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 第94回・交野歴史健康ウォーク
2009.3.28

   交野山から傍示の里・森を散策  
郡南街道〜鳥居谷〜交野山

交野ドームAM9:30集合→私部墓地→上河原旧私部村→寺墓地→
郡南街道→鳥居谷→交野山→野外活動センター→傍示キトラの辻→
八葉蓮華寺→鍋塚古墳→雷塚古墳→天田神社PM2:30(解散)


交野山周辺散策MAP


ミズバショウ(水芭蕉)
<番外編>くろんど園地八ツ橋に ミズバショウが咲きました!
3月30日、陽気に誘われてくろんど園地を歩いてきました!


くろんど園地ハイキングMAP

 2009.3.28(土)天候晴れ。参加者14名。9時30分交野ドームに集合。
中会長より、本日のウォークの行程は、郡南街道から交野山、野外活動センターから傍示の里を経て、鍋塚古墳・森古墳を見学して河内森にて解散の予定、気をつけて出発しましょうと挨拶があり、久御山線を北に歩き、京阪第二国道の工事が進んでいる「北川」の交差点を東に折れ、私部の共同墓地へと歩く。
 郡南街道から鳥居谷、交野山と登り、 野外活動センターで昼食を摂り、傍示の里を経て、鍋塚古墳・雷塚古墳をゆっくりと見学後、天田神社で解散。
 皆さんお疲れ様でした。交野山から見た素晴らしい眺めに感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。

 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

第94回・交野歴史健康ウォーク

中会長の挨拶

撮影:黒田幸男さん

久御山線を跨ぐ、京阪第二国道の工事が進んでいる「北川」の交差点

 墓地の手前にある細長い池を長池と言い、昔、郡南街道筋から流れてくる北川は、まっすぐ私部の共同墓地の南端を流れていたそうで、粗朶(そだ)という木の枝を切った物を川底に埋め砂を留めて下の長池に水を注いでいたそうだ。現在の北川は、JR学研都市線の手前で、南へ迂回して西へと流れている。

 私部の住吉神社の大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて、北川の川床を引っ張って運び造ったものである。

 大和へ抜ける郡南街道へと東へ行くと、左に倉治墓地、右に寺共同墓地がある。この辺りを尾上という。墓地に入る手前の金網に隠れて見つけ難いが、道の南側に「上河原旧私部村落遺跡」と彫られた石碑が立っている。

 倉治墓地から私部大池、私部墓地辺りは、元禄4年(1691年)傍示谷にほらが吹いて、旧私部の部落が流された所で、上河原という地名がついている。

 また、この辺りの扇状地域には、沢山の松の木が茂っていたが、明治34、35年の頃、関西鉄道(現JR学研都市線)の開通の時切られて四條畷中学(現府立四條畷高校)の校舎の材木に使われた。松を切ったあとに桃が植えられ、春には辺り一面ピンク色に染まり見事なものだったそうだ。

 関西鉄道の唱歌に「星田を跡に津田に来て 見渡す限り桃林 さぞや花時一帯の 紅雲天に焦がすらん」と歌われている
。 その後、昭和35年から36年にかけてブドウ畑に変わった。

地名のミニガイド
上河原
(かみがわら)
奈良県の高山、傍示を通ってきた道(郡南街道〉が交野山の南の背を降りてくる。この道の降りた所からJR片町線を越えて、私部の墓地、大池辺りまでが「上河原」と呼ばれている。この谷から前面、ちょうど上河原の辺りが扇状地性の地形になっている。JR片町線まではほとんどがぶどう畑で占めらている。土地は山から運ばれてたい積した花こう岩の土砂である。水はけは非常に良い。
 この上河原に江戸時代の前期まで私部の集落があった。津田、倉治、寺、森と同じように山のふもとに沿った所であった。しかし、この谷は大雨があると谷川が崩壊した土砂を多量に下流に流し出してしまう。特に元禄4年(1694)の大雨による土砂流出によって上河原にあった集落を押しつぶしてしまったので、それ以後、現在の地に移転したと言われている。地形の形状からは、まるで河原そっくりだということで、私部の上にあるので「上河原」と付けられた。

私部共同墓地にて

撮影:黒田幸男さん

寺共同墓地内の六地蔵  平田さんの熱弁は続く!

