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第196回 交野歴史健康ウォーク
星田駅北開発地区〜周辺史跡巡り
2022.11.12(土) 30名(会員20名)参加
案内人 : 山本 秀雄氏 (交野古文化同好会)

行程 :星田駅(午前9時)→ 星田駅北開発地区 →東高野街道 → 大井川道標 → 大谷北大師祠→ 地蔵堂 → 大谷交差点 → 山根街道→ 布懸遺跡→
大分け →鍛冶が坂 →星田公園 →愛染律寺跡・八幡宮跡 →星田会館(小休止)
→星田神社(一旦解散)→ 平井邸・神祖営趾之碑→星田小学校 →星田駅解散
(12時頃解散)   徒歩 約4.5km
  2022年11月12日(土)秋晴れの中、山本秀雄氏の案内で、星田駅から駅北開発の状況をゆっくりと説明を受けながら見学後、山根街道から東高野街道を歩き、大谷の交差点を渡り、傍示川と別れて山根街道の布懸遺跡、鍛冶が坂から星田公園へ、新宮山八幡宮・愛染律寺・旗掛け松・星田神社などを訪ねて、交野の新しい町づくりと古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 ウォーク当日、早朝より続々と沢山の方々が駅前に集合された。会員18名に加えて、交野広報を見られたり知人の紹介などで会員外の12名の方が参加され、その内2名が新会員に申し込まれた。50周年記念の今年になって、新入会員が44名増加、総勢157名となりました。

 時間の制限のある中、一部(ひそみの藪)を省略、星田神社で一旦解散後、平井邸・神祖営趾之碑を訪問、星田小学校の二宮尊徳像を見て、JR星田駅で12時頃解散しました。
 参加された方々から、「星田駅北開発地区を詳しく解説付きで見学出来て、とてもよくわかりました。また、星田のまちの地形や史跡・歴史などが分かってとても楽しかった。」など感想を頂戴しました。
 ホームページに掲載するにあたり、講師の山本さんが作成されたレジメを頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。

 ※参考資料 星田村絵図(元禄15年・天保14年)、明治18年・41年星田の地図、星田風土記、交野市史・交野町史など参考にさせていただきました。
当日、散策コースMAP

星田神社にて記念撮影


2022.11.12星田の里歴史ウォークレジメ
レジメ作成は、講師 山本秀雄氏



星田駅北開発概念図
 星田駅北土地区画整理事業
星田駅北まちづくり図
 
 
 
東高野街道の一里塚
 京都の教王護国寺(東寺)と高野山金剛峰寺を結ぶ参詣の道を高野街道といいます。
 その中で、河内国の東部を通る街道を東高野街道といいます。
 平安貴族が高野山へ詣でるときは、南都(奈良)の諸大寺を巡ってから行くか、難波(大阪)の四天王寺や住吉大社に詣でてから高野山へ赴くことが多く、東高野街道を通ることはあまりなかったようですが、この街道は高野詣の始まる前から河内国では唯一の南北道で、通行や物資の輸送のために重要な道でした。
 河内の荘園と京都を結ぶ道として、南北朝時代には南朝・北朝両勢力の軍事道路として使用されました。
 江戸時代にできた地誌『河内志』では、東海道から続いて大阪まで下る京街道を「京道」として、東高野街道を「古道」といっており、古くからの道であったことを示しています。
 
 一里塚とは、大きな道路のそばに、通行者の目印となるように、一里ごとに設置した土盛りの塚のことです。
 元禄10年(1697年)の星田村絵図(市指定文化財)には高野街道沿いに「一里塚」があり、下の絵図のように、道の両側の盛り土の上に大きな松が1本ずつ描かれています。
 現在は、旧東高野街道に一里塚跡の石碑が残されていましたが、駅前開発で新しい道路「星田北中央線」に移設される予定です。
 
 
   
交野郷土史かるたに「路傍には 東高野の一里塚」と詠まれています。
 一里塚は街道の一里(4`)ごとに土を盛り、上に木を植えて里程のしるしとした塚。道を挟んで向かい合わせに二つ、木はエノキや松が多い。一里塚の起こりは織田、豊臣の時代からつくられはじめたが、全国的には、徳川家康が秀忠(2代・1605−1623)に命じ、お江戸日本橋を起点とした主要街道に築かせてから広がった。JR星田駅から高架沿いを東に向い四辻を北に少し行くと小字名を街道の東を四馬塚(しばつか)、西を金門(かなかど)という所がある。その田の中にあった。

 江戸中期ならびに元禄10年(1697)の星田絵図にはそれぞれ「一里塚」と書き、道の両側の盛土のうえに大きな松が一本ずつ画かれている。当時を偲べば、街道には里程の目標と旅人に木陰を与え、休憩するために一里ごとに土を盛って松などを植え、一里塚とか一里松といった。  今は舗装道路となり、毎朝の車通勤ラッシュの迂回道路として賑わっている。現在は古川柳にある「くたびれたやつが見つける 一里塚」となりつつある。

