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斑鳩の里奈良県生駒郡斑鳩町
斑鳩の古墳や古寺を探訪
「斑鳩の里」 : 「斑鳩(いかるが)」という名の由来は、一説によると、 この地に斑鳩という鳥が群をなしていたためだと言われていいる。 この地に、聖徳太子は宮殿を建て、都のあった飛鳥から斑鳩へと移り住まれました。また仏教を深く信仰された太子は斑鳩の地を中心に46ヶ寺を建てられたといわれている。飛鳥時代以降、斑鳩は仏教興隆の地として、太子信仰の中心地になりました。 世界的に有名な「法隆寺」をはじめ、聖徳太子ゆかりのたくさんの寺社や遺跡がその歴史を伝えています。 法隆寺から、太子道と呼ばれる道が二つ通じていた。 一つは、斑鳩ー飛鳥を結ぶ「筋違道(すじかいみち)」、また一つは、「太子葬送の道」と呼ばれる斑鳩ー河内磯長を結ぶ道。 大和と河内を結ぶ交通図、太子道などの図はこちらをクリックください。 摂政聖徳太子は、斑鳩宮から推古天皇のおわす飛鳥・小墾田宮(おわりだのみや)へ通った。太子は片道20kmの道程を、愛馬黒駒にまたがり、舎人の調子丸を従えて、飛鳥京へと通われた。 『くろ駒の 手綱の小鈴 ねもさやに ふみにし草の あともしらえず』 会津八一 会津八一の橘寺での一首は、黒駒に乗り、飛鳥へと通われる太子の姿を偲んで歌われている。そう思って口ずさんでみると、鈴の音もさやに響かせ駒に乗る、太子の姿がほうふつと浮かぶ。 |
12/20(木)、朝日カルチャー歴史ウォーキングで「斑鳩の里の古墳と古寺を探訪」に参加した。
斑鳩の古墳や古寺を探訪MAPはこちら 聖徳太子関係系図はこちらをクリック 大和と河内を結ぶ交通要図 法隆寺駅より、エヌシーバス(小型バス)に乗り法隆寺前で下車、法隆寺Iセンターに集合。講師は斑鳩町教育委員会の平田さん。自己紹介で、ご本人より「おしゃべりなので時間がくれば止めて下さい」と言われた通り、説明は広範囲に亘って分かり易くとても良かった。 10時30分過ぎIセンターを出発、在原業平のつれづれ道(業平が河内姫を尋ねるために通ったという道)をゆっくりと迂回しながら、先ず藤ノ木古墳で説明を受ける。ここは、今春の4/15(日)現地見学会で待ち時間・2時間30分ばかりかかって古墳内部を見学した。 法隆寺の西大門へと続く、西里の町並みは狭い路地に土壁や静かな佇まいで風情満点。門を入ると厳かな法隆寺の世界に飛び込む。空にそびえる五重塔、東大門へと続く石畳。五重塔、金堂を仰ぎ見ながら、平田さんのお話は、創建後落雷により伽藍が焼失、再建されたこと、若草伽藍の発掘など、聖徳太子のこと、山背大兄王(大王家)の滅亡など話が尽きない。 東大門を出て、北へ左折して築地塀に沿って真っ直ぐ進むと大きな堤にあたる。ここが、天満池。堤に沿って更に田圃を左右に見ながら緩やかな坂道を上がった、田圃の中に仏塚古墳がある。6世紀後半の古墳で、石室内から陶棺、土器、馬具などと共に、中世の遺物が発見され、仏堂として利用された事から仏塚の名前が付いたという。 町民グランドで昼食後、広大な共同墓地・極楽寺跡を東に迂回して、法輪寺へと向かう。程なく竹林の向こうに法輪寺の三重塔が見える。水彩画を見ているようななんとものどかな風景である。これぞ、斑鳩の里なのだ。 法輪寺の三重塔が落雷によって炎上したのは昭和19年のこと。はるか飛鳥の面影を残す名塔は久しくその姿を見ることが出来なかったが、昭和50年、住職や、故幸田文さんなどの力によって再建された。この塔を手がけられたのは、宮大工の故西岡常一さん。 法輪寺南門から東へ真っ直ぐに歩くと、次の訪問先発起寺へと続く。右に左に小高い丘があり、それぞれ古墳だという。右に、聖徳太子の皇子、山背大兄皇子の岡ノ原墓所・豊郷陵参考地。