広島県と三次市の地勢など、北は中国山地が連なって脊梁山脈を形成しています。南は、瀬戸内海に面して所々で平野を作っています。また、東部は、芦田川が福山平野を形成し、西部は、太田川が広島湾に流入して広島平野を作っています。 県中央部には、中国地方最長の江の川が流れています。霧で有名な三次盆地も県中央部に位置します。これらの山地や河川の流域・盆地・台地・瀬戸内海は広島県の気候に大きく影響しています。 中国地方のほぼ中央部に位置し、広島県及び島根県にわたる交通の要衝となっている県北部の拠点都市である。市の面積251.55ku。人口約4万。県都広島市、福山市、尾道市へ約55q、大阪へ約300 qの距離にある。市域の地勢の大半は標高200m〜 500m の山地,丘陵で75%を占める。 市街地における盆地型の地形と中国地方一の江の川を含め、3つの河川が市街地の中央で合流していることから、三次市は「川」と「霧」の街と呼ばれている。交通網としては国道4路線が中心市街地周辺で合流、5本の主要地方道と一般県道13路線があり、鉄道はJRの3線が三次駅で合流している。 中国自動車道が市内を東西に貫通し、中心市街地南側に三次ICがあり、現在、施行命令が出されている山陽と山陰を結ぶ中国横断自動車道の開通に期待を寄せている。 |
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古墳が点在する野外ミュージアム | |||||
最初に訪れた広島県三次の県立みよし風土記の丘は、開設されてもう20年になるそうですが、広島県の古墳の1/3が集中しているところで、広大な丘(30ヘクタール)に170基ばかりの古墳が保存され、最近建て替えられた県立歴史民族資料館の立派な建物に圧倒され、県外との関連資料もあり充実した遺物・展示物にも驚きました。 |
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住所:広島県三次市小田幸町122 | |||||
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三次地方は、早くから文化が開けた地域で、貴重な文化財が数多く残っている。広島県内の古墳の3分の1が集中していることで知られる街。この古墳の里を代表する史跡浄楽寺・七ツ塚古墳群を中心に、約30ヘクタールの地域を保存しているのが、みよし風土記の丘だ。 広大な敷地内に復原古代住宅のほか、県内から出土した資料を展示した県立歴史民俗資料館も一般公開されている。 |
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広島県立歴史民俗資料館 展示遺物 | |||||
石器の数々 | 貝塚の展示 殆どが牡蠣類 | ||||
右、他には類の無い 口のついた壺 | 珍しい いななく馬 | ||||
家形埴輪 | 短甲 | ||||
前方後円墳が1基、、帆立貝形古墳が3基、円墳152基、方墳20基、合計176基が保存されており、4世紀から7世紀にかけて作られたものだそうだ。 広大な七ツ塚古墳群の説明を受けながら見学する。まるでゴルフ場のような広さで、周りの山々がずーっと遠くまで見渡せる素晴らしい景観である。周囲の山々の高さは、200m〜500mぐらいだそうで、見通しの良い地形だった。 |
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七ツ塚古墳群を見学 | 移築された重要文化財・旧真野住宅 | ||||
復元された古代住居 | 散策する見学者 | ||||
合わせて円墳が152基保存されている | 唯一の前方後円墳 | ||||
広島県矢谷(やだに)古墳(国史跡) 三次市の南側の標高230mの丘陵にあり、1977〜1978年度の三次工業団地造成事業に伴う発掘調査で発見された。形は、山陰地方に多い四隅突出型墳丘墓を二つ合体したような特異な物である。周囲に溝をめぐらせて際立たせたもので、全長18.5m、溝の部分まで含めると22.6mの規模を持ち、中国山地の弥生時代後期の墳丘墓としては最大規模を誇っている。 重要文化財 広島県矢谷古墳出土土器 特殊壺と特殊器台 特殊壺と特殊器台は、弥生時代後期(2〜3世紀)に吉備南部(現在の岡山県南部)で、集落の指導者の墓に供えるために特別に大きく作られた土器で、吉備南部で作られたものが、出雲や近畿など各地へ運ばれたことがわかっている。 特殊壺と特殊器台は、高さ99.5cm、口径47.5cmで、弥生土器としては大型の土器である。特殊器台には通常の弥生土器に無い文様として、謎めいた渦巻き文様や巴形や三角形の透かしが施されており、この器が特別な儀式の道具であったことを示している。 特殊壺は、特殊器台の上にのる高さ61.8cm、口径32.7cmの大きな壺で、儀式用の土器であるため、底部は最初から大きくくり抜かれている。弥生時代から古墳時代へと移り変わりを解明する重要な考古資料である。 |
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次にのたたら製鉄の展示館に行き、1200年前から野たたらの歴史があり、現在もたたら製鉄の技術を伝えようとたたらを復元記録されておりました。たたらの炉を造るのに4ヶ月を要し、3日3晩かけて砂鉄と炭で鉄を作る様子をビデオで見て感動しました。 島根県飯石郡吉田村
私たちの国では、「たたら製鉄」という日本独特の鉄づくりの技術が非常に古い時代から発達していました。鉄づくりの歴史や技術、そしてその鉄が果たした役割をわかりやすく展示されています。 |
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<たたら製鉄とその技法> それまで石や木の道具しか持たなかった人々が、鉄を生産し加工する技術を手に入れた意義は非常に大きなものでした。鉄の鍬(くわ)や鋤(すき)を使うことで、原野を開拓し、農地を確保し、稲作農業をおこしてゆきました。鉄は、人々にとって生活に役立つだけでなく、命を支える金属として、とても貴重な存在となったのです。 弥生時代の終わり頃になると、鉄を作る技術が伝えられ、各地で鉄作りが発達しました。特に、吉田村には良い砂鉄があり、木炭にする木もたくさんあったので、鉄作りに適した土地として盛んに鉄作りが行われた。砂鉄と木炭を使った独特の鉄作り・・この方法を「たたら製鉄」という。 室町時代までは、「野だたら」といって、山の中ほどで、風の良く吹く所など斜面に炉を築いて鉄を作っていました。 江戸時代になると、雨が降っても濡れないように高殿と言う建物を作り、その中で鉄を作るようになり、これを「永代たたら」という。吉田村の菅谷地区にある高殿は、その名残である。今から250年くらい前に造られたといわれている。 たたら製鉄は、まる一日かけて炉を作ることから始まり、炉を乾かしたあと、木炭を入れ、ふいごで風を送って火を起こし砂鉄を入れます。<砂鉄を入れる→木炭を入れる→砂鉄を入れる>これを3日から4日間繰り返し、最後に炉を壊して鉄・ヒ(けら)を取り出します。 たたら製鉄は「村下(むらげ)」とよばれる技師長の勘と経験が、できた鉄の品質を大きく左右しました。一回の操業は3日から4日間続き、不眠不休の大変な仕事だったのです。 |
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鉄の歴史村・吉田村を中心とした山陰地方の地図 菅谷たたら 何百年も鉄を沸かし続けた菅谷たたらは大正末期に静かな眠りにつきました。 しかし、1世紀前の時間が止まったままの菅谷たたらは当時の建物と一緒に目に見えない何かを伝え、鉄を沸かすことを止めた炉は、当時の空気を放ち続けています。
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