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 第50回・交野歴史健康ウォーク
2003.7.12

 北川の源流を訪ねて  

交野ドーム→北川→交野養護学校→関西創価学園→上河原旧私部村
→寺墓地→倉治共同墓地→私部共同墓地→北川→交野ドーム


北川の源流?
 北川は関西創価学園の南の竜王山の下あたりを源流とするものと、郡南街道の谷から流れる谷川と、一つ北の石仏の道から交野山への登リ口となっている谷に流れる川が倉治の墓の中央付近で合流している。そして大きな扇状地を形成して片町線(学研都市線)を越えて私部の墓地まで続いている。この扇状地の地域が私部上河原とよばれ、江戸時代初期頃まで私部の部落があったところである。合流した川はぶどう畑の中を流れ、学研都市線の東側で南へと流れを変えて、寺村の北から流れ出た川と一つになり、交野小学校の南を、そして私部住吉神社の南を流れて落合橋で南川と合流して、前川と名前を変えて天野川に注いでいる。

北川の源流は?


寺(てら)地名の由来

 
寺は倉治と同じく村の位置を変えている。最初の寺の集落は交野高校の北側、今池の南の田んぼの中であった。小字名は「いまい」と言っている。それは弥生時代、稲作を中心とした集落で、村の名を「てるは」と呼んでいた。
 しかし、古墳時代になると大陸から新しい文化が入り、また、渡来人もやってきた。北川から旧村・今井を望む(交野高校)
 彼らは進んだ文化、技術を持っており、大和、山背、河内のあちら、こちらに居を構えた。交野の地にもやってきた。津田山(津田)、交野山(倉治)、竜王山(寺)の三カ所に別れて住んだが、彼らは製糸や機織の技術に優れたものを持っていた。寺の背後にそびえる竜王山のふもと、現在の寺の集落の地に住んで機織を専業とした。この村の名を
「はたやま村」と呼んだ。進んだ機織の技術を持って生産した製糸は、当時の日本においては高級品であった。それゆえ、この村の支配者(豪族)は相当の力を持ったであろう。寺の周囲に点在する多数の横穴式古墳が存在することでも、そのことがうかがえる。
 この繁栄も長くは続かなかったらしい。竜王山一帯は風化した花こう岩地帯である。一度、大雨、集中豪雨でもあれば、多くの土砂を下に流す。それによって崖崩れ、川のはん濫、土石流等によって、ふもと「はたやま村」も寂れ、また、下の「いまい」にいた「てるは」村の人々も土砂に埋まり、生活ができなくなった。
 「てるは」の人々は山ろくの尾根筋を中心とした場所に移り住み、農耕は北川、南川に挟まれた低地へ出向いていった。元の「はたやま村」ではなく、農耕を主にした「てるは村」になった。その「てるは」が時代がさがるにつれ、いつのまにか
「てら」となってしまったということである。


寺の旧村(今井)を展望
手前が冷田、岡田、古宮ノ上と続く
左手の高台を学研都市線が走る
北川は関西創価学園の南の
竜王山の下あたりを源流として
北川の源流の一つ、群南街道の北の石仏の道沿いの谷川
石仏の道から交野山への
登リ口となっている谷に流れる川と
南街道の谷から流れる谷川が
倉治の墓の中央付近で合流している
倉治の墓の中央付近で合流した水は ぶどう畑の中を流れ
学研都市線の東側で南へと流れを変えて 寺村の北から流れ出た川と一つになる

