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<第114回>  令和2年11月定例勉強会
「星田駅北遺跡・平池遺跡・
四馬塚遺跡・東高野街道の
発掘調査について」
 
  後川 惠太郎氏
(大阪府教育委員会
青年の家・学びの館 午前10時~12時
 20名(会員19名)の参加
2020.11.28(土)午前10時、11月定例勉強会に20名が参加されました。
コロナ禍の中、感染拡大予防措置を取って10月より活動を再開して2度目の勉強会に沢山の方々に参加いただきました。

 高尾部長の司会で始まり、平田会長の開会の挨拶に続き、講師の後川惠太郎氏より「星田駅北遺跡・平池遺跡・四馬塚遺跡(しばづかいせき)・東高野街道の発掘調査」をテーマで詳しくご講演下さいました。今回の講演は、 交野市の東部大阪都市計画事業星田駅北土地区画整理事業に伴う埋蔵文化財発掘調査に直接携わって来られた、後川惠太郎先生(あとかわけいたろうせんせい)を講師にお招きして開催しました。
 
  ★今回の調査地における課題と調査からわかったこと
   1.この地の開発はいつから始まったか。また、どのように変遷したか。
   2.この地を通る、東高野街道はどのように変遷したか。
     また、東高野街道沿いに設置された一里塚の確認。
   3.地名に残る寝屋長者の屋敷地の痕跡はのこっているのか。

 (講演会の概要)

    1.調査場所の位置関係
    2.調査場所と江戸時代の絵図との関係
    3.街道と村落位置
    4.土地の区画に関係する溝の調査
    5.東高野街道周辺の時代別遺構変遷
    6.天保絵図と星田駅北遺跡・平池遺跡・四馬塚遺跡・東高野街道
    7.一里塚について    
    8.遺構の変遷

 ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の先生のご厚意により当日配布された
   「レジメ」をHPに掲載させていただきました。記して感謝申し上げます。
 ※ 星田駅北遺跡・平池遺跡・四馬塚遺跡・東高野街道の発掘調査報告書を
    図書館でお借りして史料をコピー抜粋して掲載させて頂きました。
 ※ 交野町史、市史、各種報告書、WEB記事などを参照させていただきました。

講師  後川 惠太郎氏
 
高尾部長の司会で始まり、平田会長の挨拶に続き、
講師の後川惠太郎氏を紹介

司会の高尾部長と後川先生
 
 「星田駅北遺跡・平池遺跡・四馬塚遺跡・
東高野街道の発掘調査
」レジメ
  
後川 惠太郎氏(大阪府教育委員会)








東高野街道周辺の時代別遺構変遷平面図

東高野街道周辺の時代別遺構変遷平面図

 今回の調査に至る経緯と現地説明会
調査に至る経緯
 交野市星田北6~9丁目の範囲において土地区画整理事業が計画された。事業地内には周知の遺跡である平池遺跡や星田駅北遺跡が、また隣接する寝屋川市域には寝屋東遺跡が分布するなど、事業地内の遺跡範囲外にも遺跡が広がっていることが予想された。このため、事業者である星田北・高田土地区画整理準備組合、並びに星田駅北土地区画整理準備組合は、交野市教育委員会に調査を依頼した。
 星田北地区は、平成30年10月1日から令和元年7月31日まで、また、星田駅北地区は平成30年11月1日から令和元年8月31日まで発掘調査された。

現地説明会
 今回の星田駅北地区の調査成果については、令和元年8月31日に地元住民を対象とした成果報告会及び前日の30日には地元星田小学校6年生(児童58名・教諭4名)の見学会が開催され、前日の小学生も含めた見学者は267名にのぼった。
 
 
 調査地域の地形
 今回調査を実施した星田駅北遺跡・平池遺跡・四馬塚遺跡は、交野市西端部の交野市北6・7丁目に位置し、西側には寝屋川市が、北側には枚方市が隣接し、昭和30年(1955)の交野町との合併まで、北河内郡星田村として区画されていた地域である。
 遺跡は天野川と傍示川とのほぼ中間の高さ約37~43m前後の中位段丘上に立地しており、事業用地内を縦断する市道星田高田線付近が寝屋川水系と天野川が注ぐ淀川水系の分水界となっている。
 遺跡周辺は、第二京阪道路の開通後、徐々に開発が進むものの、広々とした田園風景が残されていた地域であった。
 遺跡が位置する星田は、大坂の陣の前夜に徳川家康が宿営した地として知られており、また周辺では、大阪府内でも比較的古い時代の遺跡が数多く見つかっている。
 
