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私部城(きさべじょう)<交野城>
 平成30年10月1日付 交野市指定文化財に指定
 
2018.10.1  産経新聞
 新規指定文化財・私部城跡の概要説明資料(PDF)
 
平成27年10月 交野古文化同好会の勉強会

「発掘調査からみた私部城」
 平成26年3月20日(木) 交野市教育委員会主催
文化財バス見学会
〜私部城の歴史をたどる奈良の旅〜
平成26年2月11日(祝)  (於)星の里いわふね
 歴史シンポジウム 

「河内の堅城 私部城ー国史跡を目指してー」
「私部城跡の歴史と現状」 
(2012.10月、交野古文化同好会の勉強会) 

私部城跡の最近の調査報告について

私部城の見学会
第1回 午前10時30分  50人余の沢山の方が参加されました!
2013.1.6 「私部城の見学会」と「かたの城市」

昨年、発掘調査がされて弥生時代の竪穴住居跡が見つかった所です。

私部城跡のニ郭(字天守)では、かたの城市が開催されていた


三郭上には宅地造成が進み住宅が建てられている

私部城跡(本郭)の石仏


私部城 堀跡

私部城 見学会のレジメ


この小高い山は、交野に残る戦国時代の「土の城」のあとです。大阪の平地に残る城は珍しく、貴重なものです。
北河内の雄・安見氏の城であり、織田信長は河内平定への拠点とし、松永久秀に執拗に攻め狙われました。

1 私部城(交野城)の歴史

安見氏の居城・私部城
河内国守護をつとめた畠山氏の配下として、戦国時代に北河内を中心にして力を伸ばした一族です。特に守護代にとって代わって活躍した宗房が有名です。歴史上で城主として登場するのは安見右近と新七郎です。「私部城」は江戸時代以降に定着する呼び方で、戦国時代の資料には「交野城Jとして登場します。

信長の河内進出と安見右近
右近は畠山氏配下として北河内や大和で活動し、一時期は悪名高い松永久秀の配下ともなったようです。右近の居城として私部城のことが記されるのは、織田信長が河内へ進出した時のことです。京都に上洛した信長は、天下の中枢の摂津・河内・和泉に進み、三好三人衆などの勢力と争いました。この時の織田方の勢力の一つとして私部城と右近があらわれます。京都から現在の大阪へと進出した信長にとって、交野は河内の玄関であり、重要な拠点であったようです。

松永久秀による私部城攻め
奈良を拠点とした松永久秀は信長の河内進出当初は友好的な関係を築いていましたが、途中から敵対していきます。この時に私部城を手に入れようと攻め込んでいます。奈良からみると、交野は街道を通じて京都・河内へ抜けることのできる位置にあり、松永久秀にとっても重要でした。久秀は城主の右近を奈良に誘い出し、切腹に追いやりました。そして城主不在の私部城をすかさず攻めますが、城に残された人々はこの危機を持ちこたえています。さらに翌年久秀は城攻めを行っていますが、信長から送られた佐久間信盛や柴田勝家といった強力な援軍によって退散させられています。

取次者・安見新七郎と城のその後
新七郎は右近の死後に、城を守った人物です。織田信長による1581年の京都馬揃に関する記録から「取次者」だったことがわかっています。取次者とは、各地の領主層と信長の間を取りつなぐ重要な役割でした。また、信長が京都へ向かう際に立ち寄って休息をとっていることからも信頼を得ていたことがわかります。こうした中で、いつ私部城が廃城になったのかははっきりしていません。本能寺の変で信長が亡くなり、豊臣秀吉の時代になると、交野の安見氏は突然歴史から姿を消しています。その経緯は今も歴史の間の中に包まれています。




2.現在の私部城跡と発掘調査成果

上の図は城郭研究の第一人者である中井均先生が1981年に明らかにした私部城の形です。「郭Jという広い高台が少なくとも3つ東西に並びます。ここは戦いの陣地となる城の中心部分です。この郭のまわりに土塁や堀の跡がめぐらされている様子がわかります。現在は当時よりもさらに宅地化が進んでいますが、それでも城の姿を見て回ることのできる部分が残されています。大阪では近世の大坂城が有名ですが、こうした戦国期の平城跡が残されている例はきわめて貴重になっています。

本郭
大坂城のように高い石垣によって築かれる近世の城とは異なる、戦国期特有の土の平城の姿が良好に保たれています。このあたりには「城」という地名が残っています。@地点では、瓦や石造物が、多量の石とともに廃棄された穴が発見されています。こうした出土品は、私部城築城以前に私部で全盛期をほこっていた光通寺に関わるものである可能性が高いと考えられています。ただ、今後の調査の進展のなかで、この中に私部城時代のものが含まれていることがわかってくるかもしれません。なお、現在ここには本郭で耕作時に発見された石仏が大切にまつられています。

ニ郭
もっとも大きな郭です。道路で分断され宅地化されながらも大部分は残されています。発掘調査で南半分は自然地形を利用し、北半は大量の盛土でつくられたことがわかっています。「天守」という字名があることも面白いところです。大坂城のような天守ではないにしても、物見やぐらなどの高層建物があったことを語り継いでいるのかもしれません。

その他の郭
三郭は細長い郭で道路工事の時に発掘調査されました。この時にA地点付近の城の盛土から瓦や焼けた礎石片が発見されています。安見右近が破壊した光通寺に関わるものではないかといわれています。注意して歩くと、三郭の東や、二郭の西にも郭らしき高台の跡があることがわかります。

土塁と堀
交野郵便局の近くに郭をかこんだ土塁の跡が現在も残っています。その東には「本丸池」とよばれる池など、堀の跡が残っています。この堀跡の続きはまだはっきりしていませんが、昔池があった光通寺付近まで伸びていたようです。

光通寺(出郭)
現在の光通寺は江戸時代に再建されたものですが、境内のC地点で鬼瓦などの瓦が多量に出土し、室町時代の寺の姿を今に伝えています。この付近は、城域の南東隅に張り出した「出郭」として機能したとみられます。

私部城の北の守り
不自然な屈曲部があり堀跡とみられる百々川があり、その北の低地と免除川も城を守る要害となったとみられます。他にも小高い山があり、砦や土塁だったかもしれません。

私部城下層の弥生時代の遺跡
私部城は見晴らしのよい高台を利用して築かれました。この条件のよい土地は弥生時代にも盛んに利用されていたことがA地点の道路設置に伴う発掘調査で、弥生時代の石庖丁や、村を囲む溝らしきものが発見されたことによって明らかになりました。最近、@地点で 竪穴建物の跡が発見され、弥生時代の私部の村の姿が少しずつ明らかになりつつあります。


                       (平成24年12月 財団法人交野市文化財事業団 作成)



 (平成24年12月 財団法人交野市文化財事業団 作成)


かたの城市
2013.1.6 第2回かたの城市が開かれ大賑わい!

かたの城市の実行委員会のホームページはこちら


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