JR玉水駅10:50→蛙塚→井堤寺跡→小町塚→地蔵院→玉津岡神社→
宮本水車跡→橘諸兄公旧跡→蟹満寺→不動川→JR棚倉駅15:30
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歩いてみれば誰もがほっとする そんな風景に出会える里
2003.4.22(火)午前10時50分、老壮年グループ歩こう会6人は、玉水駅に集合。今回の歩こう会は実に1年と5ヶ月ぶりの開催となった。あちこちを歩きたいなぁと皆で言いながら、いつの間にやら日が経ってしまったが、久しぶりの歩こう会を天候も祝福してくれた。予報では寒いとのことだったが暖かい太陽が照りつけ、午後は汗ばむくらいの絶好のハイキング日和となった。 親切な駅員さんから貰った「井出を歩こう」のパンフレットと「山背古道探検ゲーム」の地図を片手にいざ出発。 駅から南に出ると直ぐに、天井川の玉川が東西に流れていて、その下をJR奈良線が走っており、井手町の大きな案内板が目に付いた。 玉川の堤に上がってみると、もう桜の花は既に散ってしまっていたが、綺麗な桜並木が続いていた。4月のはじめには、満開の桜を求めてさぞかし沢山の方々がそぞろ歩きをされたことだろう。 玉川の土手には、鮮やかな黄色い山吹の花が咲いていて、如何にも「山吹の里」に来たのだと実感した。ユニークなタイル張りの道しるべに案内されながら、先ず立ち寄ったのは、「蛙塚」。町の職員さんが溜まった泥を綺麗に掃除をされているところにお邪魔したが、気軽に話しかけられ全員で記念写真を撮ってもらった。G・Wのお客さんのために掃除をしているとのことだった。 もと来た道に戻り、北に向かって坂道を上り広い大通りを東に行くと、小さなお堂が整備された井堤寺跡があり、暫しお寺の由来や橘諸兄についての解説板を拝見。奈良時代の左大臣・橘諸兄により建立された当寺は、七堂伽藍を備えた壮麗な寺院であったようで、井出の高台に建った幻の大寺院を思い描いた。また、平安の女流歌人、小野小町が晩年をこの井堤寺で過ごしたという。 山吹ハイキングコースへと続く道を東へと歩き、ふと来た道を振り返ると、木津川へと続く大地とその向こうに見える山並の風景がパノラマ写真のようで、心休まりほっとする。新緑が萌えるように美しい東の山、西の雄大な木津川に包まれたこの大地に奈良時代から営々と続いてきた人々の息づかいを感じながらゆっくりと歩いた。 左に小野小町塚、地蔵禅院、玉津岡神社の案内板があり、細い住宅地の道を上がっていくと、大きな石積みの小町塚 があった。 “色も香も 懐かしきかな かわず鳴く 井手のわたりの 山吹の花”と、小町が詠った。 塚を背に壮年組み、美女組みと分かれて記念写真。無造作に積まれた四つの石が井堤寺の礎石だと聞き、ビックリする。何だか絶世の美人のイメージとは似つかわしくないなぁと思うが、井堤寺で晩年を過ごした小町には、ピッタリなのだろう。 さらに上ってゆくと、木立のなかに小さな里に響き渡るような鶯の鳴き声に姿を追ったが見失う。参道をゆっくりと上ってゆくと、左手に柳の大木と見間違えた枝垂桜の大木が二本。 地蔵禅院の境内に入ると、京都円山公園の枝垂桜と兄弟木の枝垂桜の雄姿に圧倒される。眼下に広がる井出の里と木津川が一望され、はるか向こうに見える、生駒山、金剛山に暫し言葉も無くうっとりと見惚れた。 京都の有名な写真家のお墨付きで一躍有名になり、全国から沢山の写真マニアが訪れるという。満開時期には、細い参道も一目枝垂桜を見たいという人々で埋め尽くされるそうだ。桜の散ったこの季節に訪れたのは、少し残念な気持もするが正解だった。静かな里風景を心行くまで満喫出来たことは、歴史ハイキングを企画された出野氏の手腕に感謝あるのみ。参道でお会いした、大きなカメラを手にした中年の方が「誰にも邪魔されないので、今の季節が一番ですよ」と挨拶されたのが印象的だった。 石段を登りつめると、木々に覆われ静かな中に厳かな感じの漂う、玉津岡神社に到着。天平3(731)年、諸兄が橘氏一族の氏神として創建した神社で、貞享4(1687)年本殿が再建された。 地蔵禅院前で昼食。午後は、参道を下り山背古道の道しるべに従って、綺麗な棚田が続く小道をしばらく行くと玉川と出会い、橋本橋を渡ると左手に小さな滝の小川があり、右手に宮本水車跡の大きな石碑が立っていた。石碑を見たりしているところへ、80余歳だと名乗られた地元のかくしゃくとした凄いおじいさんが出てこられ、「井出の歴史」を涙を流さんばかりに一講釈された。ビックリするやら感心するやら、良い思い出となった。 井出の浄水場の辺りから見える里の風景は絶景だった。西に見える山並みの向こうは、わが町交野である。山の上に関西電力の倉治の鉄柱が見えた。 