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山背(やましろ)古道を歩く
南山城古代遺跡を訪ねる
京都府・城陽市・山城町

歴史と自然に親しみながら散策を楽しみ、心身をリフレッシュさせるには、
「山背古道(やましろ・こどう)」は最適なコースです。
 山背古道は城陽市から井手町、山城町を経て木津町へと続く、
南山城地方の古くからの道の一つ。
周辺には遺跡や文化財をはじめ、豊かな自然が広がり、
道をたどると悠久の時の流れを旅するような、そんな不思議な感じが…。
 
詳しくは
山背古道のHP
をご参照ください

城陽市公式HPをご参照ください

古墳時代の集落跡、奈良時代の役所跡など歴史を身近に感じるまち、
城陽市の都市像とは
   「緑と太陽、やすらぎのまち・城陽」
 青い空、輝く太陽、あふれる緑、澄みきった水、この恵まれた自然とすぐれた歴史遺産は市民共通の財産である。
 この自覚と豊かな環境のもとで、すべての市民が物心両面にゆとりと生きがいのある生活を生涯にわたって送ることができ、しかも、魅力ある都市機能の集積により人、物、情報が活発に交流する南山城地域の中核都市として広域的役割を果たし、誇りをもって住み続けたいと願う市民が育つ、やすらぎと活力に満ちた文化の香り高い個性豊かな住宅都市をめざす。 (城陽市ホームページより抜粋)

 2001.5.21(月)、山背古道(南山城の山際をうねるように続く古道)を歩いた。天候、曇りで蒸し暑い。
 午前9:30過ぎ、近鉄久津川駅で下車。駅の直ぐ西側に平井神社があり、静かな参道を進み拝礼。本殿は400年前の造りで、正面柱に桃山時代の彫刻が見える。
 近鉄の踏切を東へ渡り、大和街道を北へと数分歩くと、右手に久津川車塚古墳の案内板。南山城地方最大の前方後円墳で、二重の周濠を巡らせた立派な古墳である。明治27年に国鉄奈良線工事の時に日本最大級の長持型石棺が出土したそうだ。奈良線で古墳が分断されている。住宅街の一角に、丸塚古墳があった。
 再び、大和街道に戻り、南に行くと、右手に平川廃寺跡。奈良時代の大規模寺院の跡地。整地されてはいるが、今は草で茫々の状態。訪れる人も少ないのか。
 単線の奈良線を跨ぎ、久世神社の参道を進むと日本武尊を祭神とする立派な本殿に出る。この境内に飛鳥時代の久世廃寺があったようだが、残念ながら何の案内もされていない。
 境内東側の緩やかな坂道が万葉集に歌われている「鷺坂」という。柿本人麻呂が詠んだ歌の碑が建てられている。
 往時を偲びながら鷺坂を登り、住宅街を東に行くと、正道官衙遺跡公園に出る。広い公園内には奈良時代の役所跡の「庁屋」、「南門」、「倉庫」などが復元されている。広々とした公園では、小さいお子さん連れの若いお母さん達が楽しく語らっていた。昼食を公園内の東屋で取る。
  緑と太陽、やすらぎのまち・城陽を歩き、JR城陽駅で別れる。乗車時間約15分、JR棚倉駅で下車。無人駅である。Jスルーカードが使えない、不便である。
 駅前の涌出宮の真っ赤な鳥居が印象に残る。毎年2月15日から3日間にわたって行われる、「居篭り祭り」は国の重要無形文化財に指定されている。椿井大塚山古墳へ400mの案内板が悪戯で180度回転し、引き返したりして迷った
 JR奈良線をくぐり、奈良線沿いの山背古道を南に歩き、最初の信号のある交差点に建ててある、椿井大塚山古墳まで400mの案内板が180度回転していたのに騙され、引き返したりして随分迷った。誰かの悪戯にしては悪質である。 ⇒
※ 2002.10.22、訪れたときには、180度まわり、直されていた。簡単に回転できないようにお願いしたいものです。

