、困った時はお互いさま、という「相身互い」の精神が生活の中に根付いていました。瘡毒(そうどく)に衣を着せる長屋中という句のように、梅毒がひどくなった者が出ると、皆でお金を出し合って白装束を買って着せ、転地療養の巡礼の旅に出したりした。行き倒れるか、生き抜くかは運次第でしたが、道中、先々で施しを受けて、元気になって帰ってくることも少なくなかった。蓄えなどなくても、割合不自由なく生きて行けたんです。
:閉そく感の漂う現代社会に比べ、活気にあふれていたようですね
:「保守的な武士に対して、庶民は実にたくましかった。凶作の時には、新しい食べ物に挑戦し、食文化を多彩に発展させました。すしやてんぷらなどは、庶民の発明です。サンマなどの青身の魚を食べるようになったのも町人からで、武士は普段口にしなかったからこそ「目黒のさんま」という落語も生まれたのです。「地震や火事にあっても、借り家住まいなので、損害も少ない。我が身さえ無事なら、橋の下で雨露をしのぎ、口に入るものは何でも食べて暮らして行けた。このバイタリティーと物に縛られない闊達さが活力のもとになったのでしょう。
:江戸人たちは、その自由をどのように楽しんでいたのでしょうか
:「山東京伝や滝沢馬琴のように、武家の嫡男以外を主な担い手として、文芸や絵画など豊かな文化が花開きました。また、人生五十年と言われた時代、余生を趣味に生きる者も多かった。商人は金もあるので、俳諧連歌や謡の会、蹴鞠など優雅な遊びを堪能し、「遊牧文化」を花開かせました。
:我々現代人が、江戸から学ぶべきことはあるとすれば何でしょう。
:当時は福の神や水神からオナラの神様まで、万物にそれぞれ宿る神がいると考えられていましたが、現代人は神様が見ているから、悪いことはできないという感覚を失い、モラルの低下を招きました。人知の及ばないことや自然に対する畏敬の念を取り戻すべきです。
また、江戸は徹底したリサイクル社会で、排泄物を野菜の肥料にしたり、稲のわらを牛馬のえさにしたり、使えるものはとことんつかいました。
資源を枯渇させない知恵を今生かしたいですね。
                 (平成15.2.20よみうり:トライアングルより)
 
 
もう一つ「江戸のしぐさ」を紹介しておきます。
「江戸のしぐさ」とは、江戸の昔の「人と人とのちょっとした動作」見知らずの人にも親しく礼儀正しく接する心得の表れを言う。
@傘をさしてすれ違う時は、お互い相手のいない方へ自然に傾ける。
A人が隣に座れば、座りやすいように詰める。
B足を踏まれたら、踏んだ方はもちろん、踏まれた方も「私がうかつで」
と謝って落着。
 
最近よく見かける風景に、電車の中で大またを広げる、どちらかに寄ればもう一人が楽に座れるのに、込み合っていても知らん顔かタヌキ寝入り。荷物で座席を占領。近頃の電車や駅では、マナーのレベルをはるかに超えた事件が展開されている。粗暴犯もありだ。各線でも「江戸のしぐさ」とはほど遠いことが起きている。あまりにも自分勝手な人が多すぎるのではないか?悲しいことですね。


2003.5.28(No96)

        最古の貨幣

 奈良県明日香村の飛鳥池遺跡(7世紀後半〜8世紀初め)で出土した冨本銭の鋳造遺構と大量の関連遺物は、この銅銭こそ和同開珎より20数年も古い日本最古の鋳造貨幣だったことを明らかにした。
:「和同開珎(わどうかいちん)」とは
:慶雲五年(708)武蔵国秩父郡から和銅、自然銅が献上されたのを記念して、元号を和銅に改元し、和同開珎を発行した。これがわが国の通貨の始まりとされてきた。が、日本書紀には天武12年(683)に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という詔が見える。持統8年(694)や文武3年(699)にも、「鋳銭司」が登場する。
:「鋳銭司」とは
:古代日本の銭貨鋳造を担当した役所。鎌倉初期の国語辞典「伊呂波字類抄(いろはじるいしよう)」には、天武6年(677)に「始めて鋳銭司の官を置く」とある。もし、これが正しいとすれば、冨本銭と年代が合う。また和銅元年(708)には、鋳銭司とは別に和同開珎の鋳造を鋳銭司や諸国に促進させるため、催鋳銭司がおかれたという。
:和同開珎を4半世紀さかのぼる7世紀後半の銅銭や銀銭は何か
[富本銭の写真]

