交野歴史健康ウォーク 第132回

重文・八葉蓮華寺の阿弥陀如来と
国宝・獅子窟寺の薬師如来拝観

2013.9.14(土) いきいきランド広場 午前9時集合

行程:いきいきランド午前9時集合→寺住吉神社→かいがけの道→伏拝→
かいがけ広場→竜王山登山口→八葉蓮華寺(重文阿弥陀如来拝観)
→鍋塚古墳→雷塚古墳→坂日の墓→王の墓→獅子窟寺歴代住職の墓→
六地蔵→獅子窟本堂(昼食)→国宝薬師如来拝観→獅子窟→仁王門跡→
子安(安産)地蔵→坂口の寺標     (午後2時半頃解散) 徒歩約6km

 
傍示の里・かいがけ道で記念撮影

かいがけ道から傍示の里・蓮華寺
山根道から獅子窟寺へを歩くMAP



 いきいきランド広場に午前9時、いつもの元気なメンバーに加えて数名の新顔の16名(会員13名)が揃った。9月に入り朝晩は秋らしくなったとはいえ、まだまだ日中は残暑が厳しく、全身汗びっしょりになりながらの歴史ウォーク日和であった。
 村田広報部長の挨拶の後、本日の案内人・高尾秀司さんの先導で、かいがけの道へと元気にスタートした。府道久御山線を渡った、目の前に広がる田圃の風景は、「てるは村」(寺村の前身)「今井」と言った。昔、寺村は、JR学研都市線の西側、交野高校の北側の「いまい」という小字にあったという。
 「昔、寺村は「いまい」にあってな、水が出て困り抜いたすえ、こんなところには、いまい、いまいといって今の龍王山の麓の寺村に移ったんや」という話が伝わっています。
 
 特に、今回の企画は「国の重要文化財と国宝」をじっくりと時間をかけて拝観できるように、高尾さんには事前に準備を整えて戴きました。記して御礼申し上げます。

 当日のレジメ(高尾秀司さん作成)
 
 
 
 
 
 
  寺村伏拝の辻から傍示へ
 府道久御山線を渡り、交野高校北側の道を寺村に向かって歩く。
 静かな寺の町並みを過ぎ、住吉神社から傍示の里へと進む。住吉神社で参拝。今日の健康ウォークの無事を祈り、気持ちも新たにして「かいがけの道標」から掘り割り道(かいがけの道)を登っていく。
 例年だと落ち葉が絨毯のように敷き詰められた山道なのだが、昨年の8月の大雨で所々酷く抉られ足元に気を付けながら、くねくねとした山道を登ると路肩に、「柳谷伏拝」「愛宕山大権現」「石清水八幡宮」などの伏拝の辻に出る。
 「愛宕山大権現」の伏拝の前に、大きな石が山道に突き出している。この石の南面に可愛らしい地藏さんが彫られている。気づかずに通り過ぎてしまいがちである。この辻は、例年盆と暮れの2回、古文化同好会の有志の方々により無縁墓の清掃が行われている。
 さらに、上へと登ると左手に、「かいがけ地蔵」が祀られている台地がある。石段をのぼり、正面を見ると「かいがけ地蔵」がおられる。左手には、大きな山桃の古木がしっかりと枝を張り、根元に数体のお地蔵さんが祀られている。少しはなれて不動明王がおられる。かいがけ地蔵の前には、瓦の破片が散乱、お堂が建てられていたという。ここは、何か、遠くの世界を思わせるような空間地帯である。
 かいがけ地蔵から少し上がると、左手に竜王社への上り口があり、ごみの木地蔵を過ぎると、もうそこは傍示の里だ。

