「今日の話はなんでっか?」
世の中に山とあるような話・知ってるつもりでも人に聞かれたら、説明できないようなことありまへんか。
お話しさせてもらいまっさ。
2002.6.28(No17) 霧の「重み」を知る
今日は少し違った話しをしたいと思います。
道元禅師は、「霧の中を行けば、覚えず衣湿る」という一言を残している。
人生もまたそれと同じだと言うのは
霧の中を歩いていると、濡れるともなく濡れぬともなく、知らず知らずのうちに、衣服が湿ってしまい重くなってくる。
どんな仕事をしているか、どんなことに日頃触れているか、日頃どんな人と付き合っているか・・・。それが、いつしかその人の身にしみついてしまうのです。
美しいもの、清らかなことに触れていると、だんだんと自分も、ほんの少しずつですが心豊かになっていきます。
逆もまたしかりです。
いつからそうなったのかわかりますか
わかりません。急に、そうなったものでもありません。
いつの間にか、知らず知らずのうちに身につけていくから、実は最も恐いといえます。
そして、本当の霧とは
私どもの心の内にあると思います。日頃、何を思い続けているか、何を善しとして物事を判断しているか。
それこそが、私たちをしっとりと湿らせ続ける霧ではないでしょうか?
追伸: チョットこんな事を思う今日この頃です。
今年も早や半年が過ぎようとしています。どんな上期だったでしょうか?また、後半の意気込みは?。
2002.6.26(No16) 市指定文化財の公開はこちら 国宝・重文それ以外の指定仏像は?
獅子窟寺→薬師如来坐像(国宝)
蓮華寺→阿弥陀如来立像(国指定・重要文化財)
前回ご案内させていただき、続いて市指定文化財を
ご案内させていただきます。
薬師寺→薬師如来立像・千体仏 星田寺→十一面観音立像 廃千手寺→聖観音立像・如意輪観音座像
所在地と文化財を詳しく
薬師寺→交野市星田1−21−12 (薬師如来立像)
等身大の堂々とした姿につくられ、厨子の中に安置されています。室町時代の終わりごろの制作かと思われる。像高158a。
(千体仏)
薬師如来・地蔵菩薩など、像高4.1aから15aの座像や立像など671体。ほとんどがヒノキの一木彫り。
星田寺→交野市星田2−6−7 (十一面観音立像)⇒
平安時代後期の作。藤原様式をもち、市内では獅子窟寺の薬師如来座像についで古い時期の仏像のひとつです。像高143a。
廃千手寺→交野市私市3−14−1 ( 聖観音立像)
修復されていますが、衣文を省略した簡素な彫法などから平安時代後期の作と思われます。像高31.3a。
(如意輪観音座像)
静かな面相や装飾的でやや厚めの衣文の彫法から室町時代の制作と思われます。
像の表面には彩色がなく、神聖な木でつくられたと考えられます。像高31.3a。
現在、交野市内には市指定文化財として5件の仏像があります。
年数回、一般公開されております。「かたの広報」に注目。
2002.6.24(No15) 八葉蓮華寺はこちらへ 傍示に快慶さんの仏さんが
そうです、昭和58年(1983)4月1日、市史編纂のため交野市内の各寺院を調査中に傍示・八葉蓮華寺から見つかった阿弥陀様です。
当時、話題となったのでしょう
はい、58年7月3日(日)の朝刊各紙に取り上げられた
内容は、金箔鮮やか快慶の仏像
国宝級・交野(大阪)の山寺で発見
完全な保存 鎌倉初期、銘入り
第1面に掲載されました。交野関連では過去なかった。
快慶作と何故わかったのですか?
