交野歴史健康ウォーク
2003.9.13、 第52回 尺治川の源流を訪ねて
9/13(土)午前9時 京阪電車私市駅集合・出発 |
9/13(土)天候晴れ、参加者17人。猛烈な台風14号の襲来で天候が心配されたが、すっかり晴れ上がり絶好のウォーク日となり、いつもの元気なメンバーが勢揃いした。私市駅前で平田さんより源流を訪ねるシリーズの一つで、今日は尺治川を歩いて月輪の滝まで行くと説明を受けて9:10分過ぎ、月輪の滝を目指して出発した。
(しゃくじがわ) 私市のくろんど池へのハイキングコースの道筋の谷を刻んで流れている清流が尺治川である。水源は月の輪の滝を登って砂防ダムを越え府民の森に入る。睡蓮やあやめが咲くすいれんの池の上、標高240mぐらいの所にある。少し東に行けば奈良県に入るが「くろんど池」にでる。 尺治というのは地の神(いわゆる水、岩、沢など清らかな、あるいは幽玄な雰囲気をかもし出す渓谷の地)を祭るところから付けられた名前である。 尺治滝が広は、私市の人々が月輪の滝に行くのに、尺治掛ケ石の急崖の下の細い谷道を通り抜けて、滝を前にして広い場所に出て、やっと息がつける場所であった。そして、東を見れば目の前に滝の周辺部のうっそうたる森林(杉林)である。荘厳な感じのする滝口である。身を清めるなり、滝にうたれるなり、滝にお参りするなり、すべての願いを包み込んでくれる雰囲気を持っている場所である。 昭和45年、南田さんが滝が広で宅地造成中に「蔵骨器(土師器の中に骨と富寿神宝50枚)とせん仏(弥陀三尊)を発見された。平安時代始めの僧侶の骨であると推定されている。 せん仏とは、粘土を型に入れてつくられたタイル状の仏像をいい、近畿地方を中心に全国数十箇所の古代寺院から見つかっています。これらのせん仏によって堂内をきらびやかに飾ったのであろう。 皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん) 皇朝十二銭とは,古代の日本政府が発行した『銅銭の総称』で,本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)という呼び方もあります。有名な「和同開珎」から「乾元大宝」までの十二の銅銭を言います。 ・708年(和銅元年) 「和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)」 ・760年(天平宝字4年)「万年通宝(まんねんつうほう)」 ・765年(天平神護元年)「神功開宝(じんごうかいほう)」 ・796年(延暦15年) 「隆平永宝(りゅうへいえいほう)」 ・818年(弘仁9年) 「富寿神宝(ふじゅしんぽう)」 ・835年(承和2年) 「承和昌宝(しょうわしょうほう)」 ・848年(嘉祥元年) 「長年大宝(ちょうねんたいほう)」 ・859年(貞観元年) 「饒益神宝(しょうえきしんぽう)」 ・870年(貞観12年) 「貞観永宝(じょうがんえいほう)」 ・890年(寛平2年) 「寛平大宝(かんぴょうたいほう)」 ・907年(延喜7年) 「延喜通宝(えんぎつうほう)」 ・958年(天徳2年) 「乾元大宝(けんげんたいほう)」 |
国道168号線を渡り 天野川の石堰に向う |
国の登録文化財 尺治川砂防堰堤 |
加賀田用水を渡る | 整備された尺治川の堤 |
尺治川の中を遡る | やっと尺治川床固工が見えてきた |
国の登録文化財 尺治川床固工を観察 |
尺治滝が広 宅地造成中に「蔵骨器と せん仏(弥陀三尊)を発見された |
月輪の滝(金剛の滝) | 月輪の滝の前で小休憩 |
吉向窯展示室 | 吉向焼の展示 |
天野川石堰堤 市内を流れる天野川は、交野が原に伝わる七夕伝説の伝承地として、古くより知られています。しかしこの川、しばしば洪水被害が発生していたようであり、砂防事業は不可欠でした。 淀川水系砂防事業は、明治中期に全国に先駆け行われ、本堰堤は、当時の技術レベルをうかがい知ることのできる貴重な近代化遺産です。明治32年(1899)年築造。 傾斜勾配は、約17度を測ります |
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尺治川砂防堰堤 尺治川は、府民の森より流れ出、天野川に合流する川で、上流には月輪の滝(別名 金剛の滝)があります。 砂防堰堤は、ちょうど天野川に注ぎ込む地点にあり、現在は流れのないため石組みがよく見られます。 |
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尺治川床固工 尺治川の河道内に設置されていますが、うっそうとした竹林の中にあり、通常は望見することができません。 |
国の登録文化財制度 平成8年に、築造後50年以上を経過した建造物の中で、歴史的景観に寄与するもの、再現が容易でないものを対象とし、多種多様の建造物を目録に登録するとともに、それを公表することによって保護の促進を図るため設けられた。問い合わせは、交野市文化財事業団 (п@893-8111) 交野市ホームページの文化財事業団を参照させていただきました。記して感謝いたします。 |