寺村・正行寺近くの灯篭の辻
愛宕山、二月堂、柳谷などの伏尾拝みの辻である

寺の氏神・祭神は住吉四神  古墳と思われる丘上に建つている。
鳥居に明和元年(1764)願主山添文三郎康朗と彫ってある。

また氏名、年号を彫つた石造物が沢山ある。
昔正月には神社の前の棚田で収穫を占う的あての行事「お弓」が行なわれたという。

域内には昔子供達が餅つき遊びをして穴があいたとされるくばみ石がある。

住吉神社から奈良へ抜ける道を「かいがけの道」といい、
谷を切り開いて造ったので「峡崖道」と書く。
奈良時代大仏建立のとき頓挫したのを救うべく
九州宇佐の工人達が交野を通つてこの道を急いだと言われる。

このかいがけの道は伊勢神宮、大峯の霊場、熊野街道へ行く道でもありました。
交野八景の一つ「かいがけの錦繍」として親しまれている。

例年だと落ち葉が絨毯のように敷き詰められた山道なのだが、
昨年の8月の大雨で所々酷く抉られ足元に気を付けながら、くねくねとした山道を登る

途中、いわなし古墳を見学

伏拝(ふしおがみ)の辻
かいがけの道には、ここを通る旅人が各お寺やお官さんの方を向いて、
伏して拝んだとされる、石碑群がある。また現地に行けない人がここまで上がりここから
それぞれの神社、寺を拝んだ所とも云われる。上から金比羅大権現、能勢妙見宮、
:二月堂、野崎観音、岩清水人幡宮、愛宕山大権現、柳谷観音などがある。

↑かいがけの道の伏拝の辻、大岩に彫られた阿弥陀様

 かいがけ広場の 「かいがけ地蔵」
伏し拝みの辻から少し上るとかいがけ広場が現れ、かいがけ
地蔵・不動明王の石仏・役の行者の祠・弘法大師祠の跡があ
る。また大きな山桃の木があり、なにか不気味な雰囲気が漂う。

不動明王像
 
ごみ(ぐみ)の木地蔵
大きな石の深い舟形光背の中、蓮華座の上に阿弥陀如来が座っておられる。
ここには、ぐみの本があつたのだが、交野では「ごみJと呼ぶので、ごみのき地蔵という。
長い間、ここを通る旅人達につつがないようにお守りいただいた地蔵さまであるのか。

かいがけ道を抜けると傍示の里である
 
  八葉蓮華寺  (重文阿弥陀如来拝観)
八葉蓮華寺 宗派・融通念仏宗 伏字傍示にある)

伝説によると平安時代の初め頃、弘法大師が竜王山で雨乞いをしたところ雨が降り、
時の天皇がその効を誉め人大竜王にちなんで人葉蓮華寺を建立したといわれる。
しかし実際には、付近から藤原期の瓦片が出土することから、創立もその頃と
推定されている。本尊は阿弥陀如来立像であるが、30年程前に発見され、
作者が鎌倉時代の名匠である快慶であることが分かり、
昭和60年に国の重要文化財に指定された。
この阿弥陀如来立像は、高さ82.4cmの半等身像で来迎印を結び、
わずかに左足を踏み出して、衆生に向かって来迎するありさまをあらわしている。

小さくてひっそりとしたお寺の中に、国の重要文化財に指定された阿弥陀如来立像がある。
名匠として知られる鎌倉時代の仏師・快慶の作で、檜(ひのき)を用いた82.4センチの半等身像。来迎印を結び、わずかに左足を踏み出して、衆生に向かって来迎するありさまをあらわしています。
快慶の仏像は、奈良・京都を中心に30数例が知られている。快慶は、藤原彫刻の優美さを受継ぎながら、写実的な表現を踏まえて、日本人の心に強く訴える、独自の形式美を備えた仏像の美の形を創造し、後世に大きな影響を与えました。

なかでも、この像のような、彼の創り出した半等身の来迎印を結ぶ阿弥陀如来像は、その小作りで静かな優しさが人々に好まれたため、後世それにならって多くの模刻像がつくられることになった。その系統の像を安阿弥陀様と呼んでいる。
像は引き締まった頭部と、太作りの上体をそなえ、全体に自然な前傾の美しさを持っている。顔は、少し目じりの上がった青年のような若々しい相好に表わされ、その表情はおだやかで、静かな感情をたたえています。流れるような衣文は美しく整えられ、しかも自然な動きを失っていません。端正なその姿からは気品が漂うようです。

