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第105回 交野歴史健康ウォーク

2010.6.12(土)

歴史の道・星田編

行程:星田駅(午前9時)→初めての陸軍用地石碑10番→一里塚→中村中尉鎮魂碑→
六路川の石仏→星誕音楽堂→光林寺→善林寺→徳川家康陣屋跡→山の根の道→
星田寺→星田村役場跡石碑→慈光寺→薬師寺→新宮山八幡宮跡・旗掛け松・
愛染律院跡→JR星田駅   (12時解散)

西日本で今年最高の暑さの中、「交野郷土史かるた・星田の歴史道」を歩きました。
午前9時JR星田駅前に古文化同好会の元気なメンバー17名が集合。
今回は特別に、江戸時代の文化文政の頃に書かれたという、「星田名所記」を
紹介しながら、交野市郷土史かるたに詠われた、9か所を巡りました。

案内は、村田と立花さんの二人、中会長をはじめ平田さん、文化財事業団の
上田さんなど沢山の方々にご協力いただきました。心より感謝申し上げます。
また、当日の写真は、平田政信さんより投稿いただきました!

歴史ウォーク 当日のMAP
薬師寺前で記念撮影
(最後列の方々が日陰になり、顔が不鮮明のため一部補正いたしました)


JR星田駅に掲げられている案内板

駅前で当日の行程など案内する
本日のサプライズ! 駅裏の空き地
初めてお目にかかる「陸軍用地石碑10番」


会員の綱分さんがもう2年も前に発見されていました!

「陸軍用地石碑10番」

樹木の日陰で、
「吉田屋藤七 幕府に進言」
星田の道を簡単に説明する
吉田屋藤七 幕府に進言

    吉 
     田 
  幕 屋 
  府 藤 
  に 七 
  進   
  言 

江戸時代の中頃、星田の吉田屋藤七は親の遺志をついで、交野の治山治水について、実地に調査してまとめました。そして荒れ果てた星田山の土砂留め工法について幕府に進言し、役人を動かしたといわれています。

吉田屋藤七  (大阪府のWEBより参照)
大阪の交野市出身の町人
淀川の支流の天の川が天井川になっているのを子供の頃から見ていたので(父親から教えられたとか)山に木がないと洪水が起こるという因果関係を理解していたそうです。
江戸時代中期、天明8年(1788年)に淀川を管理していた土砂留奉行に対し、砂防事業に対する意見書を出したんです。

洪水対策の根本は堤防を高くするのではなく、土砂を川に流さないこと。禿げ山を緑にすることこれ以外に洪水対策はないと申し上げたんです。

禿げ山になるのは土地利用が原因
林地の破壊が原因
それは共有地や私有林での過剰な下枝下草の乱伐に落葉の取りすぎ(農地への肥料)山を緑化するためにそれまでの利用をシャットアウト。農民の生活を奪うことに(肥料のない農業は悲惨なので)(薪がなければ煮炊きが出来ない。暖房も)それを避けることに、代替地を与えてから森林の立ち入りを禁止することを訴えたのです。

これは、明治5年から始まった国営砂防工事でも、裏付けられることになったんです。
 
星田の道星田の道・半尺口付近

 星田の旧村の道は、いずれも曲がっていて見通しがきかず、いびつの三ツ辻または四辻として複雑に交差し、侵入者を迷わすべく、工夫して作られた道である。
 幾星霜を経て、そこに居住する者は、馴れてしまって別になんとも思わないが、他所から来た人は閉口する。どうすることも出来ない困った道である。
 明治2年、後の北河内の154ヶ町村のうち、星田村が377戸の第1番の大村であった。大村であるが星田一村としてまとまり、外敵を防いで、よく守ってきたのである。
 元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里正 平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。
私も、何度となく星田の町中を歩くが、いまだに道筋がわからず難儀している。
一里塚
東高野街道を100mばかり、北に行ったところに、一里塚跡の記念碑が建てられている。天保8年(1837)の星田村絵図には「一里塚」と書き、道の両側の盛り土の上に大きな松が1本ずつ描かれているが、今はその面影もなく残念なことである。
路傍には 東高野街道 一里塚

      路 
    東 傍 
    高 に 
  一 野 は 
  里 の   
  塚     

平安時代、信仰のため旅をする人の通った東高野街道は鳥羽から八幡を経て、河内に入り、郡津、星田を経て、高野山まで続いています。
そして一里毎に目印として木を植えて、お大師さんをまつった石標が一里塚です。


