交野歴史健康ウォーク 2013.2.9 第127回 交野古文化同好会40周年記念 ふるさと交野を歩く パートZ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(とき)平成25年2月9日(土)晴 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2/9(土)早朝は大変冷え込みましたが、午前中はとてもいい天気でした。星田駅には32名(会員外14名)の元気な皆さんが続々と集合された。 高尾秀司氏の案内で、星田村のお大師さん巡りをして来ました。1ケ村に15の祠が祀られ、今もなお大師さん(空海)の命日にあたる4月21日には、各所で法要が盛んに行われているそうです。 嵯峨天皇の弘仁2年(811)、弘法大師が京都長岡京市の乙訓寺(おとくにでら)の別当に任ぜられ、たびたび近郷の霊場を訪ね、交野の私市・獅子窟寺や星田に立ち寄られたことが知られています。弘法大師が交野地方に来られた時に、獅子窟寺吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、三ヶ所に分れて落ちたと言い伝えられている。お大師信仰が平安の昔から星田の里で連綿と生き続け、今も根強く息づいていることに感動しました。 ※当日、ご案内いただいた高尾秀司氏のご厚意で、レジメと各大師堂と大師像の写真集を 頂戴致しました。記して感謝申し上げます。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弘法大師は宝亀5年(774)讃岐の国(善通寺市)で生まれる。父は地方官吏の佐伯直公善通、母は中央の名族阿刀氏の女。幼名真魚といい幼いころから儒教、文学、歴史などを学んだと云われ、15歳で、{延暦8年(789)}地方官吏養成所である国学に入学、3年後(792年)都にのぼって国の官吏養成機関である大学に進んだが途中で仏道に目覚め出家する。修行の後、延暦23年(804)(30歳)で遣唐使として唐の長安に赴き密教を学び、帰国後816年(弘仁7)高野山を開き密教の修行の道場とし、その後823年(弘仁14)嵯峨天皇から東寺を下賜され密教の根本道場とした。 この東寺と高野山を直結するのがこの星田を通る東高野街道である。また嵯峨天皇の弘仁2年(811)推古天皇が建てた長岡京・乙訓寺の別当となり、これを機会に近郷の霊場を訪ね、私市の獅子窟寺や星田にやつて来て貧しい農民達に現世利益の信仰を植え付けたとされる。また東高野街道を行き来の際にも仏教を教え、その教えを受けた農民達あるいは子孫が弘法大師を慕い続け自分たちの身近に大師堂を建てその徳をしのび念じ続けてきたものと思われます。現在でも大師の命日にあたる4月21日には近隣のお世話番の人達が出て、お供えを供えてお参りをつづけております。 本日はその遺徳を偲び、又近隣の弘法大師に対する信仰の有りようを偲んでみたいと思います。 溜池としては我が国最大のもの 818(弘仁9)大災害があり堤防が決壊。821年(弘仁12)一人の若い僧と4人の童子をつれて、改修にあたり3ヵ月で完成したと云われる。 四国四県の八十八札所(霊場)に巡拝しながら修行の旅をする遍路。弘法大師とともに巡るという意味から常に遍路は「同業二人」である。締めくくりは大師の聖地高野山へ詣でる。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
当日歩いた行程地図
布懸遺跡前で記念撮影
昭和54年に旭小学校西隣の電電公社社宅建設予定地より
旧石器時代の石器(約1万5000年前)が発掘された。
