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平成27年9月定例勉強会

悲運の皇子“惟喬親王”ものがたり

  講師:寺田 政信氏 (交野古文化同好会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 30名の参加
 2015.9.26(土)午前10時、9月定例勉強会に30名(会員28名)の方々が参加されました。

 高尾部長の司会で始まり、立花会長の挨拶の後、講師の寺田政信氏から「“惟喬親王”ものがたり
をテーマで独自に研究された内容について、詳しくお話しいただきました。

 特に、惟喬親王と小野小町の秘められた恋物語は大変興味深くお聞きすることが出来ました。また、親王のゆかりの地である「大原野の吉峯寺(天皇家の勅願寺)」は、比叡山(鬼門)→京都御所→大原野(裏鬼門)が一直線上に結ぶことが確認できるなど、初めてお聞きすることも多く大変参考になりました。

 
 悲運の皇子 “惟喬親王”ものがたり 
  1.惟喬親王の系図と時代背景
  2.惟喬親王は何故天皇になれなかったか?
  3.交野ケ原の別邸「渚の院」で狩猟と歌詠み
  4.惟喬親王と小野小町の恋物語
     時間的、空間的に仮説の実証
  5.小町と親王の仲の伝承はどうして残らなかったか?
  6.惟喬親王のゆかりの地、神社など

 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメ及びWEB上の資料などを
    参考にさせて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。
 
 

講師:寺田 政信氏 (交野古文化同好会)
勉強会 風景

レジメ>   悲運の皇子 “惟喬親王”ものがたり

寺田 政信氏
 惟喬親王は55代文徳天皇の長子で立派な青年に育ちましたが、母親が紀一族で政治力がなく皇太子になかなか指名されませんでした。文徳天皇も惟喬親王を後継者にしたかつたのですが、時の権力者、藤原良房の娘で妃である藤原明子(ふじはらのあきらけいこ)に遠慮していました。
 明子に男の子が生まれると第4皇子であるにもかかわらず生後9ヶ月後に藤原良房の圧力で立太子にしました。惟仁親王です。
 文徳天皇が31才で亡くなると、9才の惟仁親王を天皇に即位させました。清和天皇です。そして藤原良房は歴史上最初の人臣としての摂政となりました。858年のことです。(天皇家血筋の摂政は聖徳太子など例あり)
 文徳天皇は発病後3日で亡くなっており、事件性があるとすれば、高齢の藤原良房が自分の目の黒いうちに惟仁親王を即位させたい動機からと推理できます。

 天皇になれなかった悲運の皇子惟喬親王は六歌仙の在原業平と交野が原の別邸、“渚の院”(現在の京阪本線 御殿山の近辺)で狩りをしたり歌詠みをして気をまぎらせました。

 惟喬親王の母静子と業平の妻が叔母・姪の関係もあつて、業平は惟喬親上の側近中の側近であつたようです。
 その時詠んだ在原業平の有名な歌が次の歌です。

  “世の中に 絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし”
    (意:桜は咲くまで、気をもみ、咲いたは咲いたでいつ散るか気をもむので
     桜なんかない方が春はのんびりできるのに)

 そこにいた別の人が詠みます。
   “散ればこそ いとど桜はめでたけれ 浮世になにか 久しかるべき”
    (意:散からこそ桜はいつそうめでられるのです。この浮世になにか久しく
     姿の変わらないものがあるでしょうか)

  しかし本当に詠いたかったのは、次の歌だつたのではないでしようか。
    “世の中に絶えて
藤原家のなかりせば、惟喬親王の心はのどけからまし”

【惟喬親王と小野小町の恋物語】
 次の仮説を立ててみました。

  「惟喬親王と小野小町は若い頃から相思相愛であり、晩年には、二人は小野の庵で静かに余生を過ごした。」
この仮説が成り立つためには、この二人が、時間的、空間的に交わることを証明する必要があります。

 まず、時間的にはどうでしょうか。

 惟喬親工は、844年に生まれ、858年(14歳のとき)太宰権師に任命されています。地方の大守を歴任しています。872年(28歳のとき)出家し比叡山麓の小野の庵に隠棲します。897年(53歳)になくなつています。

