交野歴史健康ウォーク
2003.5.10 第47回
私部の山根道を歩き、
倉治のを訪ねる
私部の子守唄、春日との喧嘩唄、倉治の子守唄
平田さん、中角さんからご投稿頂きました
今回で歴史健康ウォークも回を重ねて47回になりました。
今回から参加者名(14名)を書いていただくこととしました。
注目すべきは小学4年生の小川君が参加してくれています。メモ帳片手に熱心に説明を聞いているのが印象的でした。
また、ある人は私は歴史的なことよりも健康ウォークを楽しみに、そして知らない町の野山や古い町並みが歩けることがうれしいと私におっしゃいました。私もうれしくなりました。
「歴史・健康ウォーク」の趣旨が当たった!このような方が一人でも多く参加していただけるよう、これからもコース設定を考えて行きたいと決意を新に?しました。
5/10(土)午前9時ドーム集合出発
今回は中角氏に講師をお願いし、倉治の町並み及び「くさ神さん」を訪ねて歩きました。 ドーム→住吉神社(狛犬のチンチンを確認)→代官屋敷→札の辻橋→遠見遮断の道(山根道)→倉治・卵塔(現在は住宅地)→大仏坂→教育文化会館→廃円光寺跡(倉治6−2−27)→春日との喧嘩唄→くさ神さん(春日の小篠さんが守っていただいております)→木戸→倉治の子守り唄→二平川の洗濯場→久御山線→ドーム
3時間ぴったし、お天気にも恵まれ内容豊富なコースでした。
歩くたびに新しい発見がある。 参加者・・・・・14名 定刻 私部住吉神社に向け新しい住宅の中の道を左折、右折しながら旧の中学校道を北進し、北川を越えて@住吉神社にいたる。前回の復習の大鳥居・狛犬のチンチンの話他、平田さんより説明をうけ、前回 うえん山→砂コ坂(スタコ坂)より東進して、A北田家の東南の角(今回の山根道の出発点)より北進、 ここで平田さんより私部の子守唄 『いたら(行ったら)見てこい北田の屋敷 四角四面の良い屋敷』を紹介される。 教育文化会館・・・交野無盡(近畿銀行の前身)の大正時代の建物(是非残してほしい) D交野無盡の沿革 金澤泰治・加地高貞・新庄武治郎・奥西源五郎・と共に交野金融合資会社を大正三年八月に金沢泰治氏(当時27歳)の邸内に創立。同十二年一月株式組織に改め交野無盡金融株式会社と称し、金澤氏が取締役社長に推され、昭和十五年三月大阪産業無盡を合併し又府下枢要の地に八支店を設置し、一意庶民金融の使命達成に邁進す。 今や時局下社長自ら率先府下優良四社と謀りて合併を敢行し光栄ある当社は茲に発展的解散を遂ぐ、乃ち、社長の発意に依り昭和17年11月3日、明治の佳節をとし本店土地建物全部を其の発祥の地交野町に、金品を各種公共団体に寄付す、願う所は地方自治の向上と発展と銃後・士気の鼓舞に在り以て天業翼賛の微衷を表するのみ。解散に当り其沿革を略記す。 (南の端の碑文より) E★教育文化会館 前庭の石造物 * 道標 右くらじ 左かすが と表示されているもの、郡津より移される。 * 礎石 手前は開元寺のもの 奥は岩倉開元寺の多宝塔の礎石。 * 宝筺印塔の笠 交野郵便局から出土したもの。 * 一石五輪塔 車塚古墳より出土したもの。 * その他は不明です、(教えてください) 教育文化会館の裏の道を北進する、右は六町目で本郷。左は七丁目で結了。つきあたりを左折 右手にF『廃円光寺』(22番7号)が寺跡。 結了町の金沢・奥村・姓の人々が中心の17軒で維持されていて、明治4年に廃寺。後私部の無量光寺の檀徒となる。「この屋敷の石段の袖に使用した石材に、次の様な銘がある。施主 仲兵衛。願 小兵衛 母たけ。 嘉永五年 子 八月上旬 長さ131cm。厚さ16cm。両側に切り込みがある。3本あり。その奥が弁天浦」 (要確認) 石鏃 NO・11号より 突当りを右折北進してガラト川の堤防に出る、昭和の始め頃まで、春日の子供達とG「かすがべい けんかしよ 破れた傘で受けたるわ!」 逆に春日の子は「くらじべい・・・」とやり返したと思われる。当時の春日との喧嘩唄を平田さんがリアルに紹介される。ガラト川を挟んでの小石の投げあいの決戦である。
