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第17回 京遊会

世界遺産「姫路城」周辺探訪

姫路城 〜 好古園

行   程 :  11/12 姫路城  → 好古園(昼食) → 姫路駅(喫茶)  午後2時解散

姫路城 見学
 午前9時、姫路城入場口で団体券を購入、ボランティアガイドの萩原たか子さんを運良く見つけて、急遽ガイドをお願いし、観光客で賑わう天守最上階まで2時間たっぷりゆっくりと案内していただきました。

姫路城、入城者200万人を突破!

グランドオープンから8カ月が経とうとしている世界文化遺産、国宝「姫路城」は
11月9日に、入城者数がなんと・・・200万人を突破しました〜!!

 国宝姫路城は平成5年12月、奈良の法隆寺とともに、日本で初の世界文化遺産となりました。

シラサギが羽を広げたような優美な姿から「白鷺城」の愛称で親しまれる姫路城。白漆喰総塗籠造りの鮮やかな白の城壁や5層7階の大天守と東、西、乾の小天守が渡櫓で連結された連立式天守が特徴です。

今、私たちが目にしている姫路城の大天守は、慶長14(1609)年に建築されたもの。
400年以上が経過した現在でも、その美しい姿を残しています。
 
 
 世界文化遺産 国宝 姫路城

 姫路城は法隆寺とともに1993年12月、日本で初めてユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録され、日本に現存する城の中でも世界的に高い評価を受けています。その理由は、連立式天守をはじめとする独特の建築構造と白鷺城とも呼ばれる美しい形容、要塞として精巧な意匠と工夫の凝らされた巧みな機能、そして城全体がよく保存され、内曲輪の城郭建築がほぼ完全に当時の様式を伝えるところにあります。

 築城以来400年、この地に砦が築かれてからでは600年を超える歴史を刻み、未来への遺産として大切に受け継がれるべき姫路城。数多くの国宝、重要文化財をはじめ、姫路城を舞台に繰り広げられたドラマや伝説など、姫路城の魅力をあらゆる面から感じ取って下さい。

 姫路城の所有者は、文部科学省(文化庁)

 管理団体は、姫路市

 国宝大天守、東小天守、西小天守、乾小天守、い・ろ・は・に・の渡櫓(やぐら)の8棟
 重要文化財化粧櫓、ニの櫓、折廻り櫓、備前門、水の一門、水の二門、菱の門、い・ろ・は・にの門、ぬの門など74棟
 
 現在の姫路城は慶長6年(1601年)から8年の歳月をかけ池田輝政が建てたものですが、一番最初に姫路城を建てたのは赤松則村の二男、貞範(さだのり)です。当時播磨国上郡で勢力を誇っていた父則村は、鎌倉幕府を倒そうとする後醍醐天皇に加勢し、千二百騎の兵を現在姫路城のある姫山に集結させ、京都に向かい大きく貢献しました。そしてその13年後の1346年に父の意向を受け二男の貞範が姫山に山城を築きました。これが姫路城の始まりとされています。

 しかし、その後、羽柴秀吉が三層の城を築くまではほとんど大きな動きはなく、姫路城は小さな山城でしかありませんでした。

 秀吉は信長の天下統一のため、中国討伐の拠点として天正八年(1580年)からおよそ一年がかりで姫山の城を三層の本格的な天守閣に改築をします。しかし、それも19年後の関ヶ原の戦いにより徳川政権が始めると、家康の二女督姫を妻とする池田輝政が城主に選ばれ、また改築をすることになります。

 池田輝政が姫路城の城主になったのは、徳川政権を脅かすかもしれない西側の諸大名をけん制するためでもありました。そのため、家康は池田輝政に過大とも言えるほどの禄が与えられ、督姫との子、二男忠継に備前国二十八万石、三男忠雄に淡路国六万石を与え、姫路の五十二万石とあわせ八十六万石、しかし実質は百万石をほこる西国大名として徳川幕府の西の要になることが求められたのです。
 この要求に応えるべく、池田輝政は、のべ二千四百万人もの人員を動員し8年がかりで江戸城にも匹敵するほどの現在の天守を作り上げました。

ボランティアガイドの萩原たか子さん
 菱の門、いの門、ろの門をくぐり


菱の門 表玄関にふさわしく格調高い櫓門
 はの門(はのもん)