放射光形式の光背や、六重蓮華座も、造立当初のもので、仏像・台座・光背の三拍子がそろってセットで伝わっているのは貴重です。しかも全体に、後世補ったところや、欠けてなくなった部分はわずかで、驚くほど保存状態は良好です。用材はヒノキ材で、この時代に小ぶりの像によく用いられた割矧造りでつくられていると推定され、眼は玉眼としています。

像は、螺髪を群青彩とするほかは、肉身と衣を漆箔仕上げとし、光背と台座には、群青、録青および朱などで彩色を施し、一部に切金をおきます。快慶の署名は、左足の外側に墨で「巧匠 アン(梵字)阿弥陀仏」と謹直な書体ながら、必ずしも能書とはいえない筆致で書かれています。

流れるように美しい衣線や、青年のような若々しい表情など、快慶の意欲が伝わる造形美である。
建久3年(1192)から建仁3年(1203)ごろの作と推定されている。


天長三年(826)交野、大和の一帯が日照り続きになり植えた苗がほとんど枯れてしまった。
村人達は困り果て、国司に訴えたところ、国司はこの状況を天皇に報告した。

天皇は直ちに弘法大師を呼び、交野地方に雨が降るように祈願する事を命じられた。
弘法大師は、早速傍示が嶽(竜王山)に登って八大竜王を祭り、大雲論晴雨経を読まれた。
すると龍神がこれをお聞きになったのか、四方数十里にわたって黒い雨雲が現れ、
まさに竜が雨雲に乗って天に上るような暗さになり雨が降ってきた。
これを見ていた村人達は、よみがえったように喜んだ。

天皇はその効をおほめになり、八大竜王を祭る寺を八葉蓮華寺と号し、その下に八つの坊を建てられた。
その一部「山の坊、栴檀(せんだん)坊、向井坊、西の坊」の地名が残っている。
建暦年中(1211から1213)の僧戦の時、京都清水寺に協力した為延暦寺に敗れ、この時寺は廃絶した。

その後、元享元年(1321)法明上人が交野に御化道(ごけどう)の際、八葉蓮華寺の跡に一小堂を建てられ、旧名の通り八葉蓮華寺とおつけになり、融通念仏宗の道場とされた。
                  (氷室山蓮華寺略史より)

上左の写真は昭和58年4月、「阿弥陀如来立像」が発見されたことを伝える当時の新聞


当日は、八葉蓮華寺のお堂を開いていただき大変お世話になりました!
   森古墳群   鍋塚古墳と雷塚古墳
 鍋塚古墳(第6号墳)
森古墳群から少し上がったところ、標高210m弥生時代の高地性遺跡である南山遺跡の一面にあります。
当初、前方後円墳ではないかといわれていたが、調査の結果全長67mの前方後方墳とわかりました。
土器などは出土していないが、石室の形態や埴輪の有無などから、雷塚古墳より更に古いも
のと推定されております。古墳は弥生住居跡の石碑の山手にあります。


下記を参照ください!
1.鍋塚古墳の調査概要
2.鍋塚古墳の発掘など見学概要

雷塚古墳籐古墳群(第1号墳) 所在地 交野市森
前方後円墳で府下最古級といわれる前期古墳(3世紀末)である。標高145mの山中にあり、
全長106m後円部径56m前方部長50mもある。昭和55年近くの岩船小学校の生徒が
この付近で円筒埴輪、壺(底)に穴が開いた二重口縁動の破片を拾つたのがきつかけで、
交野市教育委員会が大阪府教育委員会の指導を得て調査が行われた。
その結果前方後円墳4基と円墳1基が発見された。最近第一号古墳(雷塚古墳)から穴
の開いていない二重口縁壺の破片が採取されていたことが紹介されています。
この壺は奈良県桜井市の箸墓古墳から出たものと似ているとのことです。
最近の鑑定では3世紀中頃という説もあります。
なお被葬者として古代この地を治めた肩野物部氏が考えられております。


