「今日の話はなんでっか?」を連載中です。
*月・水・金曜日に発行いたします。 世の中に山とあるような話・知ってるつもりでも人に聞かれたら、説明できないようなことありまへんか。
お話しさせてもらいまっさ。本日をもちまして「今日の話は何んでっか」NO100号をもって終えたいとおもいます。最後に私の「自慢ばなし」で、ありがとうございました。 Q:輪廻(りんね)する世界とは?
A:仏教で説く「世界観・宇宙観」では、その世界像を大きく二つに分け
けて考えている。すなわち、輪廻する世界と輪廻しない世界の二元
的な構造としてとらえている。
Q:たとえば、その世界とは
A:私たちはよく、「迷いの世界と、悟りの世界」「此岸(しがん)と彼岸
(ひがん)」「煩悩の世界と涅槃の世界」などと呼びあらわします。
輪廻とは「生き変わり、死に変わりすること。車輪が回転してきわま
りがないように、霊魂が転々と他の生を受けて迷いの世界をめぐる
こと。
Q:この、転々と他の生を受ける世界が六道に分類されているのか?
A:そうです、@地獄道A餓鬼道B畜生道C修羅道D人道E天道の
六つです。これを「六道輪廻の世界」と呼んでいます。
Q:輪廻するということは
A:この六つの世界を生まれ変わり、死に変わりして永遠に転生を続け
ることを意味する。一つの世界でその生を終えた生き物は、来世に
は六つの世界のいずれかに生まれ変わることになる、ということで
ある。である以上、人間は、再び人間に生まれ変わることもあれば
他の天、修羅、畜生、餓鬼、地獄のいずれかに生まれ変わることも
あるわけです。
Q:ところで、そのいずれかに生まれ変わるかは、誰が決めるのか
A:それは生き物、人間つまり私たちが生きている間に、どのような所
業をなしたかによって決定される。悪事を為したものは地獄に墜ち
るし、善を為した者は天に生まれ変わることができるのです。
仏教ではこの考え方を「因果応報(いんがおうほう)」という。
Q:輪廻しない世界とは
A:これとは正反対の世界で、この世のいっさいの迷いや煩悩から
解放された「さとりの世界」「仏陀の世界」であり、私たちが、極楽
浄土という理想の世界のことである。そして「六道輪廻の世界」から
脱出して、もはや二度と輪廻することのない世界、つまり極楽浄土
に到達することを「解脱(げだつ)」という。
仏教の教えとは、つまるところ「輪廻の世界」からの「解脱」にある
のですね。どうすれば悟りを開いて「仏陀」になり、輪廻しない世界
・・・極楽浄土に到着できるか、それを釈尊は私たちに教えて下さる
のです。「輪廻の世界」からの「解脱」へは一方通行である。
昨日の「石仏調査」で市内各地域の六体地蔵さんを訪ねました。
現地にて、あやない、こやないと話しあいました。歩かなわからん
ことがありまんなぁ!(2003.5.6)
2003.4.23(No89) 大量「銅鐸」が出土した意味は? Q:出雲国からの銅鐸出土数は?
A:加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が発見されたため、現時点で出雲国から出土した銅鐸は、合計50個ということになりました。
Q:この50個という数字は?
A:すごい数字です。いままで銅鐸製作の中心地といわれていた近畿・東海地方の旧国別に集計しますと★摂津国・・34個 ★河内国・・14個★大和国・・20個 ★和泉国・・12個 ★遠江国・・30個 ★三河・・30個 ★近江国・・41個となっています。
したがって、現在、出雲国が日本一の銅鐸出土(所有)国としてランクされます。
Q:ところで銅鐸の出土数と政治的な権力の関係は?
A:直ちに結びつけることは早計です。たくさんの銅鐸を用いた祭りを、全国でも盛んにおこなわれていたことは事実ですが、その保有数イコール権力の強弱とは言いがたい。
Q:出雲の権力が強大だった証拠といえるか?
A:保有できる力は確かにあったのですが、それが政治的な力だとは決めがたいものがありますね。
「今日の話は何んでっか?」もいよいよ100号にむかってラストスパートでんなぁ。 2003.4.21(No88) 加茂岩倉遺跡と神庭荒神谷遺跡との関係は?
