倉治(くらじ)の名の起こり

倉治と書いて「くらじ」と読む
「クラ」というのは、岩、断崖、岩場などをさす。他に倉庫や山の鞍部をいう。
倉治の名の起こりは、三つ言われている。

先ず一つは、交野山の西側は、南北の断層崖によって山が切り立っている。
その崖の真下の扇状地に、倉治の村があったところからつけられたとするもの。

二つ目は蔵が沢山建っていたとするもの。
古代、津田から倉治を経て、寺村に至る山麓沿いに渡来人が多数住んでいた。
その中で倉治には、機織りの技術を持った渡来人が多かった。
壬申の乱(じんしんのらん)(672)が起こった時、倉治の渡来人は大海人 皇子(おおあまのおうじ)に味方し、大海人 皇子が勝利しやがて即位して天武天皇となり、戦争の功労として天皇は倉治機物(くらじはたもの)の首長に交野忌寸(かたのいみき)の姓を与えた。

忌寸とは、天武天皇13年に、その朝廷に臣が壬申の戦にあらわした功によって、8等級の姓を定められた。
忌寸は、その第4等で、おもに中国および朝鮮の渡来人に与えられた姓である。

その後、この一族は大いに栄え、聖武天皇の天平年間(729〜748)、現在の神宮寺の東に開元寺を 建立した。
また、一族の氏神として機物神社を祀って、村の繁栄を誇った。
祭神は、後に転じて織姫星「七夕姫」となった。
このように、倉治が渡来人によって栄え、彼らの富を入れる倉が立ち並ぶ様から倉治とつけられたというもの。

三つ目は、「日本書紀」巻三の神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)(神武天皇)の条に兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)の二人の名前が出てくる。
大和に入った神武天皇が、兄磯城(えしき)という悪い武将をさとすために弟磯城(おとしき)をつかわし、その伴に、兄倉下・弟倉下をつれていったという。
この兄弟は今の倉治に住んでいた豪族で、その名前が地名になったと言われている。