交野少将の話 (郡津) | ||
都が平城京から長岡京・平安京に移った頃、桓武天皇は頻繁に交野へ行幸され鷹を放って遊猟されている。その後も、嵯峨天皇も遊猟された記録が10回も記録されている。天皇の遊猟に伴って、皇族や宮廷人たちも続々と交野ヶ原へ来るようになった。その中でも、文徳天皇の皇子惟喬親王や在原業平などにまつわる伝説が有名である。 郡津にあったと思われる交野郡衙(=役所)に交野郡の郡司(現在の交野市長のような人)で宮道弥益という豪族がいました。郡津には、この郡司の娘が失恋して天野川のよどみの「長渕」に飛び込んでしまったと言うお話があります。 昔、交野少将(京都の貴族、姿は美しく文章も上手く好い男)が交野に鷹狩に来た時、交野郡司の家に泊まり、その娘と一夜を契ったことがある。その後、待てども少将はあらわれず、娘はいつまでも少将のことが忘れられない。こんなに待っても来てくれないのは、私を見捨てたからだろうと、大変絶望し、近くの水辺に出て身を投げようとしていた。そこに鵜飼をする男がいた。娘は袴の腰を引き裂き、鵜飼のかがり火の松の炭で、その布に歌を書いて「これを少将様に」とその男に渡し、身を投げたと言う。 「 かつきゆるうき身の沫と成ぬとも誰かはとはん跡の白浪」 長渕(ながぶち)は、申田川より東で山崎までの郡津では一番低い土地である。現在は京阪電車から東だけ残っている。一番低かった京阪より西が埋め立てられたため、昔の葦(あし・よし)の茂った湿田、酒沢池の景観は消滅してしまった。
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