左の山手には、三井瓦窯跡、瓦塚古墳がいくつか残っている。 岡本の集落に入ると、もうそこに法起寺の三重塔が見える。ここは、聖徳太子の岡本宮があったところだ。山門をくぐり寺に入り、レプリカの塔の心礎から池を越して見える国宝・三重塔は見事だった。 県道に出て、南に進むと右手に法隆寺の伽藍と五重塔が見え、振り返ると法起寺、法輪寺の塔が見える、これが斑鳩の里の風景なのだ。 秋葉川を渡り、左手の田圃の中に中宮寺跡。僅かに残る薮が、金堂跡だと説明を受ける。広大な土地が跡地として保存されている。 更に南に進み、25号線を過ぎて東へ迂回しながら南に行くと、上宮遺跡がある。ここは、現在遺跡公園として保存されており、手洗い所の建物の屋根の軒瓦は発掘された瓦が復元され使われているそうである。『続日本記』の神護景雲元年と3年の記事にある、称徳天皇が河内に向かう際に、止宿した「飽波宮(あくなみのみや)」である可能性が高いとされている。 午後3時20分、ここで解散。JR法隆寺駅と急ぐ。 聖徳太子の面影を求めて、冬の斑鳩の里を満喫した。 |
当日廻った史跡のミニガイド
藤ノ木古墳 詳しくは、藤ノ木古墳現地見学会をクリックして下さい。 奈良県斑鳩いかるが町にある6世紀後葉の円墳。直径約48m。埴輪をもつ。内部は南東に開く両袖型横穴式石室で,1985,88年,斑鳩町・奈良県立橿原考古学研究所が調査。室内から華麗な馬具や土器,未盗掘の刳抜くりぬき式家形石棺から2体の男性骨と鏡,装飾刀剣,金銅製の冠・沓くつほか多数の装身具,織物,ベニバナ花粉等が出土した。 七大寺【しちだいじ】平城京とその周辺に建立された七つの大寺。通常,東大寺・興福寺・元興がんごう寺・大安寺・西大寺・薬師寺・法隆寺の7寺。 世界遺産法隆寺 詳しくは法隆寺探訪へ 奈良県生駒郡斑鳩町にある寺。斑鳩寺・鵤寺・伊可流我寺・法隆学問寺とも。南都七大寺の一つ。伽藍は西院と東院からなり,西院東南方に下層遺構の若草伽藍跡がある。7世紀初,聖徳太子が自ら斑鳩宮西方の若草伽藍の地に建立した。日本書紀には,606(推古14)斑鳩寺へ播磨国の水田を施入したとあり,金堂薬師如来像光背銘に,用明天皇の病気回復を念じて寺と薬師像を造ることを誓願したが,天皇が没したので,607(同15)推古天皇と聖徳太子が完成させたとある。 瓦の編年によれば,若草伽藍は飛鳥寺と四天王寺の造営の中間の時期に位置する。聖徳太子没後,623(同31)金堂釈迦三尊像が制作された。 日本書紀には670(天智9)に法隆寺が全焼したと記されるが,再興についての記載が見られないことから,法隆寺再建・非再建論争が明治期以降展開された。 1939年の若草伽藍の発掘や近年の発掘調査の結果,若草伽藍は主軸が北から西へ20度傾き,塔と金堂が一直線にならぶ四天王寺式伽藍配置であること,若草伽藍の焼失後に金堂と五重塔を東西に配置する西院伽藍が造営されたことが明らかになった。西院の主要伽藍(金堂・五重塔など)は711(和銅4)までに完成していた。 若草伽藍【わかくさがらん】 奈良県斑鳩町にある法隆寺(=西院伽藍)の前身寺院。西院伽藍の東南方にあった塔心礎の位置を手がかりに,1939年に石田茂作が発掘。西院伽藍の軸線より西に約20度振れて,南北に塔・金堂が並んだ7世紀前半の寺院跡が明らかになり,法隆寺再建・非再建論争が決着した。金堂創建瓦は飛鳥寺・豊浦寺の創建に後続し,四天王寺創建に先行する。 仏塚吉墳(ほとげづか) 斑鳩町大字法隆寺字平尾 「法隆寺」の北に在る「天満池」と「斑鳩神社」の間の緩やかな山道を登って、「松尾寺」へ行く途中、田圃の中に「仏塚(ほとけづか)古墳」があります。一辺23mの「方墳」で、高さ4.6m、花崗岩の自然石を積んだ両袖式の横穴式石室です。縄文時代から室町時代の遺物が出土し、副葬品として須恵器の土器、馬具、耳環(じかん、イヤリング)等が有りました。