「今日の話はなんでっか?」を連載中です。
*月・水・金曜日に発行いたします。 世の中に山とあるような話・知ってるつもりでも人に聞かれたら、説明できないようなことありまへんか。
お話しさせてもらいまっさ。
2003.2.17(No70) [奴国の金印] 白銀5枚の国宝
西暦57年に後漢の光武帝が倭の奴国に印章を与えた。という記事が中国の史書にある。
江戸時代に志賀島で発見された金印がそれだ。
1784年(天明4年)北九州市、志賀島の百姓の甚兵衛が、島の叶の崎で田の溝を改修していた。すると、2人で持つほどの大きな石が出てきた。テコで掘り起こすと、その下から金印が出てきた。彼はそれを持ち帰って兄に相談した。兄は、以前奉公していた福岡の豪商にそれを見せ、純金で値打ちのあるものだと教えられた。 そのうち庄屋がやって来て、それを郡役所に差し出すように言った。こうして金印は、白銀5枚で甚兵衛から買い上げられ、黒田藩主の所有物になった。
金印は、「漢委奴国王」の5文字を刻んだ、1辺2.3aの純金の方印で、つまみは蛇の形をしている。
発見当時から話題になり、学者のなかには偽物かと疑う人もあった。しかし、今日では[委奴国]は倭の奴国で現在の博多あたり、1辺の長さは漢の寸法の1寸、蛇ちゆうの古印は雲南省からも出土したなど、いろいろな疑問も解決している。したがって、この金印は「後漢書]の中の[建武中元2年(西暦57)倭奴国
貢を奉じて朝貢す 使人自ら大夫と称す 倭国の極南界なり 光武賜うに印授を以てす」と記されている[印]である。
印授は印章とくみ紐。[魏志倭人伝]には博多のほか南方の奴国も記されており、そちらと間違えたと見られる。
なお、現在、金印は国宝となっている。
[日本の歴史便利手帳より]
2003.2.7(No69) 源流を訪ねて
星田新池の上流の谷は(なすび谷)と(ぼって谷)という。
その谷川が一つに集まるところに星田新池があり、 そこに交野最古の人が住んでいた。(旭縄文遺跡) 新池から流れた川は、特養老人ホームのところで傍示川に合流する。 傍示川の源流は星田南星台の住宅地を抜け、地獄谷へと遡る。 なすび谷に石組み、一部セメントで築かれている用水路は星田新池がつくられた明治から昭和のはじめ頃に作られたもの思われる。なお、詳細は村の長老よりの聞き取り調査が必要である。
いずれにしても最近のアニメ映画「千と千尋の神隠し」を思わず連想した。まだまだこれからも源流を踏査していきたい。
地獄谷とは この世の世界ではない、あの世の世界、草木が一本とてない荒涼たる様は三途の川の光景が想像される場所を地獄と呼ばれる。
ここ星田の地獄谷は、この谷を歩いた人は、谷が深くて狭く、その深い谷を歩いていると一種異様な雰囲気になり、一刻も早く抜け出たい衝動に駆られる。
なにか陰気な、居てもたってもいられない気分になりましたなぁ。昨日は3人で歩いていたから、そうではなかったが。はじめて一人で歩いていたら、途中で引き返すでしょう。なにかゾクゾクする感じがする谷筋だった。
だから人のあまり立ち寄らない、村人の恐れられた場所として忌み嫌うので、昔から死牛馬等の捨て場所ともなっていたようだ。
そのような地域であるので「地獄」という地名が生まれたものと思われる。
星田新池は交野市内で4番目の大きな池である。
面積は2ヘクタールで、つくられたのは明治末から大正にかけて下の方の田んぼの用水として大切な役目を果たしている。
堤防の老朽化とともに大阪府が中心となって改修工事がなされ、昭和60年3月に完成した。
今、新池公園となりその広場に改修記念碑がたてられている。
2003.2.3(No68) 節分
立春の前日で、二月のはじめにくる。
旧暦ではでは元旦から七日正月までの間にこの日の来ることが多かったため、両方の行事が混乱し、本来の節分の行事が何であったかはっきりしない。
しかし現在この日に行われる行事には、邪気悪霊を防ぐ呪術的なものが多い。
柊(ひいらぎ)に鰯(いわし)の頭をさして戸口にさしたり、ニンニク、ヒル、トベラなど臭気の強いものを添えたりして、悪臭で疫神を防ごうとする習慣は全国的に行わている。大豆を炒り「福を内、鬼を外」を唱えて室内に撒き、鬼を打つ行事は主に都市を中心に広まった。
この時節は冬から春への折り目であり、新しい季節を迎えるにあたって邪気を払うひとつの方式として種々な行事が行われたと考えられる。
・夜になると、炭火で年越し飴を伸ばしながら食べ「銭を伸ばす」(お金持ちになるよう)とか、「食べ伸ばす」(食べものに心配のないよう)とかいって、験(縁起)を担いだ。
・「節分は八方が開いている」(悪い方角がない)といって結婚式が多い。
・昔から「屋敷の中の古木には神さんがいやはる」といって、これを切ることをいやがったが、この日は切ってよいとされた。
・神棚にそなえた豆を自分の数え年より一つ多く食べた。
・年越しの晩に夜なべをすると庭に穴があくといってしなかった。
・サラリーマンも今夜だけは残業なしでっせ!
