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古墳時代の大阪湾と河内湖
森古墳・神宮寺遺跡と近辺遺跡


村と村をつなぐため、伸びていった道

大昔、人々は狩りをするために「けもの道」をたどりました。山林の中の道をしだいに踏み固まって、人の道へと変わっていったのでしょう。

縄文時代には、今の大阪平野に「河内湖」という大きな湖がありました。 弥生時代になると、その河内湖の周辺の湿地帯でイネの栽培が行われるようになり、人々は決まった土地に住むようになりました。

沢山の村が出来、村と村の間では物を交換するために、人が行き来するようになり、人が通ったり物が運ばれて、だんだん道が出来ていったんですね。

古墳時代に出来た、日本初の堤防

やがて、力のある村は他の村を従えるようになりました。
小さな国がたくさんでき、、ついに日本を統一したのが大和朝廷です。この頃を古墳時代といい、強い豪族や天皇の墓である古墳が沢山作られました。

また、今の大阪府で、最も栄えていた難波津(なにわのつ)難波の港には、中国や朝鮮半島から沢山の渡来人がやってきて、土木や機織の技術を伝えました。

仁徳天皇の時代には、日本で始めての堤防である「茨田堤(まんだのつつみ」が作られましたが、その工事を行ったのも渡来人の秦氏であると言われています。人々はこの堤の上を歩いて、道として利用したのでしょう。

「京阪神くらしのと道の今昔」
「道をたんねて二千年」を参照
建設省近畿地方建設局
浪速国道工事事務所発行
古墳時代の大阪湾と古墳

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