 坂の上にあるはの門は、向こうに天守がくっきりと見え、敵に天守がもうすぐそこだと錯覚するように造られています。門扉の上方床面には石落としがあり、櫓の真ん中にある印象的な武者格子窓は、菱の門の内側を見通す警備の役割を果たしています。天守への侵入を防ぐ重要な門で、菱の門と連動する第二関門といわれます。
 

はの門 南方土塀  前方に天守が見える
 
白壁に三角の穴が見えます
 狭間(さま)
 姫路城の白壁には、長方形、丸、三角などのいろいろな形の穴が開いています。これは狭間(さま)と呼ばれるもので、侵入者を見張り、そして侵入者めがけてこの穴から矢や鉄砲で攻撃を仕掛けるために作られています。
 丸と三角は鉄砲、長方形は弓を放つ窓で、それぞれの組み合わせや並びはバランス良く配列され、戦いの仕組みとしてだけではなく美しさを持ち合わせています。
 狭間は天守と土塀を合わせて約500個ほど残っています。
 
にの門の西面の唐破風の上には、秀吉に姫路城を献上したことで知られ、キリシタン宗に帰依していた黒田官兵衛義孝ゆかりの十字紋を焼きつけた鬼板瓦も見られます。. 

キリシタン宗に帰依していた黒田官兵衛義孝ゆかりの十字紋を焼きつけた鬼板瓦
 秀吉時代の野面積みの石垣
 
 
江戸時代以降の算木積みの石垣
 石垣の石はどこから運んだのか

 姫路城には内曲輪だけで10万3396トンあまりの石が使われています。これらの大量の石は、主に地元の播磨と備前(岡山県)から集められています。姫路近くの砥堀山、今宿山、別所山などからも堀出されました。これらのうち、大きな石はまずクサビ形に穴をほり、そこに矢を打ち込んで割って採掘されたのです。いわゆる巨石と呼ばれるものは、石の下に修羅や車を敷いて、それに長い綱や鎖をつけ、大勢の人が音頭やお囃子、かけ声をかけあいながら引いて行きました。石にはいろいろな形の銘を刻んだものがありますが、これはその石の採掘や運搬に奉仕した村や団体、指揮者などの符号です。
 
丸瓦の留め金がハート型!
 城内の見学に新しい楽しみ方が登場! ARで大発見

グランドオープンに合わせて、城内の見学に新しい楽しみ方が登場しました。
専用のアプリをダウンロードして、城内のポイントでスマートフォンやタブレット端末をかざすと、AR技術を活用して今では現存しない建造物の再現CGや城内の様子の再現映像、城内にある防御の仕組みの解説などが楽しめます。
 
 

姫路市キャラクター「しろまるひめ」などが登場!
にの門(にのもん)

 天井がかなり低くなっており、ここで敵を通りにくくしておいて、上から板をはずして槍で攻撃することができるようになっています。
 
にの門に向かう
 
 
にの門

 天井がかなり低くなっており、ここで敵を通りにくくしておいて、
上から板をはずして槍で攻撃することができるようになっています。


画面では分かりづらいですが、十月桜が満開です!
 ほの門(ほのもん)

 姫路城の中枢、本丸の入り口にある門。頭を打ち付ける門の低さは、万一の場合に埋めやすく設計されています。倒して「ほの門」をふさぐため、そばに油壁が置かれたとも伝えられます。また、鉄砲による攻撃に耐え得るため、門の扉には鉄板が張り巡らされています。
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油壁
秀吉時代のものとされ、場内で1ヶ所だけ残る築地塀です
「ほ」の門をくぐったすぐ上にある「油壁」。
砂と粘土を塗り固めたもので、コンクリートほどの強度を持ち、
鉄砲の弾もはじき返すと言われています。
 
珍しい形をした瓦
 
門の金具にハート型の彫物発見!