 平安時代、信仰のため旅をする人の通った東高野街道は京都鳥羽から河内に入り郡津、星田を経て高野山まで続いていた。そして一里ごとに目印として、木を植えて、お大師さんを祀ったのが一里塚です。一里塚にあった太子堂、今は星田村中の半尺口に移転されています。 
星田の地形と地名 
下記の地図は明治12年測量の地図に標高の高低図を
高さ10m単位に色分けし、小字(交野市史から転記)を書き入れたものである。

大屋喜代治著 「河内国交野郡星田の里」を参照
 星田村絵図(元禄10年・1697年)描かれている
東高野街道と一里塚(道の両脇に松の木が植えられていた)

 
土地区画整理事業が始まる前の状況(東高野街道)
 傍示川
 「ほうじがわ」と読む。星田南星台の南側の谷を東南方向から西北方向に流れ、大谷橋を過ぎ学研都市線をくぐり寝屋谷へと通じ、そこから寝屋川となる。
 傍示川という名の由来は、国境を示した川でなく、平安時代に作られた荘園(天暦3年、石清水八幡宮の荘園が交野の山々一帯に設けられた)と国衙領の境を示すもので、この荘園の西南の端が星田の傍示川であった。
 傍示川は、地形的に、星田の山からの広範な山水を集中して集めていて、度々氾濫するなど治水が難しく、平安時代、星田の中川以西の地域は、牧場に使われていた(星田牧)。そのとき三島郡上牧の為彌牧(いねのまき)傘下の福牧に属していたが税の取立てが厳しいため、奈良興福寺別院円成院領に寄進し、その荘園となって庇護を受けることになった。

 傍示川の地名の由来は、その荘園の境界を示すのに普通立札などの目印が使われるが、ここでは川筋が使われ、それで傍示川と呼ばれるようになった。なお中川以東の地域は、中川やその上流の紐谷川は、湧水中心の川であり、一方で水量豊富で緩やかな流れの天野川の後背湿地に属し、古くから物部氏が稲作の指導を進めてきたと言われる地域であったが、奈良時代、大化の改新際に条里制の区画が行われた稲作適地であり、その後、公地公民制度が崩れてゆき、荘園制度が普及して私領化が進んでいくが、この付近は、石清水八幡宮の荘園になった。

 なお鎌倉時代中期には、荘園の鎮守のため、石清水八幡宮から分霊して新宮山八幡宮が造られた。
星田の道星田の道・半尺口付近

 星田の旧村の道は、いずれも曲がっていて見通しがきかず、いびつの三ツ辻または四辻として複雑に交差し、侵入者を迷わすべく、工夫して作られた道である。
 幾星霜を経て、そこに居住する者は、馴れてしまって別になんとも思わないが、他所から来た人は閉口する。どうすることも出来ない困った道である。
 明治2年、後の北河内の154ヶ町村のうち、星田村が377戸の第1番の大村であった。大村であるが星田一村としてまとまり、外敵を防いで、よく守ってきたのである。

 元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里正 平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。
私も、何度となく星田の町中を歩くが、いまだに道筋がわからず難儀している。

出発は星田駅 午前9時
 星田駅北開発地区を歩く
 
本日の講師 山本秀雄氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
星田なないろ保育園工事現場
令和5年4月開園予定
 山根街道
東に東高野街道、西に京街道につながる主要道路
 
 
<堀之内、金門(かなかど)、車司(くるもうじ)>    

 いずれも御伽草子の鉢かづき姫にでてくる長者屋敷にかかわる地名である。堀之内は、隣接する寝屋村も堀の内となっていてここに堀に囲まれた長者の屋敷があったとされている。金門は、金で装飾したような立派な門があったとされている。車司は、長者の乗る牛車をひく人々やその牛を飼育する人が住んでいたところであるとされている。
 鉢かづきちゃんは、現在寝屋川市のマスコットキャラクターになっているが、寝屋川市にはこの原本の1つである「河内国交野郡寝屋長者鉢記(寝屋川市役所蔵本)」(1巻〜7巻)が図書館で閲覧させている。この物語の長者は備中守藤原実高といって屋敷は、東西12町(1300m)、南北4町(440m)の広さがあり、幾百坪の建物や10数坪の土蔵が立ち並び近畿でも長者の頭と呼ばれていて、西側にたち川が流れていることを考えるとその規模からして長者屋敷はかなりの部分が北星田地区にあったと考えられる。なお、松会堂蔵版写本「寝屋長者鉢かづき」(万治2年―1698年)は、その頃は、屋敷の形は残っていたとされている。
伝 寝屋長者屋敷跡
東高野街道を歩く
東高野街道
 東高野街道が南北に、市内の東西を結んだ旧道が走る、昔の交通の要衝。高野山詣での旅人で賑わったという。
 交野市と境を接する寝屋川市大谷町と交野市星田5丁目の境界から打ち上げにかけて、寝屋川市東部の丘陵地帯を通っているのが東高野街道である。この街道はその名の通り、紀伊の国にある高野山金剛峰寺に通じる古道で、河内の西部を通る西高野街道とともに古くから重要な交通路であった。
 江戸時代の元禄2年(1689)に儒者貝原益軒が京都から河内、和泉、紀伊を巡り「南遊紀行」を残しているが、それによると、この街道は「河内の山の根街道」「山根の大道」などと表現されている。
 地蔵堂の灯篭が1680年の建立であることを思えば、益軒先生もこの地蔵堂の灯篭を横目に見られて通り過ぎられたのではと想像するのも楽しいことである。また大谷墓地の西尾墓には元禄の頃(1700年頃)の墓碑(西尾晴雄家)や元禄11年(1698年)の墓碑(西尾和三家)もあることから大谷の村の始まりもこの頃かも?
 