加茂岩倉遺跡(銅鐸出土)と神庭荒神谷遺跡(銅剣出土)は直線距離にしてわずか3.3キロメートルしか離れていません。
しかもかつては尾根伝いに山道があったといわれ、歩いても一時間とかからない距離ですから、何らかの関係があったと考えられます。
しかも両遺跡とも人里離れた丘陵の奥まった谷に面した斜面という、きわめて神聖な「聖域」の雰囲気を漂わせている点でも似ています。
ただし、神庭荒神谷遺跡からは「出雲国風土記」に記されている神名火山(かんなびやま)という「仏教山」が望めるのに対し、加茂岩倉からの眺めは悪く、これといったものは望めない。
何より両者の密接な関係を物語る決定的な証拠は、謎の「×印」です。
銅剣358本という日本一の出土数を誇る神庭荒神谷の銅剣には、根元の「茎(かなご・柄を差し込む所)」の部分にタガネ状の工具で刻んだ×印があります。確認されたものだけ328本という数にのぼります。
一方、銅鐸39個という日本一の出土数を誇る加茂岩倉の銅鐸にも同じ「×印」がつけられているのです。
銅鐸の吊り手、「鈕(ちゅう)」の中央部に×印がある。12個確認されています。(1997.3末現在)
この事実から、少なくともある時期に同じ集団、同じ権力を持つ人々によって、二つの遺跡の青銅器のうち何ほどかが所有されていたと考えることができます。 まだまだ続く! 交野地方からの「銅鐸」出土の可能性はいかに?
人里離れた丘陵、国境(傍示の里)・神の座ます山(交野山・竜王山)・弥生の遺跡(南山)と、チョット思いうかべただけでもロマンが漂ってきますね。絶対出るとも、絶対出ないとも言いきれるものでもない。
加茂岩倉も農道建設中に偶然発見されたものである。交野の里にも「謎」を秘めた場所がある。
[ 謎のX印 ] 島根・荒神谷遺跡の銅剣 ナゾの「×」印を確認
荒神谷遺跡から出土した弥生時代中―後期(紀元前1世紀―紀元3世紀)の銅剣358本を保存処理している奈良県生駒市の元興寺文化財研究所は27日までに、処理を済ませた92本のうち78本に「×」印が刻まれていたと発表した。5年前の出土時も一部で確認されていたが、今回の発見でほとんどの銅剣に刻まれていたとわかり、工人グループのマークか"銅剣の祭り"の祭主の家紋ともみられ、大量埋納のナゾに迫る手がかりとなりそうだ。線刻は銅剣の柄(つか)に差し込む茎(なかご)にみられ、約1センチ四方の大きさがある。 2003.4.18(No87) いったい銅鐸は何をするものなのか? 銅鐸とは、いったい何なのか。実は謎のベールに包まれています。
よくわからない部分が多いのです。
現在一般的に言われているのは、農耕・稲作に関係した祭りの用具だろうというものです。たとえばムラ祭りの場で、銅鐸を吊り下げ、「舌(ぜつ)」銅鐸の内側に吊り下げた棒状のものを振ることによって音を出し、豊作を願う、そのように使われたのではないか。
音を出す「楽器」であったことは、銅鐸の内側の一部がすり減っていることからも、うなずけます。(舌が内側の突帯に長期間当たってできた磨滅の痕跡が認められる)。
また、全国で発見された銅鐸の約一割に絵画が描かれています。主な画材は、シカ(土地の精霊か)、トンボ(水田の神様か)、サギ(稲のシンボルか)など稲作に関したものです。 祭りの場で、銅鐸の絵を見ながら、また音を聞きながら、「聖なる語り」をしていたのではないでしょうか。
やがて時代が下がってくるとともに、銅鐸は約20〜50cmくらいの大きさだったものが、1m前後の大型のものに変化していきます。
日本一大きい銅鐸は、滋賀県大岩山遺跡から出たもので、134cmもあります。これだけ大きくなるともはや「楽器」としての機能はなくなり、「見て聞く銅鐸」から「仰ぎ見る銅鐸」になります。当然、銅鐸を用いた祭りの内容と方法も変わっていったことでしょう。
2003.4.16(No86) 何のために、39個も大量に 埋めたのか? さまざまな説がありますが、定説はありませんが、その中からいくつか
Q:急に敵が攻めてきたので、あわてて土中に埋めたのか?
A:加茂岩倉の場合、あてはまらないと思われます。埋め隠すにしては、
わざわざ丁寧に「ひれ」を立てたり、しかも「入れ子」のような狭苦しい
感じの状態に並べるのは不自然。
Q:地上で使っていたのをやめて、土の神か穀物の神様に捧げるために、穴を掘って埋めたのか?