5月30日、下見の頃の田園風景です

旧陸軍用地の畔に建っている陸軍用地石碑


一里塚跡石碑



東高野街道の阿弥陀さん
中村少尉の鎮魂碑
陸軍中尉・中村純一戦地の地
 昭和20年7月9日、米軍機P51約50機が来襲、大阪上空で空中戦があり、鹿児島出身の中村純一中尉が操縦する戦闘機・飛燕が撃墜され、星田に墜落しました。
 中尉は、パラシュートで脱出しましたが、米軍機が翼でパラシュートのロープを切り、中尉は水田にしぶきを上げて墜死され、星田の村民が手厚く弔われた。

 2005年3月16日、交野市星田北8丁目の第二京阪国道作業地にて、飛行機の残骸が発掘された。調査の結果、発掘されたエンジンのマークから飛燕のもので、中村中尉が操縦されていたものであることが確認されました。
 なお、発掘された飛行機の出土品は、現在、いきいきランド交野のロビーに展示されています。
六路川の石仏
星誕音楽堂
下記は、仁公の夢づくりサイトより参照させて頂きました!記して感謝します!
音楽ホール付き
    変わったおうち


 音楽好きの一家が自宅に音楽ホールを作り、開放している。大阪府交野市星田にある「星誕音楽堂」で、元農業、奥田正男さん(60)と啓子さん(58)夫妻が3年前に建てた。
客席は約50。コンクリートの天井にアーチ状に木をめぐらした珍しい内装になっている。木のアーチは屋根を支えるはりだが、コンクリートで硬くなりがちな音をやわらげる効果があるという。
 これまでに実費程度の入場料で、クラシックや邦楽など30を超える演奏会を開いた。演奏会後には毎回、奥田さん宅の大広間で、出演者との交流会もある。
       (朝日新聞 1998.8.29夕刊)


星の生まれる音楽堂
 音楽を愛する人の憩いの場


 瓦(かわら)ぷきの屋根に打ちっぱなしのコンクリート壁ー。近代日本家屋とでもいうような、この建物は、奥田啓子さん(星田1丁目36番18号)方の星誕音楽堂です。
 この音楽堂は、建築家の新田正樹さんが瓦ぶき屋根を初めて使って設計した建物です。
 ホールは30〜50人を収容。吹き抜けになった高い天井を支えるアーチ形の梁(はり)とフローリングがコンクリートの壁に調和して、落ち着きとさわやかな雰囲気を生み、ホール内のあちこちにある小さな明かり取りからの光に映えるおしゃれなつくりです。
小さな音楽堂の〈プロデューサー〉奥田啓子さんは、3人の娘さんのお母さん。
 「きっかけは娘が習っているフルートの先生のお宅を拝見したことでした。そこは応接間を大きくしたようなサロンになっていて、ささやかでも音楽を人生の傍らにおく人たちのための素敵な場所になっていました」
 その日から啓子さんは、やはり音楽を続けている人には人に聞いてもらう場がいると思い、音楽堂のある生活を夢見るようになったそうです。
 2年前に200年以上も建っていたわが家を改築することになったとき「これ(音楽堂)だけはゆずれない」と家族を説得したそうです。
 完成した音楽堂は「星誕音楽堂」と名付けられました。
「太陽も星、小さな石ころだつて星、そしてこの音楽堂を訪れるすべての人と、そこに生まれる心の交流も私にとってはかけがえのない星です。そんな星が生まれる場所になってほしい」という啓子さんの願いが込められています。
 ヨーロッパの教会に似た演奏が味わえる小さな素敵な音楽堂のニュースは、音楽を愛する人たちの間で広まり、演奏したいとの申し込みが寄せられるようになりました。5月(1995)のこけら落としから月に1度は若い音楽家たちの演奏会が開かれています。
 啓子さんも、何か演奏ができればーと、父からバイオリンをゆずりうけて練習を始めました。
 「100回の公演が目標ですが、いつの日か、私もここで恥ずかしくない演奏をしたいと思っています」
 最後には演奏者としての顔もちらりと伺えました。(交野市広報)
光林寺
八丁三所 星が降る

     八 
     丁 
   星 三 
   が 所 
   降   
   る 

星田の古い言葉に八丁三所(はっちょうみところ)というのがあります。これは弘法大師が獅子窟寺山で秘法をとなえられた時、大空から七曜の星が降り、それが三つに分かれて、高岡山の東にある星の森、光林寺の森、妙見山の頂上に落ちたという伝説によるものです。
以来これらの石を影向石(ようごうせき)としてまつることになったといわれています。