 2003.7.12(土)天候曇り時々雨。明け方まで降り続いていた雨もやっと上がった。参加者7名。9時半過ぎ交野ドームを出発した。北川沿いを東へ寺村に向けて進み、JR学研都市線高架下をくぐり交野養護学校の南に出る。 交野養護学校から東の地域を丑墓といい、創価学園側を高塚といったそうだ。丑墓は家畜の墓で、高塚は、平安時代惟喬(これたか)親王が鷹狩をしたこと、鷹の首が埋められたからと伝えられている。高塚からその南の飛尾(とびの)にかけて、横穴式の古墳が散在している。これらの古墳はだいたい6世紀ごろと推定されており、交野でも著しく古墳の多い所である。現在は、創価学園の素晴らしい学舎が建ち並ぶ一大学園地となっている。
 大和へ抜ける郡南街道を少し東へ行くと左に倉治墓地、右に寺共同墓地がある。この辺りを尾上という。墓地に入る手前の金網に隠れて見つけにくいが、道の北側に「上河原旧私部村落遺跡」と彫られた石碑が立っている。
 ここは元禄4年(1691年)傍示谷にほらが吹いて、旧私部の部落が流されたところで、上河原という地名が出来た。
 また、この辺りの扇状地域には、沢山の松の木が茂っていたが、明治34、35年の頃、関西鉄道(現JR学研都市線)の開通の時切られて四條畷中学(現府立四條畷高校)の校舎の材木に使われた。松を切ったあとに桃が植えられ、春には辺り一面ピンク色に染まり見事なものだったそうだ。関西鉄道の唱歌に「星田を跡に津田に来て 見渡す限り桃林 さぞや花時一帯の 紅雲天に焦がすらん」と歌われている
 その後、昭和35年から36年にかけてブドウ畑に変わった。

 倉治墓地の中の北川の源流を確認して、ぶどう畑の中を流れる川沿いを歩いていると、突然豪雨のような雨に遭い、一時ぶどう畑の中で一休み。会員の方のお知り合いで、美味しいぶどうまで頂戴した。感謝感激。
 薄曇の中、気持ちがすーっと洗われた、そんな得したウォークでした。 普段何気なく歩いている場所を、また何気ない場所にふと立ち止まって周りを見渡してください。気持ちが洗われるものです。野辺をゆっくりと散策しましょう。きっとご満足されることでしょう。

 交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!


住吉神社の大鳥居
(住吉神社社誌より)
 神社の由来は明らかではないが、私部の集落の南の小高い丘の南側には東南の谷から出る北川と南川があり、この水は、村人を喜びと悲しみに二分した。そこで小高い丘の老松に神を求めて礼拝していたのが住吉神社の起こりであったと思われる。
 ご祭神は、住吉大明神。元禄5年(1692年)の私部村寺社改帳の抜書きによると、境内は、東西40間、南北41間、梁行き4尺5寸、桁行5尺、とち葺きと書かれてある。
 宝暦5年(1755年)にお宮を造立し、北田作兵衛氏が寄進されたご神体をあがめ、村内安全五穀豊穣を祈っている。お宮の西側から上がる参道の両側の石灯籠は願主奥田氏が宝暦4年(1754年)に寄進されている。
 また、大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて引っ張って運び、造ったものである。

 1年も持たなかった「万延」事件続きで改元7連発!
 明治天皇の父・孝明天皇の治世は、1846年(弘化3年)から1866年(慶応2年)の、21年に及ぶ。さまざまな事件が発生したせいか、この治世は、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と年号が次々変わった。
特に安政期には、桜田門外の変や悪疫の流行など暗い事件が多かったので、安政7年(1860年)3月18日、「万年も繁栄が続きますように」との祈りを込めて万延元年と改元した。
ところが、実際は凶作、物価騰貴などで人心が動揺。翌年2月20日に早くも文久元年と変えられている。
万年どころか、1年も続かなかった「万延」であった。
(参考)「桜田門外の変」は1860年(安政7年)3月3日に起こった。
    その後、すぐ元号が「万延」になることに。

       つ 
     食 く 
     ら ね 
     っ 飯 
   大 て    
   鳥 運    
   居 ぶ 

私部住吉神社の石の大鳥居は大風で倒れ、万延元年(1860年)に再建された交野一の大鳥居です
私部口山から切り出し、つくね飯(にぎりめし)を腹一杯食べ、音頭をとりながら二、三百人で運んだと記録されています。


私部住吉神社の大鳥居
万延元年(1860)に
再建された
私部口山の鳥居谷から原材を 私部口山の鳥居谷から原材を修羅に載せ、
北川の川床を村中の人が引っ張ってお宮まで運んだ
(鳥居谷から住吉神社までの地図)



