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星にまつわるふるさと自慢
ようこそ交野市へ

私たちの住んでいるこの交野が原には、古くから渡来人が往来し、多くの文化が流入した。このような文化は、当地方の自然風土の中で育まれ、当地方独自の文化を築き、多くの伝承文化を今に伝えています。

言い換えれば、今日残る当地方の伝承文化は、当地方の文化形成を窺い知る上での貴重な糸口を示唆していると言えるでしょう。交野が原を東西に横流して、磯島あたりから淀川に流入する天の川を中心に、この地方には古くから七夕と星、天空にちなんだ地名や伝承がまるで星くずのように散らばっています。

1.星に由来する地名がいっぱい

・・・・星田、南星台、天田の宮・・・・

交野市の地図を広げてみると、あちらこちらに夜空にちなんだロマンチックな地名が多い。
たとえば、星の森星田妙見宮、星田旭遺跡などがある星田、南星台の辺り。
このほかにも、天田の宮月の輪滝など不思議にも星に関する地名が点在しています。

こうした場所をぐるっとひと巡りしてみるのも楽しいですよ。
ゆっくり散策すれば、さまざまな伝説に触れることもできます。


2.「天の川」その名の通り、美しい川です。

市の南東から北西へと斜めに横切って流れる天の川。
天の川は生駒を水源とし、磐船の渓谷を流れ交野平野を潤し、淀川に注いでいます。そして、その支流とともに土地に潤いを与えながら、はるか昔から人々に愛されてきました。

肩野物部氏(かたのもののべし)の一族が、この天野川の流域で米作りを始め、やがてこの一帯は「甘い(おいしい)米のとれる野」甘野、甘野川と呼ばれ、それが後に天野川といわれるようになったと伝えられています。

天の川かるた

「て」 伝説 豊かな 天の川
「交野郷土史かるた」より

大昔、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという話、また、平安時代に入って、むかしの甘野川は天の川 となり、
天上の天の川にあてはめた七夕の話等いろんな伝説に富んでいます。
これらは天野川流域の農耕文化の発展を意味していると思われます。

元禄2年(1689)2月に当地方を訪れた当時六十才の貝原益軒がその紀行文「南遊紀行」に当時の天の川の情景を次のように記している。

天の川の源は、生駒山の下の北より流れ出で田原と言う谷を過ぎ、岩舟に落ち、私市村の南を経、枚方町の北へ出て淀川に入る。
獅子窟山より天の川を見下ろせばその川東西に直に流れ、砂川に水少なく、その川原白く、ひろく、長くして、恰も(あたかも)天上の川の形の如し、さてこそ、この川を天の川とは、只天の川の流れの末ばかりを渡りて、古人の天の川と名付けし意を知らず。おおよそ諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直にして、数里長くつづきたるはいまだ見ず。天の川と名付けしこと、むべなり。

 岩船より入って、おくの谷中七十八町東に行けば谷の内やや広し。その中に天の川ながる。其の里を田原と云、川の東を東田原と云、大和国也。川の西を西田原と云、河内国也。一潤の中にて両国わかれ、川を境とし名を同じくす。この谷水南より北に流れ、西に転じて、岩船に出、ひきき所に流れ、天川となる。(中略)

この谷の奥に、星の森有り。星の社(現在の星田妙見宮)あり。其の神は牽牛織女也。これ二神をいわれり。」

六十才の翁は、春浅い天の川の情景に心をときめかし、綴った。
この天の川の情景こそが、またこの自然風土があってこそ、交野の当地に素晴らしい伝承文化が生き続けてきたのである。交野山を仰ぎ見て、天の川のせせらぎに耳を澄まし、古代の人々はこの郷土の中で何を感じたのであろうか。   (星田妙見宮・ちらしを参照)


3. その昔、 八丁三所 に星が降った
そんな素敵な伝説があります。

嵯峨天皇(弘仁年間 810〜824年)のころ、弘法大師が交野地方に来られた時に、獅子窟寺吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、三ヶ所に分れて落ちたと言います。

それが高岡山の東の星の森光林寺の境内
星田妙見宮
のご神体の三ヶ所で、
神仏が姿を変えてあらわれた影向石(ようごうせき)として信仰されるようになったと伝えられています。


星田妙見宮
星の森
光林寺













4.七夕発祥の地・織姫伝説
交野市倉治の機物神社のお話

交野市倉治671番地に機物神社(はたものじんじゃ)があり、この伝説に登場する天棚機比売大神(あまのたなばたひめおおかみ)を御祭神としている。

また、姫と牽牛が逢瀬を楽しんだことにちなんだという逢合橋(あいあいばし)は私部(きさべ)の西を流れる天の川にかかっている。

もともとは、機械技術を伝えた祖先を祭神としていましたが、戦国時代末期には、祭神は織女星の棚機姫( たなばたひめ)と変わりました。

そして、7月の収穫祭や渡来人の星伝説、風習などが融合して、現在の日本の七夕行事の原形になったと考えられ、

日本における七夕伝説の発祥の地は、交野市から枚方市に広がる「交野が原」だと言われている。

                          
織姫伝説

天の川の西岸に、年老いた一人の神様が住んでおられた。
その神様に棚機津女命(たなばたつめのみこと)という一人の美しい姫がおられた。この姫は小さい頃から 機(はた)を織る事が上手で、いつも雲や霧や霞の美しい織物を織っていた。
この姫のお陰で、下界にはいつも自然の景色に美しい変化が起こったので、下界に住む人々はたいそう喜んだ。

ところが、父神は、姫が追追と年頃になったきたので、いつまでも独りで置くのも可哀相に思い、良き婿を選んで姫と配合(めあ)わそうと考えた。
そして、色々と男らしい立派な男を求めたが、天の川の向こう岸にいる牽牛(けんぎゅう)という壮者(わかもの)が一番立派で美しかったので、ついに姫の婿にした。

美しい姫に立派な壮者、それは全くの似合いの夫婦であった。姫は壮者を心から愛し、壮者も世にも希な美しく優しい姫を愛した。そして二人は、ただ夢のように父の事も仕事の事もすっかり忘れた、青春の歓喜に酔って幾日も幾日もすごすようになった。

しかし、二人の歓喜も長くは続かなかった。それは、姫が牽牛を迎えてからは機などは見向きもせず、二人で楽しい語らいばかりするようになったため、雲や霧や霞が少しも織り出されなくなったからだ。
天界で一日でも雲や霧や霞を織らなかったら、地上では色々な物象の障(さわ)りが起こるのであった。

父神はそれを心配し、ときどき姫に機織だけは中止せぬよう注意したが、若い姫と牽牛には父の注意など耳にも入らなかった。

父神は姫も婿も可愛かったが、それよりも自分の支配している天界や自然界に支障が起きては天神に申し訳がないというので、ある日、残酷であったが、二人の仲を割いて婿を元の天の川の東の峰に帰した。

姫も壮者も相愛の仲を割かれるのを悲しんだが、父の命令では仕方なく、再び天の川の東と西の岸に別れて住むようになった。

別れた二人は、互いに川を挟んで恋い焦がれつつ一年の月日を送り、年に一度七月七日の夜、二人の仲を取り持つ鵲(かささぎ)が橋を造ってくれるのを待ちかねてこれを渡り、夏の短い夜を楽しく一緒に過ごしたという。


「伝説乃河内」より)(交野市史より)


交野市史、交野市制25周年記念誌、
交野市文化財事業団の資料、星田神社ちらしを参考

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