藤原京***日本書紀より***

1.遷都への過程

天武5(676) 「新城に都を造らむとす」と「日本書紀」に記述。
天武10(677) 三野王(みののおう)ら、「新城(にいき)の地形調査実施。〈2月草壁皇子、皇太子になる〉
天武11(682)3月 三野王・采女筑羅(うねめのつくら)を信濃国へ派遣し、地形を視察させ、直後天武帝自ら新城に行幸。
天武12(683)12月 難波に都造り命ぜられる。
天武13(684) 天武帝、宮地探査で飛鳥周辺を巡幸。
天武13(684)3月 「天皇京師(みやこ)を巡行して宮室の地を定む」→正式に「藤原宮地」として決定。
朱鳥1(686)9月 天武帝病没、大津皇子、謀反の疑いで自害。689年・・皇太子草壁皇子没。建設は頓挫。
持統4(690)10月 持統帝即位。10月5日、吉野へ巡幸。10月29日、太政大臣高市(たけち)皇子が「藤原宮地」を視察。
    同   12月 持統帝が「藤原宮地」を視察。
持統5(691)10月 新益京(あらましのみやこ)(=藤原京)の鎮祭(地鎮祭)執行。
持統6(692)1月 持統帝、「京路」を視察。
    同   5月 藤原宮、地鎮祭執行。伊勢・大倭・住吉・紀伊の四神に新宮造営着手を報告。
    同   6月 持統帝、藤原宮地を視察。
持統7(693)2月 造営で破壊した墳墓の遺骨を収集。
    同   8月 持統帝、藤原宮に巡幸。
持統8(694)12月 6日、飛鳥浄御原(きよみがはら)から藤原京へ遷都。
文武1(697)8月 1日、軽皇子(持統の子の草壁皇子の子)15歳で文武帝として即位。
大宝1(701) 大宝律令完成(700年「令」・701年「律」。)2官8省制制定・国号「倭」から「日本」となる。
同2(702) 持統太上帝没す。文武帝「新宮正殿」に御して斎戒。(藤原宮、大改造?)
慶雲3(706) 藤原京で疫病大流行、死者多数。
同4(707)1月 文武帝、遷都論を官人に諮るがその後6月崩御(25歳)。皇太子首(おびと)皇子7歳の為、母の元明女帝即位。
和銅1(708)2月 和同開珎発行。直後、平城京遷都の詔出される。
同3(710) 平城京遷都