下記を参照ください!
森古墳群・雷塚古墳の概要について

 
 

雷塚古墳の前方部  前方部は西向きです。
 雷塚古墳から山根道を下り、左手に見える交野市の高区配水タンクの南側の細い山道を
15分ばかり上ると、獅子窟寺の坂口の墓、墓王の墓へと到着します。

 獅子窟寺 坂口の墓 
 椿地蔵
 王の墓から北へ下つた所にある。一番奥に見えるのが椿地蔵と云われております。
椿の本のにあったことから椿地蔵と呼ばれておるそうです。
そのほかたくさんの地蔵さんが祀られている。
 王の墓(五輪塔)
 二基あるがどちらも水輪といわれているところが欠けております。
亀山上皇(左側)と皇后(右側)の供養塔といわれている。
鎌倉時代90代亀山天皇が上皇になられてから、この寺に病気平癒を願つて
本尊の薬師如来にお参りされ、平癒されたといわれております。
なおこの供養塔の手前側道脇より後に交野市の指定文化財となった
瓦質土器が見つかつております。(梵文光明真言刻銘瓦質土器)
交野古文化同好会有志による無縁墓清掃

交野古文化同好会の有志の方々により、
獅子窟寺(私市)、郡南街道入口(倉治)、かいがけ道(寺)の
3ヶ所の無縁墓清掃が毎年、お盆・お正月前の2回、
それぞれ清掃活動が続けられています。

故奥野平次さんが中心となり、昭和47年夏から続けられている活動です。
交野古文化同好会の活動が今も継承されております。


滝が広から出土した骨壺の中の遺骨が丁重に祀られています。
昭和45年3月、滝が広(交野市私市)建設現場から蔵骨器と銅銭、富寿神宝50枚が出土した。富寿神宝は本朝(皇朝)十二銭中5番目に鋳造されたもので発行時の天皇は嵯峨天皇で鋳造・発行年は818年です。


交野古文化同好会  無縁墓  昭和52年8月

前の無縁墓の墓標(昭和47年8月6日建立)が、新しく会員のお力で石に変わりました。
石鏃26号参照 昭和52年8月6日
獅子窟寺 本堂
本堂の手前の部屋には下の仁王門に祀られていた金剛カ士像が、
奥の部屋には左側、阿弥陀如来、真ん中、釈迦如来右側には大日如来を祀つている。
裏の部屋にはびんずるさんと役の行者の像が祀られている。
もとはここに国宝の薬師如来を祀つていたが保安上の理由で宝庫に移されたという。
 国宝 薬師如来坐像
 獅子窟寺は寺伝によると奈良時代45代聖武天皇の勅願によって
有名な僧「行基」によつて堂塔が建てられたといわれております。
当山の宗派は真言宗高野山派に属し本尊の薬師如来は
弘仁期(810〜 824)の作で稀にみる洗練された技巧を賞賛されている。
昭和43年に国宝に指定されている。一説によるとこの薬師如来は僧行基が
3年3ヶ月掛けて造ったカヤの一本造りとも言われます。
昔は本院の外に12院もあつたといわれていたが、
戦国時代大阪夏の陣の前に豊臣方から協力を求められたが拒否した為、
全山焼かれてしまつたといわれる。
江戸時代になり光影律師により再建されたが往時の盛大な寺観は見られなかつた。
国宝の薬師如来は獅子窟寺
「交野郷土史かるた」より
正月〜三日まで、国宝・薬師如来は自由拝観できます!


