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広報 かたの 特集シリーズ

歴史民俗資料展示室へようこそ かたの歴史探訪
ー森遺跡ー  府内二大鍛冶専業集落だった

 今回は、河内磐船駅周辺にあった森遺跡を紹介したいと思います。
 私が森遺跡に関心を持ったのは、奈良県橿原市にある橿原考古学研究所の「大和の古墳と渡来人」という講義を受けたことがきっかけでした。その講義によると、森遺跡は5世紀からの鍛冶工房(鉄器製造工場)で、大阪府柏原市の大県遺跡と共に、府内の二大鍛冶専業集落だったそうです。

森遺跡
 森遺跡は、昭和61年から平成4年にわたる大掛かりな発掘調査によって、森北1丁目から森南1丁目にかけて、弥生時代から古墳時代の終わりごろまでの遺構が集中していることが分かりました。
 弥生時代から古墳時代の初めごろまでは、主に農耕をしていたようですが、5世紀に入り鍛冶専業集落へと移っていったようです。

森遺跡の出土遺物
 森遺跡が大規模な鍛冶工房であったことを裏付けるように森遺跡からは、土師器や須恵器と呼ばれる様々な種類の土器のほか、鍛冶関連も、鍛冶炉の跡、鉄滓(製品を作る途中で出た鉄くず)、ふいご羽口(炉の火力を強めるための送風機の先端部)、鉄塊、砥石が広範囲でたくさん出土しました。
 ただ、残念なことに完成した製品は出てきませんでした。当時の設備であれば、おそらく鎧、胄、刀、農工具などが作られていたのではないでしょうか。


鍛冶炉のようす

※ふいご羽口と鉄滓はレプリカで、炉は発掘されたものを、そのままくりぬいて持って来た本物です。


鉄製品を加工する様子

ふいご羽口

鉄滓(てっさい)

鉄塊(写真左)
 鉄器を作るためのものです。各面は平坦になっていて、かなづちで叩いたことが分かります。

鋳造鉄斧(写真右)
 朝鮮半島から持ち込まれた鉄を鋳型に流し込んで作った鉄の斧です。

鍛冶集落になった理由 豪族、肩野物部氏
 当時、交野は物部氏の一つ、肩野物部氏という豪族が治めていたといわれています。この物部氏は大和朝廷に仕え、朝廷の武器庫である奈良県天理市にある石上神社を管理している有力な軍事豪族でした。また、継体(けいたい)天皇の時代(527年)、北部九州を支配していた筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)という大豪族が反乱を起こしたときも、天皇は物部氏の一人、物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)に命令し、彼を将軍とする征討軍を派遣して鎮圧しました。
 そのような一族である肩野物部氏が、森遺跡に渡来系の技術集団を招いて大規模な鍛冶集団を作らせたのではないでしょうか。
原料から製品まで 肩野物部氏が管理
 鉄製品の原料になる鉄は、交野の周辺には無く、当初は朝鮮半島から運び込まれ、後に岡山県から運び込まれてきたことがわかってきました。
 岡山県津山市に、中山神社という神社があります。この神社の言い伝えが記された書物に、神社ができる奈良時代の初めまで、肩野物部乙麿(かたのもののべのおつまろ)という人が住んでいたことが書かれています。この地方は昔から鉄づくりが盛んでした。
 肩野物部氏は、鉄の原料を作る人たちと、その鉄で武器や農工具を作る人たちの両方を支配していました。

岡山県の中山神社

森遺跡の衰退
 大規模な鍛冶専業集落だった森遺跡も、6世紀が終わるころから何故か衰退してしまいます。
 ちょうど6世紀の終わりごろの587年、蘇我馬子と聖徳太子連合軍により物部本宗家である物部守屋(もののべのもりや)が滅ぼされ、物部氏は滅亡してしまいます。このことが同じ一族の肩野物部氏にも深く影響して、森遺跡も同時に衰退することになったのではないかと思います。

歴史民俗資料展示室 ボランティア解説員 高尾秀司

住 所 交野市倉治6−9−21(教育文化会館内)
▽JR津田駅から徒歩10分
▽交野市駅から、京阪バス「津田駅」行き、「南倉治」下車、徒歩1分
▽ゆうゆうバス、倉治コース、「南倉治バス停」下車、徒歩1分
開館時間 午前10時〜午後5時(入館は4時30分まで)
休館日 月曜日・火曜日・祝日・年末年始
問い合わせ 文化財事業団(TEL893・8111)か、同展示室(TEL810・6667)

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