足柄(あしほぞ)に「巧匠安(梵字)阿弥陀佛」と墨書き、この記銘により、この像の作者が鎌倉時代の名匠・快慶であることがわかった。
阿弥陀如来立像について
仏高82.4a、台座26.2a。ヒノキの一木を一部割って張り合わせる「割りはぎ造り」で、玉眼をほどこし、全身にうるしや金箔を張り、特に胸から衣文(えもん)のすそ部分には金箔が鮮明に残っている。
造立当初の「黄金仏」の華やかさを連想させ、やさしい表情と流れるような衣文が快慶らしさを表している。
快慶の銘について
青年期「仏師快慶」
建久三年(1192)ごろ「巧匠 安阿弥陀仏」
建仁三年(1203)ご ろ 「法橋快慶」
晩年期の承元二年(1208)「法眼快慶」と変る。
この結果、発見仏は建久三年から建仁三年の間につくられたとみられる。
八葉蓮華寺について
大阪・京都・奈良三府県境の山間にあり、天長三年(826)の創建と伝えられる。
一時は河内一円に勢力を持ったというが、建暦年間(1211−1213)僧兵同士の争いに巻きこまれ、延暦寺に攻め滅ぼされて廃絶。 その後、元亨元年(1321)に再建された。
昭和のはじめ無住になり、西方寺(奈良・生駒市高山)の住職が兼任されている。
昭和60年3月25日、重要文化財に指定された。
2002.6.21(No14) 獅子窟寺については、こちらへ 獅子窟寺の由来は
寺伝によると奈良時代聖武天皇(第45代)の勅願によって僧行基が堂塔を建てたという。
さらに平安時代に弘法大師が獅子窟寺で修法され、境内にある井戸は水の不便を、考え掘られ枯水したことがないと伝えられています。
何故、獅子窟なのか?
この山は全山花崗岩でところどころに風化に耐えた
巨岩が見られ、古来それぞれ種々のものに形どった
名がつけられてある。
なかでも特に獅子が吼えている姿に似ている岩があるところから「獅子窟」と呼ばれてきたのでしょう。
「河内名所図会」にも書かれているのですね
はい、河内名所図会(1801)では
「蒼翠盤磚(そうすいはんはく)にしてそのかたち、獅子の
地上にうずくまるに似たり。洞窟は深邃(しんせい)にして
俊貌(さんけい)口を開く。吼声(くせい)にして大いに震ふに髣髴(ほうふつ)たり。」・・・とあり説明している。
そのほか境内には
安産地蔵から牛臥石(ぎゆうがいし)へ、そして仁王門跡にたどり着く。左にとれば亀山上皇と皇后の供養塔「王の墓」への道である。
右の参道を行くと、石段がある。通称「亀山さんの石段」
で、百八段あったが、現在は百四段である。
亀山上皇が薬師如来にご病気平癒(へいゆう)を祈られ
、全快するや寺の修復をされ、この石段をお造りになったと伝えられています。
また、寺に残る長慶天皇(南朝)の伝説などあり。
ちょと足をのばしてみれば普見山獅子窟寺。眺望はひろがり、大阪市街、大阪城、それに明石海峡大橋まで望み、眼下には淀川から六甲山、移り変わる交野をゆくっり堪能することができます。一度お越しやす。
2002.6.19(No13) 日本の立派な寺の中に獅子窟寺はあるのか?
日本九品浄土事の中に日本ノ九品トハ何レヤ。
・上品上生→高野山
・上品中生→天王寺
・上品下生→賀峯山・忍頂寺(大阪・茨木)
・中品上生→師子岩屋
・中品中生→金峯山(奈良・吉野)
・中品下生→大安寺
・下品上生→熊野山
・下品中生→東寺
・下品下生→東大寺
よって、獅子窟寺は日本の立派な寺の中にある。
九品とは何か?
阿弥陀如来が説法をしているときの印相(いんそう)というものがあります。
この印相が表現しているのは、阿弥陀如来が誰でも迎え入れるために造った極楽の世界の様子を手の形で説明していところです。
そこには、九種類に区画された九品の世界があります。ここには、われわれ人間が現世の間にどれだけ信仰厚く、善い行いをしたか、その程度によって同じ極楽でも行ける場所が異なっている。だから善いことをしなさいよといっているのです。 もう少しわかりやすく
たとえば甲子園に野球観戦に行った場合、その座席には、特別席、内野指定席、アルプス席、それから外野席とそれぞれ段階があります。同じゲームを見るのですが、入場料を多く出すかで座席に違いがあるのです。
これと同じように極楽の世界の座席も、阿弥陀如来の印相で示された「品(ぼん)と上(しよう)」の組み合わせによって、九種類表現されているものです。
中央に薬師如来(国宝)、右に日光菩薩、左に月光菩薩をまつります。
日光と月光両菩薩は
昼夜にわたって人々を救済、日と月とは、その名のとおり
現実生活そのものであり1日24時間、昼夜をつかさどって、衆生の苦しみ救済に奔走する仏さんです。
さらに十二神将像が配置されているのですね
はい、私達の健康を害してやろうと、いつも病魔は心の
ゆるみに攻め込もうとしています。
その悪魔たちを追い払ってくれるのが薬師如来の守護神
が十二神将です。
頭には、それぞれが守る方角にあたる十二支の動物をつけている。
薬師の説法に
「すべての災いは口からだよ」と薬師のお医者さんは診断
されました・・・・。
日本きょうチュニジア戦
決勝トーナメント進出がかかるチュニジア戦は、午後
3時30分キックオフ。
日本サッカー史上、歴史的な一戦か
ズバリ私の素人予想では0対0の引き分けで、日本
の決勝T進出だと思います。皆様は?