明治40年頃、絵馬や藁の馬が供えてあった。(石鏃29号より) 元の堤防に戻り200m程東進して大丸可鍛 (現在は奥野ナマコンの駐車場) の坂を南へ溝と交わる辺りをI城戸と言い、古い中村の入り口を、確認する。 少し南進して立派な土塀の見える辻にでる。こ兵衛さんの屋敷の土塀である。 K善通寺は「加中寺」ともいい、加地氏と中角氏でつくった寺。(下記参考) L二平川の洗い場 昔の綺麗な水に戻らないものか? 南進して、どろ前から東進した道にであって機物神社 鳥居前より一路いきいきランド交野へ 3時間のコ-スでした。 東光山・善通寺 戦国の世も終わりに近づき、織田信長の最後の強敵となったのが、石山本願寺(後の大阪城)を中心とした本願寺教団で、善通寺をはじめ交野郡の真宗寺院はこぞって本願寺のために戦い、結果は織田信長の勝利に終わり、本願寺教団は紀伊国(現在の和歌山県)鷺森へと移って行った。本願寺に味方した真宗寺院のその後は厳しいものであったろうと想像される、そうした苦労を乗り越え、江戸時代にはしっかりと根をおろし、倉治の人々の拠り所として、現在までその寺格を保っている。 1 明治十一年倉治ノ野間ニ散在スル石ノ地蔵ヲ寺ニ集メルコトゝシ光明院ト当寺ニ集メタリ。 当寺ニ集メタルモノハ主トシテ庚申塚のものを、牛ノ宮ニアリシ石ノ地蔵ニシテ同年六月十一日地蔵堂新築ニ着手八月二十三日開眼供養ヲナシタリ、庚申塚ノ地蔵ハ歯痛、腰痛ヲ治シ月ノ九日ニハ コンニャクヲクワヘテ参ルモノ多カリキ、牛ノ宮ノ地蔵ハ牛ノ病気ヲ治ス云ヒタリ。 今に伝わる「唄」について
@私部の子守唄に北田はんの歌が残っている。
「いたら見てこい北田の屋敷 四角四面の良い屋敷」
この歌が歌われたのは大正の初めのころだろう。
屋敷は約四反(1.200坪)ある。
A春日との喧嘩唄
「かすがべい けんかしよ 破れた傘で受けたるわ!」
逆にかすがの子はくらじべい・・・とやり返したと思われる。
B倉治の子守唄
「こんや来るなら 高い塀をこして 千両椿をおらんように」
何で子守唄やのに高い塀を越えなあかんのか?と質問される。
もうすこし、考えたり、聞いたりしましょ。
「石鏃が語る」〜石鏃からのメッセージ〜でまだまだ調べ、確認を要するところが沢山あります。
中角さんがおっしゃった「石鏃ウオッチング」今回の歴史健康ウォ−クがまさにそのとおりですね。
「くさ神さん」もやはり元のところにありました。周囲の環境があまりにも変わり過ぎていた。春日の小篠ご夫婦でお守りいただいておりました。ありがとうございますと声をかけておきました。
これもすべて、石鏃に書かれておりましたので対応しやすかった。
「歴史健康ウォーク」に「石鏃ウオッチング」をプラスして充実させていきましょう。 次回の歴史健康ウォークは、交野から離れて伏見街道を歩きます。 ぼちぼち、近隣の名所旧跡、古刹めぐりに出掛けようとのご意見があり、 2ヶ月に1度出掛けることに致しました。 どうぞ、お友達お誘い合わせのうえご参加下さい。 次回の交野歴史健康ウォークのお知らせ 5月24日(土)午前9時50分 集合場所:京阪電車枚方市駅・中央コンコース 「伏見街道を訪ねて」講師:吉岡一秋氏 弁当持参、切符は墨染駅まで 私部の山根道を歩き、 倉治のを訪ねるMAP |