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出雲の弥生文化の源流を訪ねる

  12月3日朝、8時にホテルを出発、8時30分巨大な注連縄が吊り下げられた出雲神社に参拝、厳粛な境内を歩き平安時代の巨大神殿の柱跡など見学、古代出雲大社模型展示館「雲太」で、復元模型などを見て古代から中世までの出雲の歴史ロマンに酔いしれました。
  弥生文化の源流   〜悠久の歴史と文化が息づく国〜
 島根県 は中国地方の北部に位置し、南は中国山地をはさんで広島県、岡山県に接しており、北は日本海を隔てて朝鮮半島や中国東北部、ロシア沿海州と向かい合っている。
 県土は東西に細長くその海岸線は総延長720kmにも及び、隠岐島も加えて、地理的にも気候的にも変化に富んだ美しい自然景観を見ることが出来る。
 神話の舞台となった出雲地方は出雲神社・鰐淵寺をはじめ数多くの古社寺があり、古くから伝統的な祭礼が営まれてきた。そんな中、1984(昭和59)年、荒神谷遺跡から銅剣358本が発見され、翌年銅矛16本、銅鐸6個が連接した丘陵斜面で発見された。それまで発見されている全国の銅剣の数が1ヶ所の遺跡から出土したことは、我国の青銅器文化の考え方を根底から覆す画期的な出来事でした。
 さらに、1996(平成8)年、1ヶ所では我国最多となる39個の銅鐸が加茂岩倉遺跡で発見され、「古代出雲」の存在を再び強烈にアピールすることになった。出雲の地は青銅器文化の一大中心地として、我国の古代文化を研究するうえで大きな鍵を握る地域と言える。さらに、出雲とその周辺には、「四隅突出型墳丘墓」と呼ばれる、4本足のヒトデのような形をした墳墓が造られた。四隅突出型墳丘墓は山陰から北陸地方にまで分布が広がっており、この時期に日本海を通じた独自の文化圏が形成されていたことを示している。
 大社町の出雲大社境内では、これまで縄文時代晩期・弥生時代・古墳時代を経て、古代・中世と各時代にわたる遺物が出土しており、出雲大社境内遺跡(いずもおおやしろけいだいいせき)」としてしられている。
そして、平成の世を迎え平成11年9月、地下祭礼準備室の建設計画により、その予定地の発掘調査が開始されました。その結果、出雲大社の長い信仰の歴史を物語る様々な遺構・遺物が検出され、出雲大社のご理解により工事は中止、現状保存で後世に伝えることになった。
 なかでも、平成12年4月に境内の中央部から出土した、平安時代の巨大柱の出土があげられる
かって「天下無双の大廈(たいか)」と称された日本一の高層神殿、出雲大社本殿ですが、実際に直径1.3mにもおよぶ杉材3本を一つに束ねた巨大柱の発見はこれを実証することとなった。

 このように、大量に埋納された青銅器群や出雲を中心とした文化圏の存在などから、壮大な出雲神話の源流を垣間見ることが出来るかもしれません。


       
                 出雲大社古代御本殿想像図

出雲の地形と神話
出雲国土創生=国引き神話(出雲風土記)

 出雲の土地はその昔”狭布の稚国(きぬのわかくに)”と言って、細長く未完成の国でした。ここで国引きの主人公である「八束水臣津野命(やつかみずおみつねのみこと)」がこの国を眺めて、「この国は小さすぎる、わしが造り直して縫い合わせてやろう」と言われました。

 命はまず新羅(しらぎ)の国の余りを切り取ると、「国来い、国来い」と言いながら太い綱でこれを引き寄せ、出雲の国土に縫い付けてしまいました。こうして、まず今の出雲大社の後ろあたりの土地が出雲に加わりました。

 命は同じようにあちこちから土地を切り取っては引き寄せ、平田の北から佐陀川にかけてや、松江市に北のあたり、そして最後に美保関あたりを継ぎ足して、出雲に加えました。この大仕事を終えた命が、持っていた杖を杜(もり)に突き立て、「おえ」と一言発した事から、この地方が「意宇」の地名で呼ばれる事になったと言われます。

 西の園の長浜(稲佐の浜)、東の夜見島(弓ヶ浜)が命がこの仕事に使った綱であり、西の佐比売山(三瓶山)と東の火神岳(ひのかみだけ)(大山)がこの綱をつなぎとめた杭であったと言われます。

出雲大社境内遺跡
(いずもおおやしろけいだいいせき)
出雲大社境内遺跡 大社町
平安時代の高層神殿を支えた巨大柱が出土
この国土を天孫に譲られた大国主神(おおくにぬしのみこと)の神殿は、高天原の神の宮殿と同じように「太い柱と厚い板を使って建てられた」と書かれている。出雲大社の神殿はその創建時から巨大な建物だったことがうかがえる。


具体的な高さを知る手掛かりは、平安時代中期(670年)に著された「口遊(くちずさみ)」に残されています。
そこには当時の大きな建物ベスト3として、「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」の一文があります。←口遊
 
「口遊」の書かれた頃の東大寺大仏殿の高さは15丈(45m)であったことがわかっており、「雲太」つまり出雲神社本殿はそれ以上の高さであったことが読み取れます。
 一方、室町時代ごろの言い伝えでは昔の出雲神社本殿の高さは16丈(48m)とも、さらに32丈(96m)とも言われてきました。