 
東高野街道が南北に走る調査地風景
 歴史的環境 
 <中世>
 星田周辺の台地状には、耕作に適しない土地が広がっており、「星田牧」と呼ばれる牛馬の放牧地として利用されていた。その範囲は中川堤から傍示川までとされるが、平安時代前半期の実態は、不明である。平安時代末期の「圓成院領星田南北庄住人等解」等の記録からは、周辺の牧と頻繁に争いが起こっていたことがうかがえる。
 周辺遺跡には、調査地西側に近接して、伝寝屋長者屋敷跡遺跡がある。室町時代から江戸時代のはじめ頃に成立した「御伽草子」所収の「鉢かづき姫」に登場する寝屋長者(備中守藤原実高)の屋敷跡とされており、屋敷は東西12町、南北4町の広さであったと伝えられているが、これまでの調査では屋敷に相当するような遺構は確認されていない。
 今回の調査地周辺には、「金門」・「車司(牛車)」・「堀之内」等、寝屋長者に関係すると考えられる字名が多く残されている。「金門」は四馬塚遺跡の一部にあたり、長者屋敷の門が建っていた場所、「車司(牛車)」は、長者の牛馬・牛車に関わる人たちが居住していた場所、「堀之内は屋敷の外堀があった場所と考えられている。

<近世以降>
 江戸時代の星田村については、3幅の絵図と延宝5年(1673)に書き写された「河内国交野郡星田村地詰帳」が残されており、当時の星田の様子が詳細に知ることが出来る。元禄10年(1697)の星田村絵図には一里塚が描かれ、天保13年(1842)の星田村絵図には、一里塚と水路(側溝)が描かれている。
 

街道と村落
 発掘調査による調査成果について
 ★今回の調査地における課題と調査からわかったこと
   1.この地の開発はいつから始まったか。また、どのように変遷したか。
   2.この地を通る、東高野街道はどのように変遷したか。
     また、東高野街道沿いに設置された一里塚の確認。
   3.地名に残る寝屋長者の屋敷地の痕跡はのこっているのか。
   
 今回の発掘調査では、東高野街道に関係する側溝及び関連遺構、古代末から近世の水田・畠に関係する溝等を検出した。
 以下では、第1節で東高野街道と一里塚に関係する調査成果について、第2節で今回の発掘調査で明らかとなった遺構・遺物の調査成果について総括する。
第1節  東高野街道と一里塚

  第1項 東高野街道

 <東高野街道の設置時期と既往の調査>

 東高野街道は、京都の東寺から八幡市の石清水八幡宮を経て、和歌山の真言宗総本山の高野山金剛峯寺へ至る街道である。平安時代の皇族・貴族による高野詣は、淀川を下り、中高野街道や下高野街道を通って、河内平野を南下するのが一般的な経路であったが、東高野街道は、陸路の経路として古代から近世まで重要な街道の一つであり続けた。
 その設置時期については諸説あるが、中河内地域の東高野街道沿いにある、遺跡の分布状況や古代寺院の立地から、一部の区間については古代以前に遡る可能性が指摘されてきた。
 東高野街道のこれまでの発掘調査では、平安時代以降の遺構が確認されている。交野市所在の上の山遺跡では東高野街道の路面(近世)・側溝(鎌倉時代以前から近代)、柏原市所在の大県遺跡では側溝と考えられる溝と路面(古代か)の可能性が高い整地層、柏原市所在の平野・山ノ井遺跡では近世及び近世以前の路面、富田林市所在の畑ヶ田南遺跡では東高野街道に関係する石敷遺構(平安時代)、河内長野市所在の市町東遺跡では東高野街道に関係する集石遺構(中世)が検出された。
 各地で東高野街道に関係する遺構が確認されてきており、これらの調査成果を通じて、東高野街道が地域毎に異なる変遷を辿ったことが想定できる。