奈良国立文化財研究所
公開された富本銭
(飛鳥池遺跡で出土したもの)
:中国の開元通宝や無文の銀、銅銭が使われたとか、和同開珎が天武天皇の時代すでに発行された、など様々な意見があるが、1999年に県立万葉文化会館建設予定地の飛鳥池遺跡を発掘したとき、古代の生産工房から7世紀後半の遺物とともに富本銭にかかわるものが大量に出土、謎の銅銭が富本銭であることが明らかになった。
:「富本」の意味は
:国民を冨ませる根本は食物と貨幣、すなわち農業と経済にあるという意味と考えられる。
:富本銭は飛鳥池遺跡以前にどこかで出土しているのか
:6枚見つかっている。奈良の藤原京跡・平城京跡・大阪難波京跡そして長野県高森町の武陵地一号墳から。
:また富本銭は通貨でなく「まじない銭」ではないかといわれているが
:大宝律令に偽金造りの禁止規定が盛り込まれたことからみても、売買に使われる銭貨だったと考えるのが自然。それに、神社でのお賽銭の習慣を思い浮かべればわかるように、お金は常にまじない機能をもっている。
:皇朝十二銭とは
:@和同開珎708年(和銅元年)A万年通宝760年(天平4年)B神功開宝(神護元年)C隆平永宝796年(延暦15年)D冨寿神宝818年(弘仁9年)E承和昌宝(承和2年)F長年大宝848年(嘉祥元年)G饒益神宝859年(貞観元年)H貞観永宝870年(貞観12年)I寛平大宝890年(寛平2年)J延喜通宝907年(延喜7年)K乾元大宝958年(天徳2年)
 乾元大宝958年(天徳2年)の貨幣が鋳造された頃から、貨幣はほとんど使われなくなってしまった。
せっかく貨幣経済が本格的に根ざすチャンスであったが、12世紀に中国の宋銭が流通するまでの間、日本の市場経済は物々交換に逆戻りしてしまった。
冨本銭は和同開珎、万年通宝など皇朝十二銭に引き続がれて、日本の古代通貨の原型となった。

2003.5.26(No95)

         羅漢とは

歴史健康ウォークもいよいよ、交野市内から一歩踏み出しました。
5.24(土)第48回目を「伏見(伏水)街道を」訪ねました。
その中の一つ「石峰寺(せきほうじ)」の五百羅漢についてお話ししたいと思います。
:羅漢とは
:尊敬に値する人という意味で、もともとすぐれた宗教家とか修行者に対する尊称だった。仏教では悟りをひらいた修行者の意味で使われるようになった。すなわち羅漢は仏教について学び尽くした究極の修行者のすがたである。
:なのに、羅漢は「無学」とも呼ばれるのは何故か
:これは一般に使われているような「学がない」という意味ではなく、あらゆることを学び尽くしてもうこれ以上、学ぶことがないという意味です。
:日本には、菩薩を主役とする大乗仏教が伝えられたので、寺院で見られるのは如来像と菩薩像が中心で、羅漢像はそれほど多くないのは石峰寺の五百羅漢
:しかし、禅宗では参禅して悟りを得るための目標として羅漢を重要視する。このため、禅宗の寺院では羅漢像が多く見られる。
:羅漢は一体だけで作られることはないのは
:ふつう複数の羅漢を合わせて集団的にあらわされる。十六羅漢・十八羅漢・五百羅漢などがある。
:「五百羅漢」については
:いくつかの説がある。一説には釈迦が亡くなったあとに、経典の編集会議が開かれたが、そのときに集まったのが五百人の羅漢だったといい、また釈迦が「法華経」を説いたとき集まった羅漢が五百人だったともいわれている。
:五百羅漢は一体ごとに違った喜怒哀楽の表情をあらわし、さまざまなポーズをあらわしているが
:仏教の尊像といった、いかめしさはなく、ときにユーモラスな表情を浮かべる五百羅漢像は、より身近な存在として、庶民の間に親しまれています。また、五百人の羅漢を丹念に見ていけば、その中にかならず自分に似た顔の像が含まれているといわれています。
 