A:39個も埋めたのは、大量奉納の考え方だろうか。たとえば現代人でも神社へ初詣した時、たくさんお賽銭をあげたのだからそれだけ幸せがもたらされると期待するようなものである。
Q:39個を1〜2個ずつ各ムラへ配るつもりで、一時期地中へ埋めて貯蔵したのではないのか?
A:配達するものならわざわざ土中に埋めなくてもいいだろうし、一時保管なら「ひれ」を立てる置き方にこだわらなくてもいいような気がする
(加茂岩倉遺跡の銅鐸はひれを上して埋められていた)
Q:普段は神聖なところに埋めておき、祭りの時に掘り起こして使用するためなのか?
A:地上ではなく地中においたのはなぜだろうか。地中の地霊の力を
来年の祭りまでに、新しい生命力として銅鐸にそそぎ込んでおこうと
いう意図があったのでしょうか。謎はまだまだ続く。
次号では「いったい銅鐸は何をするものなのか?」です。
(注) 「銅鐸」の話の中で?
「入れ子」とは、大きい方の銅鐸の中に、小さな銅鐸が入れる、つまり
ペアー(対)の状態になっているのを入れ子といっています。
「ひれ」とは、銅鐸を立てて、左右にある、耳のことです。(私の表現では耳)
2003.4.14(No85) 加茂岩倉遺跡銅鐸の謎 Q:なぜ、加茂岩倉の銅鐸は山の中腹などという不便な場所に
埋めたのか?
A:山は、平地にある集落とは離れた、普段の生活とは一線を画した神
聖なところだ、と古代の人々は考えていました。つまり山には「山の
神」が宿っていたという考え方です。
Q:どんな考え方ですか?
A:たとえば「出雲国風土記」にも四ヶ所、神が宿る山「カンナビ山」が記
されている。39個もの銅鐸が埋まっていた加茂岩倉遺跡は、奥まっ
た谷に面した山の中腹にありますから、ここには神が宿ると考えても
不思議はありません。山の神の霊力を期待し、銅鐸を鳴らす祭りをし
ながら、今年も平野の水田から、たくさんの稲(米)が収穫できるよう
に祈る祭りをしたのでしょう。
Q:その他、どのようなことが考えられますか?
A:あるいは周囲のムラから悪霊や邪悪なもの(伝染病)が自分たちの
ムラへ入ってこないように祈願したとも考えられます。
とくに加茂岩倉遺跡は、当時のムラとムラの境界線上に位置してい
たようですから、十分そのようなことが想像できます。
次号では「何のために、39個も大量に埋めたのか?」を。
2003.4.11(No84) 出雲の二大発見(パートU) そして1996年、荒神谷遺跡から約3キロ離れた島根県大原郡加茂町の加茂岩倉遺跡から、一挙に39個の銅鐸が発見された。
世紀の発見が同じ地で二度起こったということである。「銅鐸は近畿」という常識だったから、まさしく晴天の霹靂(へきれき)だった。
それまでの銅鐸の出土数は、約430個。そのうち近畿が過半数で、兵庫の60個強を筆頭に、和歌山、滋賀、大阪の順だ。
東海地方も多く、愛知、静岡を中心に70個近く出土している。四国でも香川、徳島で50個以上、その他岡山が20個だ。(1992現在)
肝心の島根県では、荒神谷を除くと10個弱しか発見されていなかった。
すでに私たちは教科書で、弥生時代には「銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏」が存在し、銅鐸は近畿を中心に、銅剣銅矛は九州を中心に二つの文化圏があったと学んできた。出土データからの文化圏の割り出しは確かに科学的のように見えるが、この考え方は、ひとつの発見で崩れてしまう危険性があった。それが出雲地方での発見だった。たとえば、銅剣でいえば、荒神谷遺跡の発見によって、出雲地方はその過半数を出土したことになるから、出雲が銅剣銅矛文化圏の中心になってしまう。しかも、その銅剣銅矛文化圏の中心になるはずの出雲地方で、今度は加茂岩倉遺跡の39個や荒神谷遺跡の6個の銅鐸が出土したのだ。まさしく、従来の二大文化圏説では、とても説明できなくなってしまったのである。 次号では「銅鐸の用途」について、お楽しみに
2003.4.9(No83) 出雲の二大発見で定説は崩れた! 1972年、島根県大原郡加茂町の神原神社古墳から「景初三年」の年号の刻された三角縁神獣鏡が発見され、話題となった。三角縁神獣鏡が「邪馬台国」論争渦中の鏡だったからである。
