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交野歴史健康ウォーク 130回

滋賀県・日野町散策バスツアー
星田の旧領主市橋家の  足跡を近江に訪ねる
=交野と日野の結びつき=

2013.6.8(土)  48名参加
行   程 : 東近江市・石塔寺⇒日野まちなか散策⇒市橋氏菩提寺・清源寺(昼食)⇒
仁正寺藩誕生と清源寺⇒竜王かがみの里(道の駅)


 

バスツアー 記念撮影



市橋家菩提寺・清源寺の鐘楼前にて記念撮影

 交野古文化同好会の「日野町散策バスツアー」、ご案内いただいた高尾秀司氏を始め役員の皆様、ご参加いただいた会員の皆様のご支援・ご協力のお陰で無事、事故もなく開催出来ましたことを心より感謝申し上げます。

 今回のツアーは、平成22年秋「交野市の指定文化財」に指定された「神祖営趾之碑」に因んで、星田の旧領主の市橋氏の菩提寺・清源寺を訪ねて交野(星田)と日野とのつながりを探求することと、周辺の石塔寺見学、日野商人の町・日野まちなか散策を企画いたしました。
 このたび、皆さんと一緒に現地を訪問、市橋氏の歴史を詳しく知る機会に恵まれましたことを大変嬉しく思っています。 
 また、高尾氏には今回のツアーに先立ち、石塔寺、日野観光協会、清源寺に出向き、ガイドや案内などを事前に手配頂いたお陰で、当日はスムーズに開催できました。重ねて御礼申し上げます。

 当日の参加者はキャンセルなど数名ありましたが最終的に48名で締切、交野を定刻8時40分に出発。車内では、高尾さんから「市橋氏と交野」とのつながりや歴史について詳しく説明していただき、「西日本の旅〜日野商人の町・日野〜」などのDVDを観ながら事前に勉強をしました。また、清源寺で見つかった瓦師・星田村・和久田作兵衛の銘のある鬼瓦が先代の住職さんのご厚意で交野市教育委員会へ寄贈され、その写真も回覧されました。

 10時過ぎ、阿育王山石塔寺(あしょかおうざんいしどうじ)に到着、158段のきつい石段を山頂まで登り、住職さんより詳しい説明を受けた。土の中から発見されたという「阿育王塔(あしょかおうとう)」と信者の皆さんが奉納された数万と言われる五輪塔など石仏の多さに圧倒されました。
 次いで、11時過ぎから日野町観光協会のボランティアさんの案内で、二組に分かれて「日野町のまちなか散策」を1時間ばかりゆっくりと当時の面影を残す町並み散策を楽しみました。ゆったりとして経済的にも豊かさを感じる良い町並でした。

 最後の訪問先の清源寺では、住職さんのご厚意で本堂内でゆっくりと昼食を摂らせていただきました。また本堂内には「神祖営趾之碑」拓本や市橋長勝公を始め歴代の藩主の画像が掲げられていました。

 午後1時過ぎから同本堂内にて、日野町教育委員会の振角卓哉氏による講演会「仁正寺藩誕生 −我ら天下の為に軍忠を励みしにあらずー」が始まり、戦国時代の終わり頃から江戸時代の初めの激動の時代を生き抜き次の時代へとつなげて行った二人の武将・市橋長勝と初代仁正寺藩主・市橋長政の歴史について、プロジェクターを駆使してたっぷり1時間お話し下さいました。
 特に、長勝には嫡子が居らず改易の危機となるが、長勝の関ヶ原の戦いや大坂の陣での功績など徳川家の信任が厚く、また家臣たちの熱意「・・・我ら天下の為に軍忠を励みしにあらず市橋の家を起こさんが為に各身命を抛って死生を君と共にす・・・」が認められ、長勝の甥である長政が相続することを許された話は実に感動的でした。

 その後、清源寺の住職さんより清源寺と市橋氏とのつながり、歴代の藩主のこと、お墓のことなど詳しくお話し下さいました。
 講演後、境内の鐘楼前にて全員で記念撮影を撮り又の機縁を約してお別れしました。帰りには、道の駅「竜王かがみの里」で買物や飲み物などを楽しみ、一路交野へ予定より1時間早く午後4時45分頃交野に無事到着しました。

 皆様、ご協力有難うございました。
バスツアーのレジメ
高尾秀司氏のご好意で掲載させて頂きました。記して感謝申し上げます。
「市橋家と星田」(交野市史・交野町略史復刻版・星田村より)
 戦国時代,美濃の国(岐阜県)市橋の在に住んだので、その地名をとって姓とした。もと織田信長や豊臣秀吉に従っていたが、慶長年間秀吉の死後、徳川家康に属して関ヶ原の戦いにのぞんだ。市橋長勝は外様大名ではあるが家康の信頼は厚かった。そしてその戦功で伯耆(鳥取県)に所領を得て矢橋城主となり、大阪の役(冬の陣、夏の陣)に出陣した。その時の献策(戦前の星田の防備・火災から守った)が功を奏したので、戦後越後(新潟県)の三条城主に封じられたが元和6年(1620)その後継者伊豆守長政は河内の星田と近江(滋賀県)に所領を与えられて,西大路の陣屋で2万石を領した。その内星田の1,300石はその祖先の功績を伝えるもので、市橋氏としてはもっとも重きにおかれていた。したがって星田の庄屋はその祖先、市橋長勝とゆかりの深い平井三郎衛門家をえらび、さらに南の庄屋和久田東兵衛を相役とした。
 さらにそれより後、180年余も過ぎた寛政年間、長勝から八代目の孫長昭が大坂の大番頭(おおばんがしら)となってこちらに着任した。その時に星田にもやってきて、平井家の御殿跡が無くなっているのをみて、事跡を残すべく、その時の庄屋平井貞豊に告げて現在建っている、「神祖営祉之碑」を建立した。ちなみにこの碑は昨年秋「交野市指定文化財」に指定された。