庭に穴あきまっせ!
それより仕事に穴あいたら、困りまんねん笑・笑・笑。
・節分の日「巻きすしの丸かじり」こんな関西だけでっせ!
これも、恵方に向かって無言で太巻きを丸かじりしながら願い事をすると、夢かなうと言う。
天平のサラリーマン生活 その3
出世頭の一人、平城京に住んでいた田辺道主という人。
道主は、18歳で舎人(とねり)という宮廷の雑役の仕事を振り出しに、28歳で最下位の小初位(しようそい)という位で採用された。
この時の年収230万円。
そして40年近く勤め上げ、最後は正六位にまで出世し、年収760万円の身分に。
もう一段上がれば従五位下で、全国で百数十人のエリート官僚の仲間入りができた。
しかし、齢すでに65過ぎ。実は、五位以上には貴族の子弟しかなれない規則で、道主が庶民の出で六位まで出世できたのは稀なことだった。
親の七光が制度としてあり、名門の子弟は21歳で任官すると、六位をポンと飛び越して、五位からスタート。五位の年収は六位の倍の1540万円也。
この不平等な制度は「陰位(おんい)の制」と呼ばれ、平安時代までつづいた。
(いずれの年収も現在に換算したもの)
役人のエリート制度、奈良時代の役人は、平城京勤務と地方勤務で合計15,000人ほどいた。
当時の人口は全国で700万人。国民の400人に一人が役人。あこがれの職業だった。
ちなみに現代は国民27人に一人が役人。奈良時代の方が15倍値打ちがあった。
参考:雑学「日本の歴史」古川愛哲著
小泉さん「構造改革なくして成長なし」がんばってや!。
2003.1.29(No66) 天平のサラリーマン生活 その2
勤務時間について
五位以上のエリート官僚たちは、正午前に帰宅が許される。高級官僚の勤務は午前中だけだが、日の出からだから7時間は働くことになる。
六位以下の中・下級役人たちは、午後からが事務処理の時間。彼らは日の出から日没まで働いたらしい。
一日12時間労働。
それから2時間かけての帰宅。
睡眠時間は6時間程度しかとれなかったにちがいない。
休日は六日ごとに一日で、休日には自分田畑を耕し
た。働き者だったのだ、ご先祖様は!。
2003.1.27(No65) 天平のサラリーマン
奈良の都は平城京。
役所のあるところは平城宮。その広さは、現在の皇居と同じ。ここに約一万人の役人が通ってきた。
日本最初のサラリーマンだか、その現実は・・・・・・・・・。
通勤について・・・・平城京のサラリーマンは早朝出勤。
勤務時間は日の出とともにはじまる。
五位以上の高級官僚は、馬や輿(こし)の送迎車つきの出勤だが、六位以下の役人は徒歩で通っていた。
朝焼けの平城宮の前は、通勤する一万人の役人たちで道路は埋まった。通勤ラッシュ。
下級役人が多く住む平城宮の南の端は、宮殿まで7`以上離れいる。
ここから徒歩で通うのだから、片道二時間テクテクと宮殿に向かった。仕事が終われば、また二時間テクテクと歩いて帰宅。徒歩での往復四時間は通勤地獄だっただろう。それでも楽しみもあった。通勤風景を詠んだ名もない女の歌が「万葉集」にある。
打日さす宮路を人は満ち行けど
わが思う君はただひとりのみ
(解説)早朝の通勤ラッシュ。沿道にあふれる人の中で、
わたしが恋しているのはアナタ一人よ、という娘
の密かなトキメキの歌。通勤途上でのロマンス
の花が咲く風景は今も昔も変わらない。
最近はなにやら、女性専用列車なるものが登
場してきたが、このロマンスとやらは失われつつ
あるのか?交野から平城宮まで約20キロ。
例えば、通勤ではないが
交野から 平城宮までの日帰り出張は可能
2003.1.20(No64) 職業はすべて農業からはじまる
民という言葉がある。 国民の民、日本の民のタミ。タミ(民)の語源は、「田を作る身」の田身に由来するという。