前回、獅子窟寺の薬師如来について
薬師如来は、阿弥陀如来とは、ちょうど対極にある仏
といえるでしょう。
文字どおり、薬師=医師と考えてもいいのです。
そして、阿弥陀如来が西方浄土の教主であるのに対し
て、薬師如来は、東方の浄土・瑠璃光世界に住まう仏
様です。
どんな仏様?
肝心なのは、阿弥陀仏があの世の平安をもたらして
くれるのに対して、この世の病苦の除去としあわせを保障
してくれる、このような仏様を「現世利益のほとけ」と言え
ます。
私達は、時として現在の頭と心でながめすぎているのではないか?
医学や診療施設の発達していなかった昔、やまいを癒し
たいと必死にねがう心は、今よりも切実なものであったはず。どんな名誉も財産もなげうって、薬師如来の前にひざまづく人々がいたのは、当然のことでしょう。
W杯、日本16への挑戦、日本国民に幸せと・勇気を。
今日はNO11号、ジャパンイレブンがんばれ!
2002.6.10(No10) 交野市内には国宝に指定されている仏像が
あるんですね。
はい、獅子窟寺(交野市・私市)の薬師如来坐像が
そうです。
本尊薬師如来について
この仏像は行基菩薩が一刀礼拝のもとに三年三ヶ月
の歳月をかけて刻まれた像といわれています。
榧の木の一木彫りで高さ92a、相貌の眉、切目、
口唇的に漂う特徴と衣文の鋭い翻波様式は平安の
初期弘仁期(810−824)の代表作である。
国宝に指定されたのは
昭和43年3月16日に新国宝に指定された。
大阪府内の国宝指定像は 葛井寺(千手観音)・観心寺(如意輪観音)・道明寺 (十一面観音)と当市の薬師如来の四体である。
春はさくら、つつじ、山桜 新緑ころにはほととぎす
秋虫、観月、紅葉にと四季を通じて楽しむことができます。
毎年四月十二日は薬師如来の縁日で春季法要が修行される。 境内ところどころに風化に耐えた巨石があって、それぞれ
の名前がつけられています。
なかでも特に獅子が吼えている姿に似ている岩があることから「獅子窟」と呼ばれてきたのでしょう。
2002.6.7(No9) 旗振山に交野山ときたら次は?
海抜318bの竜王山です。
寺村から「峡崖道(かいがけみち)」を登っていくと左側に台地状になった広場がある。
そこには山桃の大木・地蔵「かいがけ地蔵」が立つ。 この地蔵様は歯痛によくきき又円満幸福を得ることが出きるといわれています。
竜王山に行くには
この「かいがけ広場」から少しあがると左側に竜王社の登り口がある。
鳥居の右前の標石に「従是嬰児山竜王社三丁」刻まれている。
「嬰児山(みどりご)」とも呼ばれているのは
付近には乳母谷(おちごだに)・溺谷(いばりだに)・地獄谷など暗く悲しいような地名がある。嬰児を捨てた山や谷ということでしょうか。
急なのぼり道、上りついた所がお祭り広場、その北一段高くなったところに竜王石があり、さらに北側にとんがった岩が雨乞い岩である。
郷土史カルタで「竜王山は雨の神」と詠まれています。
雨乞いの起こりは
淳和天皇の天長二年(825)干ばつで稲が枯れた。
村人のこの苦しみが天上に達して、弘法大師に雨の降るのを祈らせたのが山頂の竜王石です。それ以来、麓で干ばつがあると竜王社に雨乞いにまいる習わしとなった。
なるほどこれが「交野三山」ですか?
