4月12日、NHKの朝のニュースで美しい平安神宮のしだれ桜を中継していたので、是非一目見ようと急遽出掛けて来た。さすがに人、人の人盛りで、沢山の素晴らしい枝垂れ桜に感動。何度となく円山公園や平安神宮は訪れたことがあるが、申し分ない快晴の春の一日、今までに見たことのない桜の満開を謳歌した。
また、江戸時代の花街・島原に残る、現在でいう料理屋・料亭の「角屋」に行った。
特に、2階の贅を尽くした部屋の作り、調度品などにびっくりした。沢山あった、当時の建物も殆ど壊された中、ここ「角屋」だけがよくぞ保存され、公開されたことに感動を覚えた。(2階は、特別公開で予約制で見学できます。)
京都見物のコースに、是非加えて欲しい、一見の価値ある文化美術館です。
平安神宮の桜の写真は
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先ず、朱塗りの鮮やかさと境内に敷き詰められた白砂に圧倒される。この神宮は、明治28年に行われた平安遷都1100年祭を記念して、経済学者田口卯吉の提言により建設されたという。
天皇が東京へ行かれてしまって日の消えたようになった京都をなんとか復興させようとするプロジェクトの一環として。祭神は、桓武天皇(のちに光明天皇を合祀)で、京都市民の氏神様。正面に堂々たる大極殿。西に白狐楼、東に青龍楼がかためる。
中に入ると、満開の枝垂桜にうっとり。池泉式回遊庭園の神苑は、明治期の代表的な庭で池に写る桜が一段と艶やかである。
9万uにおよぶ緑豊かな京都最古の公園。
なかでも枝垂桜は圧巻。
害虫防御の為、幹が白く消石灰で塗られて幻想的だった。
角屋 : 国指定重要文化財
所在地:〒600-8828 京都市下京区西新屋敷揚屋町32番地
TEL:075-351-0024
交通:
島原の花街(歌舞音曲の遊宴の町)は、天正17年(1589)豊臣秀吉の公許を得て、柳馬場二条に開かれ、柳町または新屋敷といわれたのが始まりです。
その後、慶長7年(1602)に至り、六条柳町に移され、通称六条三筋町と呼ばれ大いに繁盛した。
官営18年(1641)朱雀野(現島原の地)に移され、西新屋敷町と呼ばれている。その移転命令があまりにも急であった為、住人の狼狽がひどく、その様子が当時の九州島原の乱に似ていたことから、この地が島原と呼ばれるようになったと言われている。
島原には、昔から揚屋(あげや)と置屋(おきや)があり、揚屋とは太夫や芸妓を置いていない家で、置屋から太夫や芸妓を呼んで遊宴を行ったところであり、今で言う料亭・料理屋にあたる。
角屋の中戸口 新撰組の近藤勇や芹沢鴨なども出入りし、その刀痕が今も柱に残っている |
太夫と禿 「太夫」とは、島原の遊女の中でも最高位とされ、その名称は慶長年間四条河原町で島原の前身六条三筋町の遊女が女歌舞伎を催した時、すぐれた遊女を「太夫」と呼んだことに始まる |
青貝の間 壁、建具その他いたるところに青貝をちりばめた豪華な座敷です |
天明年間(1781〜1789)前後、角屋では、当時おける一流画人に襖絵の制作を依頼し、石田幽汀、円山応挙、与謝野蕪村、などの画蹟が残されている。
さらに幕末の頃には、諸大名をはじめ西郷隆盛、桂小五郎、久坂玄瑞、坂本龍馬、山縣有朋、伊藤博文、品川弥二郎、井上聞多、大隈重信、僧 月照などの勤皇の志士がこの角屋を利用し、また、西郷隆盛などの勤皇の志士たちが、軍用金調達のため、鴻池、加島屋などの豪商をこの角屋に招き、しばしば宴会を催したと伝えられている。その他、新撰組の近藤勇や芹沢鴨なども出入りし、その刀痕が今も柱に残っている。
島原300年の歴史を誇る家屋は、次第に姿を消した中に、角屋のみは、当時の揚屋建築の唯一の遺構を伝えるものとして、昭和27年、国の重要文化財に指定された。
角屋の建物は、木造二階建、表全体を格子造りにし、奥の大座敷には広い庭に茶席を配し、また、大きな台所を設けることにより典型的な揚屋建築の特徴を残している。
各座敷とも洗練された意匠を凝らしており、特に、松の間、網代の間、緞子の間、扇の間、青貝の間など大座敷を中心とした構成は、江戸時代の饗宴の場を今に伝えている。