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交野歴史健康ウォーク 2007.10.13 第85回
東高野街道を歩く その1
郡津から村野を経て東高野街道へ

 行程; JR星田駅 午前9時→寝屋・大谷→南大谷大師像→弘法井戸→明光寺→高良神社→
石の宝殿→打上の道標→JR東寝屋川  午前11時過ぎ解散   徒歩約 3km

200710.13(土)午前9時、JR星田駅前に集合。天候、晴れ。
いつもの元気なメンバー15名の参加で、星田駅前から大谷から打上を経て、東高野街道周辺の史跡を巡りながら元気に歩いてきました。

 星田駅前にて、案内役の中光司会長より当日の行程など挨拶があり、早速駅前を出発。東高野街道の昔の面影が残る大谷の住宅街を南へ、先ず大谷橋の傍の大谷北大師祠に参拝、更にゆっくりと大谷町の史跡を廻りながら南下、寝屋川変電所前で府道を渡り、新しい住宅地の中に消えてしまった旧道を探りながらゆっくりと田圃道を歩き、山根街道との合流点にある、大谷南大師祠に到着。ここで、星田の村から続く山根街道を北へ辿り、田圃道をぐるりと回って、「妙見道・大坂道」の道標を確認した。畦道を歩き再度、東高野街道に出て、打上の弘法の井戸、明光寺、高良神社、石の宝殿を見学。丁度、当日は打上地区の秋祭りで、奇麗に提灯などで飾られた立派な山車の前で、全員元気に記念撮影。最後は、打上の四辻に出て、道標など確認して、東寝屋川駅で解散。さわやかな秋空の中、皆さんお疲れ様でした。

 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。
講師の中会長、有難う御座いました。

 次回は、11月17日(土)、第86回歴史健康ウォーク「安土城」を散策します。
  集合は、午前9時、京阪枚方市駅(京都方面ホーム中央)

 JR星田駅より東高野街道を大谷を通り打上へと向かう。
傍示川に架かる橋の手前北西に「すぐ京、八はた道」と「大井川万吉」台石に「門弟中」と刻む安政3年(1856)の道標を兼ねる自然石の石碑がある。


星田駅
民営関西鉄道の星田駅(現在の学研都市線)は、明治31年(1898年)7月に1日に開設された


大井川万吉・道標

「すぐ京、八はた道」と台石に
「門弟中」と刻む安政3年(1856)の道標
寝屋・大谷

大谷北大師祠

星田駅から東高野街道を南に進み、傍示川を渡った東側に、「弘法大師献燈」と刻まれた灯篭太子像・大谷北大師祠は祀られている。石垣の上に石の祠で囲み、石造、一石半肉彫りで、右面に寛政2年(1790)とある。

 大谷の集落は、星田、寝屋両村の出郷で、東高野街道を挟んで東が交野市、西が寝屋川市になっている。集落の中程に、格子戸の入った地蔵堂があり、立派な厨子に地蔵尊を祀り、釈迦涅槃図が掛けられいるそうで、堂の側に、延宝8年(1680)の愛宕灯篭が建っている。

 大谷の集落を南に出て府道枚方・富田林・泉佐野線を渡り、関西電力の変電所の前辺りへ旧道は続いていたが、現在は住宅地などの敷地で途切れている。田の畦道を南に行くと、山根街道との合流点に、大谷南大師祠が祀られている。
 寝屋村は寝屋谷を西流する寝屋川の上流タチ川河岸段丘上に位置する。寛政13(1801)年村明細帳によると反別55町8反、うち田方18町4反余・畑方33町4反余(六分木綿・四分雑作)。田方用水は天水と用水掛かりが相半ばレ溜池用水は星田村から取水。畑は畑ごとに井戸を掘り汲み水を用いた。
 産土神はハ幡宮(現寝屋神社)で、同宮の宮寺でった月泉寺・光泉寺・霊山庵(いずれも廃寺)があった。浄土宗紫金山西蓮寺・浄土真宗本願寺派紫雲山正法寺がある。
 当地には古くから寝屋長者の伝説がある。室町時代の御伽草子「鉢かづき」はその物語と言われ、村内には長者屋敷をはじめ長者にちなむ遺跡・遺物が伝えられる。西蓮寺観音堂の木造十一面観音、正法寺地蔵尊はともに寝屋長者が信仰した仏といわれる。万治元年(1658)松会堂蔵板写本「寝屋長者鉢かづき」は、寝屋長者の備中守藤原実高は弘安二年(1279)頃の人で、万治元年頃には屋敷の形は残っていたと記している。
大谷の集落は、星田、寝屋両村の出郷で、東高野街道を挟んで
東(右の写真)が交野市(星田)、西(左の写真)が寝屋川市(大谷町)になっている