交野市内から見て(東)、北側から交野山(344b)
旗振山(345b)そして竜王山(318b)と連なる。
旗振するのには交野山には聖観音様、竜王山には雨の神様がおられることからこの地を避けて旗振山でと言うことになったのでしょう。
山名は旗を振ってから付いたのでしょう。 参考に
次に南山遺跡215b・ 哮が峰が186b・雷塚155b・妙見山144b・塚穴古墳140b
「交野三山」の四季折々の自然を満喫しようではありませんか?
そこで新カルタの読み札「にぎり飯 三個背負って 三山越え」 ところで、にぎり1個の大きさは小・中・大それとも特大ですか? 昨日の京都バスツァーご苦労様でした。
また、機会があれば計画して行きたいですね。
「今日の一言」に続き「今日の話しは何んでっか?」を
はじめました。ぼちぼち続けていきます。
ご意見、アドバイス、話しのネタなどお聞かせ下さい。
2002.6.5(No8) 交野で一番高い山は旗振山だったんですね。
それじゃ交野市民に一番親しまれている山は?
交野山です。海抜344b。
交野郷土史かるたにも
悠久の姿 山頂の岩
私たちの祖先が、ふるくから神の宿る山として崇め毎朝、山頂から昇る太陽に一日の無事を祈り、生活をはじめたといわれています。
山頂の巨岩とは?
この岩を観音岩と呼んでいる。
正面には大梵字「サ」・聖観音様が刻まれており、修験者の長が彫りつけたと伝えられています。
岩の大きさは、高さ19.2b、岩の上に畳を敷けば約30畳、大人なら100人位は座れる。
何年ごろ、誰が?
左下に「寛文六年丙午年吉祥日 京都猪熊荒神
三宝寺法印實傳」とある。
寛文六年(1666)
観音岩を中心に南側に三宝荒神様・北側に大日如来様(いずれも梵字)が刻まれている。
また、三宝荒神様の前の石には「石亀」という文字も見ることができる。
法印實傳さんの命を受けて交野山の大石に梵字を刻んだ石工の名ではないでしょうか。
聖観音様はどんな人を救うてくれまんねん
それは餓鬼みたいな人です。餓鬼って子どもみたいな人で、欲求不満のこと、それも欲しいものが与えられないからではなく、与られても、与えられても、さらにいいものをと、限りなく求め続ける人。一杯の美味しい水を飲めない人。
いよいよ出番ですなぁ
そうでんなぁ。近年これほど豊かになりながら「豊かさ」の実感がないと言う訳のわからない不満が巷に充満している。「満腹感」はあっても「満足感」がないとか。
これほど豊かになると「足るを知る」といった古人の知恵がなつかしく思い出される。さまざまな苦悩から脱却したいと願うのならば、まさに「足るを知る」ことが大切である。
物質文明の跳ね返り?、そうとも言えない。
この様な人を見守ってくださるのが交野山の聖観音様です。
本当は一番高い山は交野山と言いたい。
私の説、交野山は以前から「初日の出」のメッカ。市内をはじめ他市からも多くの人がご来光に登頂される。
多くの人が登頂される重みで沈没したり、馬鹿者が大岩に落書きし、消すために岩を削ったりしたためだ。
これは冗談ですよ。旗振山よりマイナス1bですもの。
山は高さじゃない。
交野はほんまにええとこだっせ!。
2002.6.3(No7) 交野で一番高い山は?
交野山(こうのさん)とちがいますか。
ちがうんやなぁ、交野山は海抜が344bです。
それじゃ、交野山より高い山は?
交野市内での最高峰は旗振山です。
海抜が345bです。
旗振山と呼ばれているのは何故?
江戸時代中頃から、商都大阪で全国から集まった蔵米を大坂堂島で米市がたった。
「堂島の米市場」という。ここで決まった米の値段を知らす方法は飛脚であったが それよりも早い通信方法が「旗振通信」であった。
どんな方法で
近い所は白旗、遠い所は黒旗で知らせ、約三里ごとに中継点を設け、次々と送っていた。
大坂の方が一望できる立地の良さがあり、東の山城、大和へも。次の中継地点が独立した山であれば、信号を送るのにふさわしい場所である。
いつ頃まで行われていたのか?
