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交野歴史健康ウォーク 第99回
桃山御陵から伏見界隈を歩く
秀吉の指月城を探して
京都市伏見区 徒歩 約7km

京阪枚方市駅桃山南口駅昭憲皇太后伏見桃山東陵→明治天皇陵(桃山陵)表参道→
治部池→桓武天皇柏原陵→御香宮神社→大手前商店街→源空寺(伏見城遺構)
→味処きらく(昼食)→松本酒造→寺田屋→濠川・伏見港公園散策→京阪中書島駅


 2009.11.21(土)午前9時30分、京阪枚方市駅京都行きコンコースで集合。天候晴れ時々曇り。時間通り元気な11名の顔が揃った。今回で交野歴史健康ウォークは発足後第99回目を迎えた。
 今年3月の勉強会で「伏見界隈あちこちぶらり」をテーマで講演をお願いしました、吉岡一秋氏の企画立案で、秀吉の伏見城(指月城)を求めて桃山御陵から伏見界隈を案内して頂きました。 

 京阪宇治線の桃山南口駅を降り、JR奈良線をくぐり15分ばかり歩くと、明治天皇桃山御陵へと続く230段の階段前に到着。ここで、先ず全員で記念撮影。続いて、昭憲皇太后伏見桃山東陵→明治天皇陵(桃山陵)を見学。
 桃山御陵前で、秀吉の伏見城は二つあったこと、1592年に伏見指月城を築城、1596年慶長の大地震で倒壊。1597年に木幡(こはた)に天主閣をはじめ殿舎を完成し、秀吉、秀頼が入城した。本来「伏見城」は、この城のことであり、本丸跡周辺には、現在「桃山御陵」=明治天皇陵があることなど、詳しく説明を受けた。
 また、桃山御陵前からの展望は素晴らしく、かって広大な巨椋池があった辺りには現在向島団地が遠望された。表参道を下る途中では、水道工事により伏見城の石垣が発見され道端に展示されていて、二三の石の側面には、大名の家紋らしき彫跡が見つかった。
 桓武天皇の柏原御陵を見学後、大名屋敷跡町の町名をたどりながら散策、御香宮神社に到着。参拝後、山門(伏見城の遺構)を確認。大手筋商店街に入り、伏見城の遺構と伝えられている珍しい「二層の山門のある「源空寺」で、住職より法然さんのお話を伺うことができた。

 吉岡さん推奨の味処「きらく」でゆっくりと昼食。歴史ウォークでは、いつもは各自、弁当持参で公園などで食べることが多かったのですが、食堂を予約して参加者全員でゆっくりと食事を摂るのは初めてで、いろんな話も弾み、皆さんの嬉しそうなお顔が印象的でした。

 午後は大手筋を西へ歩き東高瀬川沿いにある松本酒造へ、映画やテレビのロケ地として有名な酒蔵処「松本酒造」の赤レンガと酒蔵の風景をバックに記念写真。続いて、寺田屋から濠川に下りて、川を往来する三十石船や柳のある風情を楽しみながら伏見港へと散策、京阪中書島駅にて解散。

吉岡さん、ご案内頂き有難うございました。 
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わって頂きたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

 
桃山御陵から伏見界隈を歩くMAP




京阪宇治線・桃山南口駅 丁度10時でした!

吉岡さんより本日の行程について
桃山御陵(明治天皇陵・皇后陵)

230段の階段前で記念撮影

明治天皇陵(桃山御陵)

230段の階段の向こうに素晴らしい景色、かって広大な巨椋池があった
秀吉の伏見城
伏見城(別名・桃山、指月城)― 太閤秀吉の隠居城 ――

 伏見城は豊臣秀吉が晩年の隠居城として文禄元年(1592)指月の地に淀古城の天守と櫓および聚楽第の建物を移築して建てさせたもので、桃山文化の粋を集めた豪壮華麗な大城郭でした。

 しかし、移築された伏見指月城が、文禄5年(1596)閏7月13日の伏見大地震で倒壊したため、秀吉はこの大地震の経験を踏まえ、その翌日よりまず築城地に地盤の確かな木幡山(桃山)の地を選ぶとともに、新たに耐震性のある構造の城を築城した。本丸(現明治天皇陵北部)の西北に五重の天守が建てられ、そのほかに二の丸・松の丸・名護屋丸などを配置し、出丸を加えると十二の曲輪があったといわれる。輪郭式、連郭式の平山城である。ちなみに秀吉はこの伏見城中で没しています。
 このような伏見城でしたが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の際に、西軍の小早川秀秋と島津義弘の攻撃によって灰塵に帰しました。