 土地の人に聞いてやっと、椿井大塚山古墳に到着。古墳の頂上からは、木津川と山城の町並みが見下ろせる雄大な眺めに暫しくつろぐ。
 昭和28年、国鉄奈良線工事中に鏡を納めた竪穴式石室が発見された。卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡が出土して、「邪馬台国畿内説」と騒がれた。近くの民家に沢山の京大の先生方が泊まりこんで発掘をされたと、古墳へ登る山道を工事中のおじさんから聞いた。 直ぐ下を、奈良線の電車が行き過ぎて行く。
 帰りに、山城中学で石室の天井板を確認、ゆっくりと古道を歩き、JR上狛駅に着く。約20,000歩の歴史ウォークであった。
 今回、城陽市、山城町の一部の史跡・遺跡を巡り、南山城をおぼろげながらも少し理解できたことは大変嬉しく、地図を片手に親切に案内頂いた同行のI氏に感謝、感謝。
 また、もう一度山背古道を訪れたいものだ。 
 
南山城古代遺跡を訪ねる写真集

歴史ウォーキング行程
今回のコース
:<・・・徒歩  +++電車>

近鉄久津川駅0.1km‐1分)→平井神社…(0.4m‐6分)→芭蕉塚古墳…
0.8km‐12分)→
久津川車塚古墳…(0.5km‐5分)→丸塚古墳…(0.6km‐9分)→
平川廃寺跡…(0.8km‐12分)→久世神社・久世廃寺…(0.6km‐9分)
正道官衙遺跡・正道廃寺…(1.0km‐15分)→JR城陽十十十(11km‐15分)→
JR棚倉駅(0.1km‐2分)→湧出宮…(1.8km‐30分)→
椿井大塚山古墳…(2.2km‐35分)→山城中学…(0.8km-12分)→JR上狛駅

南山城の古代遺跡を訪ねるMAP

【史跡・遺跡ポイントの概略説明】

平井神社・・・
 神速須佐之雄命(
かむはやすさのおのみこと)・八十猛命(やそたけるのみこと)・奇稲田比命(くしなだひめのみこと)を祭るが、ご神体は薬師如来像l体と仏像2体である。本殿(重文)は一間社流造で正保2(1645)年の建立。正面柱に桃山時代の彫刻。江戸時代建立の明神鳥居は京都府指定文化財。元々、神社付属の蓮開寺(真言宗)と言う寺が享保18(1733)に存在しており牛頭天王社と呼ばれていた。

久津川車塚古墳・・・久津川車塚古墳の石棺出土状況
 国史跡。宇治丘陵に点在する「久津川古墳群」の一つ。

南山城地方最大の前方後円墳。5世紀前半〜中頃の築造。全長272m、墳丘長180m。
 二重の周濠を巡らせ墳丘は3段。明治27年国鉄奈良線工事の際、堅穴式石室から日本最大級の龍山石製長持型石棺(長さ2.4m、幅1.1m)を発掘。他、鏡7面、鉄剣、玉を発見。「日本書紀」に出て来る栗隈(くりくま)氏(県主)一族の墓と推測される。
 ◎同上周辺古墳群…芭蕉塚古墳(前方後円)(市史跡)・青塚古墳(方墳)等、埴輪、葺石、周濠を完備した典型的中期古墳が点在、久津川車塚古墳を盟主とする強固な政治勢力が存在した事を示している。

丸塚古墳・・・
 国史跡。車塚古墳の東100mに所在。帆立貝型前方後円墳。墳丘長104m。
高さ1mの大型家形埴輪、鏡、鎧、玉を発掘。築造期は車塚古墳と同期と見られる。

平川(ひらかわ)廃寺跡
 国史跡。奈良時代に建立。平安時代初期に焼失後再建されなかった。
西に七重塔、東に全堂の法隆寺式伽藍で、塔の一辺17.2mの瓦積基壇を持ち、国分寺に匹敵する大規模寺院だったが文献上その記載が無く「幻の寺」と言われる。
 寺域は東西172m、南北115m。寺の西側に5世紀後半築造の赤塚古墳(直径22.5mの円墳)があるが、この古墳を壊さないように平川寺の築地塀が造られていた。

