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       発掘等の奈良のほっと情報(奈良新聞掲載)!!植山古墳その1
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☆★植山古墳 巨大な家形石棺を安置した東石室
            http://www.nara-shimbun.com/flash/p_hn4141.html

♪橿原市五条野町の「植山古墳」が、6世紀末−7世紀前半に築造された2つの
 大型横穴式石室が並ぶ巨大な「双室墳(そうしつふん)」であることが分かった。
 また、西側の石室には、扉の軸受けに使われた小判形の「しきみ石」が完全な
 形で残っていた。扉構造のある横穴式石室が確認されたのは初めて。調査した
 市教委は17日、「双室墳」が推古朝に特有の形態であること、石室の構造や築
 造時期などから、「日本書紀に記された竹田皇子と母・推古天皇(554−628)の
 合葬墓である可能性が強まった」と発表した。

♪墳丘の大きさは東西40メートル、南北27メートル。丘陵の南斜面を削って築か
 れており、入り口を南に向けた横穴式石室が東西に並んでいた。南側を除いて
 コの字形に濠(ほり)が巡る。
♪東側の石室は全長約13メートル、玄室幅3−3.2メートル。上半分の石は失われ
 ていたが、県内の横穴式石室の中では大型で、熊本県(阿蘇)の溶結凝灰岩で
 造ったくり抜き式の家形石棺1基が納められていた。同じ材質の石棺として時期
 的に最も新しい。
♪西側の石室はひと回り小さく、全長13メートル、玄室幅2.5−2.6メートル。4段に
 積まれた奥壁の高さは約4.5メートルある。玄室の入り口に小判形の「しきみ石」
 (長さ2.5メートル、幅1.3メートル)が置かれていた。
♪「しきみ石」は兵庫県の竜山石を加工したもので、軸受け穴の直径は21センチ。
 両側に幅20センチ、深さ6センチの溝があり、板石をはめ込んで中央を片開きの
 扉にしたらしい。横穴式石室は石を積み上げて閉じるのが一般的で、扉構造が
 確認されたのは初めて。
♪玄室の床では東側の石室と同じ溶結凝灰岩の破片が見つかり、扉とみられる
 竜山石の破片も散らばっていたことから、石棺を運び出す際に扉や板石を破壊
 したと推定されている。
♪石室の築造時期について市教委は、東側が6世紀末ごろ、西側は7世紀前半と
 している。
♪日本書紀や古事記によると、推古天皇は628年に病没し、竹田皇子の陵(大野
 の岡)に葬られた。竹田皇子の没年は6世紀末ごろである可能性が強い。
 その後、科長(しなが=現在の河内地域)に改葬された。大阪府太子町には
 推古陵とされる山田高塚古墳がある。
♪調査を担当した市教委の浜口和弘技師は「竹田皇子と推古天皇を特定できる
 資料はないが、石室の時期差など、状況から考えると2人を被葬者として検討
 してもよいと思う」と話している。

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       発掘等の奈良のほっと情報(奈良新聞掲載)!!植山古墳その2
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☆★植山古墳 記紀裏付け 巨大古墳
            http://www.nara-shimbun.com/flash/p_hn4142.html

♪2つの横穴式石室が確認された橿原市五条野町の植山古墳。これまで日本書紀
 や古事記の記述でしか知ることのできなかった改葬前の推古陵とする見方が強
 まっている。巨大な石室は推古天皇の意志と権力を背景に築かれたのか。西側
 の石室にはなぜ扉が付けられたのか。研究者の熱い視線が注がれている。

【被葬者】
  推古天皇が即位したのは592年。日本書紀によると、在位36年目(628年)の
 春に病没し、「竹田皇子の陵(みささぎ)」に葬られた。「私のために陵を造って
 はならない。竹田皇子の陵に葬ればよい」と言い残したという。
  竹田皇子は物部氏の討伐に参加した587年を最後に文献から姿を消し、研
 究者の間では、6世紀末に死亡したとする見方が定着している。
  2つの石室の築造時期は、これにぴったり当てはまる。堀田啓一・高野山大
 教授(考古学)は「天皇陵クラスでなければこんな立派な施設は造らない。一
 帯が『大野の岡』に含まれるとすれば、改葬前の推古陵である可能性が強くな
 る」と指摘する。
  古事記の記録する推古陵は「大野の岡」にあり、後に「科長(しなが)の大陵」
 に改葬したことが記されている。
  和田萃・京都教育大教授(日本古代史)は「『大野の岡』は豊浦寺の南に広
 がる丘陵地帯とみてよく、今回の調査地はその西端に含まれる。推古陵の可
 能性はある」とみる。
  ただ、推定される竹田皇子の没年から推古天皇が死んだ628年まで約40年
 あり、「この時期差を石室の形式などで説明できなければ、敏達や欽明の皇子
 を葬った可能性も出てくる」と慎重だ。