 一方の小野小町は、出生不明ですが、第54代天皇 仁明天皇(在位833年~850年)、文徳天皇(在位850年~858年)の更衣として仕えたとの伝承があります。ただ、更衣の場合は、『源氏物語』の桐壺更衣のように、天皇に寵愛され親王を生むことも考えられますので、更衣として仕えたかどうかについては疑間があります。文徳天皇が崩御したとき、惟喬親王14歳とすると小野小町は、25歳近くになりますが、それでも才色兼備の小町は、親王の相手としての可能性は十分ありうると思われます。現代風に言えば、姉さん女房的な関係になります。

 小町は、六歌仙の僧正遍照、文室康秀とも交流があり、在原業平にいたっては、あのプレイボーイが小町には厳しい肘鉄を食らっているといわれています。
 在原業平!ま、親王の19歳年上といわれていますので、小町の年齢の参考になると思われます。
 このような交流の中で、小町と親王が秘めたる恋を育んでいたことは十分考えられます。
 あの深草少将の「百夜(ももよ)」物語は何を意味するのでしょうか。深草少将が在原業平に比定される説もあります。小町は深草少将に同情はしても、心を通わす気持ちがないことははっきりしています。

次に、空間的な交わりについて考察します。

 惟喬親王の都に戻っての活躍地域には、大原、船岡山、雲ケ畑、ニノ瀬、小野郷、大森などがあり洛北、湖西の地域です。JR湖西線の小野駅の近辺に小野一族の拠点があり、小野一族の神社、小野篁神社、小野道風神社、遣隋使 小野妹子の古墳などがあります。

 小町が住んでいたといわれる、山科の随心院の近くにも小野の地名があります。大原、山科、湖西の小野郷は、1日もあれば往来できる場所であり、惟喬親王と小野小町はどこで出会ってもおかしくない場所といえます。親王が晩年小町と過ごしたと思われる小野の庵は山科の小野地域ではないかと推察します。

 
なぜ、小町と親王の仲が伝承として
 残らなかったかについて推理してみます。


 小町が才色兼備とはいえ、出自不明の女性で、しかも父、文徳天皇の更衣とすれば、天皇になれなかつたとはいえ、親王は天皇家の長子ですから、とても声をかける身分ではなかったと思われます。文すらも交わすことがはばかれたと思われます。目と目で交わす、秘めたる恋であつたと推察します。

 小野小町のいくつかの歌からその秘めたる想いを辿つてみます。
 “思いつつ  ぬればや人の見えつらむ  夢としりせば さめざらましを”
  《通釈》恋しく思いながら寝入ったので、その人が現れただろうか。夢だと知っていたら、日覚めたくはなかつたのに

  “夢路には  足も休めず  かよへども  うつつにひとめ  見しごとはあらず”
 《通釈》夢の中の通り路では、足も休めずにあなたのもとへ通いますけども、いくら夢でお会いできても現実に一目お逢いした時にはかないません。

 上記の歌から、小野小町が意中に強い想いを寄せる人がいること、その人とは日常的に会えないことなどの状況が伝わってきます。
小野小町が親五に想いを寄せる気持ちが伝わつてくるような気がします。

 親王が40歳過ぎてから、小町は50歳近くでしようか、小野の庵で二人静かにくらしていたのではないでしょうか。

 百人一首にも採用された、有名な歌を改めて鑑賞してみます。
  “花の色は うつりにけりな  いたずらに  わが身世にふる  ながめせしまに”
  《通釈》花は色あせてしまつたな。わが身をいたずらにこの世に置き、むなしく時を経るばかりの、物思いをしている間――空からは長雨が降り続いていた、その間に。

 小町のこの歌には年老いて、美貌が衰えたことへの嘆きやあせりは感じられません。むしろ余裕を持って自分を見つめているように感じます。親王が年上で年老いても、いつまでも愛してくれることへの感謝の気持ちが感じられます。
 そして、小町が先に亡くなり、親王は一人寂しくくらすことになります。
 そして、年老いた業平が雪の日に親王を訪れ、昔を思い出して嘆く“伊勢物語”83段は、このような状況を描いたものと思われます。親王は53歳で亡くなります。

