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第175回 交野歴史健康ウォーク
2018.6.9(土) 22名(会員14名)参加
奈良県北部の巨大古墳と
平城宮跡資料館を訪ねる


佐紀古墳群と平城宮跡周辺探訪
 案内人  高尾 秀司氏

日時:平成30年6月9日(土) 午前9時 集合場所 JR河内磐船駅 

行程 近鉄京都線・平城駅→神功皇后陵(五社神古墳)→佐紀石塚山古墳→
佐紀陵山古墳→佐紀高塚古墳→市庭古墳→平城宮大極殿→
第一次大極殿院復元事業情報館→平城宮跡資料館→大和西大寺駅


 6月9日(土)午前9時、JR河内磐船駅に集合。奇跡的にも良い天候に恵まれ、22名の参加を得て「奈良県北部の巨大古墳群と平城宮跡資料館を訪ねる」歴史ウォークは盛大に行われました。
 案内役の高尾さんが事前に綿密な下見をして頂き万全なコースを組んでいただきました。
 お陰様で、皆さんと一緒に梅雨の中休みの1日を奈良北部の古墳群と平城宮跡をゆっくりと回り古代の歴史を存分に楽しむことができ本当に有難うございました。

 今回8年ぶりに平城宮跡を訪ねることが出来、また新たな歴史や第一次大極殿院復元事業などに触れることが出来て大変嬉しく思います。

 また、ホームページの記載に当たり、講師の高尾さんより詳しいレジメを頂きましたこと重ねて御礼申し上げます。

 ※ 歴代天皇陵の詳細ホームページはこちらを参照してください。

  ※ 平城宮跡資料館のホームページはこちらを参照ください。
   また、第一次大極殿については、こちらを参照ください。


市庭古墳(平城天皇陵)前 記念撮影
6月9日、佐紀古墳群と平城宮跡周辺ウォークMAP

  「奈良県北部の巨大古墳と
平城宮跡資料館を訪ねる」 レジメ

高尾 秀司氏
 
 
 
 

佐紀古墳群をめぐる
佐紀盾列古墳群(さきたたなみこふんぐん)
 佐紀盾列古墳群(さきたたなみこふんぐん)は、奈良市北西部、奈良丘陵の南西斜面の佐保川西岸・佐紀の地に所在する古墳時代前期後葉から中期にかけて営まれたヤマト政権の王墓を多く含む古墳群である。佐紀古墳群とも言う。
 佐紀盾列古墳群の名前の由来

 古墳群を代表する大型陵である「五社神古墳」(ごさしこふん)と「佐紀石塚山古墳」の治定陵墓名がともに「狭城楯列陵」であった。
 「盾(楯)列」は、周濠の形が盾型をしており、それらが北側に後円部、南側に前方部という位置でそれぞれが平行に、また東西一直線に並んでいる様子を言い表したもののようで、平城遷都後に定着した新しい言葉と推定される。

 なお、奈良県立橿原考古学研究所では、古代由来の地名だけの「佐紀古墳群」としている。
  風光明媚な奈良盆地北部の添の地には、巨大な前方後円墳が多数存在する。この古墳群は一般に佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群と称され、三輪山周辺に営まれている大和(おおやまと)・柳本(やなぎもと)・纒向(まきむく)古墳群(オオヤマト古墳集団)、および葛城北部に営まれている馬見古墳群と並んで、大和の三大古墳群の一つとして知られている。

 佐紀盾列古墳群は西群と東群に分かれ、前者には佐紀陵山(みささぎやま)古墳(日葉酢媛(ひばすひめ)陵古墳)・佐紀石塚山古墳(成務(せいむ)陵古墳)・五社神(ごさし)古墳(神功(じんぐう)陵古墳)などの前方後円墳が、また後者には市庭(いちにわ)古墳(平城(へいぜい)陵古墳)・コナベ古墳・ウワナベ古墳・ヒシアゲ古墳(磐之媛(いわのひめ)陵古墳)などの前方後円墳が存在する。
 前者は四世紀後半を中心とした時期に、また後者は五世紀代を中心とした時期にそれぞれ造営されたと考えられているが、これらは一体、どのような政治勢力によって築かれたのであろうか。
 