光林寺は、山号は降星山。 光林寺本堂以前は大念仏宗佐太来迎寺末であったが、西山浄土宗粟生光明寺末となった。本尊は阿弥陀如来である。当寺境内の森は、妙見山、星の森とともに三ヶ所の降星のあった所と伝えられている。
  光林寺の寺号につて、私部山添家所蔵文書に「寛永14年(1637)市橋下総守殿地改帳に星の道場とあるところ、寛文元年(1661)より降臨寺と相改め候」とあって、最初の頃は念仏の道場で、本山の許可を得て寺号を称したが、降星の森にある道場であったから、始めは降臨寺とし、後、同音の光林寺と変わった。
 山門の蟇股(かえるまた)は、室町時代のものと言われ、本堂前の松の大木は、「星田名所記」に老松と歌われ画かれている名木でる。

八丁三所の一つ、光林寺の影向石(降臨石)
善林寺
善林寺

     西 
     向 
  善  き 
  林  本 
  寺  堂 

星田の北にある善林寺は浄土真宗の寺です。
この本堂が西向きになっているのは枚方出口の光善寺と相対するように建てられたからだという、言い伝えがあります。
光善寺は1476年蓮如(れんにょ)が河内の民衆を教化したところで、当寺のこの伝説や寺号に善の字があるのを考えれば、何か深い関係があるように思われます。


善林寺の石仏群
徳川家康陣屋跡
夏の陣 徳川家康 陣屋跡

      夏 
    徳 の 
    川 陣 
  陣 家    
  屋 康    
  跡 

元和元年(1615)徳川家康は大阪城攻めのため星田に着き、平井清貞宅に宿営し、旗印を平井家が代々別当職をつとめる新宮山八幡宮の前に東面する崖の上にあった大きい松にかけました。
後にこの松を旗かけの松といっていましたが、現在はありません。

 元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里平平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。
 江戸時代後期の星田村大絵図には、平井家の西側あたりに、教学院と岩清水八幡宮の制札場が描かれており、はじめてその位置が確認されました。

徳川家康の星田陣営のお話

 元和元年(1615)5月3日、将軍秀忠は大阪城攻めのために伏見を立ち、洞が峠を越えて河内に入り、砂(四条畷)に陣した。
 父の家康は、同5日辰の下刻(午前9時)京都二条城を出て、未の下刻(午後3時)星田の陣に着いた。家康の陣所は、その頃星田の里正(りせい)・(村の長)平井三郎右衛門清貞宅を使った。清貞方ではあらかじめ知らせを受け、宅から10間ばかり北の方で、5間四方ばかりを高く上げた一室を修繕して、待っていたのである。
 家康は京都出発の時、家来の松平常慶にいいつけ、台所賄いの長持ちに、自分が戦国時代から野陣用の食糧としていつも使ったとおりの、米5升、干鯛一枚、糒(ほしい)・煮た米を干したもの、塩、味噌、鰹節、香の物を入れて来させて、それを用いたが、平井家では、家康の宿舎の付近にあった濠の鯉を料理して差し出した。
 家康に従って来た者は、おおかた野陣してその周辺を護ったが、折り悪くその夜は大雨だったので、もしや大坂かたの夜襲でもあろうかと、かがり火を方々に焚いて警戒した。
また、家康の旗印は、平井家が代々その別当職をつとめる、新宮山八幡宮の庭の松に高くかかげられた。(後、これを旗掛け松という)。
 そして、一隊は新宮山に陣した。ここは60メートルばかりの小丘で、星田の南に突き出て、はるか京都方面から交野地方の一帯を、手に取るように見渡すことが出来た所から、監視をした。
 
 家康は、雨がはげしいものだから、その翌日もここにとどまろうと言ったが四つ時(午後10時)雨が止んで星が見えた。それでもまだ、ここを動こうとはしなかったが、砂に陣とって居る先発隊の秀忠から、馬をとばせて急使がきた。その言葉では「大坂勢が遠く城を出て、八尾、久宝寺へ向ったから、こちらは藤堂和泉守や井伊掃部守が、合戦を始めようとしている」と。
 それを聞いた家康は「城兵が城を出て戦おうとするか、それではこちらの勝ち戦に決まった」と言った。こうして家康は、星田でゆっくり一夜を過ごし、翌6日河内中部へ馬を進めたのである。

山の根の道
1万年前から通じていた山の根の道
道沿いに流れる小さい川は上垣内川だそうで
こんな小川にも名前が付いている!
すそをめぐるは 山の根の道

      す 
       そ 
       を 
   山   め 
   の   ぐ 
   根   る 
   の   は 
   道 

古代の河内の中心である国府(こくふ)(柏原の国分)に至る南北道として山の根(やまのね)の道がありました。
この道は、山麓の村々を通るためにまがりくねっていました。
その後、高野山が開かれて以来、高野山参詣の人々のために整備されて東高野街道となりました。