 


旭尋常高等小学校



関西鉄道の開通星田駅の開業(明治31年)に前後して東高野街道沿いにあった旭尋常高等小学校(明治26年〜40年)。左は、星田駅から大谷橋に向かう東行き一方交通路の南側に立っていた標識であるが現在所在不明である。



大井川万吉・道標
「すぐ京、八はた道」と台石に「門弟中」と刻む 安政3年(1856)の道標

星田駅から西へ行くと傍示川にかかる橋の手前に、大井川万吉とすぐ(真っすぐの意。)
京、八はた(八幡のこと。)道、台石に門弟中と刻まれている。安政3年(1856年)と刻まれている。
大谷出身の河内相撲から江戸相撲に出世した人の道標を兼ねた碑である。
 
 寝屋川市域の東高野街道は大谷町と交野市星田の境を南北に通っており、その北端にタチ川が東西に流れている。タチ川と東高野街道の交差する西北角に「大井川万吉」の碑がある。大きな花崗岩の自然石を台座にし、その上にもう一つこれも花崗岩の自然石をのせている。総高182cmである。正面に「大井川万吉」と大きく刻んでいる。彼は当地出身(大谷町河流明夫家先祖)の力士で、これはその顕彰碑である。大井川万吉と刻まれている碑の左側には、すぐ八はた道、安政3年(1856年)と刻まれ、道標を兼ねている。


 星田には町内で大師講をつくり管理している大師堂が15あり、各人が祀っているのを加えると28ぐらいあるとされている。このうち大谷には、大谷北(しもんちょ)と大谷南(かみんちょ)に大師堂があり双方とも石祠でかこまれていて、昔は、ほとんどの人が分かれて大師講に加入し、4月21日には1日中お祀りをしていた。北の大師堂の石祠の右側に寛政2年(1790年)と刻まれている。
 
 
大谷地蔵堂
 
 東高野街道の大谷の中央に、約25uの地蔵堂があります。旅人の安全を祈る地蔵菩薩とともに、大谷の子供の神として子供の病気や安産の守護神として信じられ、地蔵が童形として現れ、農耕の手伝いをしてくれた子供を神様とした地蔵信仰が定着した。
 大谷地蔵内には、今より330年以上前の地蔵菩薩立像や、僧形立像、弘法大師像等の文化財11点も継承保存されている。
 9年前一部修理後、防虫・防腐のため樟脳やナフタリン・除湿剤を入れて文化財を守られてきています。

大谷地蔵堂喚鐘(かんしょう)
 大谷町16番に所在する大谷地蔵堂の南側、妻の上部に吊るされている。総高57.8cmで4区の池ノ間、4本の縦帯の前面にわたって、ぎっしり人名が刻まれている。これは本鐘が作られた弘化3年(1849年)当時の、大谷村の主要な家の名簿であろうと思われる。縦帯1には年紀の「弘化3年」と「河州交野郡大谷村地蔵堂什物」と刻まれている。

大谷地蔵堂の南端の石灯籠
 延宝8年(1680年)江戸時代前期のころの造立である。寝屋神社境内の石造遺物の中で最も古いとされている拝殿前の灯篭(天和2年 1682年)とほぼ同じころに建てられている。
 愛宕大権現は京都の西北、山城と丹波の国境にそびえる標高924mの愛宕山頂に祭られている愛宕神社のことで、火の神、火除けの神として信仰された。
 この石灯籠はおそらく大谷地蔵堂の前を通っていた東高野街道を夜になって道行く人々の往来安全のために、灯明が点じられたのであろうが、同時に、防火の願いも込められていたのであろうと考えられる。