 天皇にはなれませんでしたが、若い頃は、好きなことをし、晩年は小野小町という伴侶を得て、豊かな人生を送ったのではないでしょうか。
 小野小町も卒塔婆小町だとか、髑髏小町と蔑まれたのは、美人にたいする嫉妬心からの伝承で、小野小町がいかに才色兼備であったことを覗わせます。
 天皇になれなかったことがかえって充実した人生を送れることができたことは、本当に素晴らしいことでした
 
下記は参考資料として、管理人がWEB等から集めたものです。
勉強会の参考資料となれば幸いです。
 惟喬親王の系図
 惟喬(これたか)親王は文徳天皇の第一皇子。母は紀名虎(きのなとら)の娘静子。父帝は厚く寵愛し、皇太子に立てようとするが、藤原良房の娘明子(あきらけいこ)に惟仁(これひと)親王(後の清和天皇)が生まれたために実現せず、太宰帥、弾正尹(だんじょうのかみ)、常陸守、上野守、などを歴任する。
 そのため、怏々(おうおう)として楽しまず、遂に二十八才の時、剃髪して出家し、「小野の里」に幽居する。人は親王を「小野の宮」と呼んだ。そして、五十四才で薨じた。

 在原業平は親王と義理の従兄弟であったのみならず、阿保(あぼ)親王を父としていたために不遇な境遇にあったことが似ていたので、親王と深い交りがあった。その間の様子は伊勢物語の中に残されている。伊勢物語の第八十二段は、親王と共に水無瀬(みなせ)の離宮から交野原に遊び、「渚の院」に至って桜をめで、「世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」と云う有名な歌を詠む話を記し、八十三段には、雪の中、比叡山麓の小野の里に親王を訪ねる話を述べる。
 伊勢物語について  第八十二段と第八十三段 を参考にしてください!
 
 
 惟喬親王のゆかりの地
福井県の漆器神社    鯖江市片山町10 八幡神社境内
 祭神の惟喬(これたか)親王は第55代文徳天皇の皇子で、漆器産業を奨励した。親王は近江国小椋郷(現在の滋賀県東近江市)で漆器製作を奨励し、ここで修行した片山地区の職人が親王の遺徳を偲び、神社を創建したと伝えられています。
 なお、地元には継体大王を越前漆器の始祖であるとの伝承が残っています。
 
 「木地師の祖・惟喬親王とは」

 越前の漆器神社に祀られている惟喬親王(これたかしんのう)は、お椀や盆など轆轤(ろくろ)を使った漆器の木地づくりを 全国に広めた人物という伝承があります。
 9世紀、近江国蛭谷(ひるたに。現在の滋賀県東近江市(旧永源寺町))に隠れて住まわれた惟喬親王は、貧しい住民の生活 をご覧になり、自身が考案した「轆轤で木地を加工する技術」を周辺の樵(きこり)たちに伝授し、木地師(きじし)や轆轤 師と呼ばれる職人が誕生、新たな産業がうまれました。
 木地師の発祥の地といわれる滋賀県東近江市には、惟喬親王が鎮座す る大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)があります。また、木地師の深い伝統文化を保存する目的で建てられた「木地 師資料館」には、全国に散らばった木地師の様子を記した「氏子狩帳(うじこかりちょう)」や木地師の身元を証明した「木地師往来手形」をはじめ、多くの古文書や全国各地の伝統木製品などが展示されています。
 越前漆器の発祥の地といわれる鯖 江市片山町には同じ9世紀ごろ漆器技術習得のために代表者を滋賀県に派遣し修行した記録があるほか、片山町の漆器神社には商売繁盛のために与えられた「お墨付き」の免許書が保存されているなど、越前漆器と惟喬親王とは深い関係があったこと がわかります。
 京都 船岡山 北の守護神 玄武神社 御祭神惟喬親王
 玄武とは青龍、白虎、朱雀とともに王城を守る四神の一つで、亀に蛇が巻き付いた形で描かれることが多く、平安京の北にあることから守護神として名付けられました。
毎年4月の第二日曜日には「玄武やすらい花」が行われます。