*基本となるのは十六羅漢である。十六は釈迦の命により、この世にとどまって仏法を護ることを誓ったといわれる。ふだんは離れたところに住んでいるが、供養のときには、それぞれに多くの眷属を従えて集まるといわれています。


2003.5.21(No94)

     弥生文化とは

 稲作農耕・鉄器・青銅器の使用が始まって弥生式土器が使用され、古墳が出現するまでの文化。大陸の文化と共通するものが多く、当初から進んだ農耕技術を有していることから、朝鮮からの渡来集団によって開始されたと考えられる。
Q:昨日(5/20)読売新聞に「弥生時代500年早まる」という記事が掲載されたが。

:興味深く読んだ。弥生時代の始まりがこれまでの定説を約500年さかのぼり、紀元前10世紀頃になる可能性が高まったとする研究成果を国立歴史民俗博物館が発表した。
:どのような方法で測定したのですか
:北部九州で出土した弥生時代早期から前期にかけての土器などの
 
調査に使われた土器群
調査に使われた土器群=5月19日、福岡市城南区の市埋蔵文化財課城南整理室で

土器に付着した炭化物
土器に付着した炭化物を試料として採取した=5月19日、福岡市城南区の市埋蔵文化財課城南整理室で
asahi.com ニュース特集より
年代を、放射線炭素(C14)年代で測定した結果です。
:放射線炭素(C14)年代測定法とは
A:生物に含まれる炭素の放射性同位体(C14)が、死後、一定の速度で窒素に変化していく性質を利用した年代測定法。
:水田耕作の開始も約500年さかのぼることになりますね。
:そうなれば日本の古代史を根底から履しかねないことになる。縄文時代から弥生時代を経て古墳時代に至るまでの年代観を再検討していかねばなりません。
:これまで弥生時代は、紀元前5−4世紀ごろ、中国の戦国時代の混乱に伴って、大陸や朝鮮半島から多数の渡来人が稲作技術を携えて日本列島に渡って始まったと説明されてきたが。今後は?
:今回の成果から「弥生時代の始まりを考えるには、殷(商)が滅亡して、西周が成立するころ(紀元前1027頃)の時代背景を検討しなければならなくなった。」と同博物館の春成秀爾教授。さらに、クニの成立に至る弥生文化の展開が、これまでの常識よりは時間をかけて進んだと指摘された。
:ただ近年、考古学が定説としてきた年代と年輪年代や放射線炭素(C14)年代による年代に食い違いはないのか?
:例えば、これまで約13000年ほ12000年前頃と言われてきた縄文時代の始まりが、C14年代では約16500年前とされたり、3世紀中頃と見られてきた古墳の出現年代が、年輪年代で西暦200年頃という数字が得られている。
 
このままでは、歴史科学の基本である年代があいまいなまま、研究が進められるという事態になる。旧石器ねつ造事件の教訓もあることから、明治大の大塚初重名誉教授は「今回の発表を機会に、考古学と自然科学による年代を整合させるための議論を深めるべきだ」と訴えておられます。
人と人との交流は稲作技術を始め数々の文物の交流でもある。が、よいことずくめとはいかない。今、大阪・京都にもSARS(重症急性呼吸器症候群)が吹き荒れている。長い歴史を経て人類は数々病原菌を克服してきた。が、今、現在の渡来人(台湾医師)に手を焼いている。


2003.5.19(No93)