また、貴重な遺物として、 高さ9.5cmの金銅仏や塑像仏の破片、花瓶や六器 (ろっき)等の仏教に関する仏具も出土しましたが、これらは中世になってからの物で、当時「聖」と呼 ばれる僧が石室を仏堂として利用していた名残です。 仏塚古墳は、法隆寺の北にひろがる通称「寺山」と呼ばれる丘陵からさらに北にのびた小尾根の先端部に造られており、やや奥まった感じのある「東里」の谷のほぽ中央にあります。 この古墳については昭和51年12月に発掘調査を実施L、一辺約23mの方墳と推定されている。埋葬施設としては、ほぽ南方向に開口する両袖式横穴式石室で、現存している石室長で9.36mを測る。ただし羨道部が完掘されていないのでもう少し長いものと思われる。そして玄室の礫床の下には、排水溝が備わっており、環状にめぐって玄門部て合い、羨道部へ流れるようになっていた。 出土遺物の内、仏塚古墳に関係するものとしては亀甲形陶棺片(2個体?)、須恵器等の土器類、馬其の一部、耳環などがあり、6世紀末頃の造営と推定されている。 また鎌倉時代終頃〜室町時代初頃の仏教に関係した遺物が多量に出土した。例えぱ高さ9.5cmの金銅仏や塑像仏の破片、花瓶や火舎や六器などの仏具、土師質の灯明皿(約400枚)や瓦器碗の土器類などがある。 これらのことから、中世に石室が仏堂として再利用されていたことがほぽ確実で、このことが古墳名の由来となったと考えられる。 なお法隆寺北方の丘陵には単独墳が丘陵ごとに点在しており、調査がされていないことから、造営時期が把握できないが、7世紀の古墳がまだ存在しているものと思われる。 また極楽寺墓地のある丘陵上には、「鏡塚」伝承地のほか、丘陵南端部に墓に利用されていない約3m程度の空き地があり、現状で50cm程度の高まりがある。この局辺より、飛鳥期(飛鳥U)の須恵器の杯身片を採集しており、また当丘陵東側の斑鳩町立火葬場の建設に伴う平成5年度の極楽寺遺跡での発掘調査でも、墓地のある丘陵より転落してきたと考えられる飛鳥期(飛鳥U)の須恵器杯身が出土していることから、丘陵上に存在している可能性は高いものと思われる。 法輪寺(ほうりんじ) 斑鳩の飛鳥時代寺院として著名な法輪寺ではありますが、その創建については、『聖徳大子伝私記』の聖徳太子の子である山背大兄王と、その子の由義王が、聖徳太子の病気平癒を願って建立したとする説と、『上宮聖徳太子伝補閾記』の斑鳩寺が焼失したことから、百済聞法師等三入が建立したとする二つの説があります。 伽藍は法隆寺西院と同型式で3分の2の規模。 これまでに境内において、石田茂作氏による法隆寺式伽藍配置建物全体の調査や、三重塔再建に伴う基壇の調査などが実施されていますが、金堂跡や講堂跡等については、1950年に実施された調査写真や略測図しかなく、その詳細について明らかでなかったことから、平成12年度より、斑鳩町により学術調査として発掘調査に着手しています。 金堂については、平成12年度の発掘調査では、金堂の基壇である石積み基壇の基底石と考えられる石列および版築の施された基壇を確認し、東西約15m×南北約13mを測りました。 また基壇の造営にあたっては、基壇のおよそ半分が旧地形を削った安定した場所に立地しているためか、掘り込み地業はなされていないことがわかりました。 塔については、三重塔の再建に伴い発掘調査が実施されており、乱石積みの二重基壇で、下成基壇は一辺13.2m、高さ約20cmで、上成基壇は一辺12.4m、高さ1mを測ります。心礎は基壇上面より約2.3m地下にあり、直径1.65m×1.52m、厚さ80cmほどの花崗岩製で、その上面中央に直径約36cm、深さ4cmの蓋を納める掘り込みがなされてあり、さらにその底に直径15cm、深さ10cmの舎利孔が穿かれていました。