左手に竹林が見え、橘諸兄公旧跡の案内板が見えた。筍を掘っておられる地元の人に出会い、少し登れば石碑が建っていると教えられ、静かな竹林の中を登った。にょきにょきと竹の子が伸びているのがあちこちに見えた。石碑は意外にも大きなもので、今は竹林に囲まれた山の中だけれど、往時を偲ばせるに充分だった。 どんどんと里道を歩いていると、後ろから地元の人に呼び止められた。「山背古道はこちらですよ」と。埋め込みの案内サインを教えてもらい、渋川を渡ったところで左へ行くか、川上へ行くかと迷った。強引に川下へと進んだが結局、古道を間違えた。地図を頼りに畳屋さんの看板を見つけやっと古道と出会い、真っ直ぐ南に下り、天神橋を渡るともう、蟹満寺だった。拝観料300円を支払い、本堂に案内された。見上げるような素晴らしい国宝の「釈迦如来坐像」に圧倒され、「蟹の恩返し」の縁起を聞かせてもらう。白鳳時代の名作で金銅製、高さ2.7m、重さ7トンに驚き、往時の秦氏の旺盛ぶりの一端を垣間見た。 一路、山背古道を南に進むと宅地の中の道は幅2mと狭く、昔に逆戻りしたような気分だった。JR奈良線を西に越し、少し登るようにして上がると不動川があり、川の下をJRが走っていた。川では元気な女の子たちが水遊びに夢中で、ついぞ見かけない風景に思わずシャッターを押した。 不動中橋を渡り、狭い1mぐらいの住宅地の道を抜け、再びJR奈良線を渡り終着の棚倉駅に着いたら3時半だった。いつものメンバーに今回初めて、今年9月に卒寿(90歳)を迎えられる伊東さんが参加され、ぐっとムードも変わった。伊東さんの健脚振りには驚くばかりで、負けじと弱音も吐かず、皆さん元気に最後まで歩き通した。 春の一日、ほっとする風景に感動し、南山城の里の歴史を振り返る、 素晴らしい歴史ハイキングだった。 <メンバーからのメールを紹介> (~o~) 昨日は好天に恵まれ、楽しい歴史散歩でした。
伊東さんの健脚振りには驚きました。
景色も好く、あれは日本の原風景ですね。
「何気ない、だけど誰もがほっとする風景が息づいている」と、
「井出を歩こう」のパンフレットの中に書かれていましたが、本当にそう思いました。
井出町は奈良時代には発達した地方都市の役割を果たしていたのでしょうか。
当時漸く確立した天皇制とその行政官の権力と富の集中振りに
思いを馳せると同時に、一方ではNostalgiaを感じました。
長閑な春の一日を満喫出来ましたことを感謝して・・・。
(^。^) 毎日歩いていても 纏まって歩くと結構疲れますので、伊東さんが 参加して下さり 助かったのかもしれません。 それにしても あんなにお元気な方だったのかと感心しました ずっと あちこちへいらっしゃってるから 歩けるのでしょうね あやかりたいものです。又ご一緒出来るのを楽しみにしています。
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■山吹の古跡…玉川の堤防沿いに立つ石碑。平安時代の歌人、藤原俊成も“駒止めてなほ水かはむ山吹の花の露そふいでの玉川”と詠んでいる山吹の美しい所。 ■蛙塚(かわずづか)…池の辺に立つ記念碑と蛙の像。
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■駒岩…保延3(1137)水神として建立。巨大な花崗岩に半肉彫りされた「左馬」である。江戸期には女芸上達の印として信仰された。玉津岡神社の古記録によると保延3年5月6日の日が馬の後足の横にあったとあるが摩滅している。元は玉川の水分神社の傍らに祠と一緒にあったものが、昭和28年の「南山城大水害」で祠ごと流出、地元の人が現在地に上げたもの。左馬ふれあい公園として整備。
(かにまんじ)…真言宗智山派。山号は普門山。
「今昔物語巻第16」・「元亨釈書巻第28」 昔、山城国、現山城町綺田(かばた)に観音様を厚く信じる農家の父娘がいた。村人のとる蟹を哀れと思った娘が買い取って逃がしてやった。父は田で蛇に飲まれんとしている蛙を助けるのに「娘を婿にやるから蛙を助けて欲しい」とうっかり言ってしまう。その夜立派な男姿の蛇が娘を貰いに来るが「三日待って呉れ」とその場は男を帰す。 三日目、板を打ち付けた部屋に娘を隠し父娘で懸命に観音経普門品を唱え祈っていた。やってきた蛇は約束が違うと怒り、尻尾で部屋の板を叩きながら周囲を回りだした。 突然音がやんだが父娘は観音経を唱えていた。夜が明けて出てみると部屋の周囲には一面蟹の屍が飛び散り、同時に蟹の鋏で切り裂かれた蛇の死体が転がっていた。観音様のお陰で娘は助けられたので死んだ蟹と蛇の屍を葬って塚を作りその上に観音堂を建てたのが蟹満寺と言う。 この付近は帰化人が優れた染色技術を持込んだ地方でその織物がカムハタ(綺)だった。 |