阿育王山石塔寺(あしょかおうざんいしどうじ)
 本尊は聖観音菩薩(秘仏)。この寺は聖徳太子が建立した寺と云われている。ほかにも長命寺,百済寺(ひゃくさいじ)など太子創建と伝えられる寺院があるなど、この地が早くから仏教文化の栄えた土地であることから、聖徳太子とも何らかのつながりがあったことを伺わせる。
 織田信長の元亀の兵火により、伽藍は焼失し全山荒廃したが江戸時代の始め,天海僧正の弟子行賢によって現在の寺領部分が復興されたといわれます。

阿育王塔(あしょかおうとう)
 阿育王は釈迦如来入滅後、2〜3世紀後インドの統一国家を建設した偉大な王であります。阿育王は釈迦入滅時に建立された仏舎利塔を開いてインド各地に仏舎利塔を建て各地に仏舎利を配分した。この王塔もその一つとされています。鎌倉時代になると参拝の方々が、ご自身の極楽往生のため、またご先祖の供養の為王塔の周りの霊域に、五輪塔や石仏を奉納されるようになり、その後数百年の間に数万といわれる数になりました。

祥雲山清源寺(しょううんざんせいげんじ)
 臨済宗、永源寺派の寺院。近江仁正寺(にしょうじ)藩市橋家の菩提寺である。開基は蒲生賢秀(かたひで)氏郷は賢秀の子。元和6年(1620)9月、市橋長政(長勝の養子で跡継ぎ)が越後(新潟県)三条より移った。
 この時領地内に蒲生氏の城があったことを知り、その古城脇に藩庁をたてて仁正寺藩を立藩し、衰微していたこの寺を再興して、菩提寺として宝永元年(1704)臨済宗永源寺派の寺として「清源寺」の寺号を称した。
 宝暦4年(1754)第八代藩主直擧の時それまで本堂であった建物を庫裏とし新しい本堂として建立したのが現在の本堂である。嘉永7年(1854)から藩邸の建て替えが行われ,その際に旧藩邸の一部が永源寺の座敷として移築、現在も残っております。

市橋藩主の墓
 江戸時代を通じて市橋氏は十代にわたる藩主がここに住んだがその内こちらで亡くなった三代の墓静かに並んでいます。3代市橋信直、6代長l(ながてる)、8代長發(ながはる)の墓の三基、、本堂の裏には何方かの奥方の墓、墓地には約200人に及ぶ藩士の墓石が並んでおります。

日野の町並(蒲生家の菩提寺)
 蒲生氏郷は弘治2年(1556)日野城主蒲生賢秀の子として生まれました。信長、秀吉に仕え勇猛な武将として知られております。その後町は衰退しますが、仁正寺藩市橋氏1万8千石の陣屋が置かれ、この頃から日野商人が日野椀や薬の行商をし、全国に進出していきました。以後商人の町として発展し、今も古い町並みが当時の面影を伝えております。

竜王かがみの里(道の駅)
 滋賀県竜王町の国道8号線沿いに位置する道の駅です。かつて東山道、中山道で栄えた宿場「鏡の宿」があり、牛若丸(源 義経)が元服した土地と云われています。
 特産品としては、おいしい竜王のお米、またお米を使ったパン、新鮮野菜、果物等。

午前8時40分、交野を出発
第二京阪・交野北→ 草津 → 八日市インター → 10時過ぎ 石塔寺到着
阿育王山石塔寺(あしょかおうざんいしどうじ)
 阿育王は釈迦如来入滅後、2〜3世紀後インドの統一国家を建設した偉大な王であります。
阿育王は釈迦入滅時に建立された仏舎利塔を開いてインド各地に仏舎利塔を建て各地に仏舎利を配分した。
この王塔もその一つとされています。鎌倉時代になると参拝の方々が、ご自身の極楽往生のため、
またご先祖の供養の為王塔の周りの霊域に、五輪塔や石仏を奉納されるようになり、
その後数百年の間に数万といわれる数になりました。

本堂前にて暫し談笑後、山頂へと登ります

山頂への158段の石段は、身体にきつい!

皆さん、頑張って登られました!
 
石塔寺(いしどうじ)三重石塔 (重要文化財、奈良時代前期、花崗岩、高さ 750cm)

現存する最古の石造塔、作風は朝鮮風、相輪は後補、石造三重塔としては日本最大

住職さんより、詳しく解説をしていただいた。

五輪塔【ごりん‐とう】.
上から空輪=宝珠形、風輪=半月形、火輪=三角形(または笠形、屋根形)、
水輪=円形、地輪=方形。古代インドにおいて宇宙の構成要素・元素と考えられた
五大(空・風・火・水・地)を象徴します。仏教のいう五大要素でもあります。

土の中から発見されたという「阿育王塔(あしょかおうとう)」と
信者の皆さんが奉納された数万と言われる五輪塔など石仏の多さに圧倒されました。

石塔寺の重要文化財 (左から)
石造宝塔(重要文化財、鎌倉時代 正安四年 1302年銘、高さ 1.64m)
五輪塔 (左側:北側) (重要文化財、鎌倉時代 嘉元二年 1304年、高さ 1.29m)
五輪塔(右側:南側)(重要文化財、南北朝時代 貞和五年 1349年、高さ 1.38m)


続いて  10時45分 石塔寺 → 11時 日野のまちなかへ
日野のまちなか散策 から清源寺訪問

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