芝ヶ原12号古墳・・・
 国史跡。芝ケ原古墳群13基中の1基。南北22m、東西18m、盛土の高さ4m。方形を持つ前方後円墳で方形部に南向きの突出部があるが、これは弥生時代→古墳時代への移行期を示し、目木最古の古墳の可能性がある。(3世紀中頃〜4世紀初期の築造)。

 昭和61年の発掘で墳丘中央部の南北4m、東西2m、深さ1mの納棺用穴より、長さ2.3m、幅0.7m、内部が朱塗りの木棺が発見された他、次の副葬品を発掘。
 *日本最初の出土の車輪石形銅製品(銅釧)2点(重文)。 *濃いブル−のガラス玉1300点。
 *碧玉製の管玉187点*翡翠製勾玉8点。 *鉄製工具(槍飽(やりがんな)・錐)。
 *庄内式度土器(櫛描文様)壷形3点。      同 高杯1点。    彷製四獣形青銅鏡。

正道官衙遺跡(しょうどうかんがいせき)・・・正道官衙遺跡復元図
 国史跡。8世紀奈良時代の久世郡郡衙跡。東西360m、南北200m。昭和40〜48年にかけ5回の発掘で西側に飛鳥時代の掘立柱建物群、東側に正道廃寺の存在を確認。中心的建物の「庁屋」、校倉造倉庫、門が出土、硯も出ておりこの辺が奈良時
代の久世郡の中心地であったと推定される。現在は遺跡公園になっている。




久世神社・・・
 旧久世村の産土神。江戸時代、華霊(かりょう)神社と呼ばれたが明治初期、久世神社となる。目本武尊を祭神とする。

 本殿(重文)は室町末期の建造で一間社流造、桧皮葺。
 正面格子戸の上に笹竜胆の透し彫りがある。本殿後から14基の古墳が発見されている。久世神社の本殿(重文)は室町末期の建造で、正面格子戸の上に笹竜胆の透かし彫り
 又、この神社の境内で久世廃寺が見つかっている。西に金堂、東に塔、中央北に講堂、南正面に門がある法起寺式伽藍を持つ寺で出土の飛鳥時代の瓦から久世郡最古の寺院と考えられる。金堂跡、塔跡土壇を残す。銅像誕生釈迦如来像を発掘しているが、寺の創建については詳しいことは分かっていない。
 神社東側の緩やかな坂が万棄集に歌われた「鷺坂」と伝えられ、柿本人麻呂も“山背の久世の鷺坂神代より春は萌りつつ秋は散りけむ“とその美しさを詠んでいる。 
 又「山背の久世の社の草な手折りそそが時と立ち栄ゆとも草な手折りそ」(万葉集・巻7)と詠んでおり、人麻呂が和銅3(710)年前後の没とされていることから、この神社の創建はそれ以前とみられる。

   湧出宮(わきでのみや)・・・
 正式には「和技坐天乃夫岐売(
わきにいますあまのふきめ)神社」と言う。天平神護2(766)年、三重県の五十鈴川の船ケ原から天乃夫岐売神を勧請し、「日本書紀」より地名をとったのが始まりとされる神社。
 夫伎は吹きの意で雨を降らせる神として崇められ、清和天皇、宇多天皇も使者を遣わしたと言われる。記紀によると山背地方の豪族、武埴安彦(たけはにやすひこ)(孝元天皇の皇子)が崇神天皇10年に、妻の吾田媛(あたひめ)と共に大和朝廷に対し挙兵したが、媛は吉備津彦軍に敗北。武埴は大彦命と彦田葺(ひこたふく)(和珥氏(わにし)の祖先)と戦い山代川(現在の木津川)で敗れ斬殺された。
 その時、首が湧出宮へ飛び、胴体が祝園(ほうその)神社へ飛んだと言われる。
その霊を慰める祭り
居篭り(いごもり)祭り」(2月15日〜17日)が伝わる。(祝園神社でも行われ、共に京都府指定無形民族文化財となっている。)
 尚、この宮の境内は湧出宮遺跡で縄文遺跡である。