日本の民は、農民なのである。奈良時代にかけては、政府が土地を国民に貸して、耕させた。土地は国家のもので、国民は国から土地を借りてタミ(田身)としてセッセと米を作った。古代の日本人は、生まれると公に仕える農民に就職したことになる。タミを作った作物を集める、大きな家がある。それがオオヤケ(大宅)、首長の家である。オオヤケ(公)とは、大きな家。一番大きなオオヤケ(大宅)は、朝廷である。われら公民とは、朝廷の農民の意味になる。
さて、農民が作った収穫物はアキと呼ばれた。
その収穫のある季節がアキ(秋)である。収穫物(アキ)を、市場に出して売るのがアキナイ。つまり商いである。
収穫物を専門に扱う人が、アキンド(商人)となった。
職業はすべて農業からはじまる?、の観がある。
2003.1.15(No63) 散供(さんぐ)
交野市内でも所々にみられる風景です。
日本人の信仰はアニミズムだから、森羅万象(しんらばんしよう)あらゆるものに神が宿っていると考える。
そこから散供という言葉が生まれた。散供とは、森羅万象の神々にお供えものをさしあげて、巧徳をほどこすのである。道端の石塚・大木・地蔵・ほこら・石段にさえお供えをさしあげる。
万葉集に
家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕
旅にしあれば椎の葉に盛る
家では神を祭るときは、お供えものを器に入れて祭るが旅行中だから、仕方なく、椎の葉を裏返してそこに米粒を載せて、道々の神々を祭っていきますという意味。
2003.1.10(No62) 手を打てば はいとこたえる 鳥逃げる
鯉はあつまる 猿沢の池
猿沢池畔の宿屋における情景をよんだものですが、お客さんがお呼びになったと、女中さんは「はい」と返事してトントンと二階の部屋にあがっていく、屋根にとまっていた雀は驚いてパッとにげる、ところが猿沢の池の鯉は、エサがもらえると喜んで集まってくる、手を打つ音一つにもそれぞれの立場立場で、それぞれの受け取り方があるのだというこです。
また、同じお話を聞いていても、いい受け取り方をすれば、それは善業となってその人の未来に向かって働くでしょうし、悪い受け取り方をすれば悪業となって未来に働くのです。 よく自業自得ということを申します。自ら作った善悪もろもろの業によって、自分自身、その報いを受けるということです。結局、自分の過去世の業が、現在世の自分を作り、現在世の自分の業が、未来世の自分を作っていることになるのです。
過去世の業を一切ふくめて「宿業」といいます。私たちはこの宿業を原因として生まれてきたのであります。それが「宿業を因として」の一句であります。
参考:「母」 高田好胤著
2003.1.8(No61) 羊
柔順で臆病者といったイメージを持つ羊さん。
西洋では信仰者として神に仕えたり、料理の世界では消化に良く、疲れたからだにやさしい肉食として評判がいいのです。
哺乳類・偶蹄目・ウシ科・ヒツジ属[羊の皮をかぶった狼]という表現にあるように、純朴なイメージをもったヒツジです。歴史的にみてもイヌに次いで家畜歴も古く、扱いやすい動物なのかもしれません。
今年、わたし達の前にはどんな暮しの道がひろがっているのでしょうか?。
たとえどのような道であろうと今日の一歩、毎日の確かな暮しの歩みこそ、明日のよりよい一歩があると思います。
昼の時間が最も短い冬至のころが一番寒くてもよさそうなものだが、実際の気象はそうはなってない。
寒いのは、寒の入りから節分までのいわゆる「寒の内」で、ちょうどいまの時期である。
日は長くなりはじめたのに、寒気は逆に厳しさを増していく・・・・。
明日のより良い一歩を目指して。
参考:1/1花王石鹸の広告・トラピックス倶楽部・よみうり、編集手帳より
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