ホームページに戻る
 

2007年
 新春恒例の初歩き
京阪郡津からJR東寝屋川まで
東高野街道を歩く

交野古文化同好会

 明けましておめでとう御座います!今年は亥年です。
猪の親子にあやかって今年も家庭円満・健康第一に
元気に活動したいと思っています。

1月2日、交野古文化同好会の恒例の初歩きに参加して、
東高野街道をじっくりと散策してきました。



石の宝殿(国史跡)前で記念撮影
皆さん、元気に歩き通されました!

午前10時:京阪・郡津駅前集合
郡津駅前→極楽寺→郡津丸山古墳→東高野街道→ものきき→上茶屋→五条通→
免除川→上の山・本尊掛松→星田共同墓地→一里塚→JR星田駅(昼食)→寝屋・大谷→
南大谷大師像→弘法井戸→明光寺→高良神社→石の宝殿→打上の道標→
JR東寝屋川  午後3時半解散   徒歩約 8km

東高野街道を歩くMAP
東高野街道マップ
中会長の挨拶
 2007年1/2(火)天候小雨のちくもり。参加者17人。今年の初歩きも明け方に少し雨が降り開催が危ぶまれましたが、集合時間の2時間前、世話人の皆さんのご意見により初歩きの開催が決まった。小雨模様で足元が気になる天候でしたが、それでも17名の元気な顔が揃った。
 「明けましておめでとうございます」「どうぞ今年も昨年同様よろしくお願いします」と、口々に挨拶を済ませて午前10時、平田政信さんの初歩きの開会の発声の後、中会長の案内で東高野街道に向かって元気にスタートした。

 郡津駅前付近は、松塚団地が出来てすっかり様相が変わっているが、北川が天野川に流れ込む手前、山崎の西方は、低湿地帯で長淵(ながぶち)と言われていて、ちょっとした大雨が降ると一面湖水に変わり、京阪電車の線路だけが水面に顔を出している光景がよく見られたそうである。長渕、申田(さるだ)の地名があった。
 駅の北側の踏切を東へ越えて小川を渡り、少し行ったT字路を左折し北進すると、弘法大師の常夜灯(大峰山講、文政10年、1827年の銘がある)に出会います。今も、地区の皆様が月2回常夜灯のお世話をされて大切に守られている。郡津の在所、閑静な町並みを歩き極楽寺へ。

極楽寺
 

極楽寺(融通念仏宗、平野大念仏寺の末寺)

1345年頃に創建され、大阪冬の陣(1614)で全焼、1688(元禄元)年に
仮本堂が出来、1700年代は隆盛したが、その後老朽化が進み、
明治35年に再建された。
境内の江戸時代の地蔵尊に「郡門」の文字が彫られている

古代律令体制時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)に郡衙(ぐんが)=役所が設けられた。それが現在の倉山(くらやま)の地で、私市(きさいち)から枚方(ひらかた)まででとれた年貢米(ねんぐまい)を、当時の長であった郡司(ぐんじ)さんが、この倉山の倉におさめて管理していた。その周辺に長宝寺(ちょうほうじ)という立派なお寺が建てられた。交野で一番古いお寺である。時期は白鳳(はくほう)時代(じだい)(7世紀後半、約1300年前)。郡津(こうづ)は昔「郡門(こうど)」といった。郡衙(ぐんが)に入る所に門があり「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津(こうづ)」と改められた。
 極楽寺から北へと歩くと、こんもりとした緑の森が見える、これが丸山古墳である。
円墳に見えるが、交野町史では前方後円墳であったと記されている。墳丘の最頂部は、31.8m、周囲より8m程高い。古墳の前方部と思われる部分と丸山との接合部分に道路がつけられた際、その断面より土師器片が出土したと伝えられている。今は、頂には神様「椿さま」が祭られ、近隣の人々が大事に清掃され保存されている。
 東に出て、枚方交野寝屋川線を渡り、郡津で唯一の地道を東に進むと東高野街道に出会います。交野女子学園の裏手付近に「ものきき」「藪の下」などの地名が残っている。
 東高野街道を南に進むと、北尾、梅塚の地名があり、東角には「だら池」がある。付近には、かって川が流れ沢山の池があり、外敵から村を守った環濠集落といわれている。
丸山古墳の頂にて 絶壁の下が「藪の下」、向かいは春日町
京都と高野山を結ぶ 東高野街道
左は出鼻橋・枚方方面、東高野街道(交野女子学院の裏門付近)
昔は大きな渋り谷があったが、埋め立てられ住宅地に変わってしまった。
南へ少し行ったところが「ものきき」(写真右)と言われ、
昔、両側に太い松の木が茂っていた。
心配事や悩み事が起こったらそっと大松の幹に潜んで、朝一番に
通る旅人の会話の中からこれを解決する言葉を聞きとったと言う。
街道筋の四辻、地藏さんが大事に祀られている
この付近に、郡津の茶屋があり、江戸時代には「御茶屋」と呼ばれた。
貝原益軒の「諸州めぐり」に「香津の茶屋、八幡より一里、京より五里」と
特に記してその盛んな様子を伝えている。
(左は、五条通の石碑) 天野川流域の条里制の中心、五条通付近