星田寺(しょうでんじ)
星田寺 富くじの

 古い記録

   星田寺

星田寺(しょうでんじ)の檀家は江戸時代には、祈祷檀家(きとうだんか)といわれるもので、恒常的に供養料をいただく現代の檀家と違う形のものでした。したがって富くじを売って寺の経費にあてていたという記録が残っています。
この富くじは年号が享保乙卯(1735)と明らかになっており、公認された富くじとしては古いものです。

星田寺(しょうでんじ) 奥に本堂、右の堂には、
交野市指定文化財に登録されている「十一面観音立像」(平安後期)が安置されている。

星田寺の石仏群

 
 星田寺の境内に入り、左に本堂、右に市指定文化財の「十一面観音立像」が安置されているお堂があります。
 星田寺の石仏群は、昭和54年1月に古文化同好会の有志が、星田寺境内から掘り起こして整備したものです。この埋まっていた石仏さんたちは、明治初期に行われた廃仏毀釈(政府の政策により行われた仏教施設の破壊)で、石仏が破壊される危険が迫ったため、村人たちが境内に埋めたものです。
 写真右から2番目に、顔が削り取られた石仏さんが写っていますが、これはその際に、なされたものでしょう。
 星田には、お寺以外の場所にも、たくさんの石仏さんがあり、新しいお花などが供えられ、地元の人たちによって大切にまつられています。

星田寺の石仏群(室町時代)
慈光寺

境内のタイサンボクの花が満開であった!
慈光寺本堂  境内の右は大師堂
慈光寺には、寺子屋時代の先生と生徒の机が保存されている。
明治5年、星田郷学校が慈光寺に創設され、明治14年善林寺に移転、
18年までの4年間善林寺が学校になった。

慈光寺 交野に唯一の十三仏が安置されている
慶長12年(1607)地上総高 145センチ

 十三仏というのは、「死者の追善を行う忌日の思想が一般化」した南北朝時代に成立したとされており、「死後の仏事をあらかじめ自分で営む逆修仏事のため」に信仰されてきたものであると言われる。
そうして、十三の仏にそれぞれに忌日、年忌が決まっている。配列のしかたは種々あるが、慈光寺のものはつぎのようである。
 上から一段目は、虚空蔵菩薩(33年)、2段目右から大日如来(13年)、阿悶如来(7年)、阿弥陀如来(3年)、3段目右から薬師如来(七七日)、観音菩薩(百か日)、勢至菩薩(1年)、4段目右から弥勒菩薩(六七日)、地蔵菩薩(五七7日)、普賢菩薩(四七日)、5段目右から不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文殊菩薩(三七日)。

星田会館の直ぐ北の土塀道左の小川付近から
鍋賀地蔵(右)(室町初期)が発見された。 現在、慈光寺に祀られている。
法瓶三経蓮 右は、頭部が欠けた唐臼地蔵
薬師寺
瑠璃光山 薬師寺に 千体仏

      瑠 
    薬 璃 
    師 光 
  千 寺 山 
  体 に    
  仏   

薬師寺は星田にある小寺院で、山号を瑠璃光山(るりこうさん)と号し、四つの箱に納められた671体の千体仏があります。星田の有力者が願主となり、亡者の冥福を祈って作られたと考えられます。本尊の木造薬師如来立像と共に室町時代の作で、市指定文化財に指定されています。

古式地蔵さん
 六路の辻から星田小学校の正門前を通り、西の村の本通りの細い路地をしばらく行くと、右に土塀と大きな門構えの家が見えます。その前の路地を入ったところに薬師寺があります。
 古いお堂の小さな門をくぐると、土塀の西側に十数体の石仏さんが並び、中世の世界にタイムスリップしたような気になります。普段は公開されていませんが、11月21日は公開日で、予約(特集ページ「市指定文化財の一般公開」を参照)の上、見学ができます。
 その中の1つ、地蔵菩薩は、頭の後ろに三重の円光背が刻まれ、右手は腕を下げています。新しい時代の地蔵菩薩は、右手に錫杖を持っているので、ここの地蔵菩薩は古い形式のものであることが分かります。保存状態も良く、やさしいお顔のお地蔵さんです。
 私市の弘安地蔵と同じ古式地蔵で、鎌倉時代中期〜南北朝時代につくられたものと思われます。
阿弥陀如来さん
 地蔵菩薩の左に立っている阿弥陀如来立像は、長方形の石に、頭が大きく厚肉彫りされ、首には3本のしわがあり、ふくよかさを示し、足の指もしっかりと表現されている立派な石仏さんです。
 ほかにも、双仏石や首から上がない阿弥陀さん、慶長十二年(1607年)の「南無阿弥陀仏」の名号碑、上にくぼみがある唐臼地蔵、宝瓶三茎蓮など、珍しい石仏さんが並びます。
 また、薬師寺には、市指定文化財の薬師如来立像や千体仏などがあり、現在、住職はいませんが、星田の人たちの善意により、大切に守り伝えられています。

