今回は「古墳時代の暮らし」をテーマに、歴史民俗資料展示室のジオラマと遺跡、古墳群の展示遺物を紹介します。
古墳時代とは 古墳時代の始まりは3世紀中ごろで、およそ350年くらい続いたとされています。 すでに弥生時代には稲作が始まり、青銅器や鉄器が伝わり、水利権や収穫した米などをめぐって、村と村の争いも起き始めました。 やがて、稲の大量生産などで収穫が増え、自分たちの一族が利益を得やすいように支配を始めるようになり、貧富や階級の差がでてきます。そして、富を蓄えた身分の高い人は、村人を働かせて豪華なお墓を作らせました。これが古墳と呼ばれるお墓です。 古墳は、集落が見渡せる見晴らしの良い丘の尾根などに盛り土をして作られていて、数多くの人が、鉄器や原始的な道具を使い、長い月日と苦しい労役の末に作り上げたものです。 市内には、前期古墳の森古墳群、中期古墳で大阪府の指定文化財の交野車塚古墳群、後期古墳の寺古墳群や倉治古墳群などがあり、展示室にも、これらの古墳の出土遺物を多数展示しています。
当時の暮らし すでに現代と同じ技術が? 古墳時代の暮らしを説明するのにうってつけの資料があります。展示室の扉を開けると、まず目に飛び込んでくる、1辺約150センチもある大きな古墳時代の暮らしをイメージしたジオラマです。 ジオラマに近づいて、竪穴式住居内の人々の暮らしをのぞいてみましょう。 標準的な古墳時代の住まいは、50センチ〜1メートル地面を掘り、萱などを屋根にふいた半地下式の住居で、形は正方形。1辺の長さは5メートル、畳14〜15枚分に相当します。意外と広いですね。 住居の特徴として、入り口の反対側奥にかまどがつくられます。かまどが導入される前は、住居の中心に炉がありましたが、かまどを奥につくることにより、室内を広く使えるようになりました。冷蔵庫の役割を果たす貯蔵穴がかまどの脇に移動し、台所という空間が意識されるようになりました。また、室内は、作業場と居間、寝間に区別されていました。 かまどには、甕と甑を載せ「蒸器=せいろ」として使用する(左下図参照)生活が一般化していました。食物を煮炊きすることしかできなかったものが、蒸すことで調理方法に変化をもたらし、食生活が豊かになりました。 このようなせいろの技術などは、ひと昔前まで利用されていた技術とほとんど変わりありません。古墳時代のかまどの普及は、現代まで続く暮らしの転換期だったのです。 |
古墳時代の暮らしをイメージしたジオラマ |
せいろの使用方法 |
方形の竪穴式住居 |
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古墳時代の土器 朝鮮半島から伝わった技術で作る 古墳時代の土器には、土師器と須恵器があります。 土師器は、弥生時代から続く赤い色の土器で、狭い穴の中に土器を並べて、その上を枯れ枝などで覆って火をつけるという方法で焼かれました。 須恵器は、朝鮮半島から伝わった窯焼きの技術で焼かれたもので、色は灰色、たたくと「キンキン」と音がするくらい硬く焼き上がっています。また、須恵器は、台の上に置き、回転を利用して形を整える「ろくろ」を使用して形を作っています。 朝鮮半島からは他にも土木、鉄の加工、焼き物、機織り、乗馬(馬を飼ったり、鞍などの道具を作る)、金メッキなどの技術や、漢字などが伝わり、人々の生活は豊かなものとなりました。 これらの土器は、森遺跡や寺古墳群、倉治古墳群などから出土し、展示室に置かれています。
土師器 |
須恵器 |
上私部遺跡 竪穴式住居や豪族居館など140棟が出土 昨年、青山の第二京阪道路建設に先立つ発掘調査で、先ほど紹介したジオラマをほうふつとさせる古墳時代の大規模集落跡「上私部遺跡」が見つかりました。人々がこの地域に住み始めたのは5世紀ごろで、当初は数棟の竪穴式住居で生活していましたが、6世紀になると集落内を溝で区画するようになり、大規模な掘立柱建物を規則正しく並べて建てる集落に発展したようです。 このような大規模集落や大きな古墳が次々と作られた古墳時代、交野には何人くらいの人が住んでいたのでしょうか。一説によれば、古墳時代当初の日本列島の人口は、200万人くらいと言われています。 答えはみなさんの想像に委ねるとして、今回の解説を終了したいと思います。
歴史民俗資料展示室ボランティア解説員
村田義朗
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発掘された時の上私部遺跡 ((財)大阪府文化財センターの現地公開資料より) |
当時の集落のイメージ |
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