佐紀古墳群地図 <『天皇陵古墳』 森浩一 大巧社(1996)から引用>
 
神功皇后陵(五社神古墳=ごさしこふん)
 五社神古墳(神功皇后陵)
4世紀末〜5世紀初め、丘陵を切断して築造された前方後円墳。この古墳群最大で全長275m後円部の径は195m高さ23m前方部の幅は155m高さ27m、三段築成です。
 「五社神=ごさし」とはかつて墳丘に祀られていた神社に由来する名前とされていますがこの古墳は宮内庁によって24代仲哀天皇妃、応神天皇の母、神功皇后の「狭城盾列池上陵=さきのたたなみのいけかみのみささぎ」として管理されており立ち入る事ができません。
 神功皇后は別名を息長帯比売(おきながたらしひめ:古事記)と言う。
 古代には、息長(おきなが)という名前の付いた皇族が何人も出現する。注意して「記紀」を読むと、この名前の付いた人が結構登場するのだ。これは一体何を意味しているのだろうか?
 滋賀県に今も息長という地名の残る場所があり、ここに息長氏が隆盛を誇っていたという説がある。滋賀・京都南部から奈良北部・大阪東部にかけてこの息長氏の勢力圏は広がっており、継体天皇の大和入りを助けたのはこの一族だという説もある。
 神功皇后もこの一族の出身だという意見もあるが、また反面、そのあまりに超人的な行動や、神懸かり的な故事の故に、神功皇后は実在の人物ではないという意見も結構根強い。直木孝次郎氏は、神功皇后物語は新しく七世紀後半に成立したとしている。
 
五社神古墳(神功皇后陵) 上空より
 
五社神古墳(神功皇后陵) 275m
 

神功皇后陵を南下して、成務天皇陵へと向かいます。
佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)
さきいしづかやまこふん(せいむてんのうりょう)
 佐紀石塚古墳(前方後円墳)
4世紀後半〜5世紀前半の築造と考えられており全長約218、5m後円部の径約132mで高さ約19m前方部の幅約111 m高さ約16m、丘陵部を利用して造営されました。宮内庁によって第13代成務天皇陵「狭城盾列池後陵=さきのたたなみのいけじりのみささぎ」として管理されており、立ち入り禁止となっています。 
 
 
(左上)佐紀石塚山古墳218.5m
(右上)佐紀陵山古墳206m
(左下)佐紀高塚古墳127m
佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)
さきみささぎやまこふん(ひばすひめりょう)
 佐紀陵山古墳
古墳時代前期末〜中期、4世紀後半〜5世紀前半の築造とされている前方後円墳です。全長約206m後円部径は約130mで高さ約18m、前方部の幅は約89mで高さ約2 1、3mで3段の築盛、丘陵部を利用して造営されました。墳丘には葺石が施され埴輪が置かれていたことが確認されています。(日葉酢媛の墳墓から埴輪が置かれるようになったといわれております)宮内庁によって日葉酢媛(垂仁天皇皇后)の御陵「狭木之寺間陵=さきのてらまのみささぎ」として管理されております。 
佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)
さきのたかつかこふん(しょうとくてんのうりょう)
 古墳時代中期、5世紀前半の築造と考えられている前方後円墳です。全長約127m後円部の径約84m、高さ28m、前方部の幅約70m、高さ14、8m、三段の築成で丘陵部を切断して造営されました。周濠がめぐらされ墳丘部には埴輪列があることが確認されています。唯一前方部を南西に向けているのが特徴です。
宮内庁によって第48代称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の陵墓「高野陵=たかののみささぎ」として管理されています。
 三陵墓の中で一番南にあるのが佐紀高塚古墳、西大寺を創建した称徳(孝謙天皇の重祚)天皇の陵墓に比定されています。称徳天皇は東大寺・大仏を創建した聖武天皇・光明皇后の娘で、あの悪名高い弓削道鏡を重用したことで知られます。第48代天皇ですから、成務天皇・日葉酢媛よりも遙かに後世の人です。
式内 佐 紀 神 社
 佐紀神社
 御前池の西、小字西畑に鎮座。池を隔てて東の小字亀畑にも佐紀神社がある。祭神は天児屋根命・経津主命・六御県命の三座。由緒は不 詳であるが、「平城旧社考」によると、亀畑の佐紀神社を分祀したものといわれている。鳥居前 には「式内佐紀神社」の石標があり、「延喜式」神 名帳添下郡の「佐紀神社」としている。例祭は一〇月一〇日。
      −『大和寺院神社大事典』−
 
 
 
 隆光大僧正の墓石
 
 平城宮跡 北面大垣
 北面大垣
 ここは平城宮の北辺、朱雀門の真北にあたる。宮城の12の門のうちの一つ猪使門(いつかいもん)の推定地であつたが、発掘調査の結果この場所には門がなかったことがわかった。東西いずれかにずれた位置にあったのであろう。
 平城宮は高さ5mの築地塀で囲まれていた。しかし、この付近では710(和銅3)年の遷都には建設が間に合わず、掘立柱の塀を仮に建て、のちに築地塀に作り直している。整備では、掘立柱塀の柱の位置を地上80cmの高さの木柱で示している。
 さてその場所だが、復元された大極殿の北約100m程の所、東西に走る県道の北側に位置する。
 
 
市庭古墳(平城天皇陵)
いちにわこふん(へいぜいてんのうりょう)
 市庭古墳(いちにわ)

