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交野少将の話 (郡津)

都が平城京から長岡京・平安京に移った頃、(かん)()天皇(てんのう)頻繁(ひんぱん)に交野へ行幸(ぎょうこう)され鷹を放って遊猟(ゆうりょう)されている。その後も、嵯峨天皇も遊猟された記録が10回も記録されている。天皇の遊猟に伴って、皇族や宮廷人たちも続々と交野ヶ原へ来るようになった。その中でも、文徳天皇の皇子(これ)(たか)親王(しんのう)在原業平(ありはらのなりひら)などにまつわる伝説が有名である。

郡津にあったと思われる交野郡衙(かたのぐんが)(=役所)に交野郡の郡司(ぐんじ)(現在の交野市長のような人)で(みや)()弥益(びえき)という豪族(ごうぞく)がいました。郡津には、この郡司の娘が失恋して天野川のよどみの「長渕(ながぶち)」に飛び込んでしまったと言うお話があります。

昔、交野少将(京都の貴族、姿は美しく文章も上手く好い男)が交野に鷹狩(たかがり)に来た時、交野郡司の家に泊まり、その娘と一夜を契ったことがある。その後、待てども少将はあらわれず、娘はいつまでも少将のことが忘れられない。こんなに待っても来てくれないのは、私を見捨てたからだろうと、大変絶望し、近くの水辺に出て身を投げようとしていた。そこに鵜飼(うかい)をする男がいた。娘は袴の腰を引き裂き、鵜飼のかがり火の松の炭で、その布に歌を書いて「これを少将様に」とその男に渡し、身を投げたと言う。

「 かつきゆるうき身の(あわ)と成ぬとも誰かはとはん(あと)の白浪」

 

長渕(ながぶち)は、申田川より東で山崎までの郡津では一番低い土地である。現在は京阪電車から東だけ残っている。一番低かった京阪より西が埋め立てられたため、昔の葦(あし・よし)の茂った湿田、酒沢池の景観は消滅してしまった。
 免除川、村野との境界を流れる北川とが合流する手前であるのと、天野川の水を最後にため込むのでいつまでも水が引かない。そのようなことから遊水池の役目をなしていた。埋め立てられる前は電車沿いに長渕の地名どおりの長い池があった。そこから今も電車沿いに川があるが、これが当時の排水路であった。
 大雨が降れば線路だけかろうじて見えるが、架線を文える電柱だけが見えているといった―面湖と化してしまう場所であった。


郡   津 (こうづ)
郡津駅(昭和40年ごろ)交野市内で一番変わったのは、郡津駅付近である。昔、大雨が降ると郡津駅の北側は、水があふれて京阪電車がとまることがあった。
 駅のまわりには、何もなかった。松塚に大きな町ができ、梅が枝の町がその南にできた。
(昭和41年ごろから開発された)
 現在の郡津駅は、昭和47年に建設された

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