姥が石
羽柴秀吉が姫路城を築くとき石集めに苦労していました。城下で餅を焼いて売っていた貧しいお婆さんが、そのことを聞いて、使っていた石臼を寄付しましたので、秀吉は喜んでこの石を使いました。この評判はすぐ町中にひろまり、国中からたくさんの石が寄付され、お城の建築は急速に進み、立派に完成したと語り伝えられています。

石落とし

五輪塔の仏石 (転用石)
 大天守内へと靴を脱いで入場
 天守への数々の仕掛け

 姫路城の大きな特徴の一つは、敵を簡単に天守に近づけない迷路のような縄張り(道順)と、敵を攻め込む仕掛けが随所に施されていることです。まず菱の門をくぐると、道が3つに分かれており、真っ直ぐ行くといの門、左は西の丸へ行く上り坂、右手は行き止まりのように見えます。ここで迷っている敵を、正面からは本隊が、西の丸の狭間からは銃が狙い、行き止まりに見えた右手の石垣から兵士が飛び出して、敵を挟み撃ちにし、三国堀へと追い落とします。

 続いていの門をくぐると、遠回りになるろの門へまっすぐに誘導され、ろの門を抜けると右側の多くの狭間から狙い撃ちできます。そして続くはの門を抜けると、道が天守とは逆方向へUターンしてしまいます。そしてにの門は、直角に曲がっていて進みにくく、いざというとき埋めてしまえる埋門です。本丸の入り口になるほの門も埋めることができます。そして本丸に到達しても、すぐに道が分かれへの門、ちの門へと進ませますが、本当は油壁の裏の水の一門が近道です。しかし続く水の二門、水の三門は下り坂で、攻め上がろうとしている敵に、城外へ出てしまうかのような錯角を思わせます。このように、姫路城は攻める敵の状態や心理にも効果的に考え抜かれた仕掛けがたくさんあるのです。
 

天守の内部構造の模型がありましたが、こんな風に造られているのか!とびっくり
内部は地上6階・地下1階の7階構成になっています。

姫路城周辺のレプリカ

火縄銃の火薬と銃の武具掛け
東大柱
 心柱の大きさ
東西に2本、高さ24.6m、根元直径95cm、末口42cm
 城の傾きと棟梁の死

現在の姫路城は1601年から9年がかりで建てられました。その9年間の築城を指揮したのが棟梁の桜井源兵衛でした。

 源兵衛は寝る間も惜しみ毎日仕事に打ち込み、築城を9年という短い期間でやり遂げる偉業をなしとげました。はれて完成した姫路城を眺めた源兵衛は達成感と満足感に包まれていたことでしょう。しかし、源兵衛にはひとつだけ気にかかることがありました。城が少し傾いて見えたのです。
 後日、源兵衛は妻を連れて城を案内しました。美しい外観とは裏腹に戦にそなえ要塞としての役割も果たす城は、妻にとってはまるで迷路のようにいつまでたっても天守につかないように思いました。いくつもの門をくぐりやっと天守の下まで来たとき、大天守を見上げた妻は源兵衛に言いました。

「とてもすばらしいお城です。ですが、お城がすこし傾いて見えるのですが・・・」
その言葉を聞き、源兵衛は打ちひしがれた気になりました。
--素人の目にも傾きがわかるようでは、自分の設計に誤りがあったに違いない。--
そう思った源兵衛はノミを口にくわえ、天守の最上階から飛び降りたと言われています。

 実際、姫路城は巽(たつみ)(東南)の方向に傾いていました。しかし、これは姫路城を支える心柱の礎石の地盤が沈下していたためで、源兵衛の設計に誤りがあったわけではありませんでした。

 東に傾く姫路の城 花のお江戸が恋しいか

姫路城の傾きを伝える俗謡が残っています。
一説によると、要塞でもある城の弱点をも知り尽くした大工を城の完成を待って殺したという考え方もあるようです。
 東大柱
 姫路城を支えているのがこの2本の大柱です。東西にそれぞれ高さ24.6m、根元直径95cm、末口42cmと大きな柱で、それぞれ地階から6階の床下まで延びています。

 3階で注目したいのが、西の大柱が2本接ぎ合わされていることです。これは昭和の大改修(姫路城を一度解体し、もう一度組み上げたという大改修)の際、もっとも大変であった作業の一つでした。
 そもそも不朽により大柱が姫路城を支えられなってきていたため、新しい大柱を建てることが最大の課題でした。しかし、これほど大きな木材が見つからず困り果てた関係者が日本各地を探し回り、ようやく木曽国有林の樹齢780年の檜と地元神埼郡笠型神社の樹齢670年の檜を3階で継ぎ合わせて再現したのです。
一方東の大柱は根本の補強だけで、現在も古い柱が使われています。