【国譲り神話】
 大国主命(おおくにぬしのみこと)が、治めてきた葦原中国を高天神の神々に譲るという話。 高天原の天照大神の三人目の使者として派遣された武甕槌神は、出雲の稲佐の浜に降り、長い剣を逆さに立て、その上にあぐらをかいて大国主命と国譲りについて交渉した。大国主命は、自分の一存では返事ができないと言って、美保埼で漁をしている我が子の事代主命(恵比寿さん)に判断をまかせた。事代主命は大国主命に国の譲渡を勧めると、乗ってきた船を踏み傾け、呪いの手打ちをした。すると船はたちまち青い柴の垣根に変わり、事代主命はその中に隠れて再び姿を現さなかった。事代主命の弟建御方神は、国譲りに反対したが、武甕槌神との力競べに負け諏訪湖まで逃げて降伏してしまった。そのため武甕槌神は再び大国主命に国譲りについて問うと、大国主命は自分の住まいとして立派な神殿を建ててもらうことと引き換えに国譲りを承諾した。その神殿が出雲大社の始まりだともいわれる
 また、美保神社に伝わる諸手船神事や青紫垣神事は、この国譲り神話とかかわりがあるともいわれる。(『古事記』『日本書紀』)
 出雲大社境内では、これまで縄文時代晩期・弥生時代・古墳時代を経て、古代・中世と各時代にわたる遺物が出土しており、「出雲大社境内遺跡(いずもおおやしろけいだいいせき)」としてしられている。
 そして、平成の世を迎え平成11年9月、地下祭礼準備室の建設計画により、その予定地の発掘調査が開始されました。その結果、出雲大社の長い信仰の歴史を物語る様々な遺構・遺物が検出され、出雲大社のご理解により工事は中止、現状保存で後世に伝えることになった。
 なかでも、平成12年4月に境内の中央部から出土した、巨大柱の出土があげられる
かって「天下無双の大廈(たいか)」と称された日本一の高層神殿、出雲大社本殿ですが、実際に直径1.3mにもおよぶ杉材3本を一つに束ねた巨大柱の発見はこれを実証することとなった。
 また、古代の出雲大社の平面図とされる「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」と同様の構造をなしており、文献資料との一致も注目されている。
 この発見は、日本の建築史や宗教史解明の手掛かりとなるだけでなく、国家の成り立ちや変遷の中で出雲大社が果たした歴史的意義を検証する上でも極めて重要となる成果が期待されている。また、出雲大社に残されている豊富な文献資料と発掘調査で発見された境内遺構とを直接検討することが可能となりましたが、このように、長期間にわたる文献資料と考古資料が対比できる事例は極めて稀なものである。
 お祭りの起源が少なくとも4世紀頃まで遡ることを示す勾玉などの祭祀遺物の出土、近世初頭の本殿跡を検出するなど、出雲大社境内地での信仰の長さを考えさせられる遺構の検出、遺物の出土が相次いでおり、これからの調査研究に大きな期待が寄せられている。

巨大御柱の発見!
2000年4月に発見された柱は、3本を束ねて1本の柱としたもので、その直径は3mという巨大さ。平安時代終りごろ(11世紀ごろ)のものだ。ところが、これは「金輪御造営差図」と同じ構造。つまり、天高くそびえる神殿が夢物語ではなく、本当にあったことを証明するものなのだ。さらに、日本の建築史や宗教史などを解明するためにも、とても重要な大きな発見だ。

 出雲大社の境内は背後と東西を山々に囲まれており、その袋状の空間域では絶えることなくなく祭祀が営まれてきました。
 今回発見された柱は、現在の本殿と拝殿の前の八足門にかけての場所で、上記の写真のように発見された柱の場所を○にて表示されている。

発掘調査地図←出雲大社境内周辺
地形図と発掘場所
 

 出雲大社の境内は背後と東西を山々に囲まれており、その袋状の空間域では絶えることなく祭祀が営まれてきました。
 
 今回発見された柱は、現在の本殿と拝殿の前の八足門にかけての場所であり、宇豆柱(うづばしら)、心御柱(しんのみはしら)、側柱(がわばしら)が出土している

 出雲大社の境内は本殿の背後の北に八雲山、東に亀山、西に鶴山の三山の麓にあり、西は素鵞川(そががわ)、東は吉野川の二つの流れに区切られているため、地下水が豊富な地域となっており、今回の歴史的発見につながった

発掘された当時にも、巨木柱の根元には水たまりが出来ていたそうで、現在の地表面から1.5mほど下には、地下水が豊富に湧いているようである。


出雲大社古代御本殿復元模型古代出雲大社模型展示館「雲太」)
島根県立松江工業高等学校の生徒さんにより、平成11年11月に開催された
第9回全国産業教育フェア島根大会“さんフェア島根’99”」に出展する為に制作されたもの。
模型は、高さ48mあったという平安時代御本殿の10分の1の大きさに再現され
9本の掘立柱や長さ109mの階段など忠実に復元されている。

出 雲 大 社のアルバム
出雲大社本殿
現在の本殿は江戸時代の中期の
延享元年(1744)に建てられた
出雲大社拝殿
厳粛な気持で参拝
拝殿の裏に、発掘された柱を
復元模型で展示されている
発掘調査について詳しく説明をされる
大社町教育委員会の先生
出雲大社の大松が
植えられた長い参道
本殿と拝殿の間に発掘された
宇豆柱(うづばしら)の上で
説明を受ける

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