1984年、島根県簸川郡斐川町の荒神谷遺跡から、四列に整然と並べられた銅剣358本が発見された。さらに翌1985年、銅鐸6個と銅矛16本が発見された。
荒神谷遺跡が一躍脚光を浴びたのは、なによりその量だった。
銅剣358本というのは、全国ですでに発見されているすべての銅剣の数が300本あまりだから、1箇所でそれに匹敵する、それ以上である。
さらに銅矛も納められていたから、まさしく「弥生の武器庫」といっても過言ではない。そして、ほとんど考えられなかった銅鐸も発見されている。さらに最も重要なことは、ここが出雲の中心地であるということだった。そこで、九州と近畿という二つの文化圏に対抗する「出雲文化圏」なるものが唱えられるようになる。
そして1996年、荒神谷遺跡から約3キロ離れた島根県大原郡加茂町の加茂岩倉遺跡から、一挙に39個の銅鐸が発見されたのだ。
次号で「加茂岩倉遺跡出土の銅鐸」について
2003.4.7(No82) 金属器の出現 弥生時代の特別な遺物として、金属器が出現してくる。
金属器は日本へはまず鉄器が入り、続いて青銅器が入ってきたと考えられている。金属器の使いみちは、農耕用具・耕作道具・武器・祭祀用器・漁労・狩猟用具・装飾用品などと考えられる。
これらのうち、遺跡から出土する鉄器の主な種類としては斧・手斧(ちような)・ナイフ・ノミ・鍬先・鋤先・鎌・剣・刀・矛・槍・鏃(やじり)などがあげられる。もっとも古い例は北九州に多く、中期代に近畿地方から中部、東海地方へ、後期代にはいると東国(関東地方)にもある程度伝わってきたことがわかる。 静岡県登呂、山木両遺跡から発見された木器・木製品は、金属器による加工の痕をよく残しており、加工具の鉄などは腐食して出土しないものの、残存状態の良い加工品から当時の様子が充分再現できる。一方、青銅器では、鏡が墓からよく発見される。 鏡に中国大陸から伝わったもの、朝鮮半島方面から伝わったもの、後期に日本国内で作られたものなどがあるが、当時、各地のムラの長(おさ)たちは、権威の象徴として、また自分の宝器・祭祀器として所有していたと考えられている。 次号で大量の銅剣発見!
2003.3.24(No81) 弥生文化 邪馬台国の人々の生活は、もちろん弥生時代の生活である。
その生活のすべて、クニのシステム、冠婚葬祭から土器・青銅器の作り方、狩のしかた・料理のしかたに至るまでの総体が弥生文化である。
弥生文化はどのようにして成立し、また他の文化とどう違うのだろうか?
Q:弥生文化とは何か
A:まず弥生文化とは何かを考えるために小学校用の学習国語辞典で調べてみると、残念ながら弥生文化という項目はない。
Q:学習国語辞典ではどのように
A:@やよい(弥生)陰暦三月の別名。Aやよいしきどき(弥生式土器)紀元前二百年ごろの日本でつくられた土のうつわ。B東京の本郷弥生町(ほんごうやよいちよう)からはじめて掘りだされたのでこの名がある。
縄文(じょうもん)式土器よりは新しい時代のもの。とあるのみです。
Q:国語辞典の定番ともいえる「広辞苑」でもないですか
A:あるのは、@やよい(弥生)[イヤオヒ]の転、陰暦三月の異称。
Aやよいしきどき(弥生式土器)(明治17年東京の本郷弥生町の貝塚で発見されてから名づける)弥生時代の素焼きの土器。B縄文式土器より焼成温度が高いため一般に赤褐色を呈し、無紋または簡単な文様で甕(かめ)・壷(つぼ)・高坏(たかつき)・鉢(はち)などがある。弥生式土器を標式とする考古学上の時代、縄文時代の後、古墳時代の前。
Q:年代はどのように
A:紀元前3世紀頃から後3世紀頃まで。大陸文化の影響を受けて水稲耕作や金属器の使用がはじまり、銅剣・銅鉾・銅鐸(どうたく)のほか鉄器も用いられる。
普通、前・中・後の三期に分け、遺跡は関東以西に多い。
とあって、土器の絵が描いてあったりする。
次号では、日本史辞典などから弥生文化を探ってみたい。
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