この通りには、元油屋さんや醤油屋さんなどの由緒ある家屋が整然と並んでいます。

油屋さんの油絞め石と言われています。
<大谷南のお大師さん>
強地といって星田と打上の境になる場所で石祠の裏に「大谷中」とかいてある。この大師さんの東から来る道が山の辺の道(山根街道)でありここで合流して打上へ向う。府道の開通によって大谷の村落と分断され、現在では田圃の中でぽつんと建っている。

<星田名所記の大谷南の大師堂>
ここは、開拓した人の名前をつけて「治右衛門広(じえもんびろ)」という地名がついていて、山の根の道と東高野街道が合流し西の打上方向に向かう地点である。現在熊取町にある京大の原子力研究施設の建設の際、その建設予定地の候補になったこともあり(昭和34年)、また避病舎(伝染病舎)(明治29年〜昭和26年)が建っていたこともある。
大谷の交差点 
 
 
   山根の道  布懸遺跡
 昭和54年に旭小学校西隣の電電公社社宅建設予定地より
旧石器時代の石器(約1万5000年前)が発掘された。
旧石器128点と石鏃1点が出土した。直径数メートルの範囲に、約10cmほどの
深さの中に、ナイフ形石器を作りだすまでの剥片、砕片などが集中していたことから
この場所が、ナイフ形石器の制作場所であった可能性が高い。
旧石器のほとんどはサヌカイトで、二上山からの搬入と考えられている。
 
 
星田大池
 星田大池は正確な建設の時期はわからないが星田村の記録にでるのは寛永14年(1637年)でそれ以前とされている。元禄10年星田村絵図(1697年)では1町3反(1.3ha。最大時の交野3中が造られる前は6h)の池が描かれている。
 星田大池は、地図では堤防の高さは、標高70mぐらいで、星田の地盤は現在の星田駅周辺が最も高く45m近くでそこから北側には低くなっている。従ってこの星田駅の高さまで星田大池の水を自然の流路勾配を確保できるルート設計すれば北星田地区全域、特に地盤が高い西側の地域にも給水が可能になる。地図でみるとこれに届く水路は小字布懸の東西の水路だけであろう。

 従来の星田村の水源の中川は、湧き水主体であったが、星田大池は、星田村天保絵図が描いているように村落の北側の星田山などの山水を降雨時は、傍示川に流し、通常の晴天時などは星田大池に貯水するという、積極的に星田の山水を利用していこうとするものである。

 天保絵図では降雨時のぼって川、地獄谷川の山水の傍示川への放流の桝が描かれているが、ぼって川は、明治末期に星田新池が造られ、地獄谷川とは、ぼって川(現在は星田新池からの放流水をいう。)が合流する上流の傍示川の正式な名前で源流は小松山の南斜面の山水である。
大池改修記念碑

昭和43年10月から46年3月にかけて、大改修工事が行われその時に碑が建てられた。
 大分け(おおわけ)
   星田大池から放出した用水をここで各方面に分けている場所
 池の水は下手の御農(みの)、高岡、布懸(のうかけ)、玉江(たまこ)、六路(ろくろ)、側田(かわた)等の土地に給水されている。 
 
 鍛冶が坂
 山根街道の一部、OP65m。狸藪と呼ばれていた。
幅1m程の古道が残っています。
現在は住宅が建ち並び昔の面影は全くありません。
 
 
星 田 公 園
  現在、新宮山一帯は、星田公園として新しく生まれ変わった。平成9年5月20日オープンした。面積1.6ha(約4800坪)。5つの広場(水の広場、芝生広場、野外学習広場、多目的広場、林間広場)に分けられ、市民の広場として利用されている。
 新宮山
は標高65メートルで、麓には弥生時代の星田最古の米作りの跡が見つかっている。
古墳の石棺があったらしいが、現在は不明である。今から約700年前に八幡宮の分霊を勧請し、八幡宮跡がありここを新宮山といった。
 
鍛冶が坂を少し下った辺りより新宮山公園を遠望する。
 
新宮山八幡宮址碑
徳川家康と交野の関わり
 9月1日(水)、教育委員会は、星田にある石碑「神祖営趾之碑(徳川家康宿営之碑)」を、新たに市指定文化財に指定します。
 この碑は、交野が徳川家康、特に大坂夏の陣と深く関わっていることを証拠づける貴重な文化財です。
 
 現在、平井家の北西裏には、家康が宿陣したことを記念する石碑が建っています。
 これは、大坂夏の陣から190年が経った文化3年(1806年)に、星田の領主市橋長昭と平井家当主の平井三郎右衛門貞豊が、計画して建立したものです。

