飛鳥駅(11:15)→高松塚古墳→飛鳥歴史公園→鬼の雪隠・俎板→
亀石→橘寺→石舞台→岡寺→酒船石・酒船石遺跡→
飛鳥寺・入鹿首塚→甘樫丘→豊浦寺跡→橿原神宮前駅(15:30)
「飛鳥」と「明日香」 この二つの表現法は、本来どちらが正しいのか、あるいはより古いのか。現在の明日香村という地名は、現代的感覚で新しく造られた名前のように理解されている向きが多い。
しかし、アスカの表記について、古事記、日本書紀、万葉集等から拾ってみると、明日香、飛鳥、安宿、阿須賀、阿須可、安須可等色々の文字が用いられており、地名或いは川の名前としては、「明日香」及び「飛鳥」は最も頻繁に用いられている。 古事記、日本書紀では、主として飛鳥が用いられ、万葉集では、明日香と出てくる場合が多く、飛鳥は、アスカという場合とトブトリとして明日香の枕詞になっている場合とがある。 したがって、何れが正しく、古いとは言えず、飛鳥、明日香、安宿などいくつか別々の表現が用いられていたと考えられる。 飛鳥の歴史を歩く
6世紀から平城京遷都の和銅3(710)年まで、わが国の政治・文化の中心舞台となった飛鳥。ここ飛鳥を拠点に勢力をのばした蘇我氏により、日本初の女帝・推古天皇が誕生し、豊浦宮をはじめ次々に宮が造営された。また、推古天皇の摂政聖徳太子もこの地に生まれ仏教文化を開花させた。太子の没後、蘇我氏はその一族を滅ぼし、専横をつのらせる。ついに大化元(645)年、中大兄皇子と藤原鎌足は飛鳥板蓋宮でクーデターを起こし、蘇我氏を滅ぼした。 やがて飛鳥時代は終わりを告げ、古代史を物語る貴重な遺跡は、長い歳月、この土の下に埋もれることになったのである。それだけに、大和三山(畝傍山、耳成山、天香久山)が見渡せる飛鳥を歩いていると、石舞台古墳や高松塚古墳などの遺跡、亀石や酒船石のような謎の巨大石が、悠久の時を超えて、古代の壮大なロマンを語りかけてくる。 明日香駅を起点に、飛鳥を歩こう。想像カを駆使して、美しい田畑や野の下に眠る、古代人の息づかいを感じてみよう。 不思議?
石舞台古墳はどうして造られたか? 石室 石材の大きさ、石室の規模ともに巨石古墳を代表するもので、玄室の規模は長さが 7.6メートル、幅3.5メートル、高さ4.7メートル、最大の石材は77トンと推定されている。総量、2300トンの巨岩。 蘇我馬子の墓と言われている。 石材30数個は冬野川上流から運び、長い斜面を「修羅」や轆轤を使って下から上へ引き上げ、積み上げたと考えられている。また、1段積むごとに中にも土を入れ、積み上がった段階で、中の土を運び出したと考えられている。 もとは土に覆われた上円下方墳だったらしいが、現在のように石がむき出した状態になった理由は謎。 |
悠久のロマンを感じる・飛鳥の風景
2002.3.16(土)午前11時15分、壮年グループ歩こう会13人は、明日香駅を元気に出発。午前中は少し風が吹き肌寒さを感じましたが、石舞台の公園で昼食をする頃から太陽が顔を出し、午後は汗ばむくらいの絶好のハイキング日和でした。 全行程13kmを歩き終わり、天王寺駅地下の料亭?で乾杯、機嫌よくなって腰を挙げたら午後6時を回っていた。 「明日香散策」歩こう会に参加して、昔懐かしい風景に至るところで出会った。 爽やかな風が吹き抜ける田圃の道。菜の花やほうれん草が育った畑。土の臭いがぷんぷんする。こんもりと樹木が茂る古墳の上には、澄み切った青空の中を白い雲がゆっくりと進む。 ゆっくりと余裕をもって飛鳥を歩くと心が自然に和む。久しぶりに会った仲間とわいわい言いながらの散策はまた楽しい。 桜の季節には少し早いが、れんげが咲き始め、鶯が春を告げる飛鳥の里は、ゆっくりと時を刻んでいた。 飛鳥の都を、高松塚に描かれたような色とりどりの華やかな、王朝衣服に身を包んだ貴族たちがゆっくりと歩む。北には飛鳥寺の大伽藍が建ち並び、南には川原寺、橘寺。遠くから石を彫る槌の音がカーンカーンと響く。その向こうに見える甘樫丘。頂には、蘇我蝦夷、入鹿の豪壮な邸も見える。耳成山、天香久山も見える・・・・。 そんな幻想に包まれて飛鳥を歩けば、1300年の時を超え、古代ロマンを肌で感じる。
岡寺、飛鳥寺を訪ね、甘樫丘に登った。 甘樫丘から眺める飛鳥の展望は美しい。北には左手から畝傍山、耳成山、天香久山の大和三山が見渡せ、その間には藤原京跡が眼前に見える。 東には、飛鳥寺から南に広がる田園地帯に飛鳥板蓋宮跡がある。蘇我入鹿が、中大兄皇子・藤原鎌足らの電光石火のクーデタに死んだと言う宮。その向こうに橘寺の白い築地が遠望される。 甘樫丘の万葉歌碑に、 明日香宮より藤原宮に遷居(うつ)りし後、志貴皇子の作りませる歌、 釆女(うねめ)の袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く 「昔、釆女の袖を吹きかえした明日香風は、今は、都が遠いので、虚しく吹いている――」 約百年にわたって都のあった明日香から、都が遷ったことによる皇子の空虚な気持ちを表現しているという。藤原と明日香は、地理的にはほんに近いが、心的距離が遠いと。つまり、志貴皇子の気持ちは、旧都・明日香に向かっている。(季刊 明日香風より) 甘樫丘、やはり当時の権力者ならこういう所に、屋敷を建て都を我が物顔で歩くであろうと納得した。 この丘に蘇我蝦夷、入鹿の親子が城のような館を構えていた。中大兄皇子と藤原鎌足に入鹿が討たれた後、蝦夷は館に火をかけて自殺したという。 黒岩重吾の古代歴史小説を、彷彿とさせる場所だった。