沢山の名もない石仏たち
郡 南 街 道
 郡南街道は暫く道路改良工事の為不通であったが、久しぶりに街道を歩いた。山崩れがあった場所は、鉄骨とコンクリートで固められ立派な道路になった。以前に比べて不法投棄のゴミも少なくはなったが、山へ入る近辺道路わきや茂みに相変わらず、沢山のゴミが不法投棄されていた。単車、タイヤあり冷蔵庫、テレビなどの電気製品に、リホームで剥いだ壁紙、床材など明らかに業者が棄てた物と一目で分かるもの等、誠に雑多なゴミの数にビックリ。

 市の立てた不法投棄の注意書きの傍にもゴミが棄てられており、交野の良さを再発見どころか、良識の無さ・悪さを発見してきた。 

郡南街道 登り口の立て看板

立て看板の傍に、お花も綺麗に供えられ丁寧に祀られている

郡南街道の急坂、がっちりと整備された
鳥 居 谷
 郡南街道の一番の難所、180度の大曲を上がった所に鳥居谷があり、私部・住吉神社の大鳥居の石材が切り出された場所である。

郡南街道の大曲 「史跡 鳥居谷」

住吉神社の石材が取り出された鳥居谷


2004年 3/20 歴史ウォーク 郡南街道を登り 史跡・鳥居谷で記念撮影
井戸桂二さん、平田忠三郎さんのお元気なお顔が偲ばれます。


住吉神社の大鳥居
(住吉神社社誌より)
 神社の由来は明らかではないが、私部の集落の南の小高い丘の南側には東南の谷から出る北川と南川があり、この水は、村人を喜びと悲しみに二分した。そこで小高い丘の老松に神を求めて礼拝していたのが住吉神社の起こりであったと思われる。
 ご祭神は、住吉大明神。元禄5年(1692年)の私部村寺社改帳の抜書きによると、境内は、東西40間、南北41間、梁行き4尺5寸、桁行5尺、とち葺きと書かれてある。
 宝暦5年(1755年)にお宮を造立し、北田作兵衛氏が寄進されたご神体をあがめ、村内安全五穀豊穣を祈っている。お宮の西側から上がる参道の両側の石灯籠は願主奥田氏が宝暦4年(1754年)に寄進されている。
 また、大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて引っ張って運び、造ったものである。


 1年も持たなかった「万延」事件続きで改元7連発!
 明治天皇の父・孝明天皇の治世は、1846年(弘化3年)から1866年(慶応2年)の、21年に及ぶ。さまざまな事件が発生したせいか、この治世は、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と年号が次々変わった。
特に安政期には、桜田門外の変や悪疫の流行など暗い事件が多かったので、安政7年(1860年)3月18日、「万年も繁栄が続きますように」との祈りを込めて万延元年と改元した。
ところが、実際は凶作、物価騰貴などで人心が動揺。翌年2月20日に早くも文久元年と変えられている。
万年どころか、1年も続かなかった「万延」であった。
(参考)「桜田門外の変」は1860年(安政7年)3月3日に起こった。
    その後、すぐ元号が「万延」になることに。

       つ 
     食 く 
     ら ね 
     っ 飯 
   大 て    
   鳥 運    
   居 ぶ 

私部住吉神社の石の大鳥居は大風で倒れ、万延元年(1860年)に再建された交野一の大鳥居です
私部口山から切り出し、つくね飯(にぎりめし)を腹一杯食べ、音頭をとりながら二、三百人で運んだと記録されています。
   (交野かるた より)

私部住吉神社の大鳥居
万延元年(1860)に
再建された

私部口山の鳥居谷から原材を 私部口山の鳥居谷から原材を修羅に載せ、
北川の川床を村中の人が引っ張ってお宮まで運んだ
(鳥居谷から住吉神社までの地図)


市内が一望される急坂

直ぐ下は、第二京阪国道の工事が進展している
交野山
郡南街道から交野カントリーへの道を通り交野山に登る。例年行われている交野山・観音岩付近の清掃もそこそこにして、観音岩からの素晴らしい眺望に暫し見惚れてしまった。

交野山 山頂  「交野山古代岩座址」石碑

交野山 観音岩で記念撮影(平田政信さん撮影)

観音岩からの眺望
野外活動センターで昼食を摂り、傍示の里を経て、鍋塚古墳・雷塚古墳をゆっくりと見学後、天田神社で解散。

傍示の里 キトラの辻

撮影:黒田幸男さん

撮影:黒田幸男さん

傍示の里  懐かしい牛小屋を備えた家屋

傍示の里 かいがけ道入口
鍋塚古墳と雷塚古墳
鍋塚古墳と雷塚古墳の詳細は、こちらを参照ください。

南山弥生時代住居遺跡の石碑

鍋塚古墳 墳頂部にて

鍋塚古墳 

鍋塚古墳 付近からの眺望

倉治・津田付近の風景

撮影:黒田幸男さん

 森古墳群の雷塚古墳 前方部

雷塚古墳の後円部

撮影:黒田幸男さん

松宝寺池堤の桜も綺麗に咲きました!

 皆さんお疲れ様でした。交野山から見た素晴らしい眺めに感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。

 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

ミズバショウ
<番外編>くろんど園地八ツ橋に ミズバショウが咲きました!
3月30日、陽気に誘われてくろんど園地を歩いてきました!


くろんど園地ハイキングMAP

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