2、所在地
 江戸中期賀茂真淵が「万葉考」で橿原市高殿町の大宮士壇の地を比定、諸説出る中でやっと昭和9年2月〜18年までの継続調査で大宮士壇が大極殿であることが確定した。
3、規模と施設藤原宮と飛鳥の宮跡の比較図
 中国の都城制を模した我国初の本格的帝都である。当初考えられていたのは南北3.2kmを「条」東西2.l kmを「坊」とする「条坊」制の町割制度が敷かれた(東西4坊・南北12条)都であったが、最近の発掘等で‘99年奈良県教委・橿原市教委は東西5.3km(20坊)、南北4.8km(18条)に及ぶ「大藤原京」とした。
 道路幅は朱雀大路が24m、宮の南面大路の六条大路は21m、一般の大路は15m、小路は6mと6段階に等級づけされている。大路・小路で区別された街区は寺院・貴族邸・官人、民衆の居住区に割り当てられたが、中でも国家創建の大寺たる大官大寺と薬師寺とが夫々相対峙して造営された。官の大寺が京内に計画的に配されたのも藤原京が最初。
 宮城の四周は大垣で囲み南北907m、東西925m、平城京に比べ夫々100m程短い。大垣は平城宮の築地塀に対し藤原宮は径40cmの掘建て柱を一列に立て並ベ、柱間を壁で塞ぎ屋根に初めて瓦を葺いた。四方の大垣に三つずつ計十二の門があった。夫々、北面西門「海犬養門(あまのいぬかいもん)」、北面中門「猪使門(いつかいもん」)」、同東門「多治比門(たじひもん)」、東面北門「山部門(やまべもん)」、同中門「建部門(たけるべもん)」、同南門「少子部門(ちいさこべもん)」と呼ぶ。これらの名は「飛鳥宮」時代宮城門を守った氏族に因みつけられた。門は官位5位以上の貴族はどの門も出入自由だったが、6位以下は指定の門以外は通れなかった。仕丁(つかえのよぼろ)等は事前に許可が必要だった。大垣の外は幅20mを越す空地を設けその外縁に幅5.5m、深さ1.2mの大規模な外濠を巡らせている(防御と言うより土地の乾燥、雑排水処理機能)。外濠と宮周辺間に幅30m超の空間地があるのも藤原宮特有の施設である。
 各宮殿は初めて瓦葺・礎石建ちの大陸様式が採用された。朝堂院は南北318m(平城宮は285m)、東西230m(同18Om)、儀式の際、貴族・高官が集合した。大極殿は115mX155m(同122mX88m)と大きく、東西45m、南北20m、高さは25m、朱塗りの総柱建物で床張りであり周囲には脇殿を繋ぎ、大極殿を中心にその四方の大安・小安・東安・西高の諸殿と、その南に在る左右対象の十二堂、朝集殿の計十七の建物とそれを取り囲む回廊や諸門が明かになっている。朝堂院地全体面積は平城京の1.5倍、平安京の2倍という日本で一番大規模な宮殿、当時日本一の建築物がここに在った訳である。内裏は桧皮葺、板葺き・掘建て柱の純日本式建物。実態については殆ど不明である。「一郭」を囲んだと見られる塀跡が発見されており東西300m、南北38Om規模と見るれる。これは内裏外郭施設と考えられ、内部には更に「内郭」があり、そこが天皇の居住空間だったと見られる。
 「藤原京」は「南に低く、北に高い」地形に位置している為、雨水等はすべて「宮」の方向に流れてしまうが、「天子南面」思想から考えると「北に低い」地に都を造るということ自体少しおかしいことである。
4,造営工事大極殿造営直前の建築資材運搬用の運河跡発掘風景。後ろは、大宮土壇
@人員・・・当時50家族で構成の「里」制度がありその里から2人1組で労役に駆り出された。<仕丁制度>(一人は労役従事者、他の一人は労役従事者の食事準備係。この制度は7世紀前半の舒明帝には出来あがっていたらしい。)労役期限は無く4,000人が宮殿造営、修理等の為、常時都に滞在していたと、考えられる。別に畿内諸国から強制的に労役させる「雇役」制度があった。又全国から宮造営の為、臨時労働者が集められたと思われる。大半が農民。(当時の人口は500万、労働者は万に近かったと思われる。)労役舎は長屋で集団生活をしたが、生活費は出身地の「里」の負担であった。→「木簡」発見、大極殿北の運河跡からは病死の人骨が確認された。
 柿本人麻呂「香久山の屍を見て悲しぴて作る歌」〜万葉集〜
 ◎「草枕 旅の宿りに 誰が夫か 国忘れたる 家待たまくに」
用材・・・(1)木材(桧)――朝堂院一帯だけで2,130本。宮を囲む塀では長さ7m以上、直径40〜5Ocmの柱1,200本、門を含めると1,500本以上必要。柱だけで数万本使われ、その多くは近江田上山(滋賀)から切り出したと思われる。(万葉集に藤原京の役民の作る歌「〜淡海の国の衣手の田上山の真木さく桧の嬬手を〜八十氏河に〜浮かべ流せれ〜泉の河に〜筏に作りのぽすらむ〜」が残っている。)木材は瀬田・宇治・木津の各川の水運で泉大津(現京都府木津町)ヘ、ここから陸運で奈良山丘陵を超え、佐保川・初瀬川・寺川・米川の水運で運ばれた。距離約100km。
(2)礎石、・・・・2、000個以上。
(3)瓦――少なく見積もって200万枚(1枚10kg)。製造工場は大和の他に河内・近江・淡路島・讃岐等にあり藤原京まで運ばれた。サイズを統一し、極めて系統的な製造をしている。
5、平城京遷都
 当時藤原京の拡張工事がまだ継続中だったにもかかわらず早急に遷都が決まった原因は不明。
文武朝末期の全国的な飢餓・疫病を払う為、或いは地方への交通の不便が主因等の説がある。持統・文武・元明3代16年間の短い官都だった。この遷都の立役者が藤原不比等であることは間違い無い。
6、余談
 昭和初期の調査で当時の塵の堆積の中からラクダの臼歯が1個発見されている。大陸からの渡来動物たることは勿論であるがこのことは藤原京時代の生活に大陸の様相の強いことを象徴している。



戻る