大和三山 畝傍山・耳成山は阿蘇火山系二上山の連続。香久山は多武峰山塊の麓の侵食残丘。 三山は共に雨乞いの水の禊に関係がある。畝傍山だけが山頂が二つに分かれ、かつ、水をたたえていて女の象徴の山と思われていたらしい。 平坦な盆地に、小さな山となって浮かび出ている大和三山は、古代日本の自然美の象徴として、万葉歌人にも親しまれた山です。 「香久山は畝傍ををしと耳成と相争ひき神代より かくにあるらし古も然にあれこそうつせみも妻を争うらしき」 (中大兄皇子が詠んだ歌) この歌で知られるように三山には、男性の香久山と耳成山が女性の畝傍山を争ったと言う伝説がある。 「ひさかたの天の香久山 この夕霞たなびく春立つらしも」・・・・天の香久山を歌った歌(152m) 「耳成の池し恨めし我妹子が 来つつ潜かば水は涸れなむ」・・・・耳成山を歌った歌(140m) 「思ひあまりいたもすべなし 玉だすき畝傍の山に我標結びつ」・・・・畝傍山を歌った歌(199m
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高松塚(壁画館) 昭和47年3月、 円墳の石槨内に鮮やかな 彩色壁画が発見され 戦後最大の発見と騒がれた 古墳は現在密封され 大切に保存されている。 |
飛鳥寺・蘇我入鹿首塚 仏教を保護した蘇我氏が 物部氏を討ち、596年 建立した大寺院。 寺の西に蘇我入鹿の首塚 といわれる五輪塔がある |
甘樫丘 飛鳥の地の中心にある丘 標高148m、飛鳥と 藤原京が一望され、 畝傍山が一段と美しい 記念撮影に格好の地 |
のどかな田園が広がる飛鳥を歩くと、ところどころで奇妙な形をした石に出会う。古代のミステリーに包まれた謎解きの楽しい旅。いろいろ想像たくましく飛鳥を歩く。 |
鬼の雪隠・俎板 7世紀、明日香村平田、野口 亀石に向かう途中に、鬼の雪隠・俎板がある。花崗岩の大石をくり抜いて造った石室と、その底石。 調査の結果、二つの石は、欽明天皇陵の横穴式石槨と判明。 もとは生駒郡斑鳩町御坊山古墳の石室のように組み合わせ上に土が盛ってあったが、古墳がこわれて石室がさかさまにころげ落ち、石室の方が鬼の雪隠(便所)、底石の方が鬼の俎板と言われるようになった。 |
亀石(かめいし) 7世紀、長さ3.6m 明日香村 橘 一説に、条理の境を示すのに利用されたというが、本来の用途はわからない。腹に益田岩船と同じ格子状の溝がある。 田園にぽつんと置かれてる亀石は、ユーモラスな顔で人気だが、今は南西を向いている顔が、昔は東を向いていたそうだ。 さらに恐ろしいことに、西を向くと大洪水に見まわれるという、伝説がある。 |
酒船石(さかふねいし) 長さ5.3m 幅2.3m 明日香村 岡 巨大な花崗岩の上に、不思議な幾何学的模様の溝がある。誰が何の目的のために作ったのかは謎である。 酒船石の名は、かって酒の醸造に使われたと言う言い伝えによる。石の周辺は、竹薮に囲まれ静寂。昨年2月、この石の北側で、亀形石造物が発見され、ここから水を流したのではと考えられたが、別に湧水施設が見つかり、謎に包まれたままである。 |
酒船石遺跡(亀形流水遺構) 長さ2.4m 幅2m 明日香村 岡 飛鳥産の花崗岩を加工した石造物。亀形石造物は花崗岩の石塊を成形して亀の形を彫ったもので、全長約2.4m、幅2mで顔を南、尻尾を北に向けています。左右には手足が表現されており、円形の甲羅部分は幅19pの縁を残して直径1.25m、深さ20pの水槽状に加工しています。水は鼻の穴から水槽部分に入り、V字型に彫りこまれた尻尾から南北溝に流す仕組みになっている。 小判型石造物は小判型をしたもので長さ1.65m、幅1mで北側の側面には突起を、南側の上面は高さ15p、幅90pの半円形に一段高く削り出しています。石の縁を20p残して長さ93p、幅60p、深さ20pの水槽状に加工しています。水槽底より8p高い位置に径4pの穴が開けられ、突起を通って水は亀形石造物の鼻に入り、甲羅部の水槽に水がたまり、最終的には尻尾の穴から南北溝へ排水する構造になっている。 遺跡の位置や石垣の構造・石造物の加工技術、そして砂岩の使用状況から見て、「日本書紀」斉明2年の「石の山丘」の可能性が指摘され、亀形石造物の空間は、立地や流水構造等から祭祀空間、或いはその第一ステージと推定されている。これらの遺構は10世紀初頭に埋没が始まったと考えられている。 |
聖徳太子関連・略年表574(敏達3)年 聖徳太子、用明天皇の皇子として生誕(厩戸皇子) |