所在地〒603-8214 京都市北区紫野雲林院町88
TEL075-451-4680FAX075-451-4680
正式名玄武神社創建878年(元慶2)
文化財  玄武やすらい花(国・無形民俗文化財)
京都 大原野 十輪寺   「なりひら寺」
 大原野にある十輪寺。在原業平が晩年過ごした地と伝わり、「なりひら寺」とも呼ばれています。平安時代初期に創建された天台宗のお寺。文徳天皇の后、染殿皇后(藤原明子)が安産祈願に訪れ、後の清和天皇がお生まれになったことから、子授け・安産のご利益があるといわれています。応仁の乱で一時は荒廃しましたが、江戸時代に藤原氏の公家・花山院家(かさのいんけ)により再興されました。 
 
大原野  吉峰寺 
 善峰寺は、長元2年(1029)に源信(恵心僧都)の弟子にあたる源算が創建したという。
その後、長元7年(1034)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。鎌倉時代初期には慈円が住したことがあり、このころ後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。
 応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから徳川五代将軍綱吉の生母「桂昌院」の寄進によって再興された。
 
 
吉峰寺の遊龍の松
 惟喬親王とゆかりの人
清和天皇(せいわてんのう)

清和天皇は、平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2年11月7日 - 貞観18年11月29日。諱は惟仁。
後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。 文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣藤原良房の娘、女御明子。
生年月日: 西暦850年5月10日   生まれ: 平安京   死没: 西暦881年1月7日, 平安京
親: 文徳天皇  子: 陽成天皇  祖父: 仁明天皇 
 在原業平(ありわらのなりひら)

 父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)、父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原氏を名乗る。
 平安京の鬼門
 鬼門(きもん)とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とした。

 平安京では大内裏から鬼門の方向に比叡山延暦寺が、裏鬼門の方向に石清水八幡宮がある。

 現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、「柊」や「南天」を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りしたりと、根強い鬼門を恐れる思想がある。
 親王のゆかりの地である「大原野の吉峯寺(天皇家の勅願寺)」は、比叡山(鬼門)→京都御所→大原野(裏鬼門)が一直線上に結ぶことが確認できる。
 
下記は、 平成26年1月に古文化同好会の初歩きで、
伊東征八郎さんの案内で「宮の坂~御殿山」までを散策した時の記録の一部です。
 渚の院跡
  平安時代、枚方一帯は交野ケ原といわれ、皇族・貴族が鷹狩りや花見に訪れる場所で、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたかしんのう)の別荘・渚院がありました。

 平安歌人在原業平(ありわらのなりひら)が渚院の桜を見て詠んだ歌、

「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」

 (世の中にもし桜がなかったら、春の人の心はのんびりするであろうに)は、『伊勢物語』や『古今和歌集』にも収められ、桜の花のはかなさを詠んだ名歌として親しまれてきました。
 また、皇位継承争いに敗れた惟喬親王の心情を込めたとも解釈できます。

◎惟喬親王は、紀静子を母とする文徳天皇第一皇子です。藤原明子を母とする第四皇子の惟仁親王が、三人の兄を越えて、清和天皇として即位します。藤原氏の権勢下で皇嗣への道を絶たれた惟喬親王は、在原業平や紀有常など近縁の腹心との交遊によって憂悶(ゆうもん)を慰めます。そしてついに、出家して京都の「小野の里」に隠棲(いんせい)します。


 
渚院の跡地には、江戸時代に観音寺が建てられたといわれています。観音寺は明治時代の初めに廃寺となり、現在は梵鐘と鐘楼(ともに市指定有形文化財)が残るのみです。

 なお、梵鐘は田中家が寛政8(1796)年に鋳造したもので、河内国惣官鋳物師(かわちのくにそうかんいもじ)である同家の活動を示す貴重な文化財です。なお枚方市藤阪には、市立旧田中家鋳物資料館があります。
 
河内名所図会 渚の院

河内名所図会・惟喬親王交野が原遊猟図
 
 
 
渚の院の新しい顕彰碑
 
 
 

「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」

(世の中にもし桜がなかったら、春の人の心はのんびりするであろうに)

『伊勢物語』や『古今和歌集』にも収められ、
桜の花のはかなさを詠んだ名歌として親しまれてきました。
 
真ん中の白い石碑が、古い渚の院の顕彰碑
 
 
 
梵鐘は田中家が寛政8(1796)年に鋳造したもので、
河内国惣官鋳物師(かわちのくにそうかんいもじ)である同家の活動を示す貴重な文化財です。
最後までご覧いただきまして有難うございます。

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