そして、この舎利孔からは、元文四(1739)年の修理の際に、国の重要文化財に指定されています銅製の舎利壺がみつかっています。 世界遺産法起寺(ほうきじ) 山背大兄王(やましろのおえのおう)が聖徳太子の命によって建立したと伝えられ、その後、舒明10(638)年に金堂が、天武10(685)年に三重塔が建てられました。高さ約23メートルの国宝の三重塔は斑鳩三塔のひとつで、三重塔としてはわが国最古であるとともに最大の規模を誇り、飛鳥時代の様式をよく伝えています。このほか重要文化財に指定されている木造の十一面観音像や飛鳥仏として知られる銅造の菩薩像などがあります。 鳩の野末にたつ。別名岡本寺ともいう。 山背大兄王が聖徳太子の住まい「岡本宮」を寺としたものである。 中宮寺跡( ちゅうぐうじあと) 弥勒菩薩像や天寿国繍帳で有名な中宮寺は、現在法隆寺東院の東側にありますが、室町時代の終わり頃までは現在地の東方約400mの場所に位置していました。 創建については、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起井流記資材帳』に、聖徳太子の七カ寺の一つに「中宮尼寺」の名がみえます。また、正暦3年(992)成立の『聖徳太子伝暦』によると、聖徳太子の母である穴穂部間人皇后の宮を寺にしたと記されている。名前の由来については、斑鳩に所在した斑鳩宮、岡本宮、葦垣宮の中間に位置する事から中宮(なかみや)と呼ばれ、改めて寺としたことから中宮寺としたと鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』には記されています。 創建時期については諸説がありますが、7世紀寺前半の時期と考えられています。寺院跡の中央付近には、現在でも土壇が残っていて、発掘調査の結果から、塔と金堂の基壇の跡であることがわかっています。金堂の基壇跡では現在も礎石のひとつを見ることが出来ます。伽藍配置については塔、金堂が一直線に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」と考えられています。ただし、金堂の北側にあるはずの講堂については、整地が行われたのみで建てられなかったと考えられる。また、塔、金堂などを囲む回廊も持たなかったと考えられることから、中心伽藍については未完成であったと思われます。寺域全体は築地塀によって囲まれていました。 中宮寺跡は、我が国の歴史上貴重な遣跡であることから、平成2年に国の史跡に指定されました。 上宮遺跡公園の聖徳太子孝養之像 「法起寺」から真っ直ぐ南へ行き、国道25号線を渡ると「駒塚古墳」「調子丸古墳」等があって、聖徳太子ゆかりの伝説や言い伝えが残されている地です。更にちょっと南へ行くと「上宮遺跡公園」があって、そこから平成3年の発掘調査で、奈良時代の平城宮や地方の官衙(かんが)跡等に見られるものと類似した掘立柱建物群が発見され、公園の南西部で確認された官衙跡の建物配置では、東西7間(約21m)、南北3間(約9m)以上の「正殿」と思われる東西の棟が見つかり、柱間はほぼ3m(10尺に相当)、また、「後殿」と思われる建物跡等も確認され、今もそれらの跡が判るように遺跡公園として整備されています。 また、出土遺物には、平城宮や平城京で出土している軒瓦と同じ文様の軒瓦がありますことから、『続日本記』の神護景雲元年と3年の記事にあります称徳天皇が河内に向かう際に、止宿した「飽波宮」である蓋然性が高くなっています。 聖徳太子関連・略年表574(敏達3)年 聖徳太子、用明天皇の皇子として生誕(厩戸皇子) 『日本書紀』−−「(崇峻元年)・・・乃ち白膠木をきり取りて、疾く四天王の像に作りて、頂髪に置きて、誓を発てて言はく、「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」とのたまふ。」 