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交野市の地図を広げてみると、あちらこちらに夜空にちなんだロマンチックな地名が多い。 こうした場所をぐるっとひと巡りしてみるのも楽しいですよ。 市の南東から北西へと斜めに横切って流れる天の川。 肩野物部氏(かたのもののべし)の一族が、この天野川の流域で米作りを始め、やがてこの一帯は「甘い(おいしい)米のとれる野」甘野、甘野川と呼ばれ、それが後に天野川といわれるようになったと伝えられています。 「交野郷土史かるた」より 大昔、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという話、また、平安時代に入って、むかしの甘野川は天の川 となり、 元禄2年(1689)2月に当地方を訪れた当時六十才の貝原益軒がその紀行文「南遊紀行」に当時の天の川の情景を次のように記している。 「天の川の源は、生駒山の下の北より流れ出で田原と言う谷を過ぎ、岩舟に落ち、私市村の南を経、枚方町の北へ出て淀川に入る。 この谷の奥に、星の森有り。星の社(現在の星田妙見宮)あり。其の神は牽牛織女也。これ二神をいわれり。」 六十才の翁は、春浅い天の川の情景に心をときめかし、綴った。 嵯峨天皇(弘仁年間 810〜824年)のころ、弘法大師が交野地方に来られた時に、獅子窟寺吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、三ヶ所に分れて落ちたと言います。 それが高岡山の東の、、
交野市倉治671番地に機物神社(はたものじんじゃ)があり、この伝説に登場する天棚機比売大神(あまのたなばたひめおおかみ)を御祭神としている。 また、姫と牽牛が逢瀬を楽しんだことにちなんだという逢合橋(あいあいばし)は私部(きさべ)の西を流れる天の川にかかっている。 もともとは、機械技術を伝えた祖先を祭神としていましたが、戦国時代末期には、祭神は織女星の棚機姫(
たなばたひめ)と変わりました。 そして、7月の収穫祭や渡来人の星伝説、風習などが融合して、現在の日本の七夕行事の原形になったと考えられ、 日本における七夕伝説の発祥の地は、交野市から枚方市に広がる「交野が原」だと言われている。 |
天の川の西岸に、年老いた一人の神様が住んでおられた。 ところが、父神は、姫が追追と年頃になったきたので、いつまでも独りで置くのも可哀相に思い、良き婿を選んで姫と配合(めあ)わそうと考えた。 美しい姫に立派な壮者、それは全くの似合いの夫婦であった。姫は壮者を心から愛し、壮者も世にも希な美しく優しい姫を愛した。そして二人は、ただ夢のように父の事も仕事の事もすっかり忘れた、青春の歓喜に酔って幾日も幾日もすごすようになった。 しかし、二人の歓喜も長くは続かなかった。それは、姫が牽牛を迎えてからは機などは見向きもせず、二人で楽しい語らいばかりするようになったため、雲や霧や霞が少しも織り出されなくなったからだ。 父神はそれを心配し、ときどき姫に機織だけは中止せぬよう注意したが、若い姫と牽牛には父の注意など耳にも入らなかった。 父神は姫も婿も可愛かったが、それよりも自分の支配している天界や自然界に支障が起きては天神に申し訳がないというので、ある日、残酷であったが、二人の仲を割いて婿を元の天の川の東の峰に帰した。 別れた二人は、互いに川を挟んで恋い焦がれつつ一年の月日を送り、年に一度七月七日の夜、二人の仲を取り持つ鵲(かささぎ)が橋を造ってくれるのを待ちかねてこれを渡り、夏の短い夜を楽しく一緒に過ごしたという。
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