格子戸の建物が地蔵堂
集落の中程に、格子戸の入った地蔵堂があり、立派な厨子に地蔵尊を祀り、
釈迦涅槃図が掛けられいるそうで、堂の側に、延宝8年(1680)の愛宕灯篭が建っている。

往時を偲ばせる大谷の集落

明治9年に星田郵便局(郵便取扱役所)
大谷の南宅に開設された
明治9年に星田郵便局(郵便取扱役所)が大谷の南宅に開設された。
(交野郵便局は明治41年開設)
大谷南大師祠
 大谷の集落を出ると、昭和7年開通の府道枚方・富田林・泉佐野線を横切る。変電所の前にも旧道はあったが、旧のガラス会社の敷地で廃道となり、今は住宅地に変わり途切れてしまっている。田の畦道を南に行くと、山根街道との合流点に、大谷南大師祠が祀られている。


東高野街道と山根街道との合流点に、大谷南大師祠が祀られている
ここで、星田の村から続く山根街道を北へと辿り、
田圃道をぐるりと回って、「星田妙見道」の道標を確認した。


星田妙見道の道標(山根街道)
「大坂道」、弘化2年乙巳6月 南燈明講 願主 何某
弘法井戸

打上地区の東高野街道沿いに「弘法観念水」がある。
ずっと昔からいかなる日照が続いてもこの井戸の水はかれたことがない
と言われてきたもので、弘法信仰に燃えての旅人、
それに商人・武士・村人など多くの人々がこの水に助けられました。


弘法井戸
 空海は、774 年に讃岐国(現在の香川県)に生まれました。2年間中国で真言密教(しんごんみっきょう)を学んだ後帰国し、紀伊国(現在の和歌山県)の高野山金剛峯寺を創建し、後に弘法大師と言われました。
 空海は水なき所に池を掘り、橋なき所に橋を架け、道なき所に道をつけ、食の貧しい者には食を得る方法を教え、病む者のためには良医となり、人々の苦しみを解決しようとしました。
 こうしたことから、弘法大師にまつわるお話は全国各地にあり、「弘法井戸」と呼ばれる井戸もいたる所に存在します。寝屋川市国松にある共同井戸、田井の共同井戸、平池の清水の井戸、郡の湯屋ケ谷の井、清水ロ井、高宮の大蛇井などが寝屋川市内にありますが、今はほとんどが枯れていたり、使えなくなっています。
明光寺の十三仏
 打上の村の登坂を行くと天照山明光寺があります。境内には十三仏、珍しい板碑(雷神石)=古墳時代の石棺材を利用したもの、たらちねの乳房のように気根がぶら下った珍しいイチョウの古木などがあります。
 入り口の石段の上左側、小屋の中に収まった石碑が入っているのが目につきます。この石碑を「雷神石」と呼んでいます。上部には「天照山」その下縦書きに三行。中央が「天下和順日月清明」、右に「壇主安全子孫繁栄」、左に「伽藍常栄興仏法」そして右側面に「弘治三丁已八月吉日、可信」とあります。

 「河内名所図会」には「−ケの奇石あり」と載せているが、いつの頃からか「雷神石」の名をもつようになったその名の起こりは何によってかわからない。これは石棺であって、石棺の身の方の横壁を欠いて文字を刻し碑としたものである。打上地区には八十塚と称されて多数の古墳があったので、いずれかの古墳から掘り出されたものと思われる。碑の高さ133cm、横74cm、厚さ41cm、石質は凝灰岩である。

