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12. 山添家住宅

交野市寺2丁目・正行寺の東の道を北へ上がり、札場の辻前


山添家 「山添家住宅」一般公開の中止
 
 これまで、一般公開してきました山添家住宅につきましては、都合により、公開を中止させていただくこととなりました。公開の再開については未定です。ご了承ください。

  交野市文化財事業団    TEL 072−893−8111


山添家は国の重要文化財に指定されている。
この住宅は江戸時代の庄屋の家で、11代前の九左衛門平精が宝永2年(1705)に建てたもの。

母屋は土間の面積が広く、雨の日などは農事を広い土間ですることが出来たそうです。現在では全国でも数少ない茅葺きの屋根がとても珍しいものになっています。

この地方の民家は家の中ほどで、棟木を支える大柱を中心に、その周りに部屋を作り、だいたい「田」の字の形を動かすことはできない。それにただいろいろの枝葉を付けるだけのことであるのが原則。それは棟木をもつ日本の家には、その後、どんなに変化をあたえても、屋根が落ちては住んでいられなくなるから、この法則から抜け出すわけにはいかない。

このような根本的なところは、出雲大社の建物でもそれがみられて、以後日本家屋の不動の伝統となっている。



「ふるさと交野を歩く(里の巻)」奥野 平次 著によると、山添家は次のように紹介され、
昔の人々の楽しそうな暮らしぶりが偲ばれます。

石畳の道を進むと右に泉水があって、茅葺きの軒下に出る。
ここから見える軒先の裏からのまとまりが好きである。
大戸をはいると左上の三角に組んだ「さす組み」があり大変立派である。
土間を入った左が牛小屋、その上が男衆の室、その北側に「からす(からうす)」があって、米を搗きながら牛の監視をかねていた窓から遠い昔が見えるようだ。
へっつい(かまど)が三つ、西の小窓の前にある石の流し台、その右がはんど壷。昔「一粒食い」に使用した赤白黒の歯がため石をここに沈めたというが、山裾の村の古い民俗の話をしてくれているようである。

土間の天井の丸竹の色は、294年前、宝永2年(1705)「平精」という先祖がお建てになってからの色である。
また、土間の北東の角にある「いろり」の跡が楽しい。どんな人がどんな話をしていたのだろう。楽しい話し声が聞こえてきそうだ。
口の間は八畳、座敷は八畳と仏間、一室突き出た角屋(つのや)は六畳で、一般の家では見られない大切な人たちとの政治の場であったのだろう。

北側は台所と寝室。この家の夏は涼しく冬は暖かだとおっしゃる。
ここの屋敷で特にいいなと思うのは、裏にある「つぶ」(むくろじ)と、表の赤い実のなる「もち」の古木である。
また、座敷と角屋との間の菊水の欄間も古い物語をしてくれるようだ。

山添家五代孫秀隆は南伊勢五郡の領主であったが、織田信長に敗れてここに住みつかれたという。
昔の年貢納めは除夜の鐘が鳴るとしまいだという。正行寺の鐘は早くつき始めたので、村の人たちは善政だと喜んだようだ。


かたの広報、交野市文化財だよりを参照

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