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 交野歴史健康ウォーク
2003.9.13、 第52回 尺治川の源流を訪ねて

 尺治川の中を歩いて月輪の滝へ

9/13(土)午前9時 京阪電車私市駅集合・出発
行程:私市駅→天野川石堰→植物園日の出橋→尺治川を歩く→
尺治川床固工→尺治滝ガ広→月輪の滝→吉向焼→私市駅


尺治川の中を歩く歴史ウォークMAP

 9/13(土)天候晴れ、参加者17人。猛烈な台風14号の襲来で天候が心配されたが、すっかり晴れ上がり絶好のウォーク日となり、いつもの元気なメンバーが勢揃いした。私市駅前で平田さんより源流を訪ねるシリーズの一つで、今日は尺治川を歩いて月輪の滝まで行くと説明を受けて9:10分過ぎ、月輪の滝を目指して出発した。
 まず、168号線を渡り、田圃道を横切り国の登録文化財・天野川の堰堤を見学。明治32年に、淀川水系砂防事業として全国に先駆けて行われたもので、100年も前に造られたもので立派な造りに歓声を上げる。
 この石堰の下が戦前の子供たちの水遊びの場であったそうだ。平田さんたちが子供の頃、学校から帰ると急いで集まり水遊びをしたと言われる、私市の天の川石堰(いしで)。水の綺麗な川を覗き込むと、元気な子供たちの喚声が聞こえてきそうであった。よき時代の思い出の場所である。
 また、この堰堤の右岸に石組みで堰き止め加賀田用水路への取り口が造られていた。加賀田用水は、私市から森、私部と広く田圃の灌漑用水として今も利用され続けている。天の川の水を上手く取入れた先人たちの汗の結晶である。
 加賀田用水路をゆっくりと歩いて渡り、尺治川砂防堰堤を確認。現在、私市植物園へと通じる日の出橋が掛替えされ、付近は公園化に向けて造成中である。

金剛滝が広で発見された「蔵骨器とせん仏」
蔵骨器(土師器の中に骨と富寿神宝50枚)と
せん仏(弥陀三尊)
が発見された


 再び、168号線を渡り、尺治川の堤を月輪の滝に向けて進む。私市小学校へと渡る橋の下を過ぎた所で堤がなくなり、尺治川の川底に下り水のない川をくもの巣や流木などを払いのけながら歩く。途中、水溜りなどを避けながら10分ばかり歩いた所で、国の登録文化財尺治川床固工に到着。昨年秋に訪れた時に比べて、土砂に埋まり随分小さく感じられた。
 ここから先は、川に水があり遡るのを断念。平田さんの誘導で土手を斜めに這い登り月輪の滝へのハイキングコースの道に出ることが出来た。折からの台風の余波か?蒸し暑い中にも涼しい風を受けながら気持ちよく歩き、尺治の滝が広に来たところで、ここから昭和45年、宅地造成中に「蔵骨器(土師器の中に骨と富寿神宝50枚)とせん仏(弥陀三尊)」が発見されたこと、古墳時代の器に平安時代に作られた富寿神宝と同時代の僧のお骨がが見つかった、まさしくここは、獅子窟寺の寺域であったことを教えてもらった。
富寿神宝は、皇朝十二銭の一つである。




 月輪の滝まで登り、小休止。滝の飛沫と爽やかな風に暫し疲れた身体を癒す。

  月の輪の滝のところは天野川の磐船神社の巨岩が並ぶ場所とよく似ている。巨岩が谷を埋め、その巨岩の合間を滝となって落ちている。この滝は金剛の滝と呼ばれている。この付近一帯はもともと獅子窟寺の寺内で、僧侶達の修業の場であった。僧侶が滝に打たれ、修業僧の鍛錬の場であったところから「金剛の滝」と呼ばれている。 月の輪の滝の下の渓流は、夏は子ども達の格好の水の遊び場として賑わっている。
当日も、お子さん連れのご家族が水に入って遊んでおられた。
この付近は、交野八景として市民に広く愛されている。

交野八景の一つ、「尺治の翠影(しゃくじのすいえい)」

「尺治」と呼ばれる谷は、古くから神がおられる神聖なところとされ、滝や大岩などが信仰の対象となっていました。府民の森から奈良へ通じてる道は、その昔、大和から新しい文化がやってくる道でした。

帰りは同じハイキングコースをくだり、吉向窯に立ち寄り展示物を見せて頂く。
素晴らしい色合いの器に思わず歓声をあげる。
吉向窯は、19世紀のはじめに、愛媛の吉向治兵衛が大阪の十三(じゅうそう)に窯を開いたのが始まり。大阪には数多くの窯場があったが、現在まで続いているのは吉向焼だけである。吉向焼は元来、多彩な技法で知られ、青磁や、三彩のほかに多種多様な技法が使われている。楽焼き、色絵などの茶器が主流である。
窯元はこの交野市私市の松月窯と東大阪市の十三軒窯がある。」