国宝・薬師如来坐像
亀山上皇の病重く、この薬師仏に祈願したところ、効あって平癒した
(昭和43年3月16日に国宝に指定) 北河内の文化財一覧より参照

 開基は役小角(えんのおづぬ)と伝えられ、本尊薬師如来座像は 弘仁期(平安時代、西暦900年頃)のものとされ国宝である。この尊像は行基菩薩が一刀三礼のもとに三年と三ヶ月を費やして刻まれた像で、授乳の霊験が著しいと伝えられている。榧の木(かやのき)の一本刻りで高さ92cm、相貌の眉、切目、口唇的に漂う特徴と衣文の鋭い翻波様式は平安の初期の代表作である。

中興の祖光影律師の墓
 獅子のいわや(獅子窟)

平安時代の始め頃(816年7月23日 妙見官の説)、弘法大師がこのいわやに入つ
て仏眼尊の秘法を唱えられていると不思議にも大空から七曜星が降り、
それが三つに分かれて「星の森」「光林寺」「星田妙見宮」に落ちたとされ以来
影向石として大切に祀られております。
星田妙見宮ではこの日に星降り祭りがとりおこなわれております。
又3年後には1200年祭がとりおこなわれるやに聞いております。

いわやの中に弘法大師の石造が祀られている。
 
 
子安地蔵(安産地蔵)の上の峰に、立派な宝篋印塔が残されている。

《ミニガイド》

傍示の里
 傍示とは、榜(ふだ)を立てて国境を示した。特に街道筋においては、この傾向が強い。傍示は河内国と大和国の境になっている。ここ傍示は交野から高山を経て富雄川を下り、三碓(みつがらす)で左折して奈良に通じる「かいがけ道」である。古代交野は天野川流域の条里制が施行されたごとく、豊かな地であり、かつ、渡来人の活躍の場でもあった。寺、森辺りに古墳や遺跡が散在する。当然この道は頻繁に利用されたことであろう。また、東大寺建立の際、大仏の銅の鋳型がうまく出来ないため、この仕事に熟達していた九州の字佐八幡宮にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、宇佐から大和に行くことになった。一行は途中2斑に分かれ、一隊は枚方市の百済寺に、他の一隊は交野の獅子窟寺に宿泊した。そして、この「かいがけ道」を通り奈良の都に到着し、無事、大仏建立を助けたと言われている。

 氷室山八葉蓮華寺から国宝級の快慶作の阿弥陀如来立像(高さ82.4cmの半等身像で、来迎印を結び、わずかに左足を踏み出して衆生に向かって来迎する有様を表わしている)が発見された。鎌倉時代初期、建久年間から建仁年間(1192〜1203ごろまで)に作られた作品で、快慶の造像活動の中でも自分の様式を確立するための模索していた時期と言われている。
 
 
現在の傍示に住んでおられる人の姓が、ほとんどが「伊丹氏」である。この伊丹氏が傍示に住みつくようになったのは天正元年(1573)のことである。
 この年、かって摂津国伊丹の城主であった伊丹兵庫守親興が室町幕府の最後の将軍足利義昭に加勢して織田信長と戦争を起こした。しかし、戦況は思わしくなく、宇治の槇島が落とされたため親興は退去し、高槻の芥川城に逃げた。しかし、この城も織田方の荒木村重に落とされ、しかも、城主伊丹親興は討死してしまった。残った伊丹一族は淀川を渡って交野へ逃げた。しかし、織田方の追手の厳しさから逃れるため、交野の山中に入り、寺の背後の竜王山の後ろに移り住むことになった。芥川城陥落の功により荒木村重は伊丹の城主になっている。また、大阪冬の陣の時、伊丹因幡守という人が大阪方の武将として出陣している。
 天正年間に伊丹氏が生活を始め、その後もこの小さな谷を切り開いて、あまり人口を増やすことなく、現在まで永々と生活してきているのである。
今回も再発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の高尾秀司さん有難う御座いました。

次回は、10月12日(土)、「継体大王・樟葉宮シリーズ」を
 京阪樟葉駅から安養寺〜鏡伝池〜交野天神社〜樟葉台場跡などを歩きます。
 集合は、午前9時、京阪・樟葉駅です。
最後までご覧いただき有難うございました!

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