<側溝と路面> 


 今回の発掘調査では、東高野街道沿いの調査で、側溝ないし側溝の可能性がある溝が検出された。また、四馬塚遺跡5-4区の調査では、近世以降の路面整地層の可能性がある地層を断面で確認した。
 側溝は、当地における東高野街道が水田地帯を通るため、区画・灌漑用の溝を兼ねている。発掘調査では埋没と再掘削が長期に亘って繰り返されている状況が確認できた。一方で、出土遺物は皆無であるか少量で、時期不明のものが多数を占める結果となった。
 路面は、近世以降の路面整地層の可能性がある地層が部分的に確認できた。
 路面であったと仮定した場合、この断面には、溝の開削・浚渫等で生じた排土(偽礫状を呈する堆積物)に由来する地層が認められなかった。東高野街道沿いの発掘調査で偽礫状の堆積物が認められたのは、上記の路面整地層の可能性がある地層以外に、四馬塚遺跡5-3区北の51溝埋土と四馬塚遺跡5-4区219土坑埋土の上位、同区229溝直上のみで、埋戻しと整地に関係している。近世には規模が大きい側溝・貯水用の土坑が検出されているが、路面が想定される範囲でこれらの遺構に由来すると考えられる排土は確認されなかった。街道の路面を維持する上で、路面が土置き場となるような状況はなかったことが想定される。

 東高野街道の路面幅については、明治17(1884)年作成の『大阪府地誌』河内國交野郡、春日村・村野村・郡津村・私部村・寝屋村・星田村・打上村・燈油村について記した記事に、路面幅がいずれも8尺(約2.4m)であったことが記載される。今回の発掘調査では、路面に相当する範囲が攪乱されていたが、側溝を含めた東高野街道に関係する遺構の立地から路面幅を検討すると、以下のとおりになる。
 中世前半の路面幅については、228・229溝がこの時期の側溝となる可能性があるものの、詳細は不明である。中世後半の路面幅についても、同時に存在した東西の側溝の組み合わせが明確ではなく、不明である。51溝と、228・229・271溝のいずれかの溝との組み合わせでは、路面のみの幅で3.0m以上に復元できる。近世の路面幅(路面のみ)は、56溝と219土坑の位置関係から、2.4mから2.7m以下に復元できる。なお、現代の路面幅は2.6m(既設水路部分を含めると3.1m)である。


 東高野街道の経路については、今回の調査は東高野街道全体からみると非常に限られた範囲だが、四馬塚遺跡5区の調査を行なった範囲内では時代毎に若干位置が異なる可能性が想定された。中世前半の北東部の経路は、53溝を含めた耕作痕(中世前半)があることから現代の経路より西側にあったと考えられる。また、南西部は20溝・22土坑・24土坑を検出しており、東高野街道はこれらの遺構がある場所より、西側を通っていたものと考えられる。

 中世後半の北東部の経路は、227~229溝の位置から現代の経路より西側か、51溝の位置から現代の経路とほぼ同じ位置にあったことが想定される。中央部は当該期の遺構が検出されておらず不明である。現代の経路と重複する可能性がある。南西部は3・215・216溝の位置関係から、その間を通っていたことが想定でき、現代の経路と同じ位置にあったことが想定される。
 近世の北東部の経路は第2層除去面で検出した208・262溝の位置関係から、近世末には現状の路面より西側にあったことが想定される。中央部から南西部は27・219土坑の位置関係から現代の経路とほぼ同じ位置にあったと考えられる。


 東高野街道の経路が設置された地形については、基盤層上面の標高を検討したが、東高野街道の機能時の遺構面ではないため、有意な情報は得られなかった。現状地盤の標高については、東高野街道周辺が全体的に0.1 ~ 0.5 m高くなっていることが分かっている。また、東高野街道は今回の調査区内をみるかぎり、元々谷地形のあった場所を通っておらず、可能な限り地形の高い場所を選んで設置された可能性がある。ただし、四馬塚遺跡5-3区南では、3溝と東高野街道との間隔が狭くなることが想定できる範囲(図48)があり、地形を無視して直線的に経路を設定している範囲があったことも想定される。

<出土遺物>
 生産域を通る街道であったため、東高野街道に関係して出土した遺物は少量であった。
 側溝から出土した、中世以前に遡る遺物は、51・227 溝から出土した瓦がある。中世前半の土器は、近世の側溝や土坑等から出土した遺物の中にわずかながらみいだせた。
 また、四馬塚遺跡5―3区北の56 溝と、東高野街道に近接する場所に堆積した第4-1層・第4-2層からは、銭貨が合計3点出土している。四條畷市の清滝街道の調査では銭貨が路面や側溝から複数出土しており、銭貨は街道における祭祀行為に関係すると考えられている。
 他に、東高野街道の西側に位置する5-4区216溝からは銅製口金具が出土した。銭貨や金属製品は、他の調査区では出土しておらず、東高野街道に近接する位置で出土している点が注目される。