 帰りは一路、私市駅へ11時過ぎ解散。
平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!  (ふるさと交野を歩く 山の巻 参照) 


尺治川(しゃくじがわ)
私市のくろんど池へのハイキングコースの道筋の谷を刻んで流れている清流が尺治川である。水源は月の輪の滝を登って砂防ダムを越え府民の森に入る。睡蓮やあやめが咲くすいれんの池の上、標高240mぐらいの所にある。少し東に行けば奈良県に入るが「くろんど池」にでる。
 尺治というのは地の神(いわゆる水、岩、沢など清らかな、あるいは幽玄な雰囲気をかもし出す渓谷の地)を祭るところから付けられた名前である。
 尺治滝が広は、私市の人々が月輪の滝に行くのに、尺治掛ケ石の急崖の下の細い谷道を通り抜けて、滝を前にして広い場所に出て、やっと息がつける場所であった。そして、東を見れば目の前に滝の周辺部のうっそうたる森林(杉林)である。荘厳な感じのする滝口である。身を清めるなり、滝にうたれるなり、滝にお参りするなり、すべての願いを包み込んでくれる雰囲気を持っている場所である。


ミニ歴史ガイド
 昭和45年、南田さんが滝が広で宅地造成中に「蔵骨器(土師器の中に骨と富寿神宝50枚)とせん仏(弥陀三尊)を発見された。平安時代始めの僧侶の骨であると推定されている。

せん仏とは、粘土を型に入れてつくられたタイル状の仏像をいい、近畿地方を中心に全国数十箇所の古代寺院から見つかっています。これらのせん仏によって堂内をきらびやかに飾ったのであろう。

皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)
皇朝十二銭とは,古代の日本政府が発行した『銅銭の総称』で,本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)という呼び方もあります。有名な「和同開珎」から「乾元大宝」までの十二の銅銭を言います。

・708年(和銅元年)  「和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)」
・760年(天平宝字4年)「万年通宝(まんねんつうほう)」
・765年(天平神護元年)「神功開宝(じんごうかいほう)」
・796年(延暦15年)  「隆平永宝(りゅうへいえいほう)」
818年(弘仁9年)  「富寿神宝(ふじゅしんぽう)」
・835年(承和2年)  「承和昌宝(しょうわしょうほう)」
・848年(嘉祥元年)  「長年大宝(ちょうねんたいほう)」
・859年(貞観元年)  「饒益神宝(しょうえきしんぽう)」
・870年(貞観12年)  「貞観永宝(じょうがんえいほう)」
・890年(寛平2年)  「寛平大宝(かんぴょうたいほう)」
・907年(延喜7年)  「延喜通宝(えんぎつうほう)」
・958年(天徳2年)  「乾元大宝(けんげんたいほう)」
国道168号線を渡り
天野川の石堰に向う
国の登録文化財
尺治川砂防堰堤
加賀田用水を渡る 整備された尺治川の堤
尺治川の中を遡る やっと尺治川床固工が見えてきた
国の登録文化財
尺治川床固工を観察
尺治滝が広
宅地造成中に「蔵骨器と
せん仏(弥陀三尊)を発見された
月輪の滝(金剛の滝) 月輪の滝の前で小休憩
吉向窯展示室 吉向焼の展示


交野市の国の登録文化財
天野川石堰堤
市内を流れる天野川は、交野が原に伝わる七夕伝説の伝承地として、古くより知られています。しかしこの川、しばしば洪水被害が発生していたようであり、砂防事業は不可欠でした。
淀川水系砂防事業は、明治中期に全国に先駆け行われ、本堰堤は、当時の技術レベルをうかがい知ることのできる貴重な近代化遺産です。明治32年(1899)年築造。
傾斜勾配は、約17度を測ります
しゃくじがわさぼうえんてい 尺治川砂防堰堤
尺治川は、府民の森より流れ出、天野川に合流する川で、上流には月輪の滝(別名 金剛の滝)があります。
砂防堰堤は、ちょうど天野川に注ぎ込む地点にあり、現在は流れのないため石組みがよく見られます。
しゃくじがわゆかかためこう 尺治川床固工
尺治川の河道内に設置されていますが、うっそうとした竹林の中にあり、通常は望見することができません。
国の登録文化財制度
 平成8年に、築造後50年以上を経過した建造物の中で、歴史的景観に寄与するもの、再現が容易でないものを対象とし、多種多様の建造物を目録に登録するとともに、それを公表することによって保護の促進を図るため設けられた。問い合わせは、交野市文化財事業団 (п@893-8111) 
交野市ホームページの文化財事業団を参照させていただきました。記して感謝いたします。

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