椿井(つばい)大塚山古墳・・・
 国史跡。3世紀後半築造のこの時代の古墳としては全国屈指の巨大な撥型前方後円墳。全長180m、後円部の直径80m、前方部の先端の幅60m。
椿井大塚山古墳
 卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡が32面出土、「邪馬台国畿内説」の根拠の一つとされた。
 昭和28年3月20日、国鉄奈良線工事中に鏡を納めた竪穴式石室(全長6.8m、幅1.2m、高さ2.7m)から前記鏡が偶然発見された他、武器・武具・農耕具等あらゆる鉄製品を出土、被葬者は在地豪族と言うより畿内政権の中枢にいた人物ではないかと考えられる。
 然し近年復元された「花弁形装飾付鉄製品」が三角縁神獣鏡の神像の冠と似ていることから被葬者が武人より宗教的司祭者ではないかと言い出された。
 第1級の遺跡ながら前方部は田畑の造成で削られ、残っているのは後円部のみ。それも明治27年に国鉄の線路敷設の為、東西に分断されて、形状が崩れてしまった。
 尚、石室の天井板は山城中学校の校庭に運ばれ保存されている。

水度神社(水戸神社)・・・創祀は平安初期。貞観元(859)年清和天皇より従五位下を賜り「延喜式」の小社に列せられた。祭神は天照皇大神、高産霊神(たかみむすび)、豊玉姫命。現在地へは文永5(1268)年遷座して来た。旧寺田村の守り神で「山城国風土記」記載の古社。
 仁徳天皇時代、付近を度々洪水が襲い、これを鎮めんとして竜神を祭ったのが始めと言われる。本殿(重文)は文安5(1448)年建立。正面一間社流造、側面二間造、屋根正面に千鳥破風付きの珍しい造り、向背上部に笹竜胆を彫り込んだ蛙股がある意匠の凝った優美な建物である。桧皮葺。
 この神社の「おかげ踊り図絵馬」(京都府指定文化財)は文政13(1830)年に行われた「おかげ踊り」の様子を描いたもの。
 <絵馬には「大神宮寺田北東」と書かれた大きな幟、申央舞台に扇子を持つ5人の女、拍子木を叩く男、三味線を弾く女、その回りを囲むように109人の男女が“ええじゃないか”と歌いながら扇子を回しながら踊る風景が描かれている。江戸時代全国的に大流行した伊勢神宮の「おかげ参り」は近畿地方では“ええじゃないか”と歌いながら村のあちこちで踊った60年に一度の行事であった。>

松尾神社・・・天平時代に渡来人集落の上狛・椿井の鎮守社として建立された。

高麗(こま)寺跡・・・
 国史跡。京都府最古の寺院跡の一つ。渡来人の狛氏により飛鳥時代に建立
されたが平安時代には廃寺となった。飛鳥寺と同じ瓦が出土した。金堂跡・塔婆跡土段・塔心礎(舎利穴)を残す。
 この寺の北西500mに瓦専門窯と見られる高井手瓦窯跡遺跡があり、2基の窯跡から奈良後期〜平安初期の高麗寺修繕時の軒平瓦を発掘し「続日本記」記載の桓武天皇による高麗寺修理令を裏付けた遺跡でもある。
森山遺跡・・・国史跡。木津川を望む標高35〜40mの段丘上の南山城地方最古の集落遺跡。
 縄文後期〜古墳時代にかけての複合遺跡で東西125m、南北95mの後期縄文遺跡からはU宇形に並んだ6戸の竪穴式住居跡を発見、石器・石斧・石鏃を発掘。又、一辺45mの方形周溝遺構から1600年前の豪族のものと思われる住居跡を発見。
荒見神社・・・平安中期の「延喜式神名帳」記載の古社。祭神は天火明尊・天香吾山尊・天村雲尊・阿比良依姫尊・木花開耶姫尊。
 富野・長池集落の産土神で、大化3(647)長池山中の五社ケ谷に創建、室町時代に現地へ遷座した。江戸時代には天神社と呼ばれていた穀物の神である。南の鳥居の後ろに薬医門があり神仏習合の歴史を物語る。
 本殿(重文)は慶長9(1604)年再建の三間社流造。桧皮葺。桃山文化の影響が見られる。
神門・中門・透垣は市文化財。

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