 <天保絵図との対比>
 近世の星田周辺を詳細に描いた三幅の絵図の内、天保絵図には、東高野街道・一里塚・溝(河川)が表現されている。溝については2区西(断面でのみ確認)の溝、四馬塚遺跡5-3区北・5-3区南の56溝、四馬塚遺跡9区255溝が天保絵図に表現された溝に対比できる可能性がある。
 一方、今回の発掘調査では絵図には表現されない遺構(27・219土坑等)が検出された。上記したとおり、27土坑は東高野街道に沿って調査区外の南西方向に延びており、絵図で表現された溝の屈曲部は27土坑より南西側にあった可能性がある。
 
 第2項 一里塚

 正保国絵図[正保元(1645)年~正保3(1648)年頃作成]では、一里塚は合計14箇所が表現される。この内、八尾市の垣内村一里塚はその痕跡が現在まで残り、富田林市錦織一里塚は東高野街道沿いに現存する。今回の発掘調査では四馬塚遺跡5-2区・5-5区が一里塚の推定地にあたるが、一里塚は確認されていない。四馬塚遺跡5-2区は近世の作土が27土坑を除いた範囲に堆積しており、水田として用いられていることが判明した。四馬塚遺跡5-5区は現代に大きく削平されていることが判明している。
 なお、一里塚は、明治18(1885)年大日本帝国陸地測量部仮製地形測量図や昭和23(1948)年航空写真で確認することができない。四馬塚遺跡5-5区の現代作土直下には部分的に近代の作土が認められており、5-5区の範囲に一里塚が存在していたと仮定した場合、近代には一里塚は消失していたと考えられる。先述したとおり、5-5区27土坑(近世)は調査区外の南西方向に延びており、一里塚が今回の調査範囲より南西側に位置する可能性もあると考えている。
 第2節 遺構の変遷

 星田駅北遺跡・平池遺跡・四馬塚遺跡・東高野街道の発掘調査では、古代末から中世前半以降の生産域の変遷を明らかにすることができた(図52)。以下では、各時代の主要な調査成果について総括する。

<旧石器時代>
 星田駅北遺跡1-1区で国府型ナイフ形石器、星田駅北遺跡1-2区で調整剥離のある縦長剥片が出土した。星田駅北遺跡の南東方向に500m離れた場所には、同じ時期に石器製作が行われていた布懸遺跡があり、同時代の活動の痕跡として注目される。

<弥生時代~中世前半>
 四馬塚遺跡5-4区の調査では、弥生時代と古墳時代の遺物がそれぞれ1点ずつ出土した。洪水等により上流部から移動してきたものと考えられる。また、時期は不明ながら谷地形が星田駅北遺跡1-1区・3区、四馬塚遺跡5-1区・5-5区・6区・7区で検出された(図53)。

 <11世紀後半から12世紀前半以降>
 星田駅北遺跡・四馬塚遺跡では、生産域として土地開発が行われるようになる。星田駅北遺跡1-1区・四馬塚遺跡9区で当該期の遺物が出土した。星田駅北遺跡1-1区では、谷地形の直上で耕作痕と考えられる土坑が検出されている。時期は不明確ながら、層位的に12世紀前半に遡る可能性があり、この地における土地利用の始まりは、湿潤な谷地形周辺を利用したものであった可能性がある。

 <12世紀後半以降>
 遺物量は増加していき、星田駅北遺跡・平池遺跡・四馬塚遺跡では水田・畠に関係する遺構が多数検出されるようになる。本格的な開発はこの頃から始まったと考えられる。現代まで残存する地割の原形は、この時期にすでに成立していたと考えられる。ただし、星田駅北遺跡2区西の41・42溝周辺、星田駅北遺跡3区北69・70溝周辺、四馬塚遺跡5-3区南の3~5溝周辺、四馬塚遺跡5-5区の196溝周辺では、後世には続かない小規模な区画が検出された。これ以外にも、平池遺跡4区・四馬塚遺跡6区等では、谷地形周辺に堆積する中世前半の作土(第4-2層)の堆積状況から、地形が平坦化する前に狭小な区画の水田ないし畠があったことが想定された。