 慶長6年に徳川家康は小堀政次と藤堂高虎に再建を命じ、将軍宣下式はこの城で行われた。
 元和9年(1623)三代将軍家光の時、一国一城の法度により廃城となり取り壊わされ、建造物は京都の社寺、石垣は淀城、大阪城の修築に使用された。

 ※現在の伏見城天守は、昭和39年(1964)にお城に遊園地、伏見桃山城・キャッスルランドの展示館として建てられたもので、本来の天守の位置が伏見桃山稜にあたるため、かっての伏見城のお花畑山荘に建てられたコンクリート造りの模擬天守である。

歴史年表
1592年 - 豊臣秀吉が隠居所として宇治川沿いの低地丘陵である指月山に、後に破却した聚楽第の建物の一部を移築するなどして築城された(指月城)。
1596年 - 地震で倒壊したため、約500m離れた木幡山(現在の桃山)に新たに築城し直された(木幡山城)。
1598年 - 豊臣秀吉がこの城で死去する。
1600年 - 伏見城の戦いで焼失。
1601年 - 徳川家康により再建される。
1603年 - 「将軍宣下の儀式」に使用。

大坂の役の後、伏見城の役割は大坂城へ移り、江戸幕府にとってこの城の重要性は薄れたため、徳川秀忠の隠居後の1625年に廃城となった。
廃城後、開墾されたため桃山と呼ばれた。伏見城を通称桃山城というのはこのためである。
伏見城本丸跡などの主郭部分は、のちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたため、現在は無許可での立入を禁じられている。

 ※2009年2月20日に宮内庁の許可を得て、日本考古学協会によって本格的な調査が行われ、4〜5mの盛り土が行われていることが判明。未発見の古墳ではないかと言われている。

明治天皇陵の参道の脇には、石垣に用いられたと考えられる石材が並んでいる。
これらの石材は、下水道工事の際に発掘された。
HOME>>最新ニュース一覧>>【詳細】 Kyoto Shimbun 2008年12月24日(水)
黄金の「天目茶碗」出土
伏見・城下町跡 秀吉の趣味広がる?
写真
伏見城城下町跡で見つかった、内側に金を張った天目茶碗の破片

 京都市伏見区の伏見城城下町跡の発掘調査で、16世紀末の天目茶碗が24日までに出土した。内側には一面に金が張られており、豊臣秀吉の時代の黄金趣味を反映した逸品とみられる。

 調査地は、古地図には武将富田信高の屋敷と記されている。茶碗の破片は長さ7センチ、幅4センチ。金は往時の輝きを放ち、緑色の斑点が付いていた。東西幅14メートルの礎石建物の横の溝から出土した。

 調査した西近畿文化財調査研究所(兵庫県)は「確実に秀吉と同時代の遺物。大名が使ったとすれば、千利休のわび茶とは異なる黄金趣味の茶会が、一般大名にも広がっていた可能性がある」と話している。
京都新聞 2008年10月27日によると

秀吉の隠居所・指月城堀か
伏見城跡調査、全体像知る手掛かり
秀吉の隠居所であった指月城のものとみられる堀と石垣(右端)の一部=京都市伏見区東奉行町

 西近畿文化財調査研究所(兵庫県加東市)は27日、京都市伏見区東奉行町・西奉行町で実施している伏見城跡、桃陵遺跡の発掘調査で、伏見城の前身となる豊臣秀吉の隠居所の指月(しげつ)城とみられる堀や石垣の一部が初めて見つかった、と発表した。研究所は「城の全体像を知る大きな手掛かり」としている。

 近畿財務局の公務員宿舎の整備に伴い、今年5月から約3000平方メートルを調査。見つかった堀は東西の幅16メートル、南北の長さが11メートル、深さ2・2メートルだった。西側の護岸には石垣が確認された。堀の底から豊臣秀吉の黄金趣味をうかがわせる金ぱくを張ったきせるや高麗青磁の茶たく、16世紀後半の陶磁器などが出土した。

 秀吉は1592(文禄元)年に隠居所の指月城を築いたが、4年後の慶長大地震で倒壊した。同研究所は、見つかった堀が慶長以降の伏見の城下町絵図などに記されていないことから、「慶長以前に建てられた指月城の堀と考えるのが妥当」としている。