大改修で取り替えられた大柱は姫路城三の丸広場の奥、入場券の発券所の右付近で現在見学することが出来ます。

 
 
 
心柱に触れると長生きできると多くの手が触れる

西大柱
 最上階の天守 六階へ

長壁神社
 

姫山の地主神で、近代になって天守内で祀られるようになりました。
江戸時代には、との二門との三門の間の小高い場所に鎮座していました。
 
柱に彫り物  何に見えますか?
 
天守からの眺望
 
 
 
  天守大鯱瓦 約2m
 

備前丸・二の丸・三の丸方面
 

菱の門・西の丸方面
 

三の丸・大手前通り・姫路駅方面
 
3階には宮本武蔵が3年間幽閉されていたという部屋
  3階には宮本武蔵が3年間幽閉されていたという部屋がありました。
小説『宮本武蔵』ですっかりお馴染みの話ですが、武蔵(たけぞう)から武蔵(むさし)に精神的に変身した場所なので伝説とはいえ感激!
 
武者隠し   建物の四隅に伏兵を配置する空間があり、内部には狭間が設けられえいる
 
塀や天守、櫓には多くの石落としもあります。
石落としは、石垣を上って来る敵兵に石を投げ、湯を流したり、槍で突いたりできる仕掛けです。

 地階へと降りる

厠 (トイレ)
 
 

流し 具体的な用途は不明
 本丸(備前)へと出る
 備前丸(びぜんまる) 城主池田輝政が住んでいた所

 本丸の一郭で、城主池田輝政が住んでいた所。城主・輝政が客と会見する対面所や夫人・督姫の住まう御台所などがありましたが、明治15年の火災で焼失してしまいました。備前丸の名前は、輝政と督姫の間に生まれた忠継が備前国を与えられましたが、幼いため両親とここに住んでいたためにそう呼ばれたようです。往時の備前丸には二層櫓が四棟、折廻櫓や長局もあり、本丸の南半分を占めていました。
 
 天守の高さ
姫路城の天守は姫山(標高45.6m)の上に建っています。姫路城自体の高さは、石垣が14.85m、建物が31.5mなので合計すると海抜92mになります。
 
 姫路城の面積
  内曲輪(うちくるわ)以内の面積・・・23ha(230,000m2)。
  外曲輪(そとくるわ)以内の面積・・・233ha(2,330,000m2)。
        東京ドームの約50倍の面積

   総重量     およそ6,200 t
 
 昔を伝える「不戦・不焼の城」

 姫路城はその400年の歴史の中で、一度も戦にまみえることなく、近代の戦災に遭うこともなかった、たぐいまれな城です。そのため、天守や櫓、門などをはじめとする内曲輪の城郭建築がほぼ建築当初のままの完全な状態で残されており、他に類例のない遺構も多く、極めて貴重な文化遺産となっています。
 池田輝政が築いた大城郭

 池田輝政は、織田信長の乳母を祖母に持ち、早くから秀吉の養子となる約束が交わされ(父と兄を失ったため家督を継ぎ、実現はしません)、家康の次女・督姫を妻にするなど、天下人の三人に深い関わりを持つ数奇な運命の人でした。しかし天下分け目の関ヶ原の合戦からわずか1ヶ月後、徳川方の武将として活躍した池田輝政は、大阪城を牽制し、西国の武将ににらみをきかせる重要な役割を持って姫路に入ってきます。
 姫路入りした輝政は、早速、新しい城づくりを開始。実質的には百万石ともいわれ、西国将軍とも呼ばれた強力な力をバックに、9年の歳月と推定2430万人もの人々を動員して、慶長14年(1609年)、連立式の天守を持つ白亜の名城を完成させたのです。
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本多忠政による姫路城の完成