 碑文を解読すると、家康が平井家に宿陣した様子が記されています。

 当時の領主市橋長勝は、家康から後方の防備をするようにと命じられますが、防備は家臣に任せ、自分は家康とともに戦場に出たいと申し出て許されます。天王寺・岡山合戦で、徳川方が真田信繁(幸村)に攻められ、大混乱に陥る中でも、長勝の部隊は静粛にして乱れることがなかったので、家康からたいそう賞されたと記され、家康亡き後、二代将軍の秀忠からも優遇され、石高の加増があったとも記されています。
 また、長昭の代になって石碑を建てることになった経緯や旗掛松のことも記され、後世の子孫に先祖の輝かしい業績を伝えたいとする思いが現れています。
 

 慶長20年(1615年)、家康は大坂夏の陣に赴く際、領主の市橋長勝が守りを固めていた星田村の庄屋、平井清貞の家に宿泊し、そこから出陣しました。このことは、徳川幕府の正史である「徳川実紀」にも記されています。
 家康が天下を治めた証といえば、慶長5年の関ヶ原の戦いに勝利したことや、慶長8年に、将軍となり幕府を開いたことが考えられますが、家康はこのときは改元(元号を変えること)をしていません。
 家康は、豊臣家が存在する限り、徳川家の天下が安泰とはいえないと考えたのでしょう。豊臣家を滅ぼした大坂夏の陣のあとすぐに、徳川の天下を宣言する意味で、元号を「慶長」から「元和」に改元しました。大坂夏の陣が、家康にとって特別な戦いだったことがうかがえます。
 また、「元和」とは「元和偃武(武をやめて和を始める)」を意味します。つまり、応仁の乱から150年近く続いた戦国時代が終わったことを国中に宣言したのです。

 大坂夏の陣から184年後の寛政11年(1799年)、市橋長勝の子孫、市橋長昭は星田村を訪れ、神祖(家康)が、宿営したことの詳しい話を聞き、長勝の功績を広く世間に知らせるため、石碑を建てることを思いつきました。
 このことを平井清貞の子孫、平井貞豊に命じ、建てられたのが神祖営趾之碑です。
 碑には、長勝が、家康を迎え入れるために、星田村の守りを固めたことで、村が大坂方(豊臣方)の焼き討ちを免れたことや、真田幸村の軍勢に、徳川軍の多くが動揺するなか、長勝の隊は乱れずに戦ったこと、長昭が碑を作るに至った経緯などが刻まれています。

 神祖営趾之碑以外にも、交野には家康ゆかりの地があります。
伝家康ひそみの藪   旗掛け松

 天正10年(1582年)、明智光秀が織田信長に対して謀反を起こした「本能寺の変」のとき、家康は堺に滞在していました。 信長死亡の知らせを聞いた家康は、身の危険を感じ、光秀軍に見つからないよう、帰国する際、星田を通って、山城、伊賀と越えて、無事、帰還しました。 そのときに家康がひそんでいた藪が「家康ひそみの藪」といわれています。

 

 家康が星田村に宿泊したとき、家康軍が陣をはり、旗を掛けたのが新宮山(星田公園)の松で、「旗掛け松」と呼ばれています。
当時の松はすでに枯れてしまっていて、現在の松は2代目です。

家康ゆかりの地MAP

 伝 家康ひそみの藪
 
 

「伝家康ひそみの藪」物語

   (ふるさと交野を歩く ひろい話(3)より) 

天正十年(1582)6月2日の明け方に織田信長が京都本能寺に於て、家臣明智光秀の反逆によって自害し果てたとき、信長と同盟を結んでいた徳川家康は、少人数の近臣を連れて舶来文化の輸入地である堺に見学のため滞在していた。

当時、信長の強大な勢力によって一応近畿は平定され治安は保たれていたが、その盟友を失った時の家康の立場は極めて微妙にならざるを得なかった。

 幸い、信長死すの情報がいち早く家康のもとにもたらされると、身の危険を察知して、すぐさま堺を退去して本国三河に帰ることとした。

家康はいずれの道を通って河内から山城を経て三河に帰ったか。 
 中央公論社の日本の歴史第十二巻の
282頁には、「家康は津田主水頭(もんどのかみ)に道案内を求め、急に道を転じて宇治田原に向かうことになった。」と書き、枚方市史第三巻18頁には「家康一行は、津田村には信長恩顧の者がいるから道案内をざせようという進言をいれ、その道案内によって津田村から尊延寺村を経て山城綴喜郡に出た。」と書いている。

吉川英治の太閣記には、「枚方から津田方面に向かった」と記し、山岡荘八の徳川家康には、「守口から北河内の津田方面に向かった」と書いてあり、いずれも星田に来たとは書いていないが、津田方面には家康が来たという伝承を聞かず。星田の伝承では、星田炒見宮の参道の入口の北に「家康ひそみの薮」のことを俗に「けんしきの藪」といって、家康が堺から逃げ帰る途次、一時この藪に潜んでいたと言い伝えられている。

 
 