      市指定文化財の一般公開


 文化財事業団は、市内の文化遺産を広く市民に知っていただくため、一般公開が行われています。(毎年春・秋2回公開、5月・11月第3日曜に一般公開されている。)
今回、私は廃千手寺を担当し、見学に訪れる方々に説明をさせていただきました。手持ち資料の中からまとめて見ました。
Q:千手寺とは
A:郷土史カルタにもあるように「千手寺は亀山上皇 行在所」
Q:亀山上皇との係わりは
A:90代天皇(1260−1274)で紀伊熊野神社参詣滞在されたとき、 
  体の不調を訴えられました。ちょうど熊野三社の高官であった叔父
  静仁法親王の進めで、河内国交野郡獅子窟寺の薬師如来に平癒
  の祈願をするため、この地(院田)を訪れ行宮をお作りになりました。
Q:何故この地を院田というのですか?
  薬師如来に平癒された上皇は、その後病気はよくなり、大変お喜び
  になって、ここに観音寺をお建てになりました。
  この寺の維持のため、田をお与えになったので、亀山(院)の(田)
  院田(いんでん)という地名が残った。
  堂内仏に如意輪観音坐像(室町)・聖観音立像(平安後期)が市指定千手寺の如意輪観音坐像
  文化財として登録されています。
Q:関連資料等からわかることは
A:@観音寺のこと「天野山金剛寺蔵」に
  交野郡 観音寺 星田寺 神福寺
  康和四年(1102)十二月一日  河州国交野郡観音寺伝法巳了
  A獅子窟寺のこと
  42代・文武天皇(697−708)のころ役小角が河内金剛山からこの
  岩窟に現れ、薬師浄土を開いたのがこの寺の始まり。
  ついで、聖武天皇(724−749)のころに勅願によって僧行基が
  堂塔伽藍を建立。
  さらに、平安初期には弘法大師が獅子窟寺で修法された。
  B薬師如来坐像
  昭和43年3月に国宝に指定された。
  平安初期・弘仁期(810−823)の作。
Q:その他関連遺跡等は
A:「王の墓」と呼ばれる、亀山院とその皇后の供養塔があります。
  また、獅子窟寺の石段を造り、伽藍の修復をされた。
 
  今回公開された文化財は
☆十一面観音立像(星田・星田寺)
☆薬師如来立像・千体仏(星田・薬師寺)
☆聖観音立像・如意輪観音坐像(私市・千手寺)


2003.5.14(No92)

     「朗読アイ」の皆さんと竜王山を訪ねて

 視覚障害者の皆様にマガジンテープを発行されている「朗読アイ」のメンバーの方と郷土史かるたの舞台を案内させていただきました。古文化同好会より中角・村田・平田が案内役を務めました。
交野ドームに集合した本日のスタッフは全部で8名。
 
 午前10時交野ドーム出発→今井に旧寺村「てるは村」があったことを証明するのは巽山(東南)があった。現在の寺村からでは東南にならず西か南西に当たる。→大畑古墳の周囲を回る→中町と上町に水車があった(軒先で休憩しておられたおばさんにお話しを聞くことが出来た、嫁に来た頃夜になると水車の回る音が怖かった。米を撞いていた)→辻の燈篭(明治18年にホラ、山津波が起こった。その時、住吉神社から流されてきた)→上町から→棚田に入るが田植えはまだ→寺・住吉神社→かいがけの道→伏拝みの辻(阿弥陀様、昭和57年7月13日土の中より出てこられた)→かいがけ広場で昼食(山桃の古木・かいがけ地蔵・不動明王の話しに沸く)→いよいよ竜王山へ→鳥居の前の標石に「従是嬰児山龍王社三丁」と刻まれている。嬰児山の山号に悲しいイメージが→ぼちぼちいこや!→急な、いや険しい山道を上り詰め山頂へ、参加者全員、若い!

