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植山古墳現地説明会

「日本書紀に記された竹田皇子と母・推古天皇(554−628)の
 合葬墓である可能性が強まった」と発表


  8/27(日)、推古帝、母子の墓と推量されると、大きく報道された植山古墳の現地説明会に出掛けた。
 10時ごろに、説明会場の畝傍東小学校に着いた時にはもう既に大勢の考古ファンで埋まり、2回目の説明が始められていた。体育館で待つこと10分、3回目の説明を炎天下の運動場で15分ほど受け、10分ほど歩いて現地を見学してきました。
 新聞やTVの報道で、おおよその事は把握していましたが、1,300年前の遺跡を目の当たりにして、その規模の大きさと阿蘇から運ばれたという家方石棺などに感激しました。
 日本の古代史を解く「カギ」が増え、また一つ解き明かされようとしている。「日本書紀」「古事記」が裏づけされる大発見に心躍る一日でした。


現地説明会会場MAPと写真

奈良県橿原市五条野町字植山
現地説明資料 2000.8.27.

 1 はじめに
1991(平成3)年12月26日、現在の慣例では決して目にすることが出来ないはずである「二つの家形石棺が直交して置かれている。」横穴式石室の内部写真数十枚がテレピで放映されました。それは奈良盆地の南端に所在する、全長約310mの規模を有す奈良県下最大の前方後円墳である史跡「丸山古墳」の後円部に築かれている長大な横穴式石室が開口した時に撮影された石室の内部写真でした。丸山古墳の後円部の一部は、現在宮内庁が「畝傍陵墓参考地」として管理しており、一般にはその内部への立ち入りは堅く禁じられています。しかし、同庁によってこの開口した所の閉塞作業を行う際に石室内・外の測量調査が実施されその詳細が公表されました。
 このことは、それまで明治時代以前の「史料」を頼りに論じられてきた丸山古墳の様相が、より具体的な資料をもとに研究できるようになったと言えます。
 今回調査しました橿原市五条野町字植山に所在する植山古墳は、甘樫丘から西へ広がる丘陵の南西端に位置します。そして、一筋の谷を挟んだ西約450mには丸山古墳があります。
 今回は、計画された土地区画整理事業地内に植山古墳が含まれていたことから、古墳の具体的な実態を解明するための発掘調査を本年5月より進めており、ここに主な調査成果を紹介します。
植山古墳概略図
 2 墳丘
南東-北西方向の丘陵の南斜面を「L」字形にカットした後、平坦部に全て盛土(互層積み)によって築かれた、長辺・東西長約40m(墳丘裾での計測。なお、東・西壕を含めると約55m)、短辺・南北長約27m(残存部分での計測)、墳丘高約3〜6mを測り、墳丘軸がほば正方位を向く長方形墳です。東・西・北には上幅約10m、底幅約1.6〜3mの壕を巡らしています。また、北と西の壕底には結晶片岩(吉野川流域)と花崗岩(飛鳥川上流域)で施された排水機能を持つ幅約1m、厚さ約0.6m以上の石敷きがあります。
 3 主体部
墳丘の南面に開口する2基の横穴式石室(東石室・西石室)が並んで設けられています。
 ● 東石室
 ほぼ南に開口する両袖式で、石室の主軸(長軸)線は墳丘の南北軸に平行しています。石室の石材は植山古墳の南西に位置する貝吹山周辺の花崗岩を使用しています。石室の規模は、全長約13m、玄室長約6.5m、玄室幅約3〜3.2m、玄室残存高約3.lm、羨道長約6.5m、羨道幅約1.9m、羨道残存高約2.2mを測ります。石棺の周りと羨道中央部には、結晶片岩と花崗岩を用いた排水溝が施されています。玄室には、熊本県宇土半島で産出する阿蘇溶結凝灰岩(所謂、阿蘇ピンク石)で造られた刳り抜き式の家形石棺(身・蓋)が完存していました。棺蓋には各側面2個、各小ロ1個の含計6個の縄掛け突起が削り出されています。
  石棺法量:蓋 全長約2.52m、幅(南小口約1.58m、北小口約1,53m)、高さ約0.62m
         身 全長約2.43m、幅(南小口約1.50m、北小口約1.40m)、高さ約1.10m
 ● 西石室
 南南東に開口する両柚式で、石室の主軸線は墳丘南北軸に対して西へ約16度偏っています。石室の石材は飛鳥川上流域(細川谷周辺)の花崗岩を使用しています。石室の規模は、全長約13m、玄室長約5.2m、玄室幅約2.5〜2.6m、玄室高約4.5m、羨道長約7.8m、羨道輻約2〜2.3m、羨羨道残存高約2mを測ります。玄室・羨道床には結晶片岩が敷かれていたようであり、羨道中央部に結晶片岩と花崗岩を用いた排水溝が施されています。また、玄門床面には、兵庫県揖保川流域で産出する凝灰岩(所謂、竜山石)で造られた玄室と羨道を間仕切る施設の下部である、全長約2.5m・幅約1.3mの小判形をした閾石(しきみいし)が置かれています。閾石の中央部の左右には幅約20cm、深さ約6cm、長さ約90cm(玄室に向かって左)と約60cm(玄室に向かって右)の壁石をはめ込む溝があります。
また、中央やや左には片扉の軸を受ける直径約21cm、深さ約5cmの軸受け穴が彫込まれています。残念ながら石棺は残っていませんでしたが玄室内より阿蘇溶結凝灰岩の破片が数点出土していることから、東石室と同じく阿蘇ピンク石の石棺が収められていたようです。
 3.まとめ
 植山古墳の年代は出土遣物や石室形態から、東石室が6世紀末頃、西石室が7世紀前半頃と考られます。しかし、現時点では、古墳築造当初から長方形墳であったか、あるいは西石室の築造に併せて墳丘が拡張されたものかは判明していません。
 植山吉墳は、長方形墳であるとともに1墳丘に2石室を有す「双室墳(そうしつふん)」・「双室墓(そうしつぼ)」と呼ばれる推古朝前後(6世紀末〜7世紀前半)に限られて造られた類例の少ない特異な古墳と言えます。
 石室規模も奈良県下の横穴式石室においては上位にランク付けられる大きさであり、特に東石室は奈良県広陵町にあります牧野古墳(ばくやこふん)の玄室との類似が指摘されます。そして、阿蘇ピンク石で造られた石棺が運ぱれていることや西石室の玄門閉塞に扉が採用されていること。これら植山古墳の各部を構成する要素や規模から、この古墳の被葬者は当時(飛烏時代)の日本で一、二の権力を有していた人物と想定してよいでしょう。
 また、今回の調査によって日本の古代史を解明する多くの「カギ」が、被葬者に欽明天皇(堅塩姫合葬(きたしひめがっそう)や宣化天皇あるいは蘇我稲目(そがのいねめ)などを候補とする丸山古墳と植山古墳が位置するこの地域に内包していることが明らかになったと言えるでしょう。


植山古墳発掘等の奈良のほっと情報
(奈良新聞掲載)!!その1〜4

詳しくは次へどうぞ


1400年前の技術健在
石敷きを施した植山古墳の濠
(橿原市五条野町)
濠が大雨を完全に排水
2000.9.11〜12の集中豪雨


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