半尺口のお大師さん。一里塚にあった時、寝屋の人が盲目となり、夜静かになって夜参りに杖を頼りに3年間祈願し続けたご利益があり、ある夜お大師さんの「私の片目をお前にあげる」とのお告げがあって、その日から片目が見え出し、代わりにお大師さんの右の片目に傷が出来て、その傷は今ものこっているのだそうだ。 それ以後信仰者が多くなり、4月21日には三角のおむすびに黄粉をつけて参拝者に供養されるが、昭和12年ごろまでは星田だけでなく、堀溝・高宮・小路(寝屋川市)、砂・中野村(四條畷市)の人々も沢山お参りし、また、「どんかい踊り」が催され、大変な賑わいだったそうである。 高尾さんの先導で遠見遮断の道路をあっちへ行きこっちへ曲がりと、次から次へとお大師さんめぐりを楽しませて頂いた。合わせて14ヶ所のお大師さんにお参りしました。お大師さんは星田1丁目から3丁目の間の狭い範囲内に安置されており、その多さにビックリした。また、地元の方によっていつも綺麗なお花が飾られて今も大事に守られていることを知った。 途中、家康陣屋跡もご案内していただいた。 |
@ 半尺口お大師 | |
A 薬師寺のお大師 | |
B乾町お大師 | |
C 野辺橋大師 | |
D光林寺大師 | |
E 中川筋大師 | |
F 東辻屋町大師 | |
G札町大師(地鎮さん) | |
H旧松岳庵大師 | |
I慈光寺大師 | |
J 星田寺内大師 | |
星田寺の十一面観音像 |
空海像 |
K光明寺大師 | |
L上口町大師 | |
M大谷北大師 | |
N南大谷大師 | |
半尺口大師堂 |
|
薬師寺 |
|
光林寺大師堂 |
|
乾町大師堂 |
|
番外 個人の大師堂 |
|
中川筋の石仏さん |
|
中川筋の大師堂 |
|
慈光寺 |
|
慈光寺 早朝から元気にご案内いただいた高尾秀司氏 |
|
札町の大師堂(地鎮さん) |
|
家康陣屋跡 |
|
東辻屋町の大師堂 | |
旧松岳庵の大師堂 |
|
光明寺の薬師堂 |
|
星田寺 |
|
上口町の大師堂 | |
昭和54年に旭小学校西隣の電電公社社宅建設予定地より 旧石器時代の石器(約1万5000年前)が発掘された。 旧石器128点と石鏃1点が出土した。直径数メートルの範囲に、約10cmほどの 深さの中に、ナイフ形石器を作りだすまでの剥片、砕片などが集中していたことから この場所が、ナイフ形石器の制作場所であった可能性が高い。 旧石器のほとんどはサヌカイトで、二上山からの搬入と考えられている。 |
|
北大谷大師堂 石垣の上に石祠で囲い、石造、一石半肉彫りで、 右の側面に寛政2年(1790)の銘あり。 |
|
新宮山は標高65メートルで、麓には弥生時代の星田最古の米作りの跡が見つかっている。古墳の石棺があったらしいが、現在は不明である。今から約700年前に八幡宮の分霊を勧請し、八幡宮跡がありここを新宮山といった。八幡宮跡の宝篋印塔、五輪塔、愛染律院跡の墓などがある。 また、元和元年(1615)、徳川家康が大阪城攻めの時、星田の平井家に宿陣した。東軍16万人のうち、家康手兵15000人は星田から打上に野営して家康宿舎の周辺を護った。家康の旗印の白旗が、新宮山山頂の八幡宮社前の松の大木に高く掲げられた。平井家の文書に寄れば、この松は太さ五尺余(1.5m)と記録されている。残念なことに明治の初年に枯れてしまい、その跡に記念の石碑「旗掛け松跡地」が立っている。 愛染律院跡は、新宮山の北の低いところにある。宗旨は真言律宗で八幡宮の社坊であった。宝暦4年(1754)の愛染律院梵鐘銘文から次のことが判明した。文安2年(1445)記録するところでは、新宮山に6支院(小松、塔頭)あり、それは阿弥陀院、弥勒院、宝珠院、宝蔵院、宝積院、愛染院で、現在(宝暦4年)あるのは唯愛染院1院であると書かれたいた。 この寺の地蔵菩薩立像が明治5年、岡山県井原市高山寺に移籍され、その像は国の重要文化財に指定されている。 現在、新宮山一帯は、星田公園として新しく生まれ変わった。平成9年5月20日オープンした。面積1.6ha(約4800坪)。5つの広場(水の広場、芝生広場、野外学習広場、多目的広場、林間広場)に分けられ、市民の広場として利用されている。 参考資料 星田歴史風土記:和久田薫・札埜耕三著(交野市教育委員会、交野市文化財事業団発行) |
|
|
|
次回の歴史健康ウォークは、3月30日(土)午前10時、JR星田駅集合、 「星田の桜回廊を歩こう」堀江哲夫氏の案内で歩きます。 |