交野の妙見川ぞいの道を下ると星田妙見宮にでる。
生駒山を主峰とする生駒山山系第一列目の北端にあるこの地点は、東に磐船の渓谷を流れる天の川、天の川に沿って走る岩船街道を眼下にし、北は平安の頃、宮人たちの狩猟した交野が原を一望し、遠く北摂の山々と淀川の流れを望む、妙見山(標高162m)に位置している。
この山裾1.5キロ〜2キロには、星田旭の縄文中期の遺跡があり、坊領、天田の宮、森の弥生後期の遺跡があり、北方4キロには、藤田山古墳・北北東約3.5キロには丸山古墳が、南南西約4きろには忍ヶ丘古墳があり、この妙見山にも昭和43年12月の調査により、ひすいの勾玉、剣、刀子、円筒埴輪の破片等が発見された。
いずれの古墳も前期古墳であり、4世紀前半のものであった。かって、弘法大師が、七曜星の降るのを見て、星の霊場としたと伝えられる宮である。
妙見川の川沿いの妙見川原には、春ともなれば、桜のトンネルを花見の人たちで賑わう。桜とレンギョウやユキシダレの花がいっせいに、今が春よと咲き誇っている。ところが、妙見宮の鳥居をくぐると、照葉樹林の林が、全く違った装いを見せる。
かって、星田妙見宮は、妙見台住宅が出来るまでは、山と一続きであった。
この尾根筋を辿れば、菖蒲滝に出られた。昔は、妙見宮にお参りして、この尾根筋を辿って滝に行く径があった。だが、今では孤立した森になってしまった。正面の鳥居をくぐると、杉の大木が、両側に立ち並ぶ。
しかし、地下水脈が妙見台住宅開発の後に断たれてしまったのか、杉の立ち枯れが目につく。
鳥居をまっすぐに進むと、奥に水の枯れた滝がある。昔はこの滝も水が豊富であった。手前の道を行くと手水があり、そこより121段の石段を登りきると、社務所があり、北摂の山々や、そして交野が原が眼下に見下ろせる。実に素晴らしい眺めである。この場所に佇んでいると、太古の昔が偲ばれる。しかし、今は時も流れ、ふと我に返ると、長く伸びる道筋に自動車がひっきりなしに走るのが小さく見える。
縄文の大阪平野には、照葉樹林が一面に生い茂っていたという。そこに人が住みついて幾千年。今はわずかな田畑と、やたらに家が建ち並び、昨年は大阪府公害監視センターと、大阪府立農林技術センターが、地球環境問題として、酸性雨の影響調査で、この森を調査定点としている。
森もどんどん少なくなっている。近年、よからぬ人たちがこの森に夜な夜な古いバイクや自転車を捨てに来る。ハイカーは、草木を抜き、ゴミの数も増えてきた。
かって、天野史郎氏がこの森の植物を調べたら、当時約350種類もの数を確認された。シイ林内の植生は安定し、四季を通じてそれほど変化もなく、林緑部では四季折々に色々なものが見られ、行くたびに、色々の新しい発見があったと言う。
特に、この350種類の内、シダは50種を占め、林床の保護された森としては貴重な森であると言う。ここには、よそでは消えてしまった古代の大阪平野の植物と、その林の様相が今も残こされている。現代大阪に残されている縄文時代を偲ぶ貴重な第一級の森だと折り紙のついた森であることを知る人は少ない。
天野史郎氏の調査によると主なものとしては、アマクサシダ、クジャクフモトシダ、ナガバノイタチシダ、オオカナワラビ、オニカナワラビ、トウゲシバ、オオキジノオ、キジノオシダ、ハカタシダ、オクマワラビ、オオイタチシダ、ヤマイタチシダ、マルバベニシダ、イノデ、アイアスカイノデ、ミドリヒメワラビ、イワガネゼンマイ、イワガネソウ、フモトシダ、フユノハナワラビ、などである。
太古の縄文の時代にはシダ類も多く生殖していたのである。
特にアマクサシダは、大阪府下においては殆ど見ることの出来ないものです。このアマクサシダもナガバノイタチシダもいずれもが暖地性のものであり、気候が温暖だった縄文の頃から、今に残っているのだろうと氏は言う。妙見山の中でも、場所により色々な変化を見せてくれる。
枯れた木々の下からまた新しい芽が芽生え、本当に森は生きていると感じさせてくれる。太古から今に至るまで生きてきた森である。決して森を死なせてはならない。みんなで守らなければならない森である。
心ない人々によって傷つけられないことを切に祈りたい思いである。この日本は世界に類のないほどシダに恵まれた国であり、これが日本の太古からの自然である。この森を本当に愛して欲しいと思う。みんなで守って欲しいと思う。