明治天皇陵から桓武天皇陵へ向かう道の脇に見える治部池
桓武天皇陵
伏見桃山散策(前篇)を動画でお楽しみください!
御香宮神社(ごこうぐうじんじゃ)
御香宮神社(ごこうぐうじんじゃ) 拝殿

御香宮神社山門    伏見城の遺構
御香宮神社(薩摩藩屯所跡)
 初めは、「御諸神社」と称していたが、平安時代貞観4年(862)にこの境内から「香」の良い水が湧き出たので、清和天皇より「御香宮」の名を賜った。現在も本殿東側から名水百選・伏見の七名水に数えられる「御香水」が湧き出している。徳川頼房(水戸光圀の父)が寄進した表門、徳川家康によって建てられた本殿は、国重要文化財。拝殿は、京都府指定文化財である。
 慶応4年(1868年)正月、伏見鳥羽の戦いで薩摩藩の屯所となり、薩摩軍は5門の大砲を備えて、新選組が屯所としていた眼下の伏見奉行所に砲弾の雨を降らせました。御香宮蔵の『戊辰東軍戦死者霊名簿』には、新選組の戦死者24名の名も記されています。
鳥羽伏見の戦いの話をされる吉岡さん 明治維新 「伏見の戦跡」

       明治維新 「伏見の戦跡」
  内閣総理大臣佐藤栄作書(上写真の文)
                (御香宮神社境内に設置されている)

 慶応3年12月9日 王政復古が発せられるや京洛の内外は物情騒然として朝幕の間に一触即発の陰悪な空気が漂った。ところが7日の明方、当社の表門に徳川氏陣営と書いた大きな木札が掲げられた。祠官三木善郷は早速社人を遣して御所へ注進すると翌日薩摩藩の吉井孝助が来てこの札を外し、ここに部隊を置いた。やがて年が明けて慶応4年正月2日、徳川慶喜は大軍を率いて大阪より上洛せんとし、その先鋒は翌3日の午後伏見京橋に着いた。そこでこれを阻止せんとする薩摩藩との間に小ぜり合いが起こった。その折しも鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに当社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(大山巌)の指揮により御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対し砲撃を開始した。これに対し土方歳三の率いる新選組は砲撃の火蓋を切って応戦し、一方、久保田備中守の率いる伝習隊は官軍の前衛部隊を攻撃して奇効を奏し官軍を塁梁まで撃退した。しかし翌4日軍事総裁に任じられた仁和寺宮嘉彰親王は錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので官軍の志気大いに振い、そのため幕軍は淀に撤退した。一方鳥羽方面の官軍も一時苦戦に陥ったが錦の御旗に志気を盛り返し、幕軍を淀から更に橋本に撃退し、遂に幕軍は大阪に敗走した。
 かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。

大手筋商店街

京阪伏見桃山駅前の大手筋商店街
の一角に伏見銀座跡の石碑は建っている
           銀座発祥の地・伏見銀座跡 
                昭和45年石碑建立 伏見区銀座町一丁目
関ケ原戦に勝利した徳川家康(1542〜1616)は、慶長6(1601)年5月通用銀の全国統一を図るため、伏見のこの地に初めて銀座を設けた。四町にわたって会所や役宅が置かれた。慶長13(1608)年に京都に移転し,両替町通二条から三条までに京都銀座が設けられた。この石標は伏見銀座の跡を示すものである。

 
大手筋商店街の中ほど、みずほ銀行の角を少し北に行くと
源空寺という小さなお寺がある。

 法然の霊場二十五箇所の一つに数えられる。建久6年(1195年)に宇治の奥地、炭山に創建されたが慶長年間(1596〜1615年)にこの地に移された。

 二層の立派な山門が目を引く。
 この山門は
伏見城から移築されたもの。


味処「きらく」でゆっくりと昼食を楽しむ
酒蔵「松本酒造」
灘と並ぶ酒の街・伏見には古風な酒蔵が今も残る。風情たっぷりのその町並みや建物は被写体として最上。現代の生活とうまく融合した魅力的なこの町の一角を切り取って、時代劇撮影が行われる。
維新の先駆け
幕末の寺田屋騒動
             寺田屋 
 寺田屋は坂本龍馬が定宿として知られる、幕末の寺田屋騒動の舞台。2階には、刀傷の痕が残る柱があり、龍馬の居部屋だった「梅の間」には女将お登勢が街の画家に描かせたという遭難直前の龍馬の肖像画が掛けられている。