ここで考えられることは、津田城主は本願寺派招堤(しよだい)の敬応寺と縁組をしていたことから、天正3年(1575)明智光秀は、城を焼かれて信長に恨みを抱いている津田氏に誘いをかけたところ、津田氏は光秀に味方し、信長のやり方を不満に思っている招提村を誘って山崎合戦に参加していることから、津田村の人達は信長を恨みこそすれ、信長恩顧の者がいるとは考えにくいのである。

従って、信長と同盟を結んでいる家康が、津田に入ることが果たして危急の時身の安全と考えたかどうか、大いに疑問に思うのである。

家康の一行は、6月2日の深夜に星田に来て、人里はなれた人目につかないこの大きな竹薮に潜んでいた。これには、四条畷の住吉平田神社の神主である三牧家から星田妙見宮神主の和久田家にここまでの道案内と紹介がなされたといわれている。そして村長の平井氏に連絡して山城方面に出る間道に精通する農民を道案内人として斡旋するよう依頼したのである。

この連絡を受けた平井家では、直ちに大釜で米を炊いて握り飯を沢山こしらえ、緑起をかついで鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用のおける農民二人を選出して、無事道案内の大役を果たさせたといわれている。

家康がこのような危急存亡の時に、平井家にこのような大事を依頼したということは、徳川家と平井家との間には古くから何らかの知己、交際があったものと思われる。

平井氏の出自については、その遠祖が三河の国設楽郡(しだらごうり)平井庄の地頭職であったところから平井姓を称し、南北朝時代には既に星田に居住していたという伝承がある。

天正十年から三十三年後の元和元年(1615)55日大坂夏の陣に東軍16万人のうち、手兵一万五千人を引き連れた七十四歳の家康は、平井家に一泊しているのである。

家康一行の道案内をした二人の百姓は、一人は「しやみ安」という人で、もう一人の百姓はその名が分かつていないが、後年になって見識の高い俗称から「けんしき」と呼ばれるようになった。

家康が征夷大将軍となった時、平井氏と二人の農民を懇切に江戸に招いたが、二人の農民は固辞したので、平井氏だけが江戸に出向いたと言うことであるが、これらの人たちは江戸時代特別の扱いを受けていた。

家康の潜んでいた藪は、俗に「けんしきの藪」といわれているが、その所有者について調べたところ、以前は平井家の古い分家のものであったが、妙見坂小学校の校地として買収し、フェンスを張って竹薮の一部を保存し、「伝家康ひそみの藪」の石碑と説明板が立てられている。

平井氏が家康のために動いたことが光秀に知れると、どのような仕打ちを受けるやも知れないと大変恐れて、自分の家を閉じて、一家全部が星田山中の小松寺の空家になっている建物にしばらく隠れていた、といわれている。(西井長和先生談)

 
 400年前の大坂夏の陣・家康本陣
 元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里平平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。
 江戸時代後期の星田村大絵図には、平井家の西側あたりに、教学院と岩清水八幡宮の制札場が描かれており、はじめてその位置が確認されました。
  元和元年(1615)春大坂夏の陣が始まろうとして東西の空気が緊張していた。
大坂方では冬の陣の後城の外濠を埋められているので、秀吉が築いたさすがの堅城も関東の大軍に攻め寄せられては防禦の用をなさない。やむなく城外に出て決戦ということになり、そのためあらかじめ万全の策を講じている。その一つには東軍の通路に当たる村々で、彼等に宿舎の便を与えないようにしようと、街道近辺の寺院はもとより、農家までも焼き払うことだった。

 4月4日家康は駿府城を立って、その18日には京都に着き、ここで味方の諸大名を集めて、様々と戦略上の会議を開いた。
その時、因幡(鳥取県)の矢橋の城主市橋長勝は、「いずれ大坂方は、我軍の進路に当たる道筋の村々を焼くだろうから、せめて家康公が京都に出てからの宿所に当たる村だけでも焼かせないように防備しては」と献策した。

そこでその宿営地を星田と定めて、ここを固めることとした。ところがはたして大坂方は交野地方の寺や民家を焼き払ったが、星田には強い防備があったのでここだけが残った。こうして5月5日家康は京都を出発し、星田の平井清貞宅に着いて一泊した。ここで市橋長勝は、その予言が的中したことで大いに称賛の的となった。その後市橋家が近江西大路陣屋で2万石の所領を与えられたが、遠く離れた河内の星田に1300石余の所領があったのは、このときの功績を記念するためのものである。

 そして、家康宿営中は、新宮山八幡宮前に東面する崖の上にあった大きい松にその軍旗を立て掛けた。これが、後まで伝わる旗掛松である。

 
徳川家康の星田陣営のお話

元和元年(1615)5月3日、将軍秀忠は大阪城攻めのために伏見を立ち、洞が峠を越えて河内に入り、砂(四条畷)に陣した。父の家康は、同5日辰の下刻(午前9時)京都二条城を出て、未の下刻(午後3時)星田の陣に着いた。