【石室構造】
  推古天皇を葬った可能性が指摘されている西石室では、玄室の入り口に
 重厚な扉構造が確認された。巨大な横穴式石室は7世紀に入ると少しずつ
 姿を消し、加工した石材を使った小規模な石室に移行する。
  河上邦彦・県立橿原考古学研究所調査研究部長は「大きさや構造から西
 側の玄室は6世紀末までに築かれたとしか考えられない」と指摘。一方で、
 羨(せん)道と玄室の幅に大きな差がなく、7世紀代の要素も合わせ持っている
 ことから「6世紀末に2つの石室が造られ、時期を置いて扉を設置、羨道もつ
 け直したのでは」と推測する。
  それによると、推古天皇が竹田皇子の死亡時に「同じ陵に」と言い残し、
 絶大な権力を背景に2つの石室を造営。天皇墓としては石室が小さいことも
 あり、後に扉をつけるなどして改造したというストーリーが出来上がる。
  扉については「6世紀末になると、よみの国という意識から、地下宮殿的な
 感覚に変わってくる」と考える。古い記録などから、明日香村の天武・持統合葬
 陵にも金銅製の扉があったと推定されている。
  一方、白石太一郎・国立歴史民俗博物館副館長(考古学)は、西石室の築
 造時期について「7世紀の第一4半期よりは新しくならない」とみており、「蘇我
 系皇族の墓」とする。
  推古陵の可能性については▽7世紀初頭に自分の墓(寿陵)を造っていた
 ▽竹田皇子が早い時期に死亡した−という2つの仮定が成立すれば、否定で
 きないという。

【石棺】
  東石室の家形石棺には、九州の溶結凝灰岩が用いられていた。縄掛け突起の
 形などから市教委は「見瀬丸山古墳の前棺と後棺の間の形式」とみている。丸山
 古墳が欽明陵とすれば、推古天皇の父と母が葬られており、関連性が出てくる。
  ただ、見瀬丸山古墳の石棺は兵庫県の竜山石。掘田教授は「被葬者の身分に
 よって石材が使い分けられていたのでは」と指摘する。
  網干善教・関西大名誉教授も「大和における石棺形式の編年にとって非常に
 重要な資料。年代も推定できるのでは」と大きく評価している。

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       発掘等の奈良のほっと情報(奈良新聞掲載)!!植山古墳その3
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☆★植山古墳 史跡指定に高まる保存の声
          http://www.nara-shimbun.com/flash/p_hn4143.html

♪植山古墳の発掘は土地区画整理事業に伴う事前調査で、墳丘の北側半分が
 削られ、道路や農地になる予定だった。しかし、改葬前の推古陵とする見方が
 強まる中で、市教委は墳丘全体と北側の丘陵を保存する方向で動き始めた。
 文化庁も保存を強く要望。市は史跡指定を視野に協議を進めている。

♪区画整理の対象面積は15.4ヘクタール。約100人の権利者が市五条野土地区
 画整理組合(西川利一理事長)を組織、平成9年12月に仮換地が終わっている。
♪植山古墳は2つの石室を含めた約4000平方メートルを緑地や公園として残す
 計画だった。しかし、墳丘は北側の濠(ごう)の周辺から急角度で削られ、見瀬
 丸山古墳を眺める丘陵もなくなってしまう。
♪6世紀末ごろから築造される終末期古墳は、丘陵や尾根の斜面を削って築か
 れるのが特徴。墳丘の背後には、屏風(びょうぶ)のように丘陵がそびえる形と
 なっている。
♪文化庁記念物課は「背後の丘陵など、石室以外の要素も含めて古墳の一部。
 それを削れば古墳全体の価値が損なわれてしまう」と強調。和田萃・京都教育
 大教授も「墳丘だけ残っても意味がない。歴史的な背景が分からなくなってし
 まう」と指摘する。
♪市教委は今月、文化庁を訪れて史跡指定について協議、保存する範囲を改め
 て検討している。文化財課は「史跡指定を受けて古墳の活用を図っていきたい」
 としており、計画がまとまれば区画整理組合と交渉に入る。
 区画整理組合の西川理事長(75)は「保存も考えねばならないが、組合として区
 画整理を中心に考えており、1日も早く完成させたい」と話している。

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       発掘等の奈良のほっと情報(奈良新聞掲載)!!植山古墳その4
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☆★植山古墳の双室墳 推古天皇埋葬で増築か
                   http://www.nara-shimbun.com/flash/p_hn4146.html

♪飛鳥時代の女帝・推古天皇と竹田皇子を合葬した可能性が強まった橿原市
 五条野町の植山古墳で、濠(ほり)の底に敷かれた石敷きが、墳丘の中央付
 近を境にして大きさに違いのあることが、18日までに市教委の調査で分かった。
 同古墳には時期差のある2つの横穴式石室が設けられており、墳丘を増築
 した可能性も指摘されている。

♪濠は墳丘の南側を除いてコの字型に巡っており、幅約10メートル。北側と西側
 の濠の底に石敷き(幅約1メートル、厚さ約60センチ)が施されていた。吉野川
 流域で採れる結晶片岩と飛鳥川の花崗岩が混じっていて、排水機能があった
 とみられている。
♪墳丘は東西方向の長方形で、石敷きに使用された石は東側が長さ25センチ
 程度と小さく、西側に行くにつれて40センチほどの石が使われるようになる。
 石材の構成も西側は大ぶりな花崗岩が多い。
 板状の結晶片岩は石室内の排水溝にも使われており、これほど大量に用いた
 古墳は珍しいという。
♪2つの横穴式石室には6世紀末(東石室)と7世紀前半(西石室)という時期差
 があり、竹田皇子と推古天皇を葬った可能性が強い。日本書紀は、推古天皇
 (554−628)が自らの遺言によって息子である竹田皇子の墓に合葬されたこと
 を伝えている。
♪現場を視察した堀田啓一・高野山大教授(考古学)は「石敷きには明らかに大
 きさの違いがあり、推古天皇を葬る時に墳丘を増築した可能性もあるのでは」
 と話している。

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