 文久2年(1862)4月23日の寺田屋騒動は、島津久光が1千名の薩摩藩兵を率いて上京したことから始まります。 この時急進派の薩摩藩士を含浪士など百数十人の尊攘派が集まり、関白九条尚忠と所司代酒井忠義を襲撃して、相国寺獅子王院に幽閉された尊融法親王をお助けして島津久光に詔りを賜り幕府を誅伐するとの過激な計画を実行しようとして寺田屋に集まっていました。

 そこに、公家方よりの通報を聞いた島津久光は、計画を中止させるために藩の鎮撫使を派遣し、説得して計画を中止させるよう命じました。
 しかし、鎮撫使側は上意討ちの許可が出ていたため、藩邸への同行を頑なに拒否した急進派藩士の有馬新七以下8名を、その場で斬殺せんと及んだため、激しい剣戟を伴う乱闘になり鎮撫使側も1名死亡、多数の負傷者を出しました。また、急進派側の藩士もその場で6名が死亡、2名の重症者(翌日藩命に背いた罪で切 腹)を出し、4月27日には1名が自刀して果て、これを加え9名の死者を出してしまいました。

 遺体は、伏見の呉服屋、井筒屋伊兵衛(斎藤酒造「英勲製造元」の4代前)とその手代数名が駆けつけ、 白木綿で包み大黒寺に葬ったとされています。この大黒寺は、寺田屋より700〜800メートル北にある藩の菩提寺で、九烈士の墓には、西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建っています。西郷は泣きながら亡き同士たちの為に、大黒寺の墓碑を書いたとされています。

 藩はこの時、同士討ちを恥じると共に、迷惑をかけた寺田屋には、乱闘で破損した家財を即日に修復をさせると共に大金を渡し他言を禁じたそうです。
幕末の頃の寺田屋と浜風景

角倉了以翁水利記念碑

伏見港公園
                濠川に浮かぶ観光用の十石船
文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見城を築き,淀川を巨椋池から切り離し城山の真下へ迂回させ、城の外濠として構築させた。酒蔵の多くは、この濠川に接して建てられ、明治の終わり頃まで、米・薪炭・樽材などの原材料がこの濠川を上下する十石船で運ばれていた。
大倉記念館の裏に回れば、濠川が流れ柳や雪柳がきれいです。春と秋の土、日、祝日には、伏見港公園と月桂冠大倉記念館の南側を十石船で往復することができ、酒蔵などの風景を楽しむことができます。
伏見港の三十石舟
 伏見港は昔「伏見の浜」と呼ばれて、伏見桃山城が築かれた頃から第2次世界大戦まで、淀川舟運の基地だったのです。とくに江戸時代には、おなじみの三十石舟や高瀬舟などが往来して、伏見は港町として大いに栄えたといわれます。
 明治に入っても、なんと外輪船が就航、数社が川蒸気を走らせたとか、その後東海道本線が開通したり、京阪電車が走り出したり、交通の近代化とともに、舟運は衰退しました。戦時中は軍用として港が整備されましたが、戦後の陸上輸送の発展とともに昭和30年代半ばで、港としての機能は幕を閉じたのです。その後を埋め立てたのが伏見港というわけ……(府民グラフ14号より抜粋) 

 伏見城築城にともなう河港整備によって水上交通が注目され、江戸時代から明治時代にかけて淀川の舟運が活発になっていった。1614年(慶長14年)には、角倉了以(すみのくら・りょうい)により京都二条から伏見を結ぶ高瀬川が開削され、宇治川、淀川を経て大坂までが水上交通で結ばれた。伏見はその中継点となり、京の街への入り口、淀川舟運の拠点として栄えた
 江戸時代の伏見港には、三十石船、二十石船、十五石船、高瀬船など2千隻もの船舶が往来していた。これらは幕府公認の通航証を持った過書船(かしょぶね)だった。淀川の航路では、上流の伏見へは1日、下流の天満橋へ半日の行程だった。上方落語「三十石船」は当時の船旅を題材にしたもので、船頭の舟歌や物売りの口上も交え、船に揺られながらののどかな旅気分を彷彿とさせる。大倉酒造の旧本社から西側にあたる南浜の一帯は旅客でにぎわい、船宿が軒を連ねていた。旅客だけでなく米や酒、薪などの物資も往来し、浜辺では運送業者の馬借(ばしゃく)が積荷を取り扱っていた。

伏見桃山散策(後編)を動画でお楽しみください!

伏見桃山散策(後篇)

最後までご覧いただき有難うございました!