家康の陣所は、その頃星田の里正(りせい)・(村の長)平井三郎右衛門清貞宅を使った。清貞方ではあらかじめ知らせを受け、宅から10間ばかり北の方で、5間四方ばかりを高く上げた一室を修繕して、待っていたのである。

家康は京都出発の時、家来の松平常慶にいいつけ、台所賄いの長持ちに、自分が戦国時代から野陣用の食糧としていつも使ったとおりの、米5升、干鯛一枚、糒(ほしい)・煮た米を干したもの、塩、味噌、鰹節、香の物を入れて来させて、それを用いたが、平井家では、家康の宿舎の付近にあった濠の鯉を料理して差し出した。

家康に従って来た者は、おおかた野陣してその周辺を護ったが、折り悪くその夜は大雨だったので、もしや大坂かたの夜襲でもあろうかと、かがり火を方々に焚いて警戒した。
また、家康の旗印は、平井家が代々その別当職をつとめる、新宮山八幡宮の庭の松に高くかかげられた。(後、これを旗掛け松という)。

そして、一隊は新宮山に陣した。ここは60メートルばかりの小丘で、星田の南に突き出て、はるか京都方面から交野地方の一帯を、手に取るように見渡すことが出来た所から、監視をした。

家康は、雨がはげしいものだから、その翌日もここにとどまろうと言ったが四つ時(午後10時)雨が止んで星が見えた。それでもまだ、ここを動こうとはしなかったが、砂に陣とって居る先発隊の秀忠から、馬をとばせて急使がきた。その言葉では「大坂勢が遠く城を出て、八尾、久宝寺へ向ったから、こちらは藤堂和泉守や井伊掃部守が、合戦を始めようとしている」と。

それを聞いた家康は「城兵が城を出て戦おうとするか、それではこちらの勝ち戦に決まった」と言った。
こうして家康は、星田でゆっくり一夜を過ごし、翌6日河内中部へ馬を進めたのである。

 新宮山の旗掛松
 
 元和元年(1615)、徳川家康が大阪城攻めの時、星田の平井家に宿陣した。東軍16万人のうち、家康手兵15000人は星田から打上に野営して家康宿舎の周辺を護った。家康の旗印の白旗が、新宮山山頂の八幡宮社前の松の大木に高く掲げられた。平井家の文書に寄れば、この松は太さ五尺余(1.5m)と記録されている。残念なことに明治の初年にかれてしまい、その跡に記念の石碑「旗掛け松跡地」が立っている。
 新宮山八幡宮跡
 
 
 

新宮山頂上にある八幡宮跡、星田の土地が石清水八幡宮の荘園となって、
八幡宮の分霊を勧請(かんじょう)してお祀りした。宮跡に残る延慶2年銘(1309)の
五輪塔の残欠と天文17年(1548)の宝篋印塔により、この宮の古さを偲ぶことができます。
 
 
 
 愛染律院跡 愛染律院跡、墓地
 新宮山の北の低いところにある。宗旨は真言律宗で八幡宮の社坊であった。宝暦4年(1754)の愛染律院梵鐘銘文から次のことが判明した。文安2年(1445)記録するところでは、新宮山に6支院(小松、塔頭)あり、それは阿弥陀院、弥勒院、宝珠院、宝蔵院、宝積院、愛染院で、現在(宝暦4年)あるのは唯愛染院1院であると書かれていた。

 この寺の地蔵菩薩立像が明治5年、岡山県井原市高山寺に移籍され、その像は国の重要文化財に指定されている。 ↓
 
 300年前、大阪にも地震と津波 (井上 富貴子様)
 明治5年に星田から移座された地蔵菩薩像は、桜材一木造、造高1.54m。昭和29年に仏像の解体修理がなされた時、胎内から古文書が発見された。それは、大地震と津波により大阪・四国・中国で亡くなられた方々の慰霊文でした。
 その大地震とは、宝永4年(1707年)10月4日の大地震の災害記録と慰霊文及び同年11月23日の富士山大噴火による宝永山の出現を記録していることが分かった。
 
愛染律院跡の土塀 
 
 
 
 
奥に見えるのは、愛染律寺の元の土塀と言われている。
 
 
 星田会館の前の弁財天さん
 
 
 
 星 田 神 社
 
 星田神社が創建された年月に関しては詳らかではありませんが、 伝えによると現在、本殿の住吉四神をお祀りしたよりも遙か以前に一本の大杉があって、そこに当地の氏神として交野物部の祖である饒速日命を交野大明神としてお祀りしておりました。そして、この大杉が枯れた後もその芯をご神体として大切に祀られておりました。