古墳時代中期初め、5世紀前半の前方後円墳、前方部は平城京造営の際削られた。前方後円墳としては全長約253m、後円部の径147m〔現状105m〕現状の高さ約13m墳丘には葺石が施され、円筒埴輪、朝顔形、盾形、動物埴輪などが確認されています。ここは宮内庁によって平城天皇の「楊梅陵」(やまもものみささぎ)としています。宮内庁によって立ち入る事はできません。
 「注」この古墳は被葬者の時代に合わないうえ、盾形の二重の周濠の様式は古市、百舌鳥古墳群に見られるものであり、この市庭古墳の被葬者が河内の巨大古墳の造営者と密接な関係があったのではと、うかがえるのです。

 
市庭古墳前で記念撮影
第 一 次 大  極  殿
 この大極殿は奈良遷都1300年にあたる2010年に合わせて平城宮跡に第一次大極殿が実物大で復元された。復元された平城宮第一次大極殿の屋根には中国古代建築の類例に近い大棟中央飾りが設置されている。これまで平城宮跡からは大棟中央飾金具の出土例がない。そのため奈良時代前後の事例及び資料収集調査を通じ、この金具の意匠設計を進めたという。大極殿は宮殿の中で最も重要な建物で、即位の儀式や元旦の朝貢には天皇の玉座である「高御座」が置かれました。間口44m、奥行き20m、屋根の高さ27mで平城宮で最大の建物である。

 第一次大極殿については、こちらのホームページを参照ください。

大極殿前で記念撮影
 朱雀門の真北約800mに堂々とそびえる「大極殿」。正面約44m、側面約20m、地面より高さ約27m。直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦約9万7000枚を使った平城宮最大の宮殿であり、その建物は奈良時代の中頃に、一時都とした恭仁(くに)宮に移築され、山城国の国分寺金堂になりました。当時、天皇の即位式や外国使節との面会など、国のもっとも重要な儀式のために使われていました。
 大極殿復原に際して大きなハードルだったのが、当時の設計図や参考になるような絵画などが残っていないことでした。そのため、発掘調査で判明している基壇や恭仁宮の大極殿(国分寺金堂)の跡に残る礎石の状態などから大極殿の大きさ、形を推定しました。わずかに残る文献や法隆寺金堂、薬師寺東塔など、同時代の寺院建築も参考にされています。

 
 
 
 
高御座(たかみくら) 国家儀式の際に天皇が着座した王座です。
 
復元された平城宮第一次大極殿の屋根には
中国古代建築の類例に近い大棟中央飾りが設置されている。
 
 
 
 
 
 
 
第一次大極殿院復元事業情報館
 平城京の正門である羅城門と平威宮の正門である朱雀門を結ぶ朱雀大路の延長上、宮の中央には、南から北へ緩やかに傾斜する空間がひろがっています。この場所を、第一次大極殿院と呼んでいます。大極殿院は天皇の即位や元日朝賀などの国家儀式、あるいは外国使節の歓迎の儀式が行われた施設です。この情報館は復活に際して様々な情報が得られるところとしています。
 復原事業情報館は、「第一次大極殿院建造物復原整備工事」の取組みや整備意義、目的について分かり易く紹介し、復原事業についてより理解を深めるための施設です。
 CG映像や道具、資料サンプル等で、古代の技術について体験的に学習することができます。
 

説明の方のお話では、この情報館の大きさで、
第一次大殿院の築地塀が復元されるようです。大きさに驚きました!
 
 第一次大極殿院 南門の復元事業
 現在、修景柵(大極殿院を取り囲む柵)が仮設置されていますが、調査研究に基づく外観を復原するため、2011年(平成23年)「第一次大極殿院建造物復原整備計画」が策定され、「築地回廊」、「南門」、「東西楼」、「内庭広場」を順次整備していくことが決定しました。
 これらの復原工事は長期にわたるため、工事現場を公開しながら、現在まで伝承される伝統技術の素晴らしさを広く発信していく予定です。

  平城宮跡歴史公園のホームページをご参照ください。
 
南 門
 
「築地回廊」、「南門」、「東西楼」、「内庭広場」
 復原事業情報館は、「第一次大極殿院建造物復原整備工事」の取組みや整備意義、
目的について分かり易く紹介し、復原事業についてより理解を深めるための施設です。
CG映像や道具、資料サンプル等で、古代の技術について体験的に学習することができます。
平城宮跡資料館
 平城宮資料館は、平城宮跡のことを分かり易く解説する施設として2010年にリニューアルオープンしました。奈良文化財研究所の約60年にわたる平城宮の調査をもとに、いにしえの奈良の都を皆様にご案内します。(館内の説明資料より)展示内容としては、ジオラマ、映像による再現、発掘調査の遺物の展示、遺物や遺跡の保存、分析方法の紹介等をおこなっております。
 
   
   
   
   




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