五条通を西へ行き、京阪電車の線路を越し
免除川を渡ったところに、東高野街道の立派な案内板が立てられている
上の山・本尊掛松
 府道枚方・交野・寝屋川線に架かる新天野川橋を渡り、天野川沿いの道を南下、枚方市との境界道を行くと、現在第二京阪国道の建設に伴う国道168号線のバイパス道路の建設が進められている。水道道を越すと右に本尊掛松の玉垣が見えてきて、融通念仏の像が立っている。




本尊掛松・融通念仏の像
 ここは、上人松の伝説がある。明治30年ごろまで四方に枝を張った松があったが、今はその松はない。二代目と思しき松が玉垣の中に植えられている。うえん山の辻MAP

 後醍醐天皇の元享元年(1321)12月15日の夜、摂津深江の法明上人に「男山八幡宮に納めてある融通念仏宗 に伝わっている霊宝を授かり、法灯をつぐように。」との夢告げがあった。上人はさっそく弟子12人を連れて男山へ向かった。上ん山まで来ると、霊宝を深江に届けようとする男山からの社人ら一行と出会った。16日のことであった。

 両者は喜んで宝器を授受し、松の小枝に開山大師感得十一尊曼荼羅をはじめ軸の尊像を掛け、鐘を叩きながら松の周囲を喜んで踊って廻ったという。以来、本尊掛松遺跡、念仏踊り発祥の地だと言う。

 すこし上ると、「うえん山」の辻に出る。ここは山根街道との分岐点で、高さ2mを越す安政2年の道標がある。他に享保の地蔵があり、大阪府の小さい道標に「右 山根街道 左 すぐ東高野道」と彫ってある。歴史上の名だたる人々が往来し、真言密教の道であるとともに、文化を伝え、産業を興した大切な道である。

現在、周囲には沢山の住宅が建設され往時の面影はまったく感じられなくなって来ている。



「うえん山」の辻
小雨は相変わらず降り続き昼食の時間となったが、適当な場所が見つからず、コーナンで一時休憩を取りJR星田駅まで直行することとなった。


コーナンの南側、第二京阪国道の建設中の巨大な橋脚
 コーナンの前の府道20号線を渡り、東高野街道を南へ行くと、新関西製鉄の工場で道は途切れ、再び府道に出て、星田の墓地の入り口に架かる「墓の前橋」をわたり、一路南下すると、星田の一里塚に出会います。
星田の墓地の入り口の石仏たち
墓地の「墓の前橋」をわたり、一路「東高野街道」を南下する
橋の年号(明治37年7月)
一里塚跡
有難いことに雨は殆どあがり、やっと星田の一里塚に到着

元禄10年(1697)の星田村絵図には「一里塚」が書かれ、道の両側の盛り土の上に
大きな松が1本ずつ描かれているが、今はその面影もなく残念なことである。
この街道の西に祀られていた一里塚の大師堂は、明治41年半尺口へ移転された
半尺口のお大師さんが東高野街道の一里塚にあった時、寝屋の人が盲目となり、
夜静かになって夜参りに杖を頼りに3年間祈願し続けたご利益があり、
ある夜お大師さんの「私の片目をお前にあげる」とのお告げがあって、
その日から片目が見え出し、代わりにお大師さんの右の片目に
傷が出来て、その傷は今ものこっているという。
JR星田駅に午後1時前到着。ここで昼食とする。新年の祝い酒も入り皆さん元気に会話が弾む。食後、東高野街道を大谷を通り打上へと向かう。
寝屋・大谷

大谷北大師祠

星田駅から東高野街道を南に進み、傍示川を渡った東側に、大谷北大師祠は祀られている。石垣の上に石の祠で囲み、石造、一石半肉彫りで、右面に寛政2年(1790)とある。

 大谷の集落は、星田、寝屋両村の出郷で、東高野街道を挟んで東が交野市、西が寝屋川市になっている。集落の中程に、格子戸の入った地蔵堂があり、立派な厨子に地蔵尊を祀り、釈迦涅槃図が掛けられいるそうで、堂の側に、延宝8年(1680)の愛宕灯篭が建っている。

 大谷の集落を南に出て府道枚方・富田林・泉佐野線を渡り、関西電力の変電所の前辺りへ旧道は続いていたが、現在は住宅地などの敷地で途切れている。田の畦道を南に行くと、山根街道との合流点に、大谷南大師祠が祀られている。