 天文4年(1535)の奥書のある神明帳には、この交野大明神の名が記されており、文化2年(1805)の三浦蘭阪著「川内奨撫古小識」には、当神社に正平21年(1366)の銘の石塔があったと記されています。また、御神宝として鎌倉時代の御神刀が当社に伝わっております。

 その後、宝永年間(1704〜1711)に当地方の総氏神であった磐船神社のご神霊(住吉四神)を当時の磐船神社神主であった平井源左衛門がお遷ししてお祀りし、交野大明神のお社よりも大きな神殿が建てられることとなりました。そして、元々お祀りしておりました交野大明神のお社は古宮と呼ばれるようになりました。以後、御本殿にお祀りされた住吉四神は星田の氏神として崇敬されました。
 祭神は住吉四神、すなわち表筒男(うわつつお)命、中筒男命、底筒男命、息長帯姫(おきながたらしひめ)命である
社殿は住吉造りとせず、飛鳥造りになっているが、奈良飛鳥大社の二十年毎の建替の時、その旧社殿を譲り受けたからだといわれる。

 建立の時期については、神殿に祀られている御神体を納めている桶代の表に「明治五壬申十一月」と記されており、推察するに、当時明治二年、明治政府より神仏判然令が布告されて、廃仏棄釈がさけばれ、明治五年に当神社も星田神社として、村社の社格が定められた時と、時を同じくして建立されたようである。旧の拝殿も明治五年建立と推定されるが、昭和五十八年に現在の拝殿が建立される。木造切妻造り銅版葺である。

 星田の古傳によると、当地交野の磐船明神はもと星田、私市、田原、南田原の総氏神だったが、宝永年間(一七〇四−一七一一)、この村々の間に宮座についての争いが起こり、その後磐船神社の神霊を、それぞれの村に移して祀ることとなり、当時、平井源左衛門という人が神主職に在任中の折り、当地にその御分霊をお遷しお祀りする事となったという。

 当社では大昔からこの土地に小さい祠を立てて、饒速日命を祀った宮、すなわち現在本殿の北側に古宮といわれる末社があったが、この時より、磐船の総社をこちらに遷すというので、古宮(もとみや)よりも大きい住吉四神の大きい神殿が建てられ、それ以来この社が主神の形となったものである。

 伝えによると、現在本殿の住吉四神を祀ったよりも遥か以前、ここに一本の大杉があって、そこに当地の氏神として交野大明神を祀っていたが、後にそれが枯死したので、その芯を御神体とし、この古宮ができたという。それは鎌倉か、室町幕府の時代か、いずれにせよ当社最古の神であった。

 西井長和著『星田懐古誌』(昭和五十四年交野誌話会刊)によると、西井長和氏所蔵の天文四乙未年(一五三五)の奥書のある神明帳には、この交野大明神の名が記されているという。この北河内にあって、遥か昔より当地方の交野物部の御祖である饒速日命を古宮として祀り続けてきたのは、この社だけであり、当地方第一であろう。

 この社につづいて、石段・鳥居の正面に八幡社がある。この社はもと新宮山の頂上にあったものを、明治維新神仏の分合整理によって、明治七年九月にここに遷されたものであり、昔は山城の男山八幡宮を本宮、こちらを新宮と言ったようである。平安時代に交野市域の南東部の丘陵地帯である津田、倉治、私市、寺村、私部、星田などは三宅山といわれ、一千四〇〇町の山と免田二三町が石清水八幡宮の寺領荘園となり、この地域の守護神として八幡宮の御分霊を新宮山に勧請したのに始まる。

 この外に境内に恵比寿社、天照大神社、菅原社、庚申塚、および祖霊社をお祀りする。
  
 家康宿陣の碑「神祖営趾之碑」








大坂夏の陣から184年後、長勝の子孫、市橋長昭が星田村を訪れた際に、長勝の活躍を知り、その功績を後世に残すために、家康の宿陣地である平井家に、石碑「神祖営趾之碑」を建てました。

 神祖営趾之碑の建立には、長昭の他に、平井家の子孫の平井貞豊、大久保忠真、安部正精という人物が関わっています。大久保忠真、安部正精はいずれも10万石を超える譜代大名で、後には老中(現在の総理大臣のような職)になるほどの人材です。
 平井家と石碑は今も現存しています。また、石碑は、昨年9月に市の指定文化財となりました。石碑については、「広報かたの」平成22年9月1日号で詳しく説明しています。 
 
 
 星田駅から駅北開発の状況を確認後、山根街道から東高野街道を歩き、大谷の交差点を渡り、傍示川と別れて山根街道の布懸遺跡、鍛冶が坂から星田公園へ、新宮山八幡宮・愛染律寺・旗掛け松・星田神社などを訪ねて交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。

 次回は11月26日(土)午前10時〜12時・学びの館にて、今回訪問した地域の状況・史跡・歴史などを勉強します。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

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