久米寺の多宝塔 寺伝では古代氏族久米部の氏族の氏寺として建立後、来目(くめ)皇子(聖徳太子の弟)が伽藍を完成させてと言う。朱塗りの多宝塔(国・重文)は仁和寺(京都)から移築したもので禅宗の影響を見る。 久米仙人伝説、吉野の高僧久米仙人が飛行術を習得中、吉野川で若い娘に目が眩み墜落、その後この寺を建立、居住し、都造営の際材木を空に飛ばして運び、天皇から表彰されたとか・・。 |
橿原神宮と畝傍山 BC660年即位の初代神武天皇及び五十鈴媛命を祭る。 明治23年(1890)年に神武帝皇居(橿原宮)跡というこの地に京都御所賢所を移築して本殿とした(国・重文)。 本殿は奥にあるため見えない。神域50万u。昭和13年の発掘では縄文・弥生遺跡を発見。 |
本薬師寺跡 (特別史跡) 現在の薬師寺が天武帝9(680)年創建された時はここにあった。 皇后(後の持統帝)の病気平癒の為、天武帝が発願、文武帝2(698)年に完成。 然し平城遷都と共に養老2(718)年現在の西ノ京に移った。 金堂跡は医王院になっている。金堂礎石・東西の塔跡が残る。 |
朱雀大路跡 藤原京の中心を南北に貫いた大路跡。芝を敷いた遺跡とバラスの側溝跡を復元。 北側別所池畔に司馬遼太郎揮毫の歌碑有り。「藤原の古りにし里の秋萩は咲きて散りにき春待ちかねて」(作者不詳) |
天岩戸神社 天香久山南麓に在る。神殿は無く、竹林の奥に拝殿。天照大神が隠れたと言う天岩戸をご神体にするが、拝殿裏の玉垣に囲まれた大岩がそれ?? 直径1.5mほどの丸い石が二段重ね、手前に長さ2m、幅1m程の角張った石が2個の経4個の自然石が組み合わさっている。原始信仰の岩座(いわくら)説が強い。 |
国常立神社(くにとこたちじんじゃ) 天香久山頂上に在り、高天原で最初に生まれた神で、国土形成の神、国常立神を祭る。今は水の神=竜王神として信仰が厚い。末社として東山麓にいざなぎ神社(地元では「上の御前」)といざなみ神社(同じく「下の御前」)がある。 |
藤原京跡 持統帝の「春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天香久山」はここで詠まれたが、道を挟んだ醍醐池畔に歌碑がある。 「大宮土壇」と呼ばれるこんもりとした森が大極殿跡。 |
天香久山(152m) 藤原宮跡より眺める天香久山。 天香久山とは「天降(あも)りつく山」の意。高天原から降ってきた山。この山は青香具山とも言われ緑濃い山で白妙の衣干す山として有名。麓には水の神が祭られ禊の山と信じられていた。 |
耳成山(140m) 朱雀大路跡から真直ぐに北に見える耳成山。耳成山は青菅山と言われ緑の菅(=古代の水の禊の用具)の山で禊の山と信じられていた。 |
大和三山 畝傍山・耳成山は阿蘇火山系二上山の連続。香久山は多武峰山塊の麓の侵食残丘。 天の香久山は神話では天照大神を天岩戸に祭る時天の真榊(神の宿る印になった榊)を取ったり、鉄を取って鏡を作ったりした山である。神武帝もこの山の赤埴(赤土)で祭器を作り神を祭ったことになっている。 結局三山は共に雨乞いの水の禊に関係がある。畝傍山だけが山頂が二つに分かれ、かつ、水をたたえていて女の象徴の山と思われていたらしい。 |
◎畝傍山は(199m)「「木の美豆山(このみずやま)」即ち緑濃い水の禊の神の山で、保登(ほど)の山とも「瑞山」とも言う。 藤原宮跡より眺める畝傍山。 |