東高野街道と山根街道との合流点に、大谷南大師祠が祀られている
打上地区の東高野街道沿いに「弘法観念水」がある。ずっと昔からいかなる日照が続いてもこの井戸の水はかれたことがないと言われてきたもので、弘法信仰に燃えての旅人、それに商人・武士・村人など多くの人々がこの水に助けられました。
弘法井戸


弘法井戸
 空海は、774 年に讃岐国(現在の香川県)に生まれました。2年間中国で真言密教(しんごんみっきょう)を学んだ後帰国し、紀伊国(現在の和歌山県)の高野山金剛峯寺を創建し、後に弘法大師と言われました。
 空海は水なき所に池を掘り、橋なき所に橋を架け、道なき所に道をつけ、食の貧しい者には食を得る方法を教え、病む者のためには良医となり、人々の苦しみを解決しようとしました。
 こうしたことから、弘法大師にまつわるお話は全国各地にあり、「弘法井戸」と呼ばれる井戸もいたる所に存在します。寝屋川市内にも打上・田井・国松・郡(湯屋が谷=やがたん)の4カ所に弘法井戸があります。
明光寺の十三仏
 打上の村の登坂を行くと明光寺。境内には十三仏、珍しい板碑(雷神石)=古墳時代の石棺材を利用したもの、たらちねの乳房のように気根がぶら下った珍しいイチョウの古木などがあり、見学した後、うっそうと茂る木立の中を上ると、高良神社=こうらじんじゃ(竹内宿禰を祀る打上の氏神)に到着。
 高良神社から100mばかり山へ上ると「石の宝殿」(古墳(国指定史跡)、飛鳥の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同じ構造の非常に珍しい墓室をもつ7世紀の古墳があります。


十三仏板碑
雷神石
明光寺の板碑

●古墳時代の石棺材を利用し、それを少し加工し、文字を刻んで碑に仕立てた。材料は凝灰岩。

●偈頌(げしょう) 「天下和順 日月清明」
「伝説 無量寿経巻下」にみえる仏徳をたたえる詩。
石の宝殿(国指定史跡)
 石宝殿(いしのほうでん)古墳(国指定史跡)は、飛鳥の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同じ構造の非常に珍しい墓室をもつ7世紀の古墳です。
 寝屋川市東端の打上(うちあげ)の集落の中を通って裏山へ続く道の終点は高良神社ですが、この神社の東側の細い山道を100mほど進んだ所にある巨石が、石宝殿古墳です。
 石宝殿古墳は生駒山地からのびる丘陵に築かれた古墳です。
 巨大な花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)という硬い石をくり抜いて「石槨(せっかく)」と呼ばれる死者を葬る部分が造られています。石槨は、上面を平坦に加工した底石(下石)の上に直径3m、高さ1.5mの内部をくり抜いた蓋石を重ねたものです。
 内部は幅1m、高さ0.6m、奥行き2.3mで南側に入口があります。入口部分には左側の上下に丸い凹みがあり、本来は扉のようなものがあったと考えられます。この石槨の前には1.5mの間隔で板石が立てられており羨道(せんどう)と呼ばれる通路部分を造っています。
 同様な形をした横口式石槨は、奈良県斑鳩町の御坊山3号墳、明日香村の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)(厠(かわや))が知られているだけで、きわめて珍しい構造をもっています。  石宝殿古墳の築かれた7世紀には、奈良県の飛鳥地域および「近つ飛鳥」と呼ばれる大阪府羽曳野市・太子町・河南町に集中して天皇・皇族やその側近が葬られていると考えられる古墳が築かれており、近畿地方の他の地域では古墳の築造はほとんど行われなくなります。この時期に北河内地域で唯一築かれた石宝殿古墳は、古墳の形や埋葬施設からも、かなりの有力者が葬られていたと考えられます。


高良神社(竹内宿禰を祀る打上の氏神さん)


石の宝殿前で記念撮影
打上の道標・灯篭
高良神社から再び光明寺前を通り打上の町並みを下ると、打上の四辻の東高野街道に出る。この打上の四辻に立てられている道標は、東高野街道では市民に馴染み深い道標です。
打上の道標
JR東寝屋川駅を上った東北方の四つ角に、この道標が立っている。
幅23cm、高さ143cm、安政4年(1857)の造立で各面に文字が刻まれている。
  • 安政四 為父母 施主
  • 南 かうや のさき 大坂みち
  • 東 なら いせ ミチ
  • 北 京 八はた 柳谷 星田妙見

この碑の南北に続く道が東高野街道で昔の姿が偲ばれます。
さらに四辻から南に50mほど行った先に、大峰山の石碑が立てられている。ここで今回の初歩きの行程は予定通り歩き通しました。
皆さん、小雨降る中本当にお疲れ様でした。
平田政信さんからも写真を頂戴しました。有難うございました。感謝します。

交野古文化の歴史ウォークに戻る