589年 隋、中国を統一 593(推古元)年 厩戸皇子、難波の荒陵(大阪市天王寺区)に四天王寺を造る 593(推古元)年 厩戸皇子が立太子して摂政となる 『日本書紀』−−「(推古元年)・・・厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とす。仍りて録摂政らしむ。萬機を以て悉に委ぬ。」 595(推古3)年 太子の師、高句麗僧慧慈が渡来 601(推古9)年 聖徳太子、斑鳩宮を建立 602(推古10)年 聖徳太子の同母弟来目皇子を撃新羅将軍に任命 603(推古11)年 聖徳太子の異母兄当麻皇子を征新羅将軍に任命 603(推古11)年 秦河勝、蜂岡寺(広隆寺)を造る 『日本書紀』−−「(推古十一年)・・・皇太子、諸の大夫に謂りて日はく、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて日く、「臣、拝みまつらむ」といふ。便でに仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。」 603(推古11)年 聖徳太子、冠位十二階を制定 『日本書紀』−−「(推古十一年)・・・始めて冠位を行ふ。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大議・小議・大智・小智、并て十二階。並びに当れる色のきぬを以て縫へり。」 604(推古12)年 聖徳太子、憲法十七条を制定 『日本書紀』−−「(推古十二年)・・・皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ。一つに日く、和なるを以て貴しとし、忤ふること無きを宗と施よ。・・・」 605(推古13)年 聖徳太子、斑鳩宮に移る 606(推古14)年 聖徳太子、天皇に勝鬘経を講義 『日本書紀』−−「(推古十四年)・・・天皇、皇太子を請せて、勝鬘経を講かしめたまふ。三日に説き竟へつ。是歳、皇太子、亦法華経を岡本宮に請く。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」 607(推古15)年 法隆寺創建、用明天皇のため金堂薬師如来座像を造願 607(推古15)年 遣隋使に任命された小野妹子、国書を煬帝に奉呈、国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」と書かれていた。 611(推古19)年 聖徳太子、「勝鬘経義疏」を撰す 613(推古21)年 聖徳太子、「維摩経義疏」を撰す 615(推古23)年 聖徳太子、「法華経義疏」を撰す 618(推古26)年 隋の煬帝が殺され、唐が興る 620(推古28)年 聖徳太子、馬子と議り、天皇記、国記を記録 『日本書紀』−−「(推古二十八年)・・・皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す。」 622(推古30)年 橘大娘女、太子のために天寿国曼陀羅繍帳を造る 622(推古30)年 聖徳太子、斑鳩宮で逝去 623(推古31)年 太子のために金堂釈迦三尊像を造願 623(推古31)年 蘇我馬子、征新羅軍を派遣 626(推古34)年 蘇我馬子死、子蝦夷大臣になる 628(推古36)年 推古天皇、逝去 643(皇極2)年 蘇我入鹿により、山背大兄一族滅亡 645年 蘇我氏滅ぶ 670(天智9)年 法隆寺炎上 『日本書紀』−−「(天智九年)・・・夜半之後に、法隆寺に災けり。一屋も余ること無し。大雨ふり、雷震る。」 708(和銅元年) 法隆寺再建 |