 十三仏石像碑は石段をあがった右側奥にあります。造立は弘治3年(1557)5月、碑の高さ127cm、舟の形をしている。上部の一番広いところで幅74cmもあるかなり大きなもので、碑の下゙部台座の24cm幅のところに9行にわたり37文字が刻まれています。初行に逆修弘治3年、それから十二の建立者の法名、ニ段に6行にわたっているが中央に三界万の文字一字欠字最後に五月。
  「逆修」は二通りの意味がある。一つは自らの子なり孫なりを先になくしたため、その子なり孫なりの冥福を修することである。その二は自分が死なない先から、前もって自分のために七七日やその後の仏事を修して冥福を折ることであります。
 十三仏はどうした仏かと言いますと、最下段の右から不動明王(初七日)釈迦如来(二七日)文殊菩薩(三七日)、三段日右より普賢菩薩(四七日)地蔵菩薩(五七日)弥勒菩薩(六七日)、二段日も同じく薬師如来(七七日)観世音菩薩(百日)勢至菩薩(一周忌)、一段日も右から阿弥陀如来(三周忌)阿閃如来(七周忌)大日如来(十三周忌)で、最上段の一仏は虚空蔵菩薩(三三周忌)で仏事供養にそれぞれ配当した仏たちであります。
 首なし地蔵は「雷神石」の奥にあります。鉢かずき姫の身代わりになって首を切られた地藏様だといいます。もと打上四つ辻にあったものだと言われています。

明光寺を見学した後、うっそうと茂る木立の中を上ると、高良神社=こうらじんじゃ(竹内宿禰を祀る打上の氏神)に到着。 
 散策当日は、丁度打上の打上神社(高良神社)の秋祭りで、提灯の飾りつけや山車(ダンジリ)など町内では大忙しであった。今は打上元町の町名になっているが、元の地名は浦脇町だったと、地元が人が誇らしげに提灯に灯を入れてくれました。

明光寺本堂


十三仏板碑
最下段の右から不動明王(初七日)釈迦如来(二七日)文殊菩薩(三七日)、三段目右より普賢菩薩(四七日)地蔵菩薩(五七日)弥勒菩薩(六七日)、二段目も同じく薬師如来(七七日)観世音菩薩(百日)勢至菩薩(一周忌)、一段日も右から阿弥陀如来(三周忌)阿閃如来(七周忌)大日如来(十三周忌)で、最上段の一仏は虚空蔵菩薩(三三周忌)で仏事供養にそれぞれ配当した仏たちであります。
雷神石
明光寺の板碑
 
碑の高さ133cm、横74cm、
 厚さ41cm

●古墳時代の石棺材を利用し、それを少し加工し、文字を刻んで碑に仕立てた。材料は凝灰岩。

●偈頌(げしょう) 「天下和順 日月清明」
「伝説 無量寿経巻下」にみえる仏徳をたたえる詩。
上部には「天照山」、右に「壇主安全子孫繁栄」、左に「伽藍常栄興仏法」そして右側面に「弘治三丁已八月吉日、可信」とあります
石の宝殿(国指定史跡)
高良神社から100mばかり山へ上ると「石の宝殿」(古墳(国指定史跡)、
飛鳥の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同じ構造の非常に
珍しい墓室をもつ7世紀の古墳があります。
 石宝殿(いしのほうでん)古墳(国指定史跡)は、飛鳥の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同じ構造の非常に珍しい墓室をもつ7世紀の古墳です
 寝屋川市東端の打上(うちあげ)の集落の中を通って裏山へ続く道の終点は高良神社ですが、この神社の東側の細い山道を100mほど進んだ所にある巨石が、石宝殿古墳です。
 石宝殿古墳は生駒山地からのびる丘陵に築かれた古墳です。
 巨大な花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)という硬い石をくり抜いて「石槨(せっかく)」と呼ばれる死者を葬る部分が造られています。石槨は、上面を平坦に加工した底石(下石)の上に直径3m、高さ1.5mの内部をくり抜いた蓋石を重ねたものです。
 内部は幅1m、高さ0.6m、奥行き2.3mで南側に入口があります。入口部分には左側の上下に丸い凹みがあり、本来は扉のようなものがあったと考えられます。この石槨の前には1.5mの間隔で板石が立てられており羨道(せんどう)と呼ばれる通路部分を造っています。
 同様な形をした横口式石槨は、奈良県斑鳩町の御坊山3号墳、明日香村の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)(厠(かわや))が知られているだけで、きわめて珍しい構造をもっています。  石宝殿古墳の築かれた7世紀には、奈良県の飛鳥地域および「近つ飛鳥」と呼ばれる大阪府羽曳野市・太子町・河南町に集中して天皇・皇族やその側近が葬られていると考えられる古墳が築かれており、近畿地方の他の地域では古墳の築造はほとんど行われなくなります。この時期に北河内地域で唯一築かれた石宝殿古墳は、古墳の形や埋葬施設からも、かなりの有力者が葬られていたと考えられます。
 これが作られたのは仏教文化に関連して進んだ花崗岩の加工技術が到来した7世紀頃と考えられる。石棺ではなく石郭とみなすのも、火葬後、骨を容器に入れてここに納めたと推定しているからである。「I河内名所図会」によれば、このそばから金銅製の骨壷が見出されたと言う。
 なお、前面左に「天岩戸大日如来」と刻んだ元禄九(1696)年の石碑がある。天照大神の岩戸隠れにちなみ、神仏習合の信仰を表すものといわれている。