明治の初めまで、電信が利用されるようになると姿を消した。
2002.5.31(No6) 縄文時代について
最初の縄文土器の発見者は誰?
明治6年、東京大学で「ダーウィンの進化論」を講義するため、アメリカの動物学者E・モースが来日。
横浜から新橋に向かう大森付近で、汽車の窓から貝殻の堆積があるのを発見、これがいまに残る「大森貝塚」であり、日本における近代考古学の第一歩だった。
調査報告書は2年後に発表されたが、同時にこの中で縄目模様のついた土器類を「索紋(さくもん)土器」として発表、これが最初の縄文土器の発見である。
名付け親は誰?
それから7年後、日本における考古学の開拓者の一人白井光太郎氏が論文の中で、縄目模様の土器ということから「縄文土器」と名付け一般的な用語となった。
縄文時代とは?
縄目文の土器から名付けられた時代で約一万年ぐらいの長期にわたっているため、その模様の形式から早期、前期、中期、後期、晩期の五つに分けられている。
交野市内の縄文遺跡は?
交野市神宮寺に縄文時代早期の神宮寺遺跡と
星田に縄文中・後期の星田旭遺跡とがある。
特に神宮寺式土器は施文方法から編年的位置について研究する貴重な土器である。
交野から出土した遺物をまもろう。 交野は変ってゆく、どこから遺物や遺構が発見されるかわからない。
第2京阪国道建設もいよいよ本格的になってくるだろうし、とにかく「下を向いて歩こう」貴重な資料は身近にある。 2002.5.29(No5) 一里塚について 一里塚は街道の一里(四`)ごとに土を盛り、上に木を植えて
里程のしるしとした塚。
道をはさんで向かい合わせに二つ、木はエノキや松が多い。
一里塚の起こり
古代の中国らしい。
織田、豊臣の時代からつくられはじめたが、全国的には、徳川家康
が秀忠(2代・1605−1623)に命じ、お江戸日本橋を起点とした
主要街道に築かせてから広がった。
交野市にも一里塚はあるの?
JR星田駅から高架沿いを東に向い四辻を北に少し行くと小字名を街道の東を四馬塚(しばづか)、西を金門(かなかど)という所がある。その田の中にあった。
江戸中期ならびに天保八年(1837)の星田村絵図にはそれぞれ「一里塚」と書き、道の両側の盛土のうえに大きな松が一本ずつ画かれている。
現在は金門の方に一里塚跡碑がたっている。
当時を偲べば
街道には里程の目標と旅人に木陰を与え、休憩するために一里ごとに土を盛って松などを植え、一里塚とか一里松といった。
今は舗装道路となり、毎朝の車通勤ラッシュの迂回路として賑わっている。
古川柳にある
「くたびれたやつが見つける一里塚」
古人が歩いてきた街道を、これからも一緒の思いで歩けるか?
車社会の中にいて殆ど歩く機会を失いつつある現代人、これから
先の街道をどのように歩いていくかが問題だ。次の一里塚はどんな?
元気なうちに歩け歩け。
2002.5.27(No4) 熊野本宮近く「経塚」初の調査という話し
参詣に集う人々の姿が「蟻の熊野詣で」と表現された中世の
熊野本宮大社(和歌山県本宮町)の旧社地に連なる経塚群
がはじめて発掘調査、その概要が5/22の読売夕刊「手帳」
の欄に掲載されておりました。
経塚とは何んでんねん
平安中期(十世紀)以降、仏法が衰え乱世になるという
「末法思想」が広がる中で、経典を後世に伝えるため筒に
入れ、地中に納めた遺構。
遺構概要は
熊野川を挟み旧社地の南の丘陵上の七地点に営まれた
「備崎経塚群」で36基の経塚を確認。
常滑(愛知県)の甕(かめ)の破片を中心に、青銅の経筒や
和鏡・小仏像・中国・宋代の青白磁や緑釉(りよくゆう)の壷
の破片などの遺物が出土した。
これらの出土遺物から平安末期から室町初期まで継続的に 営なわれていたことが裏付けられた。 経塚の形式は
地面を掘り、経筒を納め周囲に河原石を積んで蓋石を置く
形式や、正方形に掘った穴側壁や底に板石を配置して経筒
を納めるタイプに分類された。
交野市内にも経塚はあるの?
