10/28、第7回の参加者は、4名。 予報より早く小雨が降り出す。
午前9時過ぎ、交野城跡・石仏を訪ねて、いきいきランド交野ドーム噴水前をスタート。
府道久御山線を北に行き、交野小学校方面へ左折。小学校のメタセコイヤを左に見て、北へ進む。
私部7丁目、この付近に集慶殿(古い光通寺)があったと平田会長から説明を受ける。「ならずの柿」や「おとなしのどんどん」などの伝説を聞く。また、ここに行殿という地名が残っている。
田圃道から見える、白い交野ドーム、交野小学校のメタセコイヤの遠望がいい。こんな風景がいつまで存続するのか。残って欲しい風景の一つである。今日の交野山は、雨に少し煙っているがここから見ても良いですね。
免除川にでて、右に免除池。覗き込むと、サギがバタバタと飛び立つ。
再び免除川を西に進み、JA交野市の所で左折、バス通り道を少し進み、右手の細い道を400mほど直進すると、百々川(どどがわ)に架かる市場橋に出る。この橋の上側に洗濯場があったそうです。その洗場の踏み石であったものが、住吉神社の木立の下に保存されているという。
私部城の安見右近も通ったいう、大人がひとり通れるような細い道を東へ行き、路地を左に曲がったところに「またべ地蔵」がおられる。お茶が三つお供えされ、赤い前垂れがかわいい。この路地は光通寺へ通じる。
再び路地を戻り、T字路を西へ行くと城跡にでる。この角地付近から弥生遺跡が出た。石器や弥生中期の壺が出土。さらに西へと続く畑と藪、木立が見える、ここが私部城跡である。
私部城周辺見取図を見てください。
北側の繁る木立の台地が本郭(城)。その西に切通し(堀)があり、一段と高く矩形状の台地が伸びているのは、城の西の端(二郭字天守)である。道の南側には、藪や背の高い榎が見え、綺麗な土蔵の前に小さな池がある。これが本丸の名残だと言われる。屋敷(くるわ)がつながって出来ていた、平城(ひらじろ)の跡。
この辺りは、私部の古い時代を肌で感じる所である。是非、後世に残してもらいたいものです。
帰りは、光通寺へと歩く。両側には、私の好きな土塀や板壁がある家並みが続き、足痛地蔵、石垣地蔵にお参りする。さらに、市役所から交野小学校へと続く道へ出て、札場の橋。そのまま、東へ150m行って、左へ上がったところに向井山地蔵がある。
最後に住吉神社に寄る。平田会長が、戦時中出征兵士が武運を祈ったと言われる本殿の前の石畳に立たれ、奥野平次さんから聞かれたいう当時の話をされた。
さらに境内の南西に案内され、市場橋の東の洗場の石として使われた、踏み石や、もと光通寺関係のものと言われる龕(がん)=仏像を収める厨子の屋根石、と層塔であることを確認。
私部の町に、昔の歴史がしっかりと残され、今も息づいていることを確認できた、そんな喜びを感じたウォークでした。
平田会長の軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
行殿(地名)の言い伝え
1.経田(きょうでん)
読経料として寺に寄進された荘園、寄進を受けた寺は光通寺
2.免除川が久御山線をくぐる所より少し下流の左岸に池がある。
免除池と呼ばれている。この池で行者が水浴をして修行した。
この池は元は水溜りであったという。
また、修行のためにこもる小さな堂が建っていた。
この湧き水の出る水たまりを行堂の池と呼ぶようになり、それが地名となって
「行殿」になったというのである。
伝説
「おとなしのどんどん」
集慶殿(古い光通寺)の開祖別峰和尚が伊勢皇太神宮の神官と談義中、そばの小川の流れ落ちる水音がやかましいので、和尚が「やかましい」と言われた。すると、うるさく音をたてていた堰(どんどん)が静かになったという。
「ならずの柿」
別峰和尚がお話中、境内の熟れた柿の実が「ぽつん、ぽつん」と音を立てて落ちるので、「やかましい」と大声で叫ばれた。それ以来、この柿の木には実がならなかったという。
「またべ地蔵」:三体をいう。東を向いた横40cm、縦57cmの地蔵さま。北を向いて向かって右は縦36cmの阿弥陀様。左は縦33cmの地蔵様。歯痛、夜泣きに効くという。
「足痛地蔵」:光通寺の西、梶氏宅の入り口東側に西を向いた花崗岩製の丸彫りの地蔵さま。
この地蔵様は足痛を治してくださる。江戸時代のもの。
「向井山地蔵」:右から板碑、続いて双体仏などの石仏が南面している。板碑は、二条線の下に深い船形光背を彫りくぼめ、その中に阿弥陀さまの坐像を浮き彫りしている。室町時代初期のもの。
市役所から小学校への道路に沿って、用水路が流れており、この両側は土地が少し高くなっている。石仏のある辺りもなだらかな台地になっていて、「向井山」という地名が残っている。
板碑というのは、死者の供養の為に路傍に建立するもので、身部の上部には弥陀の尊像等を刻み、その下部には建立者名や建立趣旨、願文等を刻む。死者と共に、残された自分たちにも弥陀の救いがありますようにと祈りをこめたものだろう。
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