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広報 かたの 特集シリーズ

広報かたの 平成23年9月1日号

〜飛鳥・奈良時代の寺院と役所〜
 奈良県の飛鳥に都が置かれるようになった592年から飛鳥時代が始まり、710年には平城京に都が移され、奈良時代が始まります。
 奈良時代には日本全国から税として徴収された物資が都に集められており、交野(肩野)からも物資が運ばれ、交野と書かれた木簡が平城京から見つかっています。
 木簡とは木の板に墨で文字を書いたもので、手紙・帳簿や荷札などに使われていました。
肩野津≠ニいう所から平城京へ米が送られたという内容の木簡も見つかっています。
 飛鳥時代から奈良時代の交野は、記録も少なく謎の多い時代ですが、発掘調査により少しづつこの頃の交野の様子が分かってきています。
 
謎の古代寺院
 飛鳥時代は、日本に伝来した仏教が広がり始める時代です。寺院は古墳に代わって権威を示すものとなり、日本各地の豪族たちが寺院を建設するようになりました。
 交野でも、寺院の痕跡が多数見つかっています。
 郡津神社境内で、飛鳥時代後半から奈良時代初めごろの瓦が発見されました。
 瓦は仏教伝来とともに寺院建築の一部として伝わってきたもので、当時はまだわずかにしかなかった寺院のみに瓦が使われていました。
 そのため、郡津神社の下には寺院があったことがわかりました。しかし、寺に関する記録が無い上、全体の発掘調査がされていないため、どのようなお寺だったのか謎に包まれています。
 また、現在の森地区にある須弥寺は、平安時代に弘法大師により創建されたとの記録が残されています。
 ところが、この記録より古い奈良時代の瓦が発掘調査により発見されました。須弥寺が建てられたのがさかのぼるか、記録には残されていない須弥寺の前身となる寺院があったとみられています。

郡津神社内から見つかった瓦

須弥寺から出土した瓦(奈良時代)
 
交野郡衙と官人たち

 大化の改新などの大改革で、日本の大部分は現在の都道府県・市町村のような行政単位に分けられ、新しく設置された役所によって管理されるようになり、豪族たちは役所で官人として働くようになりました。
 交野は、7世紀後半に北河内一帯を占める茨田郡の一部として治められるようになりました。8世紀の初めにはそこから分割されて、現在の枚方市から交野市を含む交野(肩野)郡となり、交野郡衙という役所がおかれました。
 交野郡衙の場所がどこにあったのかは分かっていませんが、交野の歴史を研究した片山長三さんと奥野平次さんによると、郡津にあったと推定されています。
 その根拠は「郡」という地名が残されていることや、当時の交野郡の中心に位置し、さらに安定した見晴らしの良い土地であることや、交通の便利なところだったことなどです。
 また、当時の郡衙の周辺には寺院が建てられることが多いので、郡津神社の地下の寺院も交野郡衙に伴うものであったかもしれません。


交野郡衙と交野(片山長三さん作)

腰帯の金具(私部南遺跡)
 しかし、最近の発掘調査によって、私部南遺跡から重要な発見がありました。
 まず、奈良時代の建物が無数に発見され、その中には建物の柱をそろえ、整然と立ち並ぶものがあることがわかりました。その一方で日常生活に欠かせない井戸はわずかにしかありません。
 このことから、生活に使われた建物ではなく、役所などの公共的施設だったかもしれません。
 さらに、遺跡からは、奈良時代のベルト(腰帯)の金具や硯が発見されました。ベルトは現代では一般的なアクセサリーですが、当時は官人など一部の人が、身分を示すために身につける物でした。
 また、この頃に文字を使用するのは役所勤めの官人など、ごく一部の人に限られていたため、奈良時代の硯は役所跡やその近くで発見されることが多いのです。
 整然とした建物群やベルト・硯が発見されたことから、奈良時代の私部南遺跡には、公的施設か官人の住宅があった可能性が高くなりました。
 
奈良・飛鳥時代を考古学してみよう
 文献が残されていない大昔のことは、発掘された遺物のほか、地形・位置、そのときの政治情勢などを材料に推測するしかありません。
 現在、交野郡衙の位置は郡津だとする説が有力ですが、そう推定した片山さんと奥野さんお二人の生前中には、残念ながら先程紹介した私部南遺跡の発掘調査は行われていませんでした。
 もし、私部南遺跡の発見があってから、二人が交野郡衙の位置を推定するとしたら、どこになったのでしょうか。
 このように、考古学は、見つかった「物」で歴史が変わることもありますし、見つかった「時期」で歴史が変わることもある面白いものなのです。
 
 

遺跡たんけんツアー・考古学教室参加者募集

  今回は主に古墳時代から奈良時代の遺跡を歩き、発見された出土品に触れながら、交野の歴史を学びます。
◆遺跡たんけんツアー
と き 10月2日(日)午前10時〜正午(小雨決行)
コース 河内磐船駅前(集合)⇒森遺跡⇒東車塚古墳⇒大畑古墳⇒寺・塚穴古墳⇒須弥寺⇒河内磐船駅
参加費 100円(保険・資料代)
◆考古学教室
と き 9月25日(日)午前10時〜正午
ところ 歴史民俗資料展示室(交野市立教育文化会館内)
定 員 先着30人
申し込み・問い合わせ 9月2日(金)から文化財事業団(TEL893・8111、FAX893・8168土・日曜日、祝日はファクスで受付)※遺跡たんけんツアーと考古学教室の両方への参加が原則となります。片方のみの参加の場合はお問い合わせください。

歴史クイズ

問題
右の絵は、飛鳥時代と奈良時代の男女の服装をモデルにしています。@〜Cの人物の中から、奈良時代の服装をした人物を2人選んでください。
@
A
B

C

 歴史クイズの正解者の中から抽選で1名様に、遺跡と遺物を掘り出す体験ができる「発掘調査体験キット」をプレゼントします。当選者の発表は体験キットの発送に替えさせていただきます。
応募方法 9月30日(金)までに@答えA名前B住所C電話番号Dあれば感想・質問を書いて文化財事業団広報プレゼント係(〒576−0052 私部2−29−5 e-mail:bunkazai@city.katano.osaka.jp)
問い合わせ 文化財事業団(TEL893・8111)

8月号歴史クイズ答え
正解は、Aでした。
解説:埴輪のように焼き物をお墓の墳丘の周りに並べる文化は、同時期の中国や朝鮮半島には見られません。また、いけにえや殉死は「日本書紀」に書かれた埴輪の起源説ですが、最初期の埴輪に人・動物型のものがないこと、考古学的に古墳時代に殉死の痕跡がないことから否定されています。


住 所 交野市倉治6−9−21(教育文化会館内)
▽JR津田駅から徒歩10分
▽交野市駅から、京阪バス「津田駅」行き、「南倉治」下車、徒歩1分
▽ゆうゆうバス、倉治コース、「南倉治バス停」下車、徒歩1分
開館時間 午前10時〜午後5時(入館は4時30分まで)
休館日 月曜日・火曜日・祝日・年末年始
問い合わせ 文化財事業団(TEL893・8111)か、同展示室(TEL810・6667)


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