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南山城古代遺跡を訪ねる

平井神社・・・神速須佐之雄命(かむはやすさのおのみこと)・八十猛命(やそたけるのみこと)・奇稲田比命(くしなだひめのみこと)を祭るが、ご神体は薬師如来像l体と仏像2体である。本殿(重文)は一間社流造で正保2(1645)年の建立。正面柱に桃山時代の彫刻。江戸時代建立の明神鳥居は京都府指定文化財。

久津川車塚古墳・・・国史跡。宇治丘陵に点在する「久津川古墳群」の一つ。JR奈良線で分断されている。
 南山城地方最大の前方後円墳。5世紀前半〜中頃の築造。全長272m、墳丘長180m。
 二重の周濠を巡らせ墳丘は3段。明治27年国鉄奈良線工事の際、堅穴式石室から日本最大級の龍山石製長持型石棺(長さ2.4m、幅1.1m)を発掘。他、鏡7面、鉄剣、玉を発見。「日本書紀」に出て来る栗隈(くりくま)氏(県主)一族の墓と推測される。

久世神社・・・旧久世村の産土神。江戸時代、華霊(かりょう)神社と呼ばれたが明治初期、久世神社となる。目本武尊を祭神とする。
 本殿(重文)は室町末期の建造で一間社流造、桧皮葺。
 正面格子戸の上に笹竜胆の透し彫りがある。本殿後から14基の古墳が発見されている。又、この神社の境内で久世廃寺が見つかっている。西に金堂、東に塔、中央北に講堂、南正面に門がある法起寺式伽藍を持つ寺で出土の飛鳥時代の瓦から久世郡最古の寺院と考えられる。

 「鷺坂」
 神社東側の緩やかな坂が万棄集に歌われた「鷺坂」と伝えられ、柿本人麻呂も“山背の久世の鷺坂神代より春は萌りつつ秋は散りけむ“とその美しさを詠んでいる。

 

正道官衙遺跡(しょうどうかんがいせき)
 国史跡。8世紀奈良時代の久世郡郡衙跡。東西360m、南北200m。昭和40〜48年にかけ5回の発掘で西側に飛鳥時代の掘立柱建物群、東側に正道廃寺の存在を確認。

南門…築地塀がある庁屋への正門
 中心的建物の「庁屋」、校倉造倉庫、門が出土、硯も出ておりこの辺が奈良時代の久世郡の中心地であったと推定される。
 現在は遺跡公園になっている。
 湧出宮(わきでのみや)・・・
 正式には「和技坐天乃夫岐売(
わきにいますあまのふきめ)神社」と言う。天平神護2(766)年、三重県の五十鈴川の船ケ原から天乃夫岐売神を勧請し、「日本書紀」より地名をとったのが始まりとされる神社。
 記紀によると山背地方の豪族、武埴安彦(
たけはにやすひこ)(孝元天皇の皇子)が崇神天皇10年に、妻の吾田媛(あたひめ)と共に大和朝廷に対し挙兵したが、媛は吉備津彦軍に敗北。武埴は大彦命と彦田葺(ひこたふく)(和珥氏(わにし)の祖先)と戦い山代川(現在の木津川)で敗れ斬殺された。
 その時、首が湧出宮へ飛び、胴体が祝園(ほうその)神社へ飛んだと言われる。
その霊を慰める祭り
居篭り(いごもり)祭り」(2月15日〜17日)が伝わる。(祝園神社でも行われ、共に京都府指定無形民族文化財となっている。)

椿井(つばい)大塚山古墳・・・
 国史跡。3世紀後半築造のこの時代の吉墳としては全国屈指の巨大な撥型前方後円墳。全長180m、後円部の直径80m、前方部の先端の幅60m。

 卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡が32面出土、「邪馬台国畿内説」の根拠の一つとされた。
 昭和28年3月20日、国鉄奈良線工事中に鏡を納めた竪穴式石室(全長6.8m、幅1.2m、高さ2.7m)から前記鏡が偶然発見された他、武器・武具・農耕具等あらゆる鉄製品を出土、被葬者は在地豪族と言うより畿内政権の中枢にいた人物ではないかと考えられる。

椿井(つばい)大塚山古墳
 
然し近年復元された「花弁形装飾付鉄製品」が三角縁神獣鏡の神像の冠と似ていることから被葬者が武人より宗教的司祭者ではないかと言い出された。  
 第1級の遺跡ながら前方部は田畑の造成で削られ、残っているのは後円部のみ。
 それも明治27年に国鉄の線路敷設の為、東西に分断されて、形状が崩れてしまった。

 
石室の天井板は山城中学校の校庭に運ばれ保存されている。

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