【ミニガイド】 地名の由来

丑墓(うしばか)  
 北川の右岸、創価学園の西側の畑地の所である。「丑(うし)」は方角を指している。地図では寺から真北になる。丑にすると少し東に振るのであるが、古くからの概念や土地柄で磁石の北とは少々ずれることはよくある。
 村の人々の言い伝えとして、牛を葬った所だと言っている。昔は農耕用はすべて牛に頼っていた。その大切な牛が死ねば大切に葬ったのである。その墓が丑墓の地であった。
 方角の丑と家畜の牛とが混同されているが、主として家畜の墓場であったことは間違いないだろう。人の墓は創価学園の北、「尾上」の地にある。


高塚(たかつか)  
 寺の北、現在は創価学園の校地にほとんど包含されている。言い伝えによると、平安時代、惟喬(これたか)親王と呼ばれる高貴な方がおいでになった所であるとか、あるいは鷹(たか)の首が埋めてあったところから「たかつか」と呼ばれたという
 しかし、実際には高塚からその南の飛尾(とびの)にかけて、横穴式の古墳が散在している。これらの古墳はだいたい6世紀ごろと推定されている。寺には交野でも著しく古墳の多い所である。やはり機織を中心とする渡来人がやってきて、勢力優勢であったことがうかがえる。南野の交野高等学校のそばにある車塚も同様の古墳である。高塚の場合は小型の横穴式で数も多く群集墳である。


北山・中山・南山
 創価学園の真東の山地が北山、寺の集落の真東、すなわち竜王山頂上部一帯が中山、落子谷から南が南山となっている霞にけむる交野連山
 寺の場合、山の部分の地名はこの三つに大きく分けられており、倉治は交野山一つである。ほかの森、私市、星田は山の中も細かく、いろいろな小字名が付けられている。寺は村から東を見て山地が切れ(尾根や谷)のよい所で大きく三分している。非常に分かりやすい区分である。そして、山ろく部分は耕地(畑、水田)との境が境界になっており、これも山地、耕地と小字名ではっきり分けられているという特徴を持っている。
 南山の中ほど、路示から森で出る道の途中に南山遺跡がある。そこは石取り場になっているが、南山から北で突き出した尾根筋にあたる。道路で切られた残りの突端部に立つと、交野の町並みや寺の景観が一望される。
物見の場所としては、これ以上の所がないほどである。物見の背後の斜面に弥生時代の高地性集落が立地していたことは、ここと竜王山の両地点を押さえれば、傍示から寺へ抜ける落子谷は防御できる。また、寺の北部、創価学園の手前の低い丘陵地を飛尾(とびの)と呼ぶが、「飛火野」ではないかという説がある。それは、この物見から一直線に見える所であること。寺周囲より小高い丘になっていることも好条件である。それゆえ、のろしを上げた場所であるので「飛火野」と呼ばれたのが、その意味がなくなることによって。「飛野」が「飛尾」になったと思われる。


尾上(おがみ)
 府道枚方大和郡山線(通称、郡南街道)の南側で、創価学園までの地域である。寺の墓地が広がっている。他は神宮寺から続いているぶどう畑である。私部上河原付近に建つ石標
 この道筋に墓地が集中している。郡南街道を挟んで北側に倉治の墓地があり、国鉄片町線を西に越した所に私部の墓地がある。これは何を意味するのであろうか。倉治、私部、寺、いずれの場所からも適当に離れた土地であり、山陰であり、水田、畑作地としては不向きな地形であることから墓地としての適地と考えられたのではないだろうか。


上河原(かみがわら)
 奈良県の高山、傍示を通ってきた道
(郡南街道〉が交野山の南の背を降りてくる。この道の降りた所からJR片町線を越えて、私部の墓地、大池辺りまでが「上河原」と呼ばれている。この谷から前面、ちょうど上河原の辺りが扇状地性の地形になっている。JR片町線まではほとんどがぶどう畑で占めらている。土地は山から運ばれてたい積した花こう岩の土砂である。水はけは非常に良い。
 この上河原に江戸時代の前期まで私部の集落があった。津田、倉治、寺、森と同じように山のふもとに沿った所であった。しかし、この谷は大雨があると谷川が崩壊した土砂を多量に下流に流し出してしまう。特に元禄4年(1694)の大雨による土砂流出によって上河原にあった集落を押しつぶしてしまったので、それ以後、現在の地に移転したと言われている。地形の形状からは、まるで河原そっくりだということで、私部の上にあるので「上河原」と付けられた。

郡南街道上り口に石仏あり
倉治共同墓地東側

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