 輝政没後の元和三年(1617年)、本多忠政が城主として姫路へやって来ます。 忠政は西の守りを固めるために、姫山の西の鷺山に西の丸を作るなど、姫路城を完成させていきます。そして太平の世となるにつれ、居住性を伴った「政治拠点」としての城づくりを行います。三の丸に自分が住む館を建て、息子・忠刻と千姫のために武蔵野御殿と呼ばれる館を建て、西の丸には千姫の侍女が住む長局や千姫と忠刻がくつろぐ化粧櫓も整えました。さらに武蔵野御殿の北側に向御屋敷、内堀の外には西御屋敷、東御屋敷も建てました。こうして天下の名城・姫路城が完成したのです。

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お菊井戸(おきくいど)

播州皿屋敷のヒロインお菊が責め殺されて投げ込まれたといわれる井戸で、
もとは釣瓶取(つるべとり)井戸と呼ばれていました。
 播州皿屋敷(お菊井戸)

 城内の上山里丸と呼ばれる広場にある「お菊井戸」が、有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だといわれています。永正年間のこと、城主・小寺則職の執権・青山鉄山が城の乗っ取りを計画していました。これに気づいた忠臣の衣笠元信は、愛妾のお菊を青山家に女中として送り込み、陰謀をさぐらせました。しかし、努力のかいもなく、青山鉄山の勢力の方が強く、則職は元信に守られて逃げ出すのが精一杯でした。それでもお菊は青山家に残り、家島に逃れた元信に情報を送っていましたが、ついに町坪弾四郎に気づかれてしまい、これを盾に結婚を迫られます。
 しかし、お菊はどうしても首を縦に振りません。腹を立てた弾四郎は家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺して井戸に投げ込みました。それからというもの毎夜、「1枚、2枚…」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになったといいます。その後、元信ら忠臣によって鉄山一味は滅ぼされ、お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内にあるお菊神社に祭られています。

 

顔に見える石垣
 
石垣に使われていた石棺 (転用石)
 
千姫物語

 千姫は慶長二年(1597)四月十一日、二代将軍徳川秀忠とその正室との間に生まれました。
 千姫はわずか7歳で、豊臣秀吉の子、秀頼に嫁ぎます。この結婚は徳川家と豊臣家の結びつきを強めるためのもので秀吉の遺言による政略結婚であったと言われています。
 やがて豊臣家と徳川家の争いが起こり、大阪夏の陣で大阪城は炎上していまいます。この時、千姫の祖父である家康の計らいで大阪城内に居た千姫は助け出されます。

 その後、江戸に帰る途中、桑名城主本多忠政の子・忠刻(ただとき)と運命的な出会いをすることになります。一度夫に先立たれた悲しみを持った千姫の気持ちを察し、忠刻に想いを知った家康は、二人の結婚を認めます。

 こうして、本多家が姫路城の城主となり、千姫も姫路城の姫となりました。
やがて千姫と忠刻との間には一男一女が産まれ、二人はとても幸せな時を過ごしていました。しかし、その幸せも長くは続かなかったのです。わずか三歳にして、長男の幸千代が病気で亡くなり、さらに忠刻も病に倒れ、三十一歳という若さで亡くなりました。
 夫と息子を亡くした千姫は、その後姫路を離れ、尼となり江戸で七十歳までひっそりと余生を過ごしました。
 
三国堀(さんごくぼり)からの姫路城

菱の門内にある空壕、二の丸の本道と間道の要所をおさえる重要な位置にあります。


世界遺産を臨む日本庭園        好古園
 姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」は、発掘調査で確認された武家屋敷跡などの遺構を活かして、市制100周年を記念して、平成4年に造営された池泉回遊式の日本庭園です。
 姫路城の南西に位置し、城を借景に造られた庭園の面積は約1万坪(3.5ha)。滝や池のある「御屋敷の庭」や本格的数奇屋建築の茶室、双樹庵のある「茶の庭」など9つの庭園群で構成。江戸時代をしのばせる築地塀や屋敷門・長屋門、渡り廊下で結ばれた活水軒と潮音斎のたたずまいが特別史跡地にふさわしい歴史的景観を創り出し、時代劇や大河ドラマのロケ地としても使われています。
 
 
続いて、好古園のレストラン・活水軒で昼食後見学。
姫路駅前のピオレ4階のスターバックスでゆっくりとお茶を飲み、
来年の再会(大坂城と幸村)を期して、今年の京遊会は無事終わりました。
最後までご覧いただき有難うございます!

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