ここでカルタ札
その1 「竜王山は 雨の神」竜王山頂上の竜王石
標高318bの竜王山の頂上には竜王をまってあり、古くから村人が雨乞いをする習慣がありました。
淳和天皇の天長二年(825)干魃で稲が枯れた。この苦しみが天上に達し、弘法大師に雨を祈らせたのが山頂の「龍王石」です。 
龍王山の山頂で行った「雨乞い」は村中不参なしといって、各家から必ず一名は参加した。村人たちは、かいがけ道を太鼓をたたきながら龍王山頂へと登っていった。山頂に着くと火を焚き、全員で「雨たんぼ、じょおいの、雨たんぼ、じょおいの」と大声で唱えながら、雨乞い石のまわりを回った。
 
その2 「雷神が 小便かけた いばり石」
竜王山の山頂に、いばり石という大石があり、その石に穴があいています。雷神が小便をかけたので岩に穴があいたのだといわれています。どう思いますか?ホラ吹くなでっか?
また、弁慶の馬がつけた蹄の跡があるという「弁慶岩」があります。
 
米のでき、ふできが一年の生活を大きく変えることになる。このため、田に水が必要なときに何日も日照りが続くと、村人たちは必死で神仏に祈り「雨乞い」をしたのでしょう。雨乞いの儀式は、日本各地に伝わっており、交野でも、火を焚き、鐘や太鼓をたたきながら大声で歌を唄い雨乞いをしたことが何度かあったようだ。
交野三山とは、交野山344b(神の座ます山)・旗振山345b(米相場を手旗信号で行った場所)・竜王山318b(雨の神・水の神)をいう。雨乞いにまつわる話しから「いばり石」「弁慶石」そして明治18年のホラが吹くまえまでは、竜王山が交野山より高かったという話し、当時の人は想像豊かというか、ホラ吹きというか?(笑)
これからも、このような伝承をなくさず「歴史の町・交野」「おらが町の伝説」として語りつづけていきましょう。

2003.5.12(No91)

 歴史健康ウォークから
 
回を重ねて47回になりました。
今回から参加者名(14名)を書いていただくこととしました。
注目すべきは小学4年生の小川君が参加してくれています。メモ帳片手に熱心に説明を聞いているのが印象的でした。二平川の洗濯場
また、ある人は私は歴史的なことよりも健康ウォークを楽しみに、そして知らない町の野山や古い町並みが歩けることがうれしいと私におっしゃいました。私もうれしくなりました。
「歴史・健康ウォーク」の趣旨が当たった!このような方が一人でも多く参加していただけるよう、これからもコース設定を考えて行きたいと決意を新に?しました。
5/10(土)午前9時ドーム集合出発 今回は中角氏にを講師をお願いし、倉治の町並み及び「くさ神さん」を訪ねて歩きました。

ドーム→住吉神社(狛犬のチンチンを確認)→代官屋敷→札の辻橋→遠見遮断の道(山根道)→倉治・卵塔(現在は住宅地)→大仏坂→教育文化会館→廃円光寺跡(倉治6−2−27)→春日との喧嘩唄→くさ神さん(春日の小篠さんが守っていただいております)→木戸→倉治の子守り唄→二平川の洗濯場→久御山線→ドーム

3時間ぴったし、お天気にも恵まれ内容豊富なコースでした。
歩くたびに新しい発見がある。

今回は「唄」だけをひろって説明しておきます。
@私部の子守唄に北田はんの歌が残っている。
 「いたら見てこい北田の屋敷 四角四面の良い屋敷」
 この歌が歌われたのは大正の初めのころだろう。
 屋敷は約四反(1.200坪)ある。
A春日との喧嘩唄
 「かすがべい けんかしよ 破れた傘で受けたるわ!」
 逆にかすがの子はくらじべい・・・とやり返したと思われる。
B倉治の子守唄 
 「こんや来るなら 高い塀をこして 千両椿をおらんように」
 何で子守唄やのに高い塀を越えなあかんのか?と質問される。
 もうすこし、考えたり、聞いたりしましょ。
 「石鏃が語る」〜石鏃からのメッセージ〜でまだまだ調べ、確認を要するところが沢山あります。
 中角さんがおっしゃった「石鏃ウオッチング」今回の歴史健康ウォ−クがまさにそのとおりですね。
 「くさ神さん」もやはり元のところにありました。周囲の環境があまりにも変わり過ぎていた。春日の小篠ご夫婦でお守りいただいておりました。ありがとうございますと声をかけておきました。
 これもすべて、石鏃に書かれておりましたので対応しやすかった。
 「歴史健康ウォーク」に「石鏃ウオッチング」をプラスして充実させていきましょう。
 


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