薬師寺の石仏群(左が阿弥陀如来、左から2番目が地蔵菩薩)

星田の道
星田の道 (土塀の辻) 西の村の本通から新宮山へと通じる道-心なごむ道
 星田の旧村の道は、いずれも曲がっていて見通しがきかず、いびつの三ツ辻または四辻として複雑に交差し、侵入者を迷わすべく、工夫して作られた道である。
 幾星霜を経て、そこに居住する者は、馴れてしまって別になんとも思わないが、他所から来た人は閉口する。どうすることも出来ない困った道である。

 慈光寺の東北角の元制札場のあったところの中川に、二本の石橋が斜めに架けられていたので、「すじかい橋」とも「はすかい橋」とも言った。
和久田家の環金具
江戸時代の門長屋に来客用の
馬をつなぐ「駒繋ぎ金具」
星田の電話番号の一番のお宅
新宮山八幡宮跡と旗掛け松
新宮山頂上にある八幡宮跡(右)、星田の土地が石清水八幡宮の荘園となって、
八幡宮の分霊を勧請(かんじょう)してお祀りした。宮跡に残る延慶2年銘(1309)の
五輪塔の残欠と天文17年(1548)の宝篋印塔により、この宮の古さを偲ぶことができます。
 現在、新宮山一帯は、星田公園として新しく生まれ変わった。平成9年5月20日オープンした。面積1.6ha(約4800坪)。5つの広場(水の広場、芝生広場、野外学習広場、多目的広場、林間広場)に分けられ、市民の広場として利用されている。

 新宮山
は標高65メートルで、麓には弥生時代の星田最古の米作りの跡が見つかっている。
古墳の石棺があったらしいが、現在は不明である。今から約700年前に八幡宮の分霊を勧請し、八幡宮跡がありここを新宮山といった。

 元和元年(1615)、徳川家康が大阪城攻めの時、星田の平井家に宿陣した。東軍16万人のうち、家康手兵15000人は星田から打上に野営して家康宿舎の周辺を護った。家康の旗印の白旗が、新宮山山頂の八幡宮社前の松の大木に高く掲げられた。平井家の文書に寄れば、この松は太さ五尺余(1.5m)と記録されている。残念なことに明治の初年にかれてしまい、その跡に記念の石碑「旗掛け松跡地」が立っている。
愛染律院跡、墓地
 愛染律院跡 
新宮山の北の低いところにある。宗旨は真言律宗で八幡宮の社坊であった。宝暦4年(1754)の愛染律院梵鐘銘文から次のことが判明した。文安2年(1445)記録するところでは、新宮山に6支院(小松、塔頭)あり、それは阿弥陀院、弥勒院、宝珠院、宝蔵院、宝積院、愛染院で、現在(宝暦4年)あるのは唯愛染院1院であると書かれたいた。
 この寺の地蔵菩薩立像が明治5年、岡山県井原市高山寺に移籍され、その像は国の重要文化財に指定されている。

愛染律院跡の土塀が今も残っています


連判状 残す星田の 若い衆

      連 
    残 判 
    す 状 
  若 星   
  い 田    
  衆 の 

江戸時代の終わり頃、星田村の若者たちが書き残したものに連判状(れんぱんじょう)があります。これは日常生活の「諸法度(しょはっと)」を村の長老たちに誓ったものです。「差し入れ一札の事御公儀よりの御法度のおもむき堅く相守り申す可(べ)く候」からはじまり、勝負事はしない、両親を大切にする等十二条あって、末尾に署名拇印(ぼいん)が押されています。


 一里塚から光林寺、善林寺、家康宿陣の跡、山根道、星田寺、慈光寺、薬師寺、新宮山などを訪ね、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 次回の歴史健康ウォークは、2010年7月10日(土) 「郷土史かるたで歩く・歴史道私部編」の予定です。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

  ※和久田薫氏著の「星田風土記」を参照させていただきました。

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