<近世>
 江戸時代に残された絵図には、星田周辺に水田地帯が広がっていたことが示されている。発掘調査では、この時代の作土が調査区全体に堆積し、区画に関係する溝が現代の地割と重複している状況が、大半の調査区で確認できた。近世には、発掘調査前のJR星田駅北側にあった田園風景とほとんど変わらない景色が広がっていたものと考えられる。

 貝原益軒が著した『南遊紀行』には、「是より河内の山の根の大道也。此道より吉野、和歌山、高野へもゆく。」と記し、東高野街道のことを「山の根の大道」と表現して、田園風景の中にあった東高野街道を往来したことが記されている。
 
 参考文献
・ 大阪府教育委員会2016『大県遺跡・東高野街道』
・貝原益軒(扇谷昭編集)2013『南遊紀行』
・柏原市教育委員会1983『玉手山・田辺・山ノ井・平野遺跡 柏原市所在遺跡発掘調査概報』
・柏原市教育委員会1986『大県・大県南遺跡 下水道管渠埋設工事に伴う柏原市文化財概報』
・川江直種(他写)1884『大阪府地誌河内國第16編交野郡2』
・ 河内長野市遺跡調査会1996『ジョウノマエ遺跡・尾崎遺跡・尾崎北遺跡・菱子尻遺跡・市町東遺跡』
・ 財団法人 大阪府文化財センター2011『私部南遺跡III 有池遺跡 上私部遺跡 上の山遺跡』
・財団法人 八尾市文化財調査研究会2002『教興寺跡第1次調査・第2次調査 』
・四條畷市教育委員会2011『清滝街道発掘調査報告書』
・棚橋利光1988「二、高野街道の歴史的概要」『歴史の道調査報告書第二集高野街道』
・富田林市遺跡調査会2004『畑ヶ田南遺跡1』
・西井長和1984「堺県管下河内国第三大区九番領星田邨萬分之六図」『星田と徳川家康公』付録
・三浦浄心編1940『慶長見聞集』
・水野正好1992「第二章旧石器時代」『交野市史考古編』
 
発掘調査地点 発掘風景

室町時代以前の東高野街道側溝
 
東高野街道周辺発掘状況
 
江戸時代の東高野街道側溝と水を溜める土坑
令和元年8月31日
東高野街道の発掘調査 現地説明会資料
交野市教育委員会 公益財団法人大阪府文化財センター
 今回の発掘調査は、区画整理事業に先立ち平成30年10月から実施しています。事業地は平池遺跡、星田駅北遺跡、四馬塚遺跡、堀之内遺跡、東高野街道内に含まれ、調査面積は約22,000㎡に及びました。
 このうち、東高野街道の調査では、同街道の側溝を検出しました。街道の側溝は、鎌倉時代から江戸時代に至るまで何度も「掘り直し」が行われていて、街道が大切に管理されていたことがわかりました。
 街道の側溝は現在の東高野街道よりやや西側で検出されていることから、江戸時代以前の東高野街道は、現在の位置より西側を通っていたようです。
 平池遺跡、星田駅北遺跡、四馬塚遺跡、堀之内遺跡の調査では、鎌倉時代以降、水田や畑など耕作地(生産域)として土地利用されてきたため、土器などの出土は少ないですが、東高野街道に近い四馬塚遺跡の調査では、銅製刀装具や銭貨などが出土しました。人々の往来が活発であった街道沿いから出土している点で注目されます。

 
東高野街道の路面
  江戸時代の路面は、部分的に断面で確認することができました。鎌倉時代から室町時代の路面は、江戸時代以降の耕作により削平を受けており、今回の調査では確認することが出来ませんでした。


 一里塚について
 東高野街道の東西では、街道の排水のため、「側溝」が掘られていました。側溝は、周辺に広がる水田の灌漑用水路としての機能もありました。江戸時代の絵図には、東高野街道と一里塚とともにこの「側溝」が表現されています。また、江戸時代には絵図に表現されていない、水を溜めるための土坑が検出されました。


 「一里塚」の石碑
 「四馬塚」は、江戸時代の文献には芝塚と表現されていました。東高野街道の両側にあった一里塚のことを指しています。一里塚は、一里(約4km)毎に盛土した塚で、行き交う人々の目印でした。東高野街道の一里塚には、松の木が植えられていたことが絵図からわかります。


最後までご覧いただきまして有難うございます。

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