はい、傍示蓮華寺経塚が確認されております。
「かいがけの道」・「中世熊野街道」「大仏の道」へと進み府民の森ゲートを過ぎたところを左にとれば傍示の墓地へと続く。
柿の木の下に石仏が「スマイル地蔵」と呼ばれている。その南側が経塚となっている。 径20b、高さ3b、雑木や笹が茂っている。
僧侶の中には、いつかお堂が焼かれて灰になろうとも、せめて不滅の経典だけは後世に伝えたいとの切なる心から、経巻を筒に納めたり、また経文を幾枚もの瓦に彫って焼き物として、土中に埋めたものである。
経文は五輪塔にも納められています。
ということですわ!当市の経塚はどのタイプ?。
今後の成り行きを見守りたい。
2002.5.24(No3) 中国・瀋陽の亡命者連行事件
ピンクの服を着た女の子をおんぶした若い母親が一散に
駆け出した。
阻止する武装警察官、取り押さえられて転倒する母親
呆然と見詰める女の子。記憶に新しいと思います。
また、こんな話しもあります。
群馬のひなびた寺に、手に汗握る場面の絵がある。
尼寺の門前で、女が追ってきた男にまさに捕らまる寸前。
焦った女は、とっさにぞうりを門内に投げ入れる。
江戸時代、日本に二つあった縁切り寺の一つ、満徳寺の 駆け込みシーンだ。
寺は幕府の寺社奉行の管轄下にあり、妻が一定期間こもれば
強制的に夫から離縁状を取りつけられた。
寺による示談の仲介もあったという。
仮に絵の中の女が男に押さえられても、ぞうりが寺内にあれば
女は「セーフ」だ。徳川家の権威を背負った寺役人に一喝されれば
男は、すごすごと引き下がざるえない。
日本の国益を守る外務省、総領事館員がどの程度、阻止を試みたのか。
往時の縁切り寺の役人なら、どう対応しただろう。 2002.5.22(No2) 神輿は神の豪華な専用車?
祭りに神輿(みこし)はつきもので、文字どおり神様の乗り物だ。
輿というのは二本の長柄(棒)の上に屋形を置き、肩でかついだり、腰の辺りに支えて人を運ぶ乗り物のこと。
この輿は身分により造りが違うのか?
奈良、平安時代には天皇、皇后、斎宮などに輿は限られ神輿といった。
天皇専用の神輿とは?
屋形の上に鳳凰(ほうおう)を飾りつけたもので、大切な儀式のときに用いられた。
鳳凰以外の飾り付けは?
金色のネギの花を飾った輿がある。ネギの花は長く散らないのでめでたいと考えられていた。
神は神輿にのって旅されるのか?
神輿の出る祭りは神幸祭と呼ばれている。
神輿は本社よりお旅所に渡御し、そこから本社へ環御になる。 お旅所とは?
神輿を仮に奉安する場所のこと。また神社の元の鎮座地とという場合もある。つまり、神社に正式に神を祭る前の祭場を意味していることにある。
人々はこの神の旅によって、神の威力、神霊の新たなよみがりを願ったのであろう。
交野市・私部住吉神社からお旅所までの渡御が行われています。(秋祭り)
2002.5.20(No1) Q:鳥居って何でっか? A:神社のシンボルでんがな。そこから先が神の住むエリア
を表し、その入り口に立つ門が鳥居ですわ。
Q:シンボルって言うことは分かってま、何故トリなんか。
A:天の岩戸開きの神話(古事記)では、弟のスサノオ の数々の蛮行を怒ったアマテラスが、天の岩戸に隠れ こもってしまう。このため天地は真っ黒の世界となって しまった。
困った八百万(やおよろず)の神々は相談して、まず岩戸の前に長鳴鳥(ニワトリ)を集めて鳴かせた。つまり夜明けを告げさせた。 なるほど、この神話から神鶏とされ、神前にニワトリの止まり木が、造られ、鳥居となったということでっか。
鳥居は「鶏の止まり木」だったということでんな。
了解 |