石の宝殿前で記念撮影
 帰りに寝屋川の歴史資料展示室に立ち寄り面白い話を聞きましたので披露します。
今日訪れた「石の宝殿古墳」ですが、もともと八角であったようで八角と言えば天皇家に関係がある古墳のようです。
 天武天皇の后は持統天皇ですが、名を「う野讃良(うののさらら)皇女」 といい、この古墳のある山の麓には讃良(さら)という地名があり、何らかの関係があるのではないかと言っておりました。時期的には天皇も火葬されるようになった頃ですのでなかなか面白い説だと思います。
                                  高尾 秀司さんより


高良神社(竹内宿禰を祀る打上の氏神さん) 2007年1月2日に撮影
打上神社(高良神社)
 もと高良大明神、高良神社と称されていたが、明治のはじめ今の社名に改めた。高良を名乗る宮は、筑前国(福岡県)三井郡に、京都府ハ幡ハ幡宮の境内に高良社がある。祭神は高良明神とあるが、武内宿祢であるとの古老の言葉は八幡の高良社と同一祭神である。八幡の高良社は社記に「貞観二年(860)六月十五日、行教造神殿云々」とあるから、八幡宮造営と同時の創建である。この神を当地に勧請されたとみるのが、地理上からしても無理のない解釈であろう。
 摂社に八幡大神・八大竜王を祭っているが、高良明神と八幡神とは離せない関係からしても裏づけるもので、八大竜王はやはり高地のことでもあるから、水不足に困らないよう祭られたものである。
打上神社(高良神社) 秋祭り


高良神社の山車(だんじり)の前で記念撮影
打上の道標・灯篭
 高良神社から再び光明寺前を通り打上の町並みを下ると、打上の四辻の東高野街道に出る。この打上の四辻に立てられている道標は、東高野街道では市民に馴染み深い道標です。

現在では通路標識がいたる所で目に付き、信号機も多く見られますが、往時はこうしたものの必要もなかったわけで、この道をまっすく行けばどこ、左へ行けばどこ、右へ行けばどこと通行人に知らしめる目印が唯一の標識でした。こうした標識はほとんど石柱で立てられていて、その辻などは交通量の多かった道路と考えられます。これを道標と称され、灯籠とともに風雨にさらされている文化財と言えます。

 打上の四辻に立てられている道標は、高さ118cm、幅東西面で25cm・南北面で23cmです。
 南面には 南 かうや・のさき・大坂みち
 北面には 北 京・やわた・柳谷・星田妙見道
 西面には 東 なら・いせみち
 東面には 安政四巳正月 為父母 施主酒勘
 とあります。
 建立した酒勘なる人が亡くなった父母の供養のためにされたものとあります。
この碑の南北に続く道が東高野街道で昔の姿が見られます。
 道標と道を挟んで一基の灯籠が立っています。文字は「秋葉山」とあります。夜に灯明を上げて
四辻を照らしたものです。
打上の道標
JR東寝屋川駅を上った東北方の四つ角に、この道標が立っている。
安政4年(1857)の造立で各面に文字が刻まれている。
  • 安政四 為父母 施主
  • 南 かうや のさき 大坂みち
  • 東 なら いせ ミチ
  • 北 京 八はた 柳谷 星田妙見

この碑の南北に続く道が東高野街道で昔の姿が偲ばれます。

道標と道を挟んで一基の灯籠が立っています。
文字は「秋葉山」とあります。夜に灯明を上げて
四辻を照らしたものです。
 さらに四辻から南に50mほど行った先に、大峰山の石碑が立てられている。ここで、予定通り星田から東寝屋川まで東高野街道を歩きました。直ぐ左下が、JR東寝屋川駅です。
 皆さん、お疲れ様でした。


大峰山(大